
書評「聖母」 −自然なるマゾヒズム、権力なるサディズム−
ザッヘル・マゾッホは私達に示すのだ、あらゆる道徳的制約を
超えた愛には死を齎す呪いがかかっていることを。
(ラウレンツ・ミュナー「ザッヘル・マゾッホの<カインの遺産>」)
エロスの彼方にはタナトス(死への欲望)がある。
(エロスの)底の彼方には、底無しの深淵が広がっている。
(ジル・ドゥルーズ「マゾッホとサド」)
私の最も好きな西欧作家の一人に、ザッヘル・マゾッホがおりますが、
今回は「魂を漁る女」に並ぶ彼の最高傑作、「聖母」をご紹介致します。
ザッヘル・マゾッホの作品は翻訳されて手に入るものは全て読んでおりますが、
彼の代表作とされる「毛皮を着たヴィーナス」よりも、私は、「魂を漁る女」、
そしてこの「聖母」こそが、彼の真の代表作、最高の恋愛小説だと思っている。
特に、本作「聖母」こそが、ザッヘル・マゾッホの描きたかったもの――、
マゾヒズムという病理学的なカテゴリでは決して捉えられない彼の思想、
彼の想いを、最も読者に感銘を持って伝えてくれる、そんな作品だと思う…。
私は、本作を始めて読んだとき、震えが止まらなかったよ…。
ザッヘル・マゾッホの作品の男性は多かれ少なかれマゾヒストで、
そして女性は多かれ少なかれサディストですが、本作「聖母」は、
それを非常に自然に、心より感服する形で描いている…。
私もマゾヒストで、女性に支配されることに、恍惚的な至福を感じますし、
個人的にはマゾッホの書くマゾヒスト男性には大いに共感致しますが、
(特に魂を漁る女のツェジムとのシンクロ率は300%突破!!アニッタ様!!)
本作「聖母」はそういった私の個人的な嗜好を遥かに超えた作品、
この世界の本質としての愛、自然、マゾヒズムを描いた作と思う。
ザッヘル・マゾッホの作品に限らず、古今東西の文学作品、芸術諸々では、
女性=自然というのはごく一般的な描き方ですが、マゾッホはこれを徹底的
に追い求めていった。マゾッホはある種、ニーチェ的なところがあって、既存の
超越的神とかは全く信じていない感じです。彼は基本的に近代的な人間主義者
(ヒューマニスト)です。だからこそ、一見非合理に見えるマゾヒズムに達する。
例えば「聖母」の物語はグノーシス的な異端のキリスト教団を舞台にした
恋愛物語ですが、マゾッホの近代性は確実にこの教団の思想に頷いている。
「三位一体の神は人間の魂のなかにしか顕れません」
マルドナは答えた。
「父なる神は記憶する力のうちに、その子は理解する力のうちに、
精霊は意志のうちに顕れるのです。………
私達の教えでは(一般のキリスト教とは違い)まだ先があります。
いかなる人間のうちのなかにも宿る神をあがめよ、なぜならば
(全ての)人間はこの世に顕れたる神の仮の姿なれば、というものです」………
「では聞きなさい、しっかり理解するのですよ。あなたは教えられましたね。
最初の人間が原罪によって楽園を追われたことを。でも、この教えにひそむ
深い意味は誰もあなたに説明しませんでした。サバディル、私はこれから
あなたに神聖な秘密を伝えます。すでに知っているように、最初の人間は
智恵の木の実を食べ、そのとたんに自分たちが裸であることを知り、
恥ずかしくなりました。この話のいわんとしていることは、精神と本性が
昼と夜のように、炎と水のように、まったく相反することを、二人は突如認識した
ということであり、二人は自分の肉の部分を恥じ、それを隠し否定しようとしました。
すなわち、二人の精神は高慢にも肉の部分を敵視し、それを軽蔑したのです。
この分裂は私たちのうちにも残っており、これこそが今も世界が
苦しんでいる禍なのです。そして、人間が追い出されてしまった楽園とは、
人間の自然な本性のことなのです」………
「それで、君達ドゥホボール教団ではどうやって楽園を
再び創り出すつもりなんだい」
