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ドナルド・キーンというと、日本文学史の世界では有名であるが、その彼にしても日本語による著書より英語で書いた著書のほうが多いそうである。
これはその日本語による著書。
いろいろな雑誌などに書いてきたエッセイをまとめたものだが、自伝的なものや人物評が特に優れていると思う。
たとえば、石川啄木という歌人もしくは詩人として知られている自分ではおそらく生涯小説家と思われたがった男がいる。私はその気取った雰囲気があまり好きではないのだが、キーン氏は啄木をそうした私のような見方で切り捨てることはしない。
ローマ字日記に表現された率直さとユーモアを高く評価し、天才のスケールは普通の人間には推し量ることができないことを説く。また、彼は時代の先駆者であり、現代的なものの考え方で感じていたという。言われてみれば、啄木の気取ったところは現代人の気取りらしくも見える。確かにそうした観点から読むと明治の人間とは思えない気負いが見られる。
また、面白かったのは明治の文章は、当て字や造語が多かった。と、してそれは、ひまな人が書き、読むひまのある人が読むための娯楽だったからだろうと分析していることである。私など高校の教師に薦められて明治時代の作家の文章を読んだことがあるが、なんだか文章がうまいのか下手なのか分からなかった思い出がある。それは、昭和初期の作家の分かりやすいうまさとは対照的であった。そんなことを思い出した。
キーン氏は日本語が国際語になるには、ジャーナリズムでは、辞書に載っていないような造語を多様したり、難解な表現をもてあそんだりを減らす努力をすべきことを説いている。
そうして見ると、まだまだ日本人のジャーナリズムはひまな人間が書いて読んでいるものなのかもねえ。みんなひまなんだろうかね。
昼頃起きだして、早稲田に行く。
目的の学生が行くような店は、軒並み閉まっている。しかたなく、沖縄そば屋に行く。味はおいしかったが、量は極めて少ない。
つぎに、月島に行く。
月島といえば、もんじゃ焼きである。振興会なんてのが地下鉄の駅を出るとすぐにあり、食べ放題の店をおすすめされて、そこに行く。また食べ放題である。
店の人の発音は外国人のそれだった。もんじゃ以外にも、鉄板焼きや焼きそば、お好み焼き、ごはん入りもんじゃ、デザートもんじゃ、デザートなどがすべて食べ放題で、なかなかいい企画である。
店の広告で見たが、もんじゃ屋形船というのがあり、2名から就航する。一人4900円で、2時間食べ放題。
それから、蒲田へ。「どっきりカメラのキシフォート」という何でも安売り屋がおもしろかった。外国の食料などが安い。JRの蒲田駅の出発のベル替わりの音楽は蒲田行進曲。
なぜか猛烈に眠くなった。
品川で友人と別れた。
家に帰って、少し寝る。起きて、一日遅れのビデオを返しに行くと、遅延料1200円(一本300円×4)とられる。
悲しくなった。
月に一回程度会っている、でかいあの男がやってきた。
風邪で苦しそうである。
まず、秋葉原に行く。
彼が買う目的のPCはすでに売り切れていた。再入荷の予定もない。
あまりに悲しかったためか、彼はソフマップの中古屋で鼻血をぬかした。
その後、彼は12GのHDDを買った。
夕方二名の友人に引き合わす。
焼肉屋「東海宛」の食べ放題に行く。
メニューが増加しており、石焼ビビンバもあるが、まずそうでやめた。
帰ってから買ったHDDの換装をする。
結局、明け方になった。風邪薬を飲むのにすきっ腹ではいかんと言って、彼は一人で自転車に乗って、駅前に何かを食べに行った。さすが、朝から牛丼を食べる男である。
朝5時過ぎて就寝。
寝てからも、鼻をかみまくっていた。
今日はお休みの日である。代休ですな。
午前中は、「リング 0」「ISORA」二本立てを観にいく。
客は平日なのに多し。
