フランソワ・オゾン監督インタヴュー  -L'AVANT-SCENE CINEMA 513号

『8人の女たち』はロベール・トマの劇を原作としていて、配役と女優たちの性格で遊んでいる訳ですが、シナリオを書いた時、この二つの要素を融合させたのですか?

フランソワ・オゾン: まずは女性の映画を撮ると言うのが目的でした。そこで先人たちが作った作品を見たいと思いました:キューカー監督の"The Women" を再見し、ファスビンダー監督も頭に浮かびました、特に僕の大好きな作品である『ペトラ・フォン・カントの苦い涙』と言う作品です。その後、ファスビンダー自身も"The Women"を舞台か映画に脚色しようとしていた事が分かりました。しかし"The Women"の原作となっているお芝居は非常にアメリカ的で、それをフランス語で脚色してもあまり面白くないと僕には感じられたのです。英語で撮ることも出来たのでしょうけど、それをやれば色々面倒ですし、お芝居の版権はハリウッドの女優たちが握っていたんですね・・・僕のエージェントのドミニク・ベスナールがロベール・トマのお芝居の話をしてくれたのです、この作品は70年代に成功を収めた、少し派手な奴だと言うことで。お芝居は最高の出来栄えと言う訳ではないのですが、女性をテーマにするのに良い出発点を与えてくれました。僕はすぐにこの作品に別の側面をもたらすのにスターたちを起用しようと思ったのです。大女優たちですから、人物を作って行くことが何なのかを知っていますし、同時に、この映画は作り物、表現で戯れている映画でもあるんですが、女優たちの個性を忘れてはいません。

登場人物と同時に女優たち自身も演出すると言う目的だった訳ですね?

F.O.:それは副次的に出来たのです:キューカー監督が当時のMGMのスターたちを使って "The Womem"を撮ったように僕も現在のフランスのスターたちを起用したいと思いました。でもさほど有名では女優たちを使おうかなとも考えていたのです。キャスティングはスター女優を一人か二人使うと言うことで考え始めたのですが、シャーロット・ランプリングが『まぼろし』で演じた素晴らしい役のお陰で、キャスト全員が出演を承諾してくれたのです。

出演OKをもらってから、女優たちの個性に合わせて登場人物を練り直したのですか?映画を見ると、”あつらえた”と言う印象を時々受けますね。

F.O.:各女優さんの個性を取り込んで、彼女達一人一人のイメージと遊んでみたのです。時にはそのイメージを壊してみようと思ったのです、例えばイザベル・ユペールですが、苦しんでいる人物ばかり演じていますから、アニー・ジラルドのような庶民的なイメージが彼女にはないのです。そこでとてもコミカルな感じの、彼女がこれまで演じた事がない役をオファーしたかった訳です。

彼女がこれまで演じて来た冷たい感じの不感症の女性を茶化しているのですね。

F.O.:ええ、その通りです。

なぜまた女性あるいは女性像についての映画を撮ろうと思ったのですか?『まぼろし』が大体において既に、女性像を描いていました。

F.O.:ええ、でもこの作品は群像を描いているのです、それにトーンがより辛辣ですから。『まぼろし』は登場人物に感情輸入しています:彼女が体験することを観客にも体験して欲しいと思っていた訳です。あの映画で初めて本当に主観的に人物を追って行くと言う感覚が持てたのです。『8人の女たち』では視点がより外側にあって、多分もっとサディスティックなものです:時には檻に入った猛獣を見るような感じで登場人物たちを見ているのです。登場人物と女優たちを幽閉して、シナリオはとても書き込まれていましたが、そこから出てくる火花を見ようとしたのです。実際、とても実験的で、『まぼろし』と比較すれば全然古典的な印象を与えない作品だと思います。この作品がこれほど成功を収めるとは当初分りませんでしたね。

