Article paru dans La Vie Hebdo pour la sortie de En Plein Coeur.
La Vie Hebdo, Novembre 1998
 

 約束の場所には変な所だ!大の読書家というヴィルジニー・ルドワイヤンをインタヴューするのに、他でもないパリのインターネット・カフェでとは思っても見なかった。ヘンリー・ジェイムスとヴァージニア・ウルフが大好きと言う彼女は「キーボードに触ったことさえないの。」と告白する、その矛盾は恐れをなすものではない。図式的な事や、毒舌、割り切りすぎた判断を信用しない彼女は、それらとは反対のことをうまく培ってきた:若い溌剌さと成熟さ、軽薄さと深遠さ、ラジカルと寛容、カリスマと単純さ、優しさと意志の強さ、官能と初々しいさ。黒いセーターを着た彼女を見て、二回の微笑みとタバコのけむりの間で熱を帯びて来る情熱的な声で話をしているのを聞くと、なぜ多くの監督達が彼女の完璧な卵型の顔に自分らの物語を刻み込むことを夢想したのか、その理由がよく分った。ヴィルジニー・ルドワイヤンは日常と例外を同時に体現できるように作られているらしい。とても現代的な若い女性を月並みな感じや陳腐にすることなく演じられる。反対に、彼女は役柄を大きくする。強盗に失敗した翌日に弁護士に夢中になってしまう郊外に住む若い女性、セシルも同じだ。「セシルってすぐに哀れな子って感じになるでしょ、男を渡り歩く、その日暮らしのアバズレだって。私は彼女に強くなって欲しかったの、とにかく強くなるようにしたかったのね。セシルは勇敢さと脆さが入り混じっているでしょ。内覧会でスリをしたり、宝石店へ強盗に入ったりするけど、同時に心理的には、無防備なのよ。」ヴィルジニー・ルドワイヤンは、この混乱を素晴らしい演技で見せるが、この情熱も同様だ。オリヴィエ・デュカステルとジャック・マルチノー監督の「ジャンヌと素敵な男の子」で、エイズで恋人を奪われる女性を演じたように、あるいはブノワ・ジャコー監督のカメラの前で、大きなホテルの廊下で不安いっぱいだったひとりぼっちの少女のように、セシルに成り切っている。"なりきって"いるが、演技をしているのだ。「人物はいつも作り出すものよ。」とヴィルジニー・ルドワイヤンは主張するが、彼女は自然なままの感じが一番いい。女優の言う職業の秘密については、微笑んで見せた:「多分、想像力かな。」演じる役の体を良く理解することも同じだ。「私は自分の演じる役を言葉で説明する女優じゃないから。言葉で役に肉付けするわけじゃない。顔や、脚、腕で肉付けするの。心理状態とか考える前に、身のこなしや、どういう表現の仕方がいいかを考える。セシルは、火の玉なの、とても早口で、時々、少し声がでかいのね、楽しい時は、本当に笑うし、泣く時には、本当の涙を流すのよ。単なる犠牲者と自分で人生を切り開こうとする若い女性は全く違うもの。ヴィルジニー・ルドワイヤンがセシルを演じる。人はしかし、貧しい郊外出身のこの人物がパリの高級アパートに移り住むと言う過程に、女優自身の道程の略歴:オベールヴィリエ出身で、雑誌の一面、頭角を表してきたスターへの成長とを重ね合わせて見るかも知れない。コゼット風の啓発的な話を欲しがるジャーナリスト以外には、彼女は"幸福な少女時代"の話をいつもして来た。人種が入り混じった家庭、スペイン系であること、黒人やカビイア人の従兄弟に中国人の継母、4歳の時、読書というビールスを自分に植え付けてくれた母や火曜日になると映画に連れて行ってくれた映画ファンのパパ(その映画を彼女が理解しないかも知れないと言うリスクを犯して)そして、何でもありの青春時代に女優をしていたと言う祖母は、彼女にルドワイヤンと言う芸名をくれた。家では、"8割"の友人は移民で、ルー・リード、ボブ・ディラン、もちろんゲンスブールを聞きにやって来て、時々は長居する子もいる。