どちらも、ちょぴり、悲しい映画でした。(ちゃんと評はべつに書くつもり)
午後、渋谷へ。
いつもの、エクスチェンジでSに会う。ていうか、一方的にただで教えてあげているだけか。
ギャルに人気なパスタ屋に行く。
なぜか、東アジア系外人ばっかりである。
香港語、韓国語(われわれ以外にも)、北京語などなど。
おごってやったが、ありがとうも言わない。
言語以前に問題がある。
サンシャイン60に観光に行く道すがら、Sの学校の友人に偶然会う。
帰る道というので、一緒に山手線に乗る。
大学に行きたいが、お金がかかりすぎだなどの話をする。
サンシャインでは、私が「AIR WALK(スニーカー)」を買う。
夕方6時くらいから、日本語を教え始めた。
朝からフル・ピッチで動いたためか、教えながら眠くなった。
あっちも朝早かったそうだ。
かばんから「しっけ」を取り出して、くれた。
朝早くおきて作ったの。
いい子である。
9時に別れて、三鷹へ。
9月の三鷹とはべつの場所である。
ソウルに行っている友人が三鷹の住所も替えた為である。
麒麟が明治大正昭和のそれぞれのラガーを復刻して、売っていた。
明治を買う。あと、ドイツのどっかのメーカーのピルスナー。
友人のアパートに着いて、飲む。
うまい。今のよりずっと重く苦く、好きな味だ。
部屋は、きれいに片付いていた。
だが、人が住んでいなかったため、部屋に生気がない。
トイレに行くと、塩がさらに盛ってある。風水だ。
猛烈に眠く、ふとんを敷いて横になった。
気が付くと、左まぶたがなぜか痙攣をし続けていた。
不気味である。
今年の一月はY2K問題で大変なことになっていることだろうと予想された。実際はY2K問題は特に何も起きなかったが、一月は来る2/29日問題というやつが控えており、現在はむしろこの対応でてんやわんやしている。
いくつかのOSではすでに2月28日の次が、いきなり3月1日になるということで事前にはっきりしている。まあ29日にたった一日だけ使わなければそれですむ話なのだが、使わないでくださいともいえないため、全国に業者を派遣して対応してもらっている。2000年問題と同じく、一部業者のミスや、顧客がインストール媒体を事前に用意してなかったり紛失していたり、嘘をついたりして、問題がいろいろと毎日起こり、退屈しない。
ところで、顧客の嘘というやつがもっとも厄介なのだ。
こんな顧客がある。
こちらが対応した後で、何もしていないのだがおかしくなってしまった、などと虚偽の訴えをしてきて、現地で対応してみた。そしたら、ものの見事に他社のプログラムのインストールを行った形跡があり、しかも失敗していて、こちらのシステムまで動かなくさせられていた。
まだソフトであれば、常識的な顧客は勝手に他社のプログラムをつっこんでおかしくすることはしないのだが、ハードはいくらぶち壊しても交換可能とでも誤解しているのか、かなりの数、頻繁に壊す顧客がいる。
ケーブルを無理やり伸ばしてぶち切るやつ、ハードを高所から落として初期不良といいはるやつ(ケースがへこんだ初期不良があるかい?)、プリンターのトナーカートリッジ(インク)などの消耗品もただにしようとごねるやつ、毎日たくさん面白い言い訳が聞ける。これらが2000年問題やら、2/29問題対応やらの業者が来た後になったなどと、無茶なことを言い張るものだから、対応がよけいに遅くなったりもする。
みんな、正直がいちばんだぜ。
韓国にじいさんばあさんが登場して、放言しまくる楽しい番組がある。KNTV経由で、それを今日見ていたら日本に対していいたい放題をかましていた。話題は独島(日本でいう竹島)である。あるばあさんなど不完全な日本語で「おまえ、生意気だ」などと抜かしていた。んで、スタジオ中、喝采を浴びていた。
ふう。
その声は小さすぎて、日本までは届くまい。あ、KNTVを見ている人には届いたか・・・。
