平 成 記
(日記です)


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2005年6月21日曜日 晴れ

「誕生日」

毎年この日が来ると思い出す人がいる。
特に意識しているわけでもないのだが不思議と
思い出してしまう。その人とは中学時代3年間なぜか
同じクラスだった。1,2年の頃は一度も話をした事がなかった。

女子を意識しだした頃で、その人に限らず女子とは誰ともうまく
話が出来なかった。別に好きでもなく、また男子とも気さくに話を
する女子相手でもぎこちなく話すのがやっと。とても目を見て、
なんて話せなかった。だから当然「付き合う」なんて事も
なく、当時流行っていた「交換日記」すらやった事がない。

そんな悲しい中学生活だったが、女子を意識している割に
特に好きな人がいるわけではなかった。1,2年の時に同じ
クラスだった女子の顔すら覚えていない。その人を除いては。
ところが3年になって、しかもあと少しで中学生活も終わりと
なった時に心に変化が現れた。そのきっかけとなったのは
友人の一人の告白からだった。

その友人がある人が好きだから告白する、と私達仲間に相談に来た。
秋の修学旅行が終わった頃だった。そのある人とはYさん。
そしてなぜ私達に相談に来たのかというと、まず友人は小学5,6年
と同じクラスだったが、中学1,2年は別で3年になってまた再会
したというヤツ。Yさんは小学校は別だったのでヤツにとっては初めて
見る女子で、Yさんと1,2年と同じクラスだった私に「どんな人なのか」
聞きたかったらしい。主に私に質問が集中した。

最初「同じクラスだ、っつってもよく知らないよ、話した事もないし。」と
言っていた私だったが、ヤツに聞かれる質問になぜか答えが出てくる。
たとえば今日のこの日。実はYさんの誕生日なのだが、ヤツが
最も知りたがったのが彼女の誕生日で、しかし最も望み薄と思って
いたらしい。知るわけないよな、って感じでいろいろな質問の最後に
聞いてきたのだけはよ〜く覚えている。

ところが私が特に考えるふうでもなく6月21日だよ、と答えると
え!?なんで知ってるの? と言った。私も今となってはなぜ
自分がYさんの誕生日を知ったのか、忘れてしまったが、とにかく
知っていたのは間違いない。そしてヤツは大喜びになりながらも
「おまえ、本当はYさんの事好きなんじゃないの?」
と疑惑の目を向けられた。

そんなことない、そんなことない、と否定しながらも
実はヤツの知りたい事をことごとく知っている自分に驚いていたのだ。
家に帰って部屋でぼんやりと考えてみるとそれまでの3年間、
実は私の目はYさんを追っかけていた事に気が付いた。

追っかけ、って言っても四六時中くっついていたわけでは
もちろんない。ストーカー行為をしていたわけでももちろんない。
私はバスケ部から陸上部へと渡り歩いた風来坊生活で、しかも
不良部員だったからろくすっぽ練習もしていない。気の向くままに
校庭を走ったりしていただけなので、陸上部の試合にも出た事はない。

かたやYさんはバドミントン部一筋。いつも真面目に練習していた。
体育館が他の部との兼ね合いで使えない時は下校時間まで校庭で
素振りなどをくれていた。私は校庭の片隅で素振りをしている
彼女の姿を見ていた。ほとんど無意識のうちに。

でも友人がこれから告白しようとしている。今更俺も、なんて
言えようもない。そうして自分の気持ちを押し殺したまま
ヤツの告白を見守った。ヤツは男らしく公園に呼び出し、
告白し、散ったw

いや笑ってはいけないのだが、内心ホッとしてしまったのは
正直な気持ちである。しかしだからといって次は俺の番!
という気になれなかった。そこまで好きではなかったのか
それとも「そこまでの縁の人」だったのだろうか。
とにかく卒業まで何も出来なかった。せめて高校を
同じ所を目指したかったのに、Yさんは成績が良くて私は下。
Yさんの進んだ高校には行けなかった。

高校に上がってもしばらくの間Yさんの事が忘れられなかった私は、
一通の手紙をしたためた。ダメもとで文通の申し込みをしたわけで。
数日後期待してなかった返事が来た時は天にも昇る想いだった。
「うちの高校には野球部がないのですが、愛好会があったのでそこに
入って野球を始める事にしました。」という一文にYさんは驚いたようで
「T君が野球を始めるなんて驚きです。」という言葉に奮起したものだった。

そんな他愛もないやり取りも一年ほどで自然消滅。
理由は私が野球同好会というレベルの部活動にどうにもやる気が
湧かなかった為に辞めてしまい、伯父さんが持っていた草野球チームの
方に夢中になっていった為だった。そんな事を手紙に書けば見捨てられる
のも当然である。部活をやり通す事の出来ない男なんてダメ。
真面目なYさんには当然許容できない暴挙をしてしまった。

でも私には甲子園に行けないだけでなく、試合もできない野球を
3年も続ける根気が無かった。短気は損気。それでも辛抱していれば
良かったのに、と後悔したのはYさんからの最後の手紙に書いてあった
一文だった。「T君お元気ですか? 今日うちの高校にT君の高校の
野球部(同好会)が練習試合をしに来ました。前の手紙で辞めちゃった
とあったのですがもしかしたらT君に会えるかもしれない、と探しちゃい
ました。でも本当に辞めちゃったんですね。」それは私が同好会を辞めた
ほんの1ヶ月後の出来事だった。心底己の不真面目さを後悔した。

どんな事も決してなげてはいけない。
辛抱強くガマンして真面目に生きなければいけない、と改心した。
それから今まで自分なりに真面目に生きてきたつもりだが、
Yさんには中学の卒業以来会っていない。会えるはずもなかったが、
会えるものならもう一度会って話がしたいなぁ。