女性たちは彼女たちが持つイメージを醸し出しながら登場しますね。(恭しい母親、真面目なお嬢さん・・・)そして徐々にこれらのイメージは剥れて行きます。

F.O.:別の側面が見えて来るように登場人物と女優たちの厳格なイメージ、時にはカリカチュアとも思える所から出発しました。『まぼろし』でも既にシャーロット・ランプリングが事件の後で少しづづ内面を曝して行きます。『8人の女たち』でもまた女性たちの正体が分るのに男性が消えているのです。僕が興味を引かれるのは、ある地点にいる人物を使って、その人物の認知を豊かにするためにいくつもの出来事を通過させることなのです。

概して、徐々に内面が見えて来るということはあなたにとって特に女性に特化しているのでしょうか、それとも男性・女性どちらの人物についても言えることでしょうか?

F.O.:どんな人物に関しても持てると思いますが、僕は女性の方が矛盾と言う点ではより豊かですし、肉体的あるいは精神的な変化の可能性がより高いと思います。女性の登場人物の方がよく考えされられますし、ニュアンスがあって、より内面的なのです。ベルイマン監督の作品でも最も美しく描かれているのは女性だと思います。映画では男性はアクションへと変ってしまいます:殴り合いになってしまうのです。

この映画は8人の女性を中心に描いていますが、男性がその不在感で、凄い存在感を出していますね。問題なのは常に彼な訳です。父親の不在/存在を監督であるあなたはどう理解されているのですか?同じテーマは『ホームドラマ』や『小さな死』でも見受けられたのですけど?

F.O.:原作を読んだ時はこのテーマの存在に気づきませんでした。仕事を進めるうちにこれまで扱ったテーマをまたここでもやっている事が判ったのです。これはおそらく個人的な何かなんでしょうね・・・男性の不在は、多分規則もないという事なんじゃないでしょうか?自由が大きくなる訳です、これなしには過剰になったり、タブーを超えることは出来ないのです。例えばカトリーヌ・ドヌーヴとファニー・アルダンの喧嘩もこの不在と言うことが原因なのです。

”推理劇”とドンデン返しはこの作品では口実に過ぎないと思います。登場人物たちにより興味を引くための要素なのでしょうか?

F.O.:確かに口実ですが、それでも軽く扱おうとは思いませんでした。きちんとやりたいと思っていましたから、シナリオでも全てがありうると思えるように注意を払いました:ストーリーの展開を追いながら映画をもう一度見れるようにしておかなければいけないからです。でもこの作品の面白さは別のところにあると思います。幅広い層の観客に喜んでもらえました:例えば子供たちですが、彼らは全く違った視点で筋書きとそれがありえるかどうかにとても注意をしているのです。子供の頃、僕も推理小説をたくさん読みましたし、特にアガサ・クリスティの作品ですね、映画に脚色されたものも好きでした。ドンデン返しは絶対に必要だとは思いませんが、この種の語り口はいつも楽しみをもたらしてくれるのです。僕が映画を作りたいと思うのも、お話しを語りたいと言う要求から来ています、劇場全体がどよめいたり、笑っているのを見ると本当に嬉しくなってくるのです。

『8人の女たち』はある種の演劇性、作り物、人工美への嗜好を主張しています。

F.O.:観客として、自分は表現されたものを見ているんだなと忘れたくないのです。完全に登場人物に自分を投影できたとしても、行動に対してある種の距離も感じられる決裂の効果が好きなのです。正面から物を見るのが好きなんでしょう。正面からの撮影が好きですから。映画を原点へ戻す方法ですね、つまり生きている絵を大きく撮るということです。

人工美ということも登場人物たちの真実によりアクセントを付けるために用いたのでしょうか?