韓国人が日本に対して意見するとき、こういう内輪に向けた批判になりがちである。韓国人は論争的だの挑戦的だの日本人はよく誤解しているけれども、あれはたまたまそいした内輪向けの意見が外に向かって発現してしまったことに過ぎなかったりする。多くは身近な誰かや、国内政治的な配慮だったりしている。
韓国人のこうした性格について、日本人はいったいどれだけ分かろうとしているのだろう。
独島問題は極めて高度な国内政治的な配慮に基づいているのであり、実際は日本など二の次なのだ。こういうことの合意が田舎のばあさんから政治家までできているところが、韓国人の強みでもあり。また一枚岩の弱さでもある。
日本人のばあさんが、日本のTVで竹島はわれらが領土と言ったところで拍手喝采を浴びることはないだろう。それだけの合意ができていないのだ。だが、その代わりに日本には多種多様な意見がある。ある意見が倒れたときでも他の意見がいつでも取って代われるようになっている。それが日本の強さでもあるし、分散した意見ゆえの弱さでもある。
日本人のこうした性格について、韓国人はいったいどれだけ分かろうとしているのだろう。
昨日、物事の裏を読まない人間を警戒せよと書いた。
国が国に対してああだこうだいう場合は、政治的な計略の上になされることを見逃すべきではないということだ。韓国で日本がとっても悪いことをしたなどと耳にすれば、泣いてたまたま出会っただけの韓国人に謝罪するような、致命的に思い上がった善意溢れる単純な輩には見えないことかもしれないが、世界は常に一個人の想像する以上に複雑で見えにくいものだ。どんな物事でも知れば知るほどその難しさに気が付くとよくいわれるが、世界はそうしたあらゆる理解困難な物事がすべて織りなす複雑な織物だ。
その場の思いつきで、無知の涙を流すのは、韓国人に対する軽薄な侮辱だが、そういう侮辱的な行為をしてまでおのれが救われたいというさもしい身勝手な恥知らずが、のうのうと大手を振って生きていられるのが、この日本という国のよいところでもあるのだろうな。
私はそんな日本のやさしい大人たちがとても好きだ。
無知で軽薄で傲慢な大人もあまり身近に置いておきたくはないが、積極的な悪人よりも脅威となることが分かっていてさえ、まったく自覚的な悪気がないわけで、幾分か愛すべきところはある人々ではあると思う。
世間知らずのおぼっちゃんのような大人でも抱きとめてしまう、この底抜けなやさしさと思いやりに支配された国。
だけど、国内でやっている分にはいいが、これが国際関係となるとがぜん問題になる。
賛否両論、問題となるがゆえに、それを商売とする人たちの食いぶちとなるわけである。
あまい日本の私。
あ、まあいいや。
十代の売春婦だけど、大統領がはっきりとナニといったわけではないが、(まあ、売春は非合法なので言えないよな)「なんとかしたまえ」とのたまったとMBCは報道していた。韓国のことだから、これはまたマスコミによる一大キャンペーンになるんだろうね。
大統領の号令がかかるとあっという間に、なんとかしてしまうお国柄なので、なんとかなるのかもしれない。例えば、十代の売春婦は税金を免除するとか・・・。これについては、今後もあたたかく見守っていこう。でなきゃ、売春少女たちに対して、それなりに鞘に収められる雇用を確保するかだな。無理に家庭に返したとこで、問題の根元は何にも解決されていない。どうして、そういう業界に少女達が足を踏み入れてしまうのかを考えなければ。
日本でやくざが根絶できないのと同じ理由だ。やくざの方々に仕事をやめて、何かの実業につけるように国が手厚く保護していますかっての。
それと、マスコミがやろうとしているように、そういう選択をしてしまった少女たちを犠牲者として見るのではなく、あくまで犯罪者として現行法の上で厳格に処分してあげるべきだろう。つまり、これが職業選択の自由に付随する責任ってやつだ。誰もが犯罪者になれる自由がある。しかし、法で処罰される覚悟はすべし。もちろん、少年法があるように、精神的に未熟な人間はある程度そういうことを加味されるべきだろうが。