2005年3月23日曜日 

「相棒」

最近テレビ朝日系水曜日午後9時からのドラマ「相棒」に
すっかりハマってしまった。水谷 豊の杉下警部と元捜査一課の
亀山 薫巡査部長のコンビだが、脇が面白いので固めている。
いかにもマニア系、秋葉原通いしてそうな鑑識の人、いつも二人の
いる特命係を冷やかしにくる二課の人、亀山の元同僚刑事達とか。

扱っている事件は、実は地味で特に派手な銃撃戦などもなく、
街中を刑事が駆け回るシーンもないのだけれど、面白い。
水谷 豊は「コロンボ」をイメージしているみたいだけれど
確かにコロンボのように理詰めで犯人を追い詰めていく辺りが
そんな感じかな。

でも最初の頃に亀山の友人で検事だったヤツが、実は平成の
切り裂くジャックだった、っていう「羊たちの沈黙」を彷彿とさせた
知的殺人鬼も面白かった。

今までテレビ朝日のドラマはあんまり見なかったんだけど、
最近はこれに「おみやさん」「はみだし刑事情熱派」
「はぐれ刑事純情派」まで見てしまって、そしてとうとう
「富豪刑事」まで見るようになってしまった・・・○| ̄|_



2005年1月16日曜日 

「猫カリシウィルス感染症」

猫の呼吸器に感染する。主な症状はくしゃみ、結膜炎などから
始まり、進行すると口内炎によるよだれが特徴的。当然食欲も
なくなってくるのとひどいヨダレと発熱の為に脱水症状を呈する。

予防接種を受けている猫の方が接種していない猫よりも
症状は軽い。予防接種していない猫は、成猫であっても
重篤な症状を呈する。特効薬はない。ネコインターフェロンが
特効薬と言われていた時期もあったが、インターフェロン投与例
でも死に至った例もあるため100%の治療効果ではない。

治療は、まず患猫の保温、雑菌による二次感染症治療の為の
抗生物質投与、ネコインターフェロン製剤の投与、脱水緩和の為に
補液、状況に応じた栄養剤および副腎皮質ホルモン投与等。
ただし副腎皮質ホルモンは免疫力低下を誘発しないよう
投与量を慎重に決めるべきである。しかしながらネコには
非ステロイド性抗炎症剤投与よりも有効であると思われる。



2005年1月12日曜日 晴れのちくもり

「四半世紀」

今から25年前にアメリカ留学をした。英語が全然出来なかったから。
英語ができないのにいきなりアメリカに行っちゃう、という発想が
そもそもおかしいのだが、その時は不思議と怖くなかった。
大学受験を失敗したせいもあり、浪人する覚悟ができていたから
かもしれない。その学校は父が見つけきた。

International College of California
訳すとカリフォルニア国際大学、通称ICCと呼ばれていたその学校は
よくあるいかがわしい語学学校なのでは? と私も最初疑っていた。
ところがちゃんとカリフォルニア州からカレッジとしての認定を
受けていた。ま、だからといって卒業証書が即、アメリカの一流大学と
同等の扱いを受けられるのか、というのは別問題。
判りやすく言えば、日本の三流大学、いや五流大学並の学校
なのかもしれない、という事。

でも英語が全然できない私にとって、アメリカという国で、英語を母国語と
するアメリカ人の先生から「生きた言葉としての英語」を学べる絶好の場所
だった。カリキュラムも最初は中学英語の復習からだったので
自分が何が理解できなかったのかがよ〜く判った。
不思議なものでソコの部分が繋がると、あんなにイヤだった英語が、
どんどんわかってくる。オレは高校3年間、何をやってたんだろう?と
逆に悩んでしまった。

言葉がわかればほとんど怖いものが無くなる。若さゆえの
怖い者知らず、という事も重なって休日には一人でバスに乗って
ロサンゼルスのダウンタウンまで買い物に行ったり、そこから
徒歩でリトル東京まで行った事もあった。今思えば、なんと無謀な
事をしてきたんだろう、と思い出しては冷や汗ものの冒険である。

当時でもダウンタウンは危ないから気を付けるように、
と言われたが、今ほどではなかったのだ。歩いていると黒人の体の大きい
のや小さいのがバカでかいラジカセを肩にしょって、ノリノリで闊歩していた
のを思い出す。スパニッシュや中東系の人間はほとんど見かけなかった。

私が歩いたあの通りは今どうなっているのだろう?



2004年12月18日土曜日 晴れ

「告白」

私は今までの人生で、女性に自分の恋心を告白する
という事を5回ほどした事がある。確か5回くらいしかないはず。
その中で、1回目と3回目が今日12月18日だった。
ゆえにこの日が来るとどうしても思い出してしまう。

なぜ思い出してしまうかというと、あまりにも情けなさ過ぎだったから。
「好き」という肝心のこの2文字が言えなかったからだ。
他の言葉はいろいろ口をついて出てくるのに、要となるこの2文字を
言えなければダメ。後になって振り返るたびに「あ〜、オレは
なんてダメな男だ。」と悔やんでしまう日が今年も来た。

別に「好き」という言葉が出ていたとしても
女性側からの答えは変わらなかったと思う。
でも告白なんだから、好きという気持ちを伝えるんだから、
好きです。と言わなきゃダメだろう、とずっと後悔している。

思い起こせば昭和53年12月18日。そういえばあの日も
今日と同じ土曜日だった。午前授業が終わり、掃除の時だった。
みんなの机が教室の後ろ側につけられて前半分を掃除していた時。
ふと気が付くと、床を掃いていた私と窓を拭いていた彼女・H美さん
だけが教室の中にいて、他のみんなは教室外にいた。
ギョッとした私を策士・Fが見て笑っていた。

実はこの数日前球技大会があって、その終了後事件が起こっていた。
掃除が終わって、H美さんとお友達のK子さんが
教室から出ていったのとほぼ同時に、私の前に策士・Fが立った。

F:よ〜、○○(私)よ〜、おまい、このクラスの中に好きなヤツいるだろ?