F.O.:ええ、もちろんです。マスクの影から自分を曝け出す俳優にとってもその方がやり安いのです。

その曝け出された真実は、別の顔、別のイメージでしかないこともありますね:イザベル・ユペールが演じた人物ですが、オールド・ミスと言うイメージから妖婦へと変って行きます。

F.O.:実際の自分をありのまま見せるのは大変です。剥き出しの真実は受け入れがたいものですから。だから自分を守ろうと、イメージがそのプロテクターの役割を私たちに与えるのです。

この人工美への嗜好は照明と色使いにも出ていますね。

F.O.:現在のフランス映画では色はまだまだ発展途上にあると思います。僕はテクニカラーが大好きなのです、あの飽和したような色の感じが。色は何かを語ってくれます。ファニー・アルダンが黒いレインコートを脱ぐと真っ赤な服を着ていることがもう物語を語っていますし、イザベル・ユペールが着ているワイン色の服も同じです。映画が持っているあらゆる手段を応用したのです。

女優さんの歌と踊りは、『サマードレス』や『焼け石に水』でも見られたモチーフを思い出します。

F.O.:そこでもそれは物語を語る方法なのです。『サマードレス』では、あの二人の関係を見せようとして、それには歌を使うことでうまく行くと思いました。『焼け石に水』でも同じことを再びやったのですが、あの作品は台詞が多く、切れ目を入れたかったので、別のやり方、体を使って弾けさせたかったのです。『8人の女たち』では歌と踊りはモノローグの役割を果たしています。女優さんの体自身が、ぎこちなさあるいは色気を伴って見せる必要があったのです。あの大女優さんたちは皆、一生懸命振り付けを練習してくれました:歌って踊ってもらうことで、彼女たちが普段はしないことをしてもらうことで、ある種の真実を掴もうとした訳です。

この映画を話題にする時、ミュージカルの話もよく出ましたが、装置を大きく動かしたり、振り付けに凝ると言うことには興味がないように思われたのですが。

F.O.:ええ、ミュージカルを撮ると言っても必ずクレーン撮影をするわけじゃありません:僕が50年代のミュージカルで気に入っているのは、ダンサーたちの体に敬意を払っている点です。体全体が見えるんですね、ラース・フォン・トリアーが『ダンサー・イン・ザ・ダーク』でやったように、あちこち見せられるのとは違います。彼の映画では俳優の体が存在しなくて、全て断片的なんです。僕はカットを割らずに俳優の体が見えた方がより感動的だと思うんです。

女優さんたちの活気よるもむしろ繊細さを求めていたのではないですか?

F.O.:ええ、女優さんの声と体の脆さを求めていたんです。登場人物が映画の冒頭で持っていた硬い、作られた外見を振り払うためにですね。映画が進むにつれて、彼女たちの弱さが見えて来る。

『8人の女たち』は家族と家族の秘密について再び描いています:このテーマはあなたには不可欠なものですか?

F.O.:『ホームドラマ』以降、僕が他よりも僕が優先しているテーマですが、他の題材も手がけることは出来ると思いますけど。

概して、映画のジャンルは変えるのがお好きですが、それはその必要性を感じるからですか、それともシネフィルのお遊びですか?

F.O.:シネフィルのお遊びではありませんが、ただ単にお遊びなのでしょう。僕にとって映画を撮ることはまず楽しいということがありますけど、新しい事を試せることもあるんです。バロックな嗜好というか交じり合うことですから・・・驚かせたいと言う気持ちもありますね。僕にはよく変動する欲求があって、一年間ある映画をやったら、別の映画をやりたくなるんですね。ほとんど精神衛生の問題みたいな感じですけど。

交じり合うこと、ジャンルを混ぜることは、社会的には逸脱したと言うかタブーと見なされるテーマを取り上げやすくするためではないのですか?『8人の女たち』では同性愛が出し抜けに扱われますし『ホームドラマ』では近親相姦がパロディ化されています。

F.O.:それはドラマ性を和らげる方法なんです。『サマードレス』では、映画の冒頭からそれが当然であるかのように、同性愛を見せ、完全にドラマ性を無くさせているのです。僕にはそうすることが有益だと思うのです、我々が住んでいる社会ではそれが必要なことなのだとさえ時々思います。★



『8人の女たち』共同脚本家:マリーナ・デ・ヴァン インタヴュー -L'AVANT-SCENE CINEMA 513号
 

あなたとフランソワ・オゾンとの共同作業は『8人の女たち』から始まったことではありませんね。5年間で5本の長編を撮る前に、彼は中篇の『海をみる』を撮っていて、あなたはこの作品で共同脚本と主演をやっていました。この共同作業と言うのはどの様に始まったのですか?