そういう職業をあえて選択する自由は未成年者と言えどあるが、あくまで法的には相応に処罰されるべきだ。
MBCの報道では、なんだか売春少女達がワルイオトナタチの犠牲者のように描写されている。幾分かそれはそうなのだが、あくまで法治国家なのだから、ここでちゃんとしておかなければ将来の犯罪の芽をつむことはできまい。
でも、より重要なことは、少女たちを家庭に返してからのことだろう。
また、業界に戻るしかないのなら、元の木阿弥ではないか。正義を振りかざすなら最後まで面倒をみないと無責任じゃないか。
問題は、自由意志でなく、無理やりにその業界に入れられた場合である。この場合は、無理やりにその業界に未成年を入れた業者を徹底的に処罰しなければなるまい。
いや、未成年に限らず、そもそも自由意志でない雇用ならば、それは奴隷状態そのものだ。これこそ、マスコミがその正義の鉄槌を振るうべき話題だろう。
と書いてきて、ふと気が付いた。
それとも、あれだろうか。よく犯罪を促しているHPなんかで、いちおう断り書きしてある「私はやるなっていいましたからね!」ってのと同じ理屈だろうか。
マスコミなんて、しょせん商売だもんな。大衆受けする取材を流して、大衆に耳障りの良い、大衆がおれたちゃ善人って思い込める見せ掛けの正義にオモネッテ受ければ良いわけで、真の正義もへったくれも期待するほうがお笑いなのかもな。
韓国の売春業界(日本でいうと、風俗ということになるか?本番基本の韓国ではちと違うがね)では、十代が1/3もいるという。
「韓国絶頂読本/ゴルゴ内藤(三和出版)」という韓国語をほとんど知らない著者が、韓国の風俗業を探検した紀行本があって、これに十代の売春婦を求めて危ない橋を渡る章があるのだが、んなことしなくてもこれだけ買い捲っているのだから、1/3の確率なら当たっていた可能性もあるなあと思う。もし当たっていたら、良かったですね。
ともかく、MBCのニュースを見ていたらそういう報道があった。良識派をやたら気取りたがる韓国マスコミのことだから、大変に批判的なというか、批判を装ってその実何も考えていない「みなさんもっとこの問題について考えてみませんか興味をもってください」というよくある結語だった。
職業選択の自由を追求すれば、十代で売春業についても倫理的観点はべつとすれば、全く問題がないはずである。
そもそもそんなことを言えば、韓国では売春自体が違法なのだから、そのことを批判するのが先決であろう。また、本気で十代の売春婦を無くしたいのなら、いっそ完全に国営にして管理してしまえば話は早いのだから、もっと、そういう過激な主張をかましてもいい。違法にしているから管理ができないのではないか。
取材では、なんとなく自由が満喫したくて売春婦になった17歳の少女が登場した。
この少女の場合、違法なことをしている意識も、将来を台無しにしても平気という覚悟ができていなさそうだった。ただ、自分に渡る金が低いことを言っていたので、まあある程度は世間を分かっていると思う。だから、勝手にやらせておけばいいんじゃないだろうか。どうせ、その覚悟ができていようがいまいが、あとで地獄を見るのは彼女なのだ。人の生き方に干渉するより、まずてめえの人生を考えるべきだろう。
人間を教育するのは難しいものだし、よく分かっていない大人の忠告に従うよりも自分で選ぶ人生はより充実しているはずだ。たとえそれが他人から見て地獄であろうともである。
イム・グォンテク監督に「娼」という映画がある。
そこでは、まったくどうしようもない蟻地獄にはまった女主人公の人生が淡々と描かれるのだが、その生活には儚い希望も生きていくのに必要な笑いもある。人というものは、どんな悲惨な時でも生きている以上はどこかに希望があるものだ。葬式で談笑する人を見たことがあるだろう。戦争中の国民が笑っていることを見たことがあるだろう。