いきなりのFの攻撃に私の気は動転した。なんでコイツに知られたんだろ?
コイツはクラスの人気者なんだが、口が軽いことでも有名。コイツに知られたら
まず一日と保たずにクラス中に広まる。コイツにだけは知られたく
なかったなぁ〜。でも時既に遅し。Fはほぼ全容をつかんでいる様子。

私の必死の抵抗もむなしく、あっさりFと、その場に残っていたクラスの
2/3にバレテしまった。しかしツイてない。いつもは部活とかで
教室に残っているのは少ないのに、球技大会のせいでまだこんなに
残っていたとは。そしてFの提案で、私は土曜日に告白する事に(何故?)
そしてそのお膳立ては「漏れにまかせろ!」という勢いでFは高らかに
笑った。そして前述の場面を迎えたのであった。

そして人生初めての告白。なんかいろんな言葉が出てくるんだけど
もっと単純に好きです、って言えなかったかなぁって思う。ま、それが
若かった、って事なのだろうけれど、しょっぱい思い出だ。

あれからもう27年も経ってしまった。卒業以来一度も会ってない
から、きっと街中でスレ違ってもわからないだろうなぁ。
元気にしていて欲しい。私もまだ元気なのだから。



2004年10月14日曜日 くもり

「雑感」

最近指の関節や手首の関節の動きが悪い。
何かこう、正しく曲がらない感じ。外れるわけではない
のだが、曲げるたびに外れそうな感じ。手首の方は痛い。
指の方はポキッと鳴らすと、それまで重たい感じが軽くなる。
手首の方は痛いので無理に曲げないようにするが、
うちは家系にリウマチが出る傾向にあり、母がリウマチで長年
苦しめられている。男にはあまり出ないらしく、今のところすべて
女性だけなのだが、男にまったく出ないはずもない。この痛みと
違和感が非常に気になる。

草野球をやっていて左足太ももを痛めた。満塁のチャンスに
相手投手のタイミングを外してきたカーブに食らいついて
センターオーバーの当たりを打った直後だった。
ピリッ! とイヤな感触。それでも打球がセンターの頭を
越していったので走らなければ、と走った。走っている時は
痛くはなかったのだが、二塁上に達するとどうも単に「つっている」
状態ではない。以前右太ももに肉離れを起こした時と同じ感触。

いや以前よりまだ軽い感じなので無理をしないで交代させて
もらった。案の定翌日太もも裏にくさび状の紫斑が浮かび上がって
いた。でも4〜5日安静にしていたら痛みは消え、走ってもなんとも
なくなった。痛めた日から2週間目に試合があり、当初は休もうかと
思ってたけれど、全然痛くないのと野球をしたかったので出た。

初回捕手フライを打ち上げてしまったのを捕手が取り損ねて
一塁に生きる。そこでよせばいいのに、盗塁を試みた。
二塁はセーフ。足は痛くない。再発防止用に買った太もも用
サポーターが効いてるのかな。最近はこういうサポーターや
テーピング効果があるというアンダーシャツを売っていて、
肩を痛めた事もあって今回の試合から使ってみたが、これが
すこぶる調子がいい。昔のように力一杯ボールを投げても
全然痛くなくなった。適度に緊張感を与えているのが良いのかな。

そして次打者がヒットを放つ。三塁に向かったところで打球を見たら
外野がもたついている。またよせばいいのに、一気に本塁を狙った。
悠々セーフだったのだが、ベンチに戻ってきたら足が痛い。再発だ。
もう無理は利かない体なのね。今はまた静養して痛くなくなったが、
今週末にある試合は無理しないでおこう。



2004年7月15日曜日 晴れ時々

「ミスター・ビーバス」

昨夜アメリカから輸入したトワイライトゾーンのDVDを見た。
その中の一エピソード「ミスター・ビーバス」を見て感動して
しまった。この話は確かアメリカ在住中に一度だけしか見た
事がなくて、ほとんど記憶に残ってなかったのでコラムを
作るときもほとんど思い出せないでいた。

昨日見てこんなに良い話だったのか、と思った。
しかしこうも思った。アメリカにいた頃は自分も18〜19歳。
大学受験には大失敗したが自分の弱点もわかっていたし
今度の受験はもう全然OK!楽勝だぜ!・・・と内心思っていた。
事実その後何の問題もなく合格し、卒業もし、現在があるわけ
だから決して過信していたわけではないのだが、若気の至り
というかとっても生意気で世間をなめていたと思う。

振り返ってミスター・ビーバスは、気のいい青年で、子供にも
人気があって一緒に遊ぶ事もしょっちゅう。普通の人から
みればガラクタのようなモノに愛着を示し、いわゆる子供の
心を持った大人。しかし裕福とは無縁で、運が悪い所もある。
だけど決して卑屈になることもなく、人当たりが良くて
出世欲というものとは無縁の人物。

この青年がある日仕事を解雇され、アパートを叩き出され、
愛車であるクラシックカーを事故で壊されてしまうという悲運に
あう。さすがのビーバスも沈んでしまい、嘆いていると守護天使が
現れ、それまでと全く正反対の、成功を約束されたエリートの生活
を提供する。その代わり今までの自分とはまるで縁のないような
自分になっていた。子供と遊ぶ事はなく、着るものも現代風の
洗練されたもので愛車まで最先端のスポーツカーになる。

ビーバスはそんな自分はイヤだと守護天使に訴える。
守護天使は今まで通りだと成功は保証できない、というが
今までの自分が良い。職はまた探すし、住む場所も探す。
もう悲嘆に暮れる事はしないで前を向いて生きていく、と
言って元に戻してもらう。