優しさと賛美が満ちた一番の思い出は、常連客の前で、セールス・トークをする父の横について行く為に夜明け前に起きること。「口先だけで商品を誉めるのって、演劇みたいでしょ、説得していく訳だから。おそらく私が女優になりたかったのも、そこから来ているのかも知れない。本当に女優になりたいと思ったのは、「冷たい水」でオリビエ・アサイヤスと出合った時。彼女は17歳になって、既に数本の広告にTV映画、12歳の時撮ったフィロメーヌ・エシポジート監督の「ミマ」や中断されたマルセル・カルネ監督の「ムーシュ」などに出演していた。「以前は学校が休みになる夏に撮影してたのね。「冷たい水」の撮影中に、女優になりたいって思ったの。」しかしオリビエ・アサイヤスが反抗心の強いクリスティーヌをその内面に見たヴィルジニー・ルドワイヤンは、それ以上は何も言わなかった。彼女は映画と自分の関わり合いやそれまで経歴についてはコメントするのを拒んだ。彼女の性格については、ほとんど分らない。自分を"ストレートで意志が強く、感受性がある"と定義するけど、質問には逃げた。「自分自身の話をすると、すぐに息苦しくなるから。」と打ち明けた。「抽象的な話には厭きてしまうの。」と付け加えた。この光り輝く若い女性は、暗闇の部分へと立ち入ることも厭わない。「融通の利かない人には興味がないの。ミステリヤスな面がある人が好きね。特に大人しくて、見せ掛けがよくて、無口って言うことじゃなくね。考えって不思議な事があるでしょ。自分が素晴らしいと思っていた映画を、映画館で隣にいた人がひどいと思うこともある、なぜ意見が異なるのかって、不思議なことじゃない?」話の中で理由の説明はしないが、ヴィルジニー・ルドワイヤンは、方法を話題にする。欲求、しつこい欲求のみが自分の仕事を導いて来たのだと:「女優は(役)を選択することと同様、それを拒絶することで出来ているの。」オリヴィエ・アサイヤス新作の「八月の終わり、九月の初め」の撮影を終えたばかりの彼女は、どちらかと言えば作家の映画に出演してきた。この映画では、思春期の枠を出た彼女が、初めて女性役をやる。しかし彼女は、ジャンルやスタイル、枠に捕われない。「ただあまりに重たい映画や、モラリズムや凄いリベラリズムの映画はイヤ。」それに苦しみも。「私は苦痛や、侮辱を受けてまで仕事はしたくない。芸術と言う名目でも、他人の憎しみや悩みの中での仕事は嫌、映画は喜びであって、苦しみじゃないはず。」その結果彼女はアメリカで(アベル)・フェラーラと映画を撮るのは辞めてしまった、撮影が終れば別れる人たちに侵略されたくなかったからだ。それに彼女の存在は、日差しに限定はされない。彼女のバランス感覚は私生活のノーマルさと俳優が近づく奈落との間と、日常の陳腐さと自分の仕事の特別さの間にある。「私は演技をして、大勢の人にあって、旅行するのが好きだけど、一人になったり、友人やフィアンセと一緒にいるのも好きよ。」象牙の塔の誘惑は?若かりし日の夢を高級車や豪華な住宅、成功したキャリアの安定と交換してしまう「天使の肉体」に出てくる弁護士ファルネーズのようになってしまう危険はないのだろうか?成功が約束された若い女優にはそんな危険がありはしないか?「問題は社会的地位とか、財産とかじゃなくて、好奇心なのよ。とヴィルジニー・ルドワイヤンは答えた。人はたとえ怖くても、自分の周りを見て、驚かされたいんじゃない?私はコソボの映像が映っている時、楽しいビデオを見ようって、TVを切ったりしないわ。情報は自分に入れておきたいから。でもだからって世界中の悲惨さを自分で背負い込む気はないわ。その反対なら引き受けるけど。」ヴィルジニー・ルドワイヤンと言う人は自分自身に逆らうタイプなのだろう。でも今回も声高かに宣言するより、彼女は慎重にしたいのだろう。自分の怒りと喜びをキャメラの恋する目へと貯めながら。★