今は、道徳がまったく無力な時代なのだ。十代の売春婦に将来を考えろと言って、誰が耳を傾けるだろう。彼女らにとっては、うるさいばかりだろう。
かつて、マリリン・モンローは売春婦から身を起こして、名声を手にした。心身ともにズタズタだったとも、よく言われるが。だがここでは、希望があれば、人はどんな状況からも抜け出せると信じたい。
もし、現代に問題があるならば、そうした希望を抱きにくい時代だといえよう。
問題の根は十代の売春がどうのということにあるのではなく、ちょっと考えれば、売春自体の抱えている矛盾(つまり違法ということ)にあるということはすぐわかるだろう。
もし、現行の法律のままに十代売春少女の将来を愁うなら、その人生に希望をもたせるように、もっとお金が渡る道を整えるべきだろう。お金以上の希望を!ということなら、それはこの時代では荷が重過ぎる。
以上の主張をかますことで、小生はMBCよりは十代売春少女の未来を本気で考えていると思いますです。
成人式だったようだ。
そういえば、駅の近くの酒屋の前で不潔な若者が数名ビール缶を片手に群れていたなあ。そのうちの一人は黄色い頭、唯一いた女は煙草を吸っていた
私が二十歳の頃は、髪を染めた二十歳の若者などひとりもいなかったし、煙草を吸う二十歳の糞女も存在しようもなかった。
などと書いてみたいものだが、実際は数こそ違え素行の悪いやつなどどこでもどの時代でもいる。
まあ、そんなことはどうでもいい。
私の成人式の話を書く。
それは、とても私らしく過ぎた。
当時から、というか生まれてからずっと一貫していると思うが、人と群れるのが嫌いだったので、その日はたったひとりの同い年の親友と式に出てからすぐ、彼の家に行ってテレビ・ゲームなどしていた。これについては、この当時の普通の暇のつぶしかただったわけだ。
家に夕方帰ってから、中学時代のクラス・メートから何度か私に電話があったことを母に聞かされた。「へえ、うるせえやつらだな」と吐き捨てると、母はため息を吐いて、「あんたは、なんでそういじけているの?」と迫った。「そんなに人嫌いだったら、まともな大人にはなれないよ」と。
確かに、今の私はまともな大人ではないかもしれない。当時は分からなかったが、今ならはっきり言える。もっとも、最初から母が期待するようなまともな大人にはなりたくもなかったが。
以降、二十歳のあの日そのままに、世間嫌い、大衆嫌いで、つまらない人間とは極力付き合わないようにしてきた。誰でもが仲良くしようよなどとかますやつはまず99%以上ロクでもない卑怯者か、でなければせいぜい単なる馬鹿のどちらかである。
かと言って、我が道を行くというほどかっこいいものではない。
母が心配したように、人に無理にあわせるのが嫌いな、付き合いの悪い人間のまま、ある意味、症状が進行した形で大人になった。
後悔しているか?
いや、ちっとも。
私は、まったくそんなことは気にもしてない素振りができる。
だって、大人になるってそういうことだろ?
昨日から高校時代の友人が家に遊びに来ていた。
少し前まで水戸で働いていたのだが、また東京に戻ってきたのである。
ハード・ディスクが異常動作をするということで、うちに持ってきて修復した。ツールを使うと難なく復旧した。よくあることだ。
友人は、BeOSの魅力を説いた。LINUXではなく、MaOSでもなく、BeOSというところが彼らしい。そんな彼は私に超漢字を買ってみたらという。ようするに動作が軽いわりに、ユーザビリティはよい。そんなOSに興味があるということだな。
疲れているらしく、11時過ぎたころから寝入ってしまった。
昼から最近日本に留学に来た友人の妹に会って、日本語を教えることになった。
その前に、渋谷で会ったので、109に案内する。1月9日だしな。
109と言えば、コギャル・ファッションのメッカとして名高いが、実際行って見るとチョーロクでもなくて笑えた。