このラストを見て、最近の愚痴っぽい自分の醜態を恥じた。
人生前向きに生きなければいけないのに、ここのところの自分は
なんだ?と反省した。ビーバスのように、もっと自分らしく
不器用でも自分らしく生きていく事に意味があるのに。

そう思って今日からまたやり直し。



2003年12月24日曜日 晴れ

「義弟」

昨日妻の妹が、新婚旅行にイタリアに行く、という事で
東京駅まで迎えに行き、うちで食事をして成田まで送っていった。
新しく義理の弟になった「タカくん」も当然一緒だった。
「タカくん」は義妹と同職。小学校の先生だ。歳は義妹よりも1歳年下。

彼らを成田まで送って帰る車の運転中、自分がものすごく歳をとった
ような感覚があった。そして凄く疲れた。運転していてとても疲れた。
今日もなんか疲れが残っていて、仕事している。疲れた。


2003年9月20日土曜日 

「初勝利」

先週の日曜日14日に草野球の秋の地域リーグ一回戦があった。
前週にあんな負け方をしていたので、心中期するモノがあった。
この一週間バッティングセンターに通い、家でも腕立てやったり
素振りしたり。試合中に集中力を切らさないのはどうしたらいいのか?

なにも答えが出ないまま試合が始まった。静かな立ち上がり。
2回ウラ先頭打者は私だ。初球外から入ってくるカーブ(私は左打者)を
引っ掛けた! ボテボテのゴロが投手前に転がる。が、軟球独特の
楕円に変化する回転で捕球しにいく投手から逃げていく。
私はそこまでしか見ていない。なぜならあとはひたすら一塁に向かって
全力で走っていた。太ももが上がらない。きっとゴキブリのように
走っているのかなぁ?などという思いが頭をよぎる。

目の前にいる一塁手が右に傾いた! ボールが送球されたのだ。
が、次の瞬間白いボールが一塁手の横を大きくよぎった。悪送球!
一塁を踏んだところで大きく回って二塁に向かった。セーフ!
よしよし、無死二塁だぞ。
次打者のヒットで無死一、三塁。打った! 外野の間を抜けて
ランニングホームランで3点先制!

だが次の回またまた四球連発で無死満塁とされる。
打球が私の所に飛んできた! ホーム間に合う、と思ったら
捕手が「ファースト!」と叫んでいる。フォースプレーなんだから
ギリギリまでベースタッチしていて欲しかった。私はすでに
本塁送球の体勢だったから止められない。

中途半端な送球になって結局本塁も刺せず、1点献上。
いつものパターンである。その後一つアウトを取るが、
安打が出て逆転される。しかし5点目のホームを踏んだ走者が
スライディングで膝をひねったらしく動けない。同僚に抱えられて退場した。
草野球の怖いところである。

仕切直し。次打者の強烈なライナーがセンター前に飛ぶ! 
いや飛んだように見えた打球は、ショートのグラブに収まっていた。
二塁ランナーが飛び出していたのでそのままセカンドにボールが渡って
この試合最大のピンチは急速に収束した。

次の回、ケガ人が出たため相手の投手が代わる。
先頭はまたも私だ。だがこの投手、練習で投げる球に力を入れてない。
おそらくわざとであろうが、山なりの球ばかり投げている。変化球なのか?
それにしてはろくな変化もついていない。ただの山なりの球。

こういう事をやる投手は、打席に立つと直球で攻めてくる。
自分の速球は相当速い、と思っている事が多い。だから相手に先に
見せたがらないのだ。だがそういう事をやるのはだいたい若くて
野球の経験が少ない者に多い。本当に速い投手ならば、
たかが投球練習ごときにそんな気を使わないもんだ。

「江川な人」的に言えば、この瞬間私はもしかしたら今日は勝てるかも
しれない、と思った。相手は私達をなめている。つけ込むスキを見せて
いるのだ。打席に立った私はじっくり見ることにした。案の定初球から
渾身の力をこめたストレートを投げてきた。

だが高い。そりゃそうだ。練習で一球も力を込めて投げないものが
本番でいきなり力を入れてストライクが投げれるものではない。
私は何も考える事なく一塁に出塁した。3つ直球が高く外れて
最後にスライダーかカーブでも投げたのだろうが、それも高かった。
練習は大事である。

次の打者にも2球高く外れ、3球目がようやくストライクになった。
一つファールのあとの5球目快音が響いた。打球が外野を抜けていく。
私はまた走った! 相変わらず太ももが上がらない。それでも
二塁を蹴って三塁を目指す。三塁コーチが「ゆっくり、ゆっくり」と言う。
ボールははるか彼方に抜けてしまっているようだ。
これも草野球の怖さだ。

9球で同点になった。あとは押せ押せ。このチームで初めて、こんな
ムードになったのは。2点追加して7−5になり、最終回。
あと3つアウトを取れば勝てる。だが昨年も一度そういう展開が
あって、2点リードの最終回に四球四球でサヨナラ負けした。
もうそんな思いはしたくない。俺の所に飛んでこい! と思った。

来た! サードゴロ! 強い打球で少しイレギュラーしたが
体のどこかに当たった打球は勢いをなくして、私は右手に
すでに握っている。今もどこに当てて捕ったのかわからない。
気合いが入っていると痛みを感じないものなのか。

ワンステップで一塁へ送球してアウト。次の打者もアウトになって
あと一人。このあと一人も野球では何が起こるかわからない。
俺の所に来い! と思っていたらフライが上がった。
ファールフライだ。これは俺が捕るしかない!
球が楕円になっている。軟球独特の回転で、これはよく取り損ねる。

