河島英五と鶴瓶

2001年12月31日、紅白歌合戦を見た方は多いと思う。

その中で、ベーやんの 「酒と泪と男と女」は感動しましたね。

紅白初出演の英五

鶴瓶師匠の若き日の自叙伝「悲しき紙芝居」に河島英五との出会いのことが書かれています。その中の内容は、、、

第一印象は最悪だった。

英五と最初に出会ったのは今から10年目になる。

(注・おそらく昭和47年ごろ)このころ英五はホモサピエンスというバンドを組んでおり、僕の学生時代の友人「あのねのね」のバックバンドなどをやったいた。 天王寺の野外音楽堂で「あのねのね」のコンサートがあったとき、楽屋をたづねると、そこには背の高い男が一人、ぼーと立っていた。 それが河島英五だった。もちろん無名な頃である。

僕はその男に向かって、軽い会釈をしたつもりだったが、相手はまったくそ知らぬふりをし、何の挨拶もなかった。

「おかしなやつ」という印象しかなかった。

その後すぐに英五はソロになった。あちこちの会場で何度か顔を合わすのだが挨拶してくれないのである。

『もうええわ、こんな愛想のないやつとは絶対についかわへんぞ』と心に決めていた。

そんなこんなしていると、僕の深夜ラジオに新曲のプロモートでのゲストがきまったいたのである。

『うっとうしやつがくるな』と憂鬱な気分になった。

ところが、話し始めると英五に対しての印象は180度変わっていったのである。

ぼそぼそとつぶやくような言葉の裏に、何かしら、とても熱く燃えてぎるいるものを感じさせる男だとわかったのである。一見無愛想な男でもテレやだったのである。

(注) ミッドナイト東海ラジオ

それどころか親近感を覚え意気投合し、コンサートを一緒にやろうという話までになった。

話が現実となり、名古屋のとある小さなホールで、昭和51年1月15日ジヨイントコンサートがきまった。

音符もわからぬ僕に粘り強く練習を重ね、リードしてくれた。

そんな風にコンサートが成功した

英五との効した付き合いの中から『酔い語り』の歌が生まれた。彼が僕の為に歌をつくってくれたのである。

また、僕の舞台での話を聞いてくれた英五が、僕の友人達のエピソードからヒントを得て、「友よ語りき」という歌も作ってくれた。この歌はばくの最初に出したレコードである。

彼は純粋な男である。どちらかといえば口数が少なく、男っぽさを強く感じさせる人である。僕は彼と出会うたびになぜか、『僕もがんばらなければ』とファイトとが沸いてくる。曲がヒットして名前が売れても、昔のままの純粋な心をもち続けている英五を見て、僕も噺かになりたての頃に抱いていたあの初心に、ふとかえってしまうからなのかもしれない。

ところで、その男らしい男、河島英五のなく姿を、僕はたった一度だけみたことがある。

本人から

「結婚したいこがおるねん」と打ち明けられていた。

しかし、ある事情から両親から大反対をされていたことも聞かされた。

そんなある日、心配していた僕に英五のけっこしきの招待状が届いた。

それは滅多にみられない、感動的な披露宴だった。

形どうりの宴も進んで、仲人さんのお決まりの挨拶となった、本当ならここで新郎新婦の略歴などなれ初めなどがメモでも見ながら延々と続くはずのであるがこの時の仲人さんは、

「おめでとう、ほんとうによかったな」

「おめでとう、ほんまによかったな」

と繰り返すだけなのである。

二人がゴールインするに至った、複雑な事情、そしてそれにまつわるいろんな人たちの葛藤が、一瞬のうちに感じ取られたのである。

この後、僕が乾杯の音頭をとることになったいた。もう多くは語る必要がない。マイクにたった僕は、ただ、彼に向かって。

『英五、おめでとう』 とだけ、心からのお祝いの言葉をのべたのである。

すると、突然、抑え込んでいた英五の感情が。一気に堰を切って出てきた。 感極まって、彼が、とうとう泣き出したのである。

泪なんかとは無縁と持っていた男らしい男、あの河島英五が文字どうり男泣きをしたのである。

もともと、涙もろい僕は、恥ずかしながらもらい泣きをしてしまった。

本、悲しき紙芝居 シンコウー出版S.57から、内容を少し変えています 



河島英五 生年月日:S27.4.23 血液型:B型 趣味:ジョギング、バイク、カヌー、森散歩、スケッチ 影響を受けた人:エジソン、ビートルズ、父 大阪生まれの大阪育ち。182cm、81kg。 高校時代からフォークに魅せられバスケット仲間4人とフォークグループ「ホモサピエンス」を結成。リーダーとして歌い始める。 1975年4月「何かいいことないかな」 でワーナーパイオニアよりレコードデビュー、同年6月ファーストアルバム 「人類」リリース。河島英五とホモサピエンスは全国ツアー後、セカンドアルバム 「運命」を残し解散。 ソロになった河島英五は京都「拾得」「磔々」を皮切りに全国のライヴハウスでの活動を精力的に展開。圧倒的なパワーによるライブが各地で話題を呼び、同時に1stアルバムの中の1曲「酒と泪と男と女」が急浮上、ヒットに至る。 よりプリミティブなものへの憧憬を強く持つ彼は、日本での音楽活動の合間を縫って1977年インド、アフガニスタン、78年ペルー、79年トルコ、80年ネパールを単身放浪。そこに息づく自然に触れ、生活する人達と交流する中で音楽と生き方について多くのものを学び、その集大成として1980年10月 「文明I」、 11月「文明II」、 12月「文明III」と3枚のアルバムを発表。 (その後もケニア、ボリビア、インドネシアと各国を訪ね歩き、昨年7月に文化交流コンサートを行うためモンゴルを訪れている。) ライブツアーに於ても四国を40日かけて一周歩きながら訪れた町々でのライブ、東北・北海道を2カ月にわたりオートバイで旅しながらのライブツアー等従来のコンサートツアーとは違ったユニークな活動を行なう。最多期1980年〜1985年の年間ライヴ平均数は200本以上。 2枚のライブアルバムを含む10枚のオリジナルアルバム発表後、シングルとしては「野風増」を最後に1986年ソニーレコードに移籍。第1弾シングルとして「時代おくれ」をリリース。同年日本有線大賞特別賞受賞。この時点ではまだ一部の人達に支持されるだけにとどまったが、5年後、NHK特番「歌は時代を語り続けた」に同曲で出演、視聴者の問い合わせが集中したため、CDシングルとして再リリースされ再浮上。同年、第42回紅白歌合戦初出場。「酒と泪と男と女」「野風増」に続き「時代おくれ」を日本のスタンダード曲として定着させる。

2001年4月16日午前3時22分肝臓疾患のため死去。享年48歳。 鶴瓶氏が、英五とであった深夜ラジオ。コンサート。結婚式の号泣。 いつも、不器用で勘違いされたり、その生き様は今にしてみると感動に値する。いつしか人に語られなくなっても、自分の心の中で英五の歌は忘れずに心に泊めていたい。神戸の震災復興のコンサート、ことしもあります。