アメリカのB級ホラー映画の雑魚ゾンビよろしく、一目見てしまうだけで目が腐りそうなほど醜いクソガキどもが、ごみのように汚いボロ切れやら、色とりどりで目を痛めそうな蛍光色や原色のぞうきんやら、骨折するためにあえて履くシークレット・ブーツとしか思えない底の厚いゲタに群れていた。
眺めているだけで、鳥肌が立つ世界だ。快楽だけをひたすら追求する、女性セブンの読者を想定するとこんなかと漠然と想像される、頭の悪い女に対する根底的な嫌悪感、不潔なものに対する根源的な恐怖感を煽る、地獄以上に地獄らしい風景だ。
5日限りの大ゲバーンだったのである。
連れて行った女の子は日本人は背が低いからこんな気色悪いゲタ履いてんじゃないのだの、高いだけで偽物の服(フェイク・ファーのこと)ばかりだのさんざん悪態をついて面白がっていた。なあに、韓国だってその日本で売れ残った古着を漁る低脳なダニ女どもが、ミョンドン辺りで腐臭を放っているではないか。
さすがに、本家のマルイに行くと高いとだけ言った。あそこのものは、異常に高いが全部本物だしな。プラダのリュックが手で触れるように売っていることにやけに感動していた。韓国ではショー・ウィンドゥに入って売っているべき高価格だからだそうな。
夕方、ようやく日本語を教える。
日本語を韓国人に教えるのは、ものすごく久しぶりな気がするが、たぶん気のせいだろう。日本人にならよくあるのだがね。韓国人がどういうところで躓くか、大体は予測できる気がするが、いわば思い上がりというものだろう。この子は語学に対して非常に貪欲で、辞書を引いたら前後に載っている同音異義語やら近しい言葉などについても聞いてくる。なかなかいいセンスを持っている。
面白かったが、教えるのも二時間が限界だ。
でも、また、教えてもいいと海のように心の広いおれは思ったとさ。
先日、家でなべをやろうというときに、うちに鍋がないというと、友人が鉄鍋を持ってきた。数年前に一回しか使っていないとのことで、茶色の錆が付いていた。見た目はそれほどではないのだが、湯を沸かすと錆びが浮いてくる。
それ以来、毎日気がついたときに磨いているのだが、錆はまだとれない。
人間の頭も使わないと、こんな感じにいくら後で使おうと思ってもさび付いてしまうのだろうか。
まあ、私のかかわっているシステムを含めて、日本中さした問題もなかったコンピューターの2000年問題だが、ずいぶん稼いだかたがたもたくさんいらしたことだろう。風が吹けば桶屋が儲かる的にミネラル・ウォーターやら布団やらが、売れに売れまくったらしく、経済的な波及効果も、ごく一部の業界ではあったらしい。
もちろん、一番荒稼ぎしたのはソフト屋だろうが・・・。私の会社など、年が明ける前あたりから株価が急落しはじめたのには、予想できたが、やはりとても笑えたです。
アメリカでは、例によってユダヤ人陰謀説まで語られている。馬鹿のひとつ覚え式にまたかよといった感じだが、しょせんアメリカの大衆など馬鹿なのだから、ひとつ覚えも当然であろう。日本の大衆とて馬鹿さ加減では負けてはいないが、LINUXに対する誤解に比べればあまり笑える話は聞かない。たとえば、在日朝鮮人陰謀説とかあったら、すごいだろうにね。
そんなわけで、ひとことで言えば、つまらない騒ぎだった。
むしろ、このつまらない騒動に乗じて、日ごろUNIXを触ったこともない頭の悪いCEやらSEやらが、うちのUNIXのシステムを日本中でつぶしまくったことほうが、面白かった。
こいつらの請け負った顧客先では、何も対応しないことのほうが、ましだったかもしれない。この頭の悪い方々が、数十万の金をぼりつつやった仕事でこれなのだから、もう笑うしかない。そりゃあ、おたくらの会社の経済効果は抜群だったろうな。富士通なんて、UNIXのコマンドも知らない業者のサポートをうちにやらせていたしな。ほかのメーカーではあまりないことだ。おっと、中間搾取していたから、あんなやつらばかりが対応していたの?