しかし何も考えずにグラブの真芯で捕った。乾いた音が響く。
勝った。ようやく勝った。苦節3年。こんなに長く勝てないとは
思ってなかった。野球を甘くみていた。でも勝てた。良かった。
この一週間喜びを噛みしめていた。一週間経った今でもやっぱり
嬉しい。次の試合はいつなのかなぁ。


2003年9月8日月曜日 曇り

「ホワイト・アウト」

子供の通っていた小学校のPTAが、地域の他の小学校のPTAと
合同でソフトボール大会を開催した事がきっかけで有志を集めて
草野球チームを結成したのが4年前の冬。翌年の春から区民大会
や地域リーグに登録して参加を始めた。が、メンバー全員30代後半
から40代。しかも野球経験がほとんどないか、あっても20年近くの
ブランクがあったり、と心許ないものだった。

草野球といっても野球経験者はもちろん、甲子園出場経験者が
いるチームも散在するほど群雄割拠。一つ勝つ、といっても
そんなに簡単に勝たせてくれるものでもなかった。
その辺はみんな一応わかっているつもりだった。

しかし実際に始まってみると、連戦連敗。負けるときのパターンは
いつも同じ。四球四球で塁を埋められ、押し出しのあとタイムリーで
走者一掃。その後もエラーを連発して大量点を献上してコールド負け。
打てず守れず走れず、では勝てるわけもない。

2年間はそんな状態だった。それでも少しずつではあるが、
点を取ったり、エラーをしないでゲームを作ったりできるようになって
昨年あたりはあともう少しで勝てそうなところまで来ていた。

しかし今年の春の公式戦3試合(区民大会、地域リーグ、町会リーグ)は
いずれもいつものパターンの負け方で、元に戻っちゃったのかな? と
思うほどだった。そして秋の公式戦が始まる。最初は区民大会。
途中まで4−1とリードしていたのが5回ウラに突如四球を連発し、
押し出しとエラーで同点になってからアッという間に10点取られて
試合が終わった・・・

日頃は「仕方ないよ。弱いんだもん。」で気持ちを切り替えていたが、
今回の負けの衝撃は、かなり応えた。相手に点を取られている間、
努めてみんなに声をかけ、集中力を切らさないようにしていたのだが
自分の所にボールが飛んできて、それを捕った瞬間頭が真っ白に
なってしまったのだ。ホワイト・アウト。体が固まってしまった。
チームメイトも驚いていたが、私自身が一番驚いた。長いこと野球を
やってきてこんな現象は初めてだった。

2アウトだったから一塁に送球すればチェンジだったのに、
結局次々打者がヒットを打って、三塁にいた走者がホームを踏んだ
瞬間にコールド負けになった。すでに13点取られていた事で
声を出していても自分の中で気持ちが切れていたのだろう、と
一日経って分析できるが、試合が終わった直後は自分の身に
何が起こったのか理解できずにいた。

次の試合ではこのような事が起きないようにしよう。


2003年8月26日曜日 曇り

「セブンサイト合同オフ会」

オフ会レポート:by シュペル

2週間前の8月10日、中野サンプラザで『セブンサイト合同オフ会』が
盛大に行われた。今回私は協賛サイトの一つとして、スタッフ参加だった。
仕事は警備係。ウルトラ警備隊ならぬ『ウルチョラ警備隊』だが。

話は前日から始まる。
義妹がようやく結婚する事になったので、その準備の為に私を除いた
家族が早目に妻の実家に里帰りする事になった。当初妻の運転で
8月10日に3人だけで帰る予定だったのだが、折悪しく台風10号が
関東地方に近づいてきていた。もしかすると10日に通過するかも
しれない、という気象情報にビビッた妻は、私に運転を要求してきた。

私は10日はオフ会だし、11日は仕事なのでこの場合選択肢は二つ。
9日に出発。当日中に到着し、最終で東京にとんぼ返りする。
ところが子供の水泳教室が夕方まで入っているのでこの案は却下。
結局9日夕方に出発して、夜中に到着した。翌日一番の電車で
帰らねば、という状況になってしまった。ところが義父母がなかなか
寝かせてくれない。これはいつもの事なので仕方がないが、午前2時
就寝になってしまった。が、翌日の事を考えると興奮して眠れない。

ようやくウトウトしたかな、と思ったらヘリコプターの爆音が聞こえる。
寝ぼけていたので「朝から事件でもあったのか?」と思ったが
それは農薬散布ヘリだった。ここは東京じゃない!
時計を見ると5時40分。始発の新幹線には間に合わない!
次が7時11分。夏休み臨時便だった。良かった。

新幹線で眠れるかな、と思っていたら子供連れが宇都宮まで一緒だった。
東京駅構内で遅い朝食。普段は何も食べないのだが、今日は食べないと
睡眠不足と疲労で既に倒れそうだった。

会場に着いたのは午後12時頃。なんとか集合時間に間に合った。
中野サンプラザに入るのは生まれて初めてだった。恐る恐る1階ロビーに
入ると看板があった。13階鳳凰の間。エレベーターに乗ると続けて
乗ってきた人達が。まぢるさんだ! もう一人は「かずさん」だった。
今日は良いことありそう。

会場に着くとすでに準備は始まっていた。今回の警備の目玉は
セブンコレクション。有志の皆さんがお持ちの貴重なコレクションを
並べるのだが、時価数十万円のものやOne&Onlyのものもある。
100人からの人間が集まるわけだし、巷で噂の「狂元さん」みたいな
人がいないとも限らない。緊張するなぁ。