マルドナは落ち着き払って答えた。
「その方法とは、人間の自然な本性とその衝動を悪として
断罪するのではなく、もう一度、かつての無垢なる境地に
立ち返らせることです。人間を自然なる本性から離れさせた認識が、
今度は私達に教えるのです。自然なるものを恥じるな、と。………
私達(人間存在)を救済できるのは女性だけなのです。
それというのも、男は(自然と相反した)精神が活発で、
女は自然な本性がより活発だからです」
(ザッヘル・マゾッホ「聖母」)
本作「聖母」において、キリスト教の教義を盾にして人々を混乱に陥れる
道化スカロンは、どうしようもない愚か者であり、逆にこの異端教団を
率いている若く美しい女性教祖マルドナは、凛々しく聡明な、魅力的な人物です。
マゾッホの作品はどれもキリスト教という男性的な旧秩序を外して愛の自然な情感を
貴ぶ流れを描きますが、その結果、愛に身を任せた主人公は死へとひた走る…。
それは本作でも例外ではありません。これが、マゾッホ作品の醍醐味でして…。
どういうことかと云いますと、愛する存在というものをつきつめて考えると、
究極的には愛している存在に消去される存在ということになってしまう。
愛するということは、極限的には己の全てを相手に捧げたいと
願う欲望ですから、最高の幸せとして、愛している相手に支配される…。
自然な思い、自然な愛情は自然なマゾヒズムと結びつく。
それは、自らが自然に愛しているものの為に生きたいと願う欲望です。
逆に、愛される者は、自然ではなく精神、支配する力としての
権力と結びつく。愛する者が抱く愛している者への思いは、愛する者の
内なる心から湧き出た自然な本性ですが、愛される者は、愛されている
だけであって、それは、自らを愛する者を支配する権力の入手となる。
マゾッホの面白いところは、上記を社会、法秩序と結びつけて考えるところ
でして、先にあげた男権的な既存のキリスト教や、国家の法秩序というのは、
自然な愛を封じ込めることによって、人の本性を抑圧して社会秩序(人の生命)
を守ろうとするシステム、そして、自然な愛とは、抑圧された本性の発露であり、
それは本性のままであればあるほど、限りなく死へ近づいてゆくことを見事に描く。
マゾッホは作家として本当に天才だと思いますよ。マゾヒズムを精神病理化した
クラフト・エビングなんて、マゾッホの作品の前にはただの間抜けにしか過ぎない。
人間の自然なる欲望、美しい者を愛し、貴ぶ自然なる感情と、マゾヒズムは
切り離せない。逆にそれを無理やり切り離そうとするクラフト・エビングなどは、
明らかに「精神・法秩序・権力・生を守る為の支配」の側に立っている。それらを
マゾッホの作品は「本性・自然・愛情・死へ近づく愛」を描き見事に明らかにする。
誰もが納得できることと思いますが、愛というのは、ある種の苦しみな訳ですよ。
愛とは決して平等の関係ではなく、愛する自分と、愛している他者がいますから。
愛している他者に愛する自分も愛して欲しい、だけどそれはとても難しい。
愛の前に権力は無意味です。権力を振るって無理やり愛している他者の
行動を縛ったとしても、それは、愛している他者を苦しめているだけに過ぎない。
そして、愛とは、愛している他者の喜びを、自分の喜びとして感じ、
愛している他者の苦しみを、自分の苦しみとして感じることですから、
愛している他者へ権力を振るって横暴に振舞うことは、己の苦しみとなる。
逆に、愛している他者の喜びの為なら、自らを犠牲にすることすら、喜びとなる。
自然なる愛情はマゾヒズムであり、マゾヒズムは自然なる愛情。この二つは、
表裏一体。決して切り離せないのです。そして、この愛=マゾヒズムが
発動することによって、愛される者が持つ力、権力=サディズムが発動する。
愛される者は、自らのうちから湧き出る自然な意志とは関係のない、