ともあれ、世間では何もなくて良かったと思う。
舞台裏ではそれなりに、ドラマチックな話もあっただろうけど。
いままで、差出人名を書き忘れた年賀はがきをもらったことは数回あるが、いつも誰が出したか内容から判断がついた。
しかし、今日もらったやつはまったく誰が差し出したのか検討もつかない。
女性の字である。はがきはあまりかわいくもない、かっこよくもない竜のイラストがあらかじめ印刷してあるものだ。
消印はない。よって住所も特定できない。
だが、知っているものの字やセンスではない。
書いてある内容はまったく掴み所がなく、ありきたりの決り文句のみである。
今日届いたということは、こちらのはがきが届き、あわててやっつけで出したものだと推測できる。
で、消去法で、こちらが出した女性おそらく、仕事関係をつぶしてみたのだが、候補が3人残った。この3人ともまったくといっていいほど無駄口をきかないので、誰か分からない。
などといろいろ推理をしてみたのだが、案外ストーカーのしわざだったりしたら面白いなあ。などと、頭が悪そうに書き終えておきます。
風邪気味で、頭がうまく動かんすまん。
昨日、新年最初の出勤日にと、今日2日目まで、2000年問題は起きていない。不思議なのが、一部昨年対応できなかった顧客なのだが、こちらもまったく何の問題もなく動いている。
対応させたことで、メーカーの対応員のミスのせいで、11、12月はずいぶん忙しく出張やら立会いやらしていたわけで、やる必要はなかったのかとも思われる。
ただし、若干「仕様です」的なものはないわけではなかった。
どういうやつかというと、99と省略して入力すると1999と補完されて入力されたものが、2099になったりというやつだ。
まあ、こういうことは他愛ないことだ。
で、面白かったのは保守義務がない顧客(いわばフリー・ウェアのような使い方を許可している顧客)が、はるか大昔のバージョンを使っているくせに、動かないなどとマスコミにネタを提供したらしく、某新聞社から「こんなことを言ってきているが・・・」と確認のメールが来たことである。
この顧客は、方々のマスコミにたれこんだらしく、うらをとらないので定評のある朝日新聞の地方誌には、うちのシステムのことがこの顧客の言葉通りに掲載されたそうである。はっきりとシステム名まで掲載されていたらしい・・・。見てはいないが。あと、社名は出てないが。
こんなことを言っていますよ・・・的なことをそのまま掲載するんだなあ。朝日ってさ。
そういうことだそうなので、私も東芝やNECなどに対する苦情をマスコミに訴えてみようかなあ。
しないけどよ。
なんつーか、ついに昨夜はこのページの読者はゼロだった。
ある意味、読者ゼロというのは理想でもある。
タブーがゼロという意味でね。
では、読者ゼロのHPにどういう意味があるか考えてみよう・・・。単なる自己満足か。でなきゃ、やけか。まあ、それも悪くない。
だいたい日常生活の90%以上は自分のすることに自尊心を持って暮らしているのだが、たまに自己嫌悪に近い状態でゆれることもある。あ、もっと少ないか。私の場合、ほとんど体調と密接な関係がある。
普通は誰でもこういうところはあって、よほど頭が固いか悪いかでなければ、自分について100%自信があるというのは、健全な精神状態とは言えない。自分の考えに疑いを抱かなければ、精神が向上することもなかろう。
健全な肉体に健全な精神が宿るとはよく言ったもので、病的な考え方しかできない人間は見るからに不健康なセイカツをしているようだ。
昨日の続きになるが、凡庸な人間は見るからに平凡な風貌をしているものだ。人は見かけによらぬものだが、こと、精神肉体ともに健康か否かや、凡庸か非凡かについてかなり外見から言い当てることができよう。もっとも、そういうことと人生における幸・不幸とはまたべつの問題である。
それは次のような例をあげれば分かってもらえるのではなかろうか。
太宰治という正直な作家が、「不細工な女はせめて心持でも良くなければ」という世間の期待は、かなり無理があると指摘している。不細工な女であれば、世間から風当たりも強く、まっすぐ育つのは難しいのではないかというのだ。私見によれば、確かに美しい女は精神的に曲がっていることは少なかろう。素直で明るい性格の女がほとんどだろう。反対に不細工な女は世間をまっすぐ見詰めることが難しく、たいていはどこかとっつきにくい性格に育っているようだ。