そして実際にそのコレクションの数々が並べられ始めると、さっきまでの
眠気は一気に吹き飛んだ! デジカメを持っていなかったのが悔やまれる
が、まさに珠玉の品々。宝の山を目の前にしたような気分だった。
円谷プロで実際に使われていたウルトラ警備隊(地球防衛軍)のマークの型紙。
昭和45年以前発行の怪獣図鑑。当時出版された子供雑誌。
一峰大二先生の漫画版ウルトラセブンの原稿。開田裕治先生のイラスト原画。
超精密ポインター号の試作完成品。セブンのLPレコードの数々。マルザン製
ウルトラセブンソフビ人形。ウルトラホーク3号・マグマライザープラモ。
5円ブロマイド。イカルス星人・スペル星人ガレージキット。
パラライザー。森次氏着用警備隊制服セットなどなど。

私はオフ会開始直後から2時半までが担当だったが、実質12時半からの
2時間ずっとそのお宝の山から目を離せなかった。あまりに緊張したので
開場5分前の段階で一度既に疲れてしまって、ヒザが笑っていた。
まだこれからっていうのに、である。睡眠不足がこれほどツライのは
初めてだったかもしれない。大丈夫なんだろうか、私は?

いよいよ開場。私の目には人々が会場に雪崩れ込んで
来たように見えた。実際はもっとゆっくりと、だったんだろうけれども。
みんなコレクションのところにやってきて魅入っている。デジカメや携帯で
パシャパシャと取り込んでいる。「あ〜俺もデジカメほし〜!」と思った。

すると入り口から特徴有る男が入ってきたのが見えた。特撮ネット界
では今や知らぬ人はいない「某やん」だった。某やんは真っ直ぐコレクションの
コーナー前にやってきて、お仲間となにやら談笑しておられる。
しかしあまり興味はないらしく、デジカメなどで撮影される気配もない。
その後三脚を取り出しビデオを設置してオフ会の一部始終を撮影
していた。ネットではあまり書き込まれていなかったが、某やんの趣味は
ビデオ撮影だったんだ、と改めて認識した。

オフ会にはアンヌ隊員・ひし美ゆり子さんがメインゲストとして参加されて
いるが、ひし美さんの呼びかけで本物のアンヌ、真理アンヌさんが
来られた。ダブル・アンヌ、ツイン・アンヌ、二人のアンヌ。まぁ言い方は
様々だが、セブン34話「蒸発都市」以来の二人のアンヌの登場は
最初沈滞気味だった会場の雰囲気をかなり盛り上げてくれたように
思う。私は特撮イベントというものに参加したことがないので、その
雰囲気というものは分からないのだが、参加者が最初「冷ややかな」
感じがしたのはやっぱりセブンファンの特徴なのだろうか?

セブンファンってどこか一歩引いて物事を見る傾向があると思う。
そういう傾向があるからセブンという作品が好きなのかもしれない。
とりあえずこの場が盛り上がって良かった。盛り上がらないと
セブンファンの特徴の一つでもある「批判の嵐」が巻き起こるような
気がして不安だった。

ひし美さんは開始前から少し飲まれていたようなので
すでに盛り上がっていた(笑)。会場の参加者の皆さんの意気が
上がったのでひし美さんの方もいよいよエンジンが掛かってきて、
真理アンヌさんとの掛け合いにも勢いが感じられた。私には何を
言っているのかわからない事もあったが、きっと分かる人には
分かるんだろう。

そんな感じでビンゴゲームの進行も務められていたが、意外にも
ひし美さんはそんなに飲んでないな、と判ったことがあった。
さすがプロフェッショナルである。

ビンゴゲームのあとはひし美さんと真理アンヌさんのトークショー。
いろいろな話をされていたが、私も今回のオフ会で初めてお会いできた
「きもちゃんぬ」や「かずさん」「V3さん」、それに「ごんぶとさん」
「まぢるさん」との会話に忙しかった。最初の30分を警備に取られて
いたから「私には時間がないのだ!」

苦節3年(笑)ようやく会うことができたきもちゃんぬ。ぽん様との
絶妙なコンビネーションを見せる人物はこの人だったのかぁ!
長身だし、ハンサムだし。ぽん様をルパン3世とすると、きもちゃんぬは
石川五右衛門のような感じがする。ごんぶとさんの方がなぜか
次元大介、って感じ。なぜだろう? 峰不二子はもちろん(略)

ひし美さんがその中で「来年また第2回を」と考えておられる旨を
話されていた。今回参加出来なかった方々、来年は是非お会いしたい。
トークショーが終わるともう既に2時間が経過していた。当初この2時間を
どう裁くかスタッフ間で話し合いが延々とされていたが、参加者の方々の
有り難い協力であっという間に何事もなく終える事ができた。
スタッフの一人として感謝の意を述べたい。

私達が会場の「後かたづけ」をしている間もひし美さんは、会場の外で
サイン会を行っていた。その時間は約1時間。会場内の方が涼しいくらい
外のサイン会は、熱気ムンムンだった。ひし美さんも汗だくで一人一人
丁寧にサインと握手と声を掛けておられたらしい。
さすがプロフェッショナル。こういう姿勢の人だからこそ何年経っても
アンヌの人気は色褪せないのだと思う。

ひし美さんは、100人から人が集まる事になれば必然的にサインを
せがまれたり、一緒に写真を、という人がたくさん出てくるのを
すべて承知していた。ごく当たり前の事だから、という感じで
オフ会終了後にサイン会をやる事は一番最初に決まった事だった。
この「一番最初」というのが大事なことで、とても有り難い事だと思う。

私は前夜からのムリが祟って、オフ会終了と同時に一気に体調が
悪くなり、仕事の方に支障が出てはいけないのでスタッフの
「お疲れ会」は遠慮させてもらったが、そこでもひし美さんは、私なぞの
手を取って「今日はお疲れさま」と言ってくれた。

こういう一言に私は弱い。35年前にブラウン管の向こうにいた
「憧れの人」に私のような「吹けば飛ぶよな小市民」が声を掛けて
もらえるだけでも有り難いのに、手を握って「お疲れさま」なんて
言われた日には舞い上がってしまう。

