呉宇森最強系列
序論
呉宇森(ジョン・ウー)。映画監督。中国の広東省広州市生まれ。生年不詳(1946年〜48年)。5歳の時に家族と香港へ渡り、きわめて貧しい環境の中で育つ。学生時代に自主映画を撮りはじめ、69年國泰公司(キャセイ・フィルム)へスクリプターとして入社。71年邵氏兄弟有限公司(ショウ・ブラザーズ)に入り、名監督として知られる張徹の助監督を務める。
73年に独立プロダクションで「過客(のちの鐵漢柔情/カラテ愚連隊)」を作り監督デビュー。ところが過激な内容のため一時上映禁止処分を受ける。その後ゴールデンハーベストから76年「帝女花」、77年「發錢寒」などヒット作を連発。一方で許冠文(マイケル・ホイ)ら兄弟の76年「半斤八兩(Mr.BOO!)」など3本の製作にも協力し、こちらも大ヒットを飛ばす。
80年にはシネマシティ設立第一作の「滑稽時代(滑稽時代 モダン・タイム・キッド)」を呉尚飛の名義で監督。しかしその後コメディー路線に行き詰まり、83年に戦争映画「黄昏戰士(のちの英雄無涙/ソルジャー・ドッグス)」を監督するも、ゴールデンハーベスト社と対立しお蔵入り。 シネマシティ台湾支社で失意のうちに3年間を過ごし、2作品を監督するがどちらもヒットせず。
86年、プロデューサーの徐克(ツイ・ハーク)との強力コンビで、満を持して「英雄本色(男たちの挽歌)」で香港へカムバック。歴代の興業収入記録を更新する大ヒットとなり、「英雄片」ブームを巻き起こす。その後も徐克と組んで87年「英雄本色II(男たちの挽歌II)」、89年「喋血雙雄(狼)」などを送り出す。特に「喋血雙雄」は、香港映画としてはブルース・リー作品以来の米国公開を実現。これを見たクエンティン・タランティーノ、サム・ライミ、オリバー・ストーンらは彼をハリウッドへ呼ぼうと運動するものの、当時はまだ本人が乗り気でなく実現せず。
ところが89年6月4日、北京で天安門事件が起こる。これに衝撃を受けた彼は翌90年、ベトナム戦争を舞台にした「喋血街頭(ワイルド・ブリット)」を世に送り出す。サイゴンで反戦デモの学生に軍隊が発砲するシーンは、同事件の知らせを聞いて急遽付け足されたものだという。またこの作品からは徐克とのコンビを解消。その後一転して肩の力を抜いた91年の旧正月映画「縱横四海(狼たちの絆)」、92年のポリス・アクション大作「辣手神探(ハード・ボイルド)」を監督したあとで渡米。
ハリウッドでの監督第一作として、なにかと香港と縁の深いジャン・クロード・ヴァン・ダムを主演に93年「ハード・ターゲット」をヒットさせる。さらに96年「ブロークン・アロー」では全米ナンバーワン・ヒットを獲得。名実ともに世界を代表するアクション映画監督となった彼は、ハリウッドの行きすぎた分業制、映画会社からの露骨な干渉に打ち勝ち、現場での全権を握ることに成功する。そして97年、香港が中国に返還された夏、「いままでの作品のなかで一番思い通りにできた」と本人も語る大傑作「フェイス/オフ」をものにし、現在に至る。
呉宇森監督の香港時代をたどっていくと、彼自身は決して映画界の主流派であったとは言い難い部分があるものの、香港映画の対内、対外的な流れをリードし続けてきた監督であることが分かる。そこで彼の半生を縦糸に、その時代ごとに流行した映画や社会背景を横糸にして、彼の作品と香港映画の世界について研究を進めていこうと思う。