マリーナ・デ・ヴァン:フランソワはFEMIS(訳注:映画学校)で私より2年先輩だったのです。彼は私が初めて撮ったフィクションの短編"Bien sous tous rapports"の上映会に来てくれたの。その作品を気に入ってくれて、私を俳優として認めてくれたのね。彼が『海をみる』の企画を起こした時、私に連絡してくれたわけ。シナリオはほとんど書かれていなくて、撮影を進めながら仕上げて行ったの。私たちの共同作業はとてもうまく行ったと思うわ。監督にもなれる女優がいるのが嬉しかったみたい。他とは少し違う関係が出来たのでしょうね。『ホームドラマ』を続けてやったのだけど、撮影の状況が凄く違っていたわね。彼の全ての作品に関わった訳じゃないけど、連絡は取り合っていたから。本当の意味での共同作業は『まぼろし』からだと思うわ。

挑発と言う事に対してあなたたちは同じ趣味を共有していると言えるのではないですか?

デ・ヴァン:そうは思わないけど、そのように見えるのであれば、それが正しいのかも知れないけどね。私たちが似ているとすれば、ストレートで生々しいのが好きってことだと思う。でもだから作家としては凄く異なると言うことになる訳でもないから。彼のレベルまで私が成熟していないだけかも知れない。フランソワが挑発という事をどう考えているのか知らないけど、私は自分がそうしているとは思えないわ。

仮に挑発と言う単語が観客側の反応を意味するとして、単にショックを与えると言うことではないとしましょうか?

デ・ヴァン:フランソワと私は映画は単に考えられるというだけではなくて、受け入れられたいと思っているわね。観客と一種の戦いになると言うことには反対はしないけど。自分の映画が居心地を悪くさせる素質さえないと自分で分らないのだったら、誠実とは言えないでしょう。今私が編集作業を進めている長編第一作は、自虐行為がテーマなんです。でも映画の誕生にあるのはショックを与える必要ではなくて、激しい気持を起こさせるためだと思うの。

                 
                                         『海をみる』フランス版DVD・メニュー画面から
 

あなたの好きな映画監督は?

デ・ヴァン:パゾリーニと言っても驚かないわね。でも全く違う意味でスピルバーグも好きよ。それにヴィスコンティ、キューブリック、ゴダール・・・クローネンバーグやリンチも忘れることは出来ないし、少し狂った世界を好むのは彼らが最後って訳じゃないけど・・・

『8人の女たち』に話題を戻しましょう。フランソワ・オゾンとあなたはどのように仕事を分担したのですか?

デ・ヴァン:フランソワが私に会いに来た時、シナリオは完全な形に書かれていたんですね。でも彼はまだ満足いかないと言ってました。私たちは長い間、シナリオの欠陥やある登場人物の一貫性や必要だと思われるいくつかのシーンが抜け落ちていることなどを議論しました。例えば、エマニュエル・ベアールが演じたルイーズと言う役ですが、この役にはもう少し厚みが欲しいと思えたので書き足した訳です。厳密に言えば、私は原作劇の脚色をしたとは言えませんね、私に連絡を取って来る以前にフランソワがその仕事をした訳ですが、私がしたのは少し時が経って彼の書いたものが遭遇した限界に手を加えたことだったのですね。

この映画は大衆演劇を原作としているのですが、元の台本を保ちながら、オゾンはそれを別方向へ引っ張っていますね。全てに差異があり、目配せや他の映画への関連付けがあります・・・