疲れて帰りの電車ではすっかり寝過ごして千葉の船橋まで行って
しまったが、この日の疲れは心地よかった。その晩は文字通り
爆睡。夢も見なかった。


2003年1月15日曜日 晴れ

「未年」

今年は未年。12年前の1991年は、前年の11月に長男が生まれ
「人の親」になった責任というものを感じながら仕事をしていたと思う。
つい最近の事なのに何も思い出がない。大人になると仕事や育児など
に追われるので自分の時間もないし、余裕もないからだろうか。

さらに12年遡る事24年前の1979年。高校生の時だった。
高校は毎年クラス替えがあったので、3年間同じクラス
だった、という友人はいなかった。仲が良かった友人は、
前年に知り合った連中ばかりだったので、この年のクラス替えで
それらの友と別々になってしまい、クラス単位で行う行事などは
あまり乗り気になれなかった。もっとも堪えたのは、好きだった女の子に
前年の12月に告白したものの、フラレてしまった事。おまけに
クラス替えで別々なクラスになった事でくじけてしまった。

好きならばあきらめてはいけない、と今の自分ならあの頃の自分に
言ってやれたかもしれないが、あの頃の自分は粘りがなかった。
あまりウジウジとつきまとうのは良くないと思ったし、大体自分から
見ても自分自身、女性から好かれるだけの力がない、という妙な
自覚があった。部活に一生懸命打ち込んでるわけでもない。
勉強が驚異的に出来るわけでもない。病気をするほど「ひ弱」では
なかったが、部活で活躍できるほど運動神経が発達しているわけ
でもない中途半端な存在、なんていうおかしな理屈に凝り固まっていた。

今思えば、足がつるくらいの事で部活休んだりしないでマイペースで
一番最後からでもいいからついていけば良かったのに、すぐあきらめて
結果「幽霊部員」になってしまっていた。ビリになるのが怖かったのだろう。
『ビリでもいいじゃん。好きな事やっているんだから。』という
考え方ができなかった。それで大好きな野球をやれる大事な時間を
無駄にしてしまった。私の人生には後悔が多い。

1979年から更に遡ること12年。1967年。幼稚園だった。
この時は母子感染のB型肝炎の影響からだと思うが、病弱だった。
毎月15日になると具合が悪くなり、熱が出たり、風邪のような症状が
出たりして幼稚園を休んで病院に行っていた。だから幼稚園の思い出は
少ない。だがこの辺りの2〜3年はテレビの子供番組はまさに
黄金期だった。休んで寝てばかりいたが、テレビを見ていて飽きる事は
まったくなかった。ウルトラセブンもこの年の10月から始まった。

このサイトでも扱っているウルトラセブン第12話は、12月17日に
放映された。前の週の第11話「魔の山へ飛べ!」を家族で出かけたので
見られなかったのをよく覚えている。ウルトラセブンの本放送で唯一
見逃した回だった。

私の4回目の未年。どんな年になるのだろうか?


2002年12月31日曜日 晴れのち雪

「大都会」

今年もあと数時間。あっという間の一年だった。
実は昨年より私の会社は、非常にアブナイ状況だった。
昨年末より今まで、とにかく必死になって働いてきた。
まだ気は抜けない状況だが、なんとか年は越せそうで、
少しホッとした。そんな感じを抱きつつ、今年最後の出勤をした。

大晦日の都会の朝は、とても静かだ。毎年の事だが、帰省されるので
都会に人が少なくなる。車などの交通量も普段より少ない。朝は尚更だ。

私は生まれは横浜だが、実質川崎で20歳まで育った。
川崎も北部は、私が生まれた頃は緑に囲まれた山々で、住んでいたのは
人間より動物の方が多かったと思う。私が育ったのは南部の工業地帯だった。

しかも道一本向こうは、世界的にも有名な(笑)堀之内のトルコ街。
今はソープランドと言うが、私が住んでいた時は「トルコ風呂」と言った。
そんなバツグンの環境で育った私は、「都会ッ子」である。
親戚はほとんどが「田舎の子」だったのでよく比べられた。

色白で、ひ弱で、もやしのように痩せていた典型的都会ッ子の姿。
だが父の血だろうか、力はあった。腕相撲には今でも自信がある。
夏の北海道の牧場で、干し草の上げ下ろしを延々やった事もある。
牧場の人に見かけによらない、と褒められた事もある。
ただ私の力は、瞬発力だけ。持久力はない。典型的都会ッ子である。

1500mは大の苦手だった。朝のジョギングなんかやりたくもない。
やったら死んじゃう、と真剣に思っている。妻がいつか子供達と
ホノルル・マラソンに出よう、と言っているが、私にとってそれは
地獄の苦しみとなることは目に見えているので、いい返事はしていない。

都会に生まれ育って、40年が過ぎた。都会がイヤで、もっと緑の多い所に
移り住む人が多い。私の友人にも数人、そういうのがいる。北海道、東北、沖縄。
逆に都会に残っている友の方が少ない。みんな地方に住んでいる。

だが私は、都会が好きである。特に今頃の都会の空気が好きだ。
朝早くに都会を歩くのが好きだ。最近は仕事の関係で歩いていないが、
散歩と称して、朝早くの都会を歩くと、普段気が付かない発見がある。

まだ木にぶら下がっている完熟を通り越した柿の実。
電線に止まっているカラス。出し遅れて残されたゴミ袋。
渡る人も通り過ぎる車もいない交差点で、律儀に青、黄、赤と変わる信号。

田舎の澄んだ空気ももちろん良いのだが、都会のそういう所も好きだ。


2002年4月10日曜日 くもり

「今週のロト6」

先週のは2つまでしか当てられなかった。あと一つで1000円だったのに。
今週は、5・10・21・22・23・33 というバクチを打ってみた。
どうせバクチならばここのところ頻出している数字と「悪夢」の連番を
ミックスしてみる。さてどうなることやら。


