| 出会い、運命、偶然とは |
| 『出会い』とは、偶然の出来事である。
これは間違っている。そう、出会いは偶然ではなく、当然であり、必然でもある。 例えば、この前起きた出来事を例に挙げてみよう。 私は友達Aの車に乗っていた。Aと一緒に渋谷に向かっている途中であった。車の中から私は友達Bに電話をした。彼の住まいは私とAが渋谷に行く途中に通る所だった。Bに『今からあなたの所へ行く』と連絡した。Bはそれを了解した。 そして、Aと一緒にBの家についた。少し用事を済ませたあとにBを渋谷に行かないか誘った。Bは暇だったので行く、と答えた。そして私はAの車にBと一緒に乗りこんで渋谷に向かった。 渋谷で色々しているうちに、Aとは別れる時間になってしまった。そしてAは帰って行った。 私はBと渋谷を歩く事にした。そして、私が露店で雑誌を買い、Bがお好み焼を買った時、突然肩をたたかれた。なんと、滅多に会う事もないような友達Cと出会った。Cはこれから渋谷で友達と会うので、待ち合わせ場所で待っている所だったらしい。 ここまで読んで『偶然』ではないか、と思うかもしれない。しかし、こんな偶然があるだろうか??私だって、当初はAと一緒に渋谷に行く予定など無かったのだ。Bに至っては私が誘わない限り渋谷になど行くはずもない。これを『偶然』という枠に収めてしまってはいけない。 私が言いたいのは、渋谷でCに会った事だけが必然である事柄なのではなく、それ以前のAと共に車に乗り、Bの家まで行き、Bを誘って渋谷に行き、露店で雑誌を買い、Cに会ったところまでが必然なのである。つまりは用意されていたシナリオ、ということだ。 かつてペパロニ日記の方で『出会った事に感謝したい』と書いたが、これはまさに今のような事である。感謝すると言うことが確かに偶然と思っているという事を物語っているのかもしれない。しかし、私達が気付いていない所でも運命の歯車は回っているのだ。そう、こうやって私がいま、タイプを打っていることや、それをあなたが後に読むことも、私が今スペースキーを押している事も、全て運命で決まっている事なのである。 私の知り合いがかつて言っていたことなのだが(誰かの言葉の引用らしいのだが)、こういうものがある。 『人の一生はあらかじめDNAによって決められている』 こんなことを考えると背筋が凍るようだが、確かにそういう事も考えられる。どんなに思いついて行動したとしても、その人の考えではなく、その人がそうするように仕組まれていたとしたら。 そう考える事はある意味楽天的かもしれない。全てを運命やDNAのせいにしているのだから。でも、一理あるとは思えないだろうか?私は大いにそう思う。 よく異性と出会った時に『この人は私の運命の人だ』と思うだろう。それがいい例ではないだろうか?運命の人。いい言葉ではある。しかし、DNA論(と呼ぶことにする)からしてみれば、確かに『運命の人』で間違いではないのだが、実際は『必然』の人なのである。もうどんな偶然のような、映画のような出会い方だったとしても、あなたとその人は出会うように出来ていたのである。夢もなにもない考えだとは思うが。 そして、例えばある異性と交際していて、ふとした瞬間にほかの異性に気が向いてしまう事があると思う。人はこれを浮気と呼ぶのだろうが。 しかし、これを否定してはいけないと思う。人の気持ちは常に変化しているのだから。もしも、そのカップルが窓も床も壁もない真っ白な空間にいたとしたら心変わりはしないだろうが。いや、それでもしてしまうかもしれない。人の心はどんなものにでも影響を受けてしまうものだ。何も存在しない、ということ自体にも影響を受けることがある。 話が逸れてしまったが、つまりはこういうことだ。ある異性に出会って恋に落ちて『この人しかいない』と思う事も運命であり、その何ヶ月か何年かあとになって違う人を気にしてしまうのもまた運命なのだ。運命のカタチはひとつでは終わらないのだ。(図1参照)
この場合、AもBも『運命の人』ということになる。 DNAで未来も決まっているからと言って、別に未来が見えるわけではない。先の見えない線路をひたすら歩いている感覚と似ているだろう。いや、線路すら見えないかもしれない。ただ、後ろを振り返ると今まで進んできた線路が見えるだけなのかもしれない。そんな真っ暗な道を私達は進んでいるのかもしれない。 つまり、先は自分でどうにでも変える事が出来るが、実はそれですらも決まっている事なのかもしれない、という『笑ゥせえるすまん系』のお話でした。 おわり |