愛されるということによって生まれた権力関係を支配下に置くことができる。
愛される者は、愛されている(外部的な力を与えられている)のであって、
愛してはいない。だけれど、その力で、支配することができる。沢山の人から
愛されれば愛されるほど、強大な力を振るうことが出来る。これが「権力」です。
マゾッホの作品は「愛する者=犠牲者」「愛される者=権力者」という関係を
徹底的に描きますが、まさに現代に通じていると思いますよ。現代の政治体制
「民主主義」は愛される者=権力者を地で行ってますし、インターネットだって
そうですね。アクセス数=愛されている数量が多いほど、巨大な権力を持っている。
あとはバランスでして、互いに相思相愛で、お互いにお互いを大切に思っている
のならば、勿論、より深く愛している方が、あまり愛していない方に支配される、
愛の上下権力関係は発生しますが、それでもお互い幸せに暮していける。
マゾッホの短編集「残酷な女たち」や「ユダヤ人の生活」はこういう明るい物語
が多いですが、長編の場合は、非常にシビアに、愛することで人はどこまで
己を犠牲にできるのか、そしてそれを喜びと感じるのか、ということを描いて行く。
「毛皮を着たヴィーナス」なんかだと、愛することによって、死の寸前までいった
主人公のセヴェリンは、愛することを止めて、権力者(愛される方)の側に
回りますが、これは結構特殊例で、マゾッホの作品は、短編・長編問わず、
基本的に、愛するということの犠牲者としての側面を愛情を込めて描いてますね。
本作「聖母」もそうで、主人公のサバディルは、教祖マルドナを愛するがゆえに
深く苦しみ、最後はマルドナに殺されるという形で、愛に殉じる。見事な描き方です。
あとはマゾッホの小説にはいつもマゾッホ流の逆説があって、マゾッホは、
自然のままに生きる、自然に愛するということの魅惑を描きますが、愛すること
によって、自然な存在として描かれていた女性が、男性に愛されることで、
その男性の生殺与奪の権力を握り、そして本来自然的な存在であった筈の
女性が権力者化してゆくんですね。そして、女性が権力者化すればするほど、
男性は自然的な存在になり、自らの心に正直で、愛の為に自らを捧ぐようになってゆく。
これは、面白い逆説ですね…。歴史的な長期スパンで見れば、男性と女性の
地位はいずれ逆転すると私は思いますが、そうすると、男性=自然、女性=権力
のような形で社会が動いて行くのでしょう…。マゾッホ作品の権力者は常に
女性ですから、未来を予言しているのかも知れないな…と読んでいて思いますね。
マゾッホの作品を読んでいると、人が他者を愛するということについて、
色々考えさせられるね…。人はどこまで、他者を愛することができるのだろう。
自らを犠牲にしても他者を愛するということが、内なる心から自然に
起きてしまうということは、理性や、合理主義、論理では捉えられない、
この世界の本質があると思うな…。権力、生、力への意志が決して持つことの
できない、人間存在の絶対本質、死の領域こそ、人は愛と呼ぶのかも知れないね。
マゾッホの眼差しは、基本的に犠牲者の側の視点、愛する人の側に立って、
その人が苛烈な犠牲になる様を描きながら、それでも、とても、深く静かに、優しい。
「私を愛しているのならば、私のなかの神をあがめなさい」
彼女は言った。
「あなたの創造主(=神とともに、子供を産む存在である女性の意)
の前でへりくだり、跪いて私の足に口付けをするのです」
ツェミオフォルスキは言葉を失い、我を忘れて彼女を見つめ、
その前に跪いた。
「私の足に口付けをするのです」
マルドナはもう一度いい、王家の毛皮を着て生まれた支配者だけが
見せる優雅な無頓着さで、男の方へ足を伸ばした。
(ザッヘル・マゾッホ「聖母」)
参考図書(amazon)
ザッヘル・マゾッホ「聖母」