しかし、それと幸福に生きられるか否かはべつの話である。美しい女は、それだけ世間に疎く、人に流されやすく凡庸な生き方はしづらかろう。アメリカの50年代から70年代にかけての心理学の実験でこんな話を聞いたことがある。美人コンテストの優勝者のその後を追った研究結果だ。一般人にくらべてその寿命は明らかに短く、その寿命は世間の水準の20歳も若かったという。そしてその人生を調べてみるとあまり幸福な人生には思えないことがほとんどだったという。ああ、そうだろうなと誰もが思い当たるのではないか。
子供でもいじめの対象になるのは、たいていどこか非凡なところのある子供だし、大人でも足を引っ張られるのは有能な人間ばかりだ。
そんなわけで、最近思うのだ。
健康は大事である。確かにそうだ。だが、凡庸を憎むこのおれはそれでいいのだろうか?不健康なくらいのほうがいかにも芸術的とは言えまいか。そのためには、不幸でいいじゃないかと。
今日はちょっと風邪気味だった。それは、あるいはいいことなのかもしれない。
なんつーか、毎年の恒例行事になりつつあるね。10月いっぱい休むとか言って、結局年を越したな。
今日は年が明けて最初の日だからさ、正直に書くよ。よーっく読んでいた人はすでに知っているだろうけど。
おれなあ、こう見えて結構な、フツーの言葉で言うとな、人間嫌いなんだよな。さらに言うと、凡庸なものを憎んでいるというか、大衆(人と同じことをよしとする人々)を死ぬほど軽蔑しきっているというか。
むかーしむかし、高校の時に母親に正直にこのことを言ったら、まあ親だから当然こういう性格ってことは知っているじゃない。で、言われたわけよ。人間が嫌いなやつあ、何をやってもだめだよってな。
確かにあのまま大人になっていたらてんでだめな人間になっただろうよ。でも人間っていうのは、どっか適当なとこで適度に社会に適応できるように適宜そういう機会が適時あるからな。いまこうしてまっとーな月給とりとして日々セイカツできたりしているわけだけどな。
わかるか?
わかるだろうな。きっと。
でも、それのことじゃないぜ。
ああ、あれか。って思っただろ。
誰でもそういう時期ってある。おれだけは特別だって時期。
でも、おれのはそういうのとはてんで違うわけさ。おれだけなんてぜんぜん思っていないよ。立派な尊敬できる人もたくさんいたんだ。もちろん、今もだよ。
おれなあ、若いころ、他人と違うっていうことで悩んだことがないやつって、人間のくずだと思うぜ。でもな、あるていど年を食ってからはな、他人と違うことに誇りをもつと同時に、尊敬できる人もたくさんいないと、つまらん一生を終えると思うぜ。まあ、つまらん一生もそれなりに一生ではあるけどな。数学的には・・・。もっとも、おれは人間の価値が平等なんて生まれてこのかた、ただの一度も思ったことはないが。
凡庸なことしかかけないいえないかんがえないくせに、自分だけは特別だって思ってるやつ。右も左もそういうやつばっかだ。そういうのがどれだけ多いか考えたことがあるかい。知的と一般的に信じられている人々でも、9割はそういう輩で満ちているよ。誰も言わないけど、まさにそういうのが、もっともフツーなわけよ。口当たりのいい言葉、耳障りがいい言葉はすべて喋る価値も聞く価値もない。誰でもが一回聞いて納得するようなことってのは、全部嘘っぱちだな。自分の頭で考えないでそのまま耳から口に抜いて喋っているようなやつがどれだけ多いか。
もちろん、おれだはもとより、おれが尊敬する人々でさえ、ある程度は凡庸なとこを持っているし、日常的に90%は自動的に頭に浮かんだ想念で生きているだろうけど、そういう時間を恥ずかしいと思うか否かの違いが重要なんじゃないの。
ダザイズム的にいうと、生まれてすみませんってやつか。
恥というのは、日本の文化のもっとも美しい部分だったと思うけど、今はどうなんだろ。
あんた、恥ずかしいと思って生きているか。
ああ、またくだらないことを書いちゃったもんだよ。
つまらんこと、書いてすみませんねえ。
で、あんたは、読んですみませんって、思っているか?