チェコ・フィルについて


 チェコフィルは、1896年1月4日にアメリカから帰国したばかりのドヴォルジャークを指揮者として迎え第1回目の演奏会を行い、産声を上げた。そのプログラムはオール・ドボルジャークプロで、「3つのスラブ狂詩曲」第3番、「聖書の歌」より第1曲〜第5曲、序曲「オテロ」、交響曲第9番「新世界より」であった。当時より、現在に至るまでこのオーケストラの本拠地は、ルドルフィヌムであり、その美しい伝統的なサウンドを受け継いでいる。
 チェコフィルは創立以来、チェコを代表する優れた指揮者が首席指揮者を勤め、独自の個性を築き上げてきた。初期では、ルドヴィーク・チェランスキー(1901〜2,1918〜19在任)、ヴィレーム・ゼマーネク(1903〜18在任)が、首席指揮者としてオーケストラを指導した。この間、マーラー(1907年に交響曲第7番を初演している)や、R.シュトラウスらが、客演指揮者として登場している。
 続いて首席指揮者に就任したヴァーツラフ・ターリッヒ(1919〜41在任)は、チェコフィルを世界最高のオーケストラの1つにした。また、数多くの優れたレコーディングを行っている。特に、戦後、集中的に録音されたドヴォルジャーク、「我が祖国」などは、まさに人類の宝といえよう。
 ラファエル・クーベリック(1941〜48在任)は、ナチス占領下という過酷な時代を乗り切り、戦後、1946年にはチェコフィル創立50周年を記念し、「プラハの春音楽祭」の創設に協力した。しかし、チェコ・スロヴァキアに共産主義政権が樹立されると、クーベリックは、亡命した。アンチェル就任までの間をつないだのが、カレル・シェイナと、スメタナ弦楽四重奏団のビオラ奏者で若いヴァーツラフ・ノイマンであった。
 カレル・アンチェル(1950〜68在任)が正式に首席指揮者に就任するとワールド・ツアーを行いチェコフィルの名前を世界中にひろめた。また、ベートーベンからショスタコーヴィチ、ストラヴィンスキーに至る幅広いレパートリーの演奏とレコーディングを行いチェコフィルに音楽的に、より幅広い表現を植えつけた。当時としてはほとんど演奏されていなかったストラヴィンスキー「結婚」「春の祭典」「ペトルーシュカ」「オディプス王」など、当時の現代音楽の演奏にも力を入れた。しかし、1968年、いわゆる「プラハの春」で、アンチェルはカナダに亡命した。
 このチェコフィルのピンチを救ったのが、ヴァーツラフ・ノイマン(1968〜90在任)だ。ノイマンは、ライプチヒ・ゲヴァントハウス管の地位を捨て、プラハに帰りチェコフィルの首席指揮者に就任した。ノイマンは、ターリッヒ、アンチェルらが、築き上げてきた伝統を守り、更なる国際的名声を高めた。ノイマン時代をマンネリズムと停滞の時代と言う人がいるが誤りだ。確かにターリッヒ、アンチェル達と比べると強烈な個性は無いが、その暖かい慈愛に満ちた音楽性は非常に素晴らしいものがある。その証拠として、マーラー自身が指揮したオーケストラの、マーラーの演奏の伝統をさらに発展させ、1970〜80年代には、1回目のマーラーの交響曲全集を録音を完成させた。また、ドヴォルジャークの交響曲全曲録音など素晴らしい成果を残している。ノイマンは首席指揮者を退いてからも死ぬ直前まで、ポニーキャニオンへ2回目のマーラーの交響曲全集の録音に取り組んでいた。しかし、残り7&8番を残して他界してしまった。
 ノイマンに代わり、イルジー・ビエロフラーベックが1990年に首席指揮者に就任した。国連コンサートを行うなどした。しかし、民主的な投票により、初めて外国人である、ドイツの巨匠ゲルト・アルブレヒトがチェコフィルの首席指揮者就任が決定すると、1991年にビエロフラーベックは辞任した。アルブレヒトが正式に就任するまでの間は、名誉指揮者となったノイマンが、復帰してつないだ。
 そして、1993年にアルブレヒトは、チェコフィル首席指揮者に正式に就任した。アルブレヒトは、チェコフィルに新しい風を吹きこむことに成功し、非常に高い芸術的成果をあげた。しかし、ドイツ人であるアルブレヒトを不快に思うマスコミの攻撃もあり、1996年、チェコフィル創立100周年記念コンサートの後、首席指揮者を辞任した。この100周年という記念すべきシーズンを乗り切るために、ヴァレーク、マッケラス、小林研一郎がオーケストラを盛りたてた。そして、1997年6月5日に新しい首席指揮者としてウラディミール・アシュケナージの名前の発表され世間を驚かせた。アシュケナージは1998年1月に正式に首席指揮者に就任した。現在、アシュケナージとチェコフィルは新たなる音楽の可能性を追求している。

チェコ・フィル歴代常任指揮者について


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