2002年4月1日曜日 晴れ

「夢と現実」

ロト6が当たって億万長者!これは夢。現実はかすりもせず。
今週は11・12・22・23・36・42でいく。

大学生の時恋い焦がれた女性がいた。
今朝夢を見た。いろんな話をした。
もう脳内妄想大爆発!! ふと目が覚めた。
小学生の息子の足が腹の上に乗っていた。
現実には話をする事も出来ず終わった。
なぜ声もかけられなかったのか、今でもわからない。

卒業して2年くらいしたころ仕事の関係で母校の付属病院に
患者さんを連れて行ったら彼女がいた。卒業後残って付属病院で
研修を受けていたのを知らなかった。思わぬ再会に本当に驚いたが
彼女が受付をしてくれたので初めて言葉を交わす事ができた。

事務的な言葉のキャッチボールだったが、私にとってはそれだけでも
夢のようだった。幸か不幸かその患者さんの容態で1ヶ月後再度
診察に連れて行き、またまた事務的な言葉のキャッチボールを
する事ができた。キツイ仕事を一瞬忘れる事ができた貴重な時間。

でも患者さんは全快し、付属病院に連れて行くこともなくなった。
大体付属病院に連れて行かなければならないほどの難病なんて
滅多にない。その時を含めてもこの13年で3度位だから
いかにラッキーなことだったか。

それから半年ほど経って症例検討会に院長の代わりに出席する事に
なった。症例検討会などというと決まって「代わりに行ってくれぃ!」
と言われて私の他に数人が「代わり番こ」に行った。その時はちょうど
私の番だった。当時横浜の外れの病院だったので東京でやるセミナーは
遠かった。朝はいつもより早く起きて行かなければならなかったので
眠い目をして会場で話を聞いていた。睡魔と戦いながらなんとか
休憩時間まで漕ぎつけた。やれやれ、と思いながら廊下に出たら
彼女が立っていた。

彼女の方から挨拶をされたので眠気が吹っ飛び、しどろもどろに
なりながら挨拶をして、何を話したらいいのか頭の整理もつかず
「あの患者さん全快しましたよ、おかげさまで。」
などと言っていた。彼女の顔を見るといつもそうなってしまう。
結婚して子供もすでにいたのに大学の時と何も変わらぬ自分が
情けなかった。しかしこんな所でまた会えて他愛もない会話だけど
言葉を交わすことができて少し、いや、かなり「幸せ」を感じてしまった。

現実の世界で彼女と交わした会話はこれがすべて。

現実はとても厳しい。



2002年3月27日水曜日 

「ロト6」

今日は昨日から引き続き「雨」。
明日「ロト6」を買おうと予想を立てた。
何も浮かばない。ネットで検索してみた。
いろいろあった。予想してみた。
明日以下の番号で買ってみようと思う。
5等1000円でも当たってくれたらうれしい。

2・12・14・23・26・36


2002年3月19日火曜日 晴れ

「ちょっと良いこと」

桜が咲いた。天気が良い。今年は花粉が多いそうだが
私の花粉アレルギー症状は軽い。
昔の友人からメールが来た。仕事がやや上向きになった気がする。
家族は皆元気。インフルエンザにかかって熱が39度まで上がったが
なんとか生きている。


2002年2月12日火曜日 くもり時々晴れ

「先進?」

我が国日本は、戦後の貧困から先人の努力で
経済大国と呼ばれるまでに復興した。
特に製造業では手先の器用さから工業先進国ドイツや
アメリカを凌ぐ製品を格安で提供できるまでになり、
アメリカでは日本製品不買運動まで起こるようになった。

だがそれもホンの数年前までの話で、ニュースでアメリカ人が
日本製品を大きなトンカチで壊していた風景も今は懐かしい。
そう、今は世界中の誰も日本製が世界一だと思っていないのだ。

携帯電話・パソコン・自動車・その他日本が得意としていた
はずの電器製品でも今や必ずしも世界一とは言えなくなった。
いやむしろ日本は少し遅れていると思われる。

いつまでも日本は先進国だと思っていると気が付いた時には
世界ははるか彼方・・・という事のないように。

私も今の状況に満足しないで日々が勉強、と今までの
自分の甘い生き方を反省している。



2002年2月4日月曜日 くもり時々晴れ

「最近気になる事」

うちの経済状況。今月末の支払い。一日の収入。
日本の失業率。株価。新聞の一面。
富士山。プロ野球キャンプ情報。新発売DVD。
ミニロト・ロト6・ナンバーズ3・4。しばやん。



2002年1月28日月曜日 晴れ

「最近腹立たしい事」

投資、先物取引、広告掲載、ワンルームマンション経営、
リゾートマンション購入、リゾート地開発資金等の勧誘電話。

マイライン登録変更のお願い。電話帳広告料金振込ニセ依頼書。
電気料金負担軽減器械購入の勧誘。タウンページ広告変更依頼。

うそつきで高圧的な政治家&官僚。身内・大企業に甘く中小企業に辛い
金融機関。ふんぞり返って人の話を聞く役所の融資相談係。
ひとの会社の経営状態を厳しく批判する要公的資金再注入銀行員。

一日の売り上げ。1ヶ月の売り上げ表。請求書。預金通帳。
ひとを見かけで「年下」と見下す輩。無精ひげ。一日働いたあとの
足の匂い。慢性鼻炎の鼻。金のない時に限って早く伸びる髪。
脂ぎった顔。メガネがないと何も見えない一重の目。

面白くないギャグ。ISDN。Pentium120MHz 1GBのノートパソコン。
高い食費。太った腹。当たらないLOTO6。