デ・ヴァン:私が今回関わったと時には、その差と言うものは既に存在していました。でも自分たちがしていたことを分析しようとは思いませんでした。私は正面性が好きですが、特に既存の材料を捻じ曲げようとは思いませんから。その必要性は感じませんでした。

一番驚かされることは、この映画は見た目だけではない、更なる深みを主張しています。そして感動的でもあるのです・・・

デ・ヴァン:もちろん、それがこちらの狙いでもあったのです。そしてそれは厳密な仕事の目的な訳ですから。登場人物たちが単なる操り人形になって欲しくなかったですが、メロドラマ仕立てになっていますから、亀裂を見せる可能性もありました、それ自体がステレオタイプなのです。でもそこから産まれる感情は本物ですし、フォーマットされたものじゃありません。感情はコミカルな部分には影響しませんから・・・

その亀裂が開いて、登場人物たちが凄い変貌と遂げて行きます、エマニュエル・ベアールとイザベル・ユペールが演じた役から始まりますね。

デ・ヴァン:この映画には驚く部分が数箇所あると思います。でもそれは感情の妨げにはなっていません、優しさが支配すると言う意味合いでですけど。トーンに切れ目がないのですが、既に湧き上がった感情から期待する事柄に差異があるのです。私自身も、紋切り型を超えて、この映画の感動させる力に驚かされました。

演じているのが大女優たちと言うのも事実ですが、各女優さんの個性に合わせてどの程度シナリオを適合させたのですか?

デ・ヴァン:絶対適合が必要だと思った訳ではありませんが、個人個人に合わせて書くということを念頭に置いていました。異なる役を引き受けてくれた女優たちに合わせて劇のセリフを変更したのです。カトリーヌ・ドヌーブが言うトリュフォー監督の引用はロベール・トマの原作にはないはずですから。

この映画には映画ファンを意図した他の映画からの参照や引用などが多くありますが、あなたはそうすることについては違和感はなかったですか?

デ・ヴァン:正直に言って、その点に関してはフランソワの管轄ですね:私は彼ほど映画を見ていませんからね。でもエマニュエル・ベアールのブーツやファニー・アルダンの手袋は、『小間使い日記』と『ギルダ』を見たことがある観客なら嬉しくなるのではないでしょうか。この映画は演劇よりもそう言った映画的なコードで遊んでいます。女優たちが登場すれば、私たちが見るのは、まず彼女たち自身で役柄は見えてこないのです。でもそれは最初から分り切ったことです、この映画にはスター女優たちが集結していますからね。個性も強いですし、とても暗示されています。彼女たちの映画的過去が前提のように押し付けてくることで、その個性と対立することは大きな喜びでしたね。

結局、様式化にも関わらず、あるいはそのお陰で、この作品は他の現実主義的な映画よりも女性と言う事について多くを語っているのでしょうか?

デ・ヴァン:その質問に私は答えられるかどうか分りませんね。私には出来ないと思います。私は女性を研究対象としては見ていませんし、映画を同じようにも見ていませんから。でも女性の心を探求していて、それは監督のフランソワの手腕によるものでしょう。当然ですが、彼と私は女性と同じ関係を共有していませんから。女性たちが徐々におかしくなっていくと言うのは、私は特に変だとも思いません。でもフランソワの映画を見ると、それはいつもなんですが女性の登場人物たちに引きつけられるんです。登場する女性たちは凄く異なるのですが、役柄の幅が広いんですね。それが脅かすようなものであれ、魅力的なものであれ、紋切り型にはなっていないと思います。おそらくフランソワは、包括的なやり方で、女性と言うものにある種の興味を示しているのでしょう。でも彼の興味は登場人物に限られていて、男性より女性にその興味を投影したいと言う要求を感じているのだと思うわ。この映画に女性しか出ていないと言うのは、もちろん凄いことですけど、私にはそれが特別なことだとは思えないのですけどね・・・

25年、30年前ならば、ウーマンリブ華やかし頃なら、今のような考えは間違いなく物議を醸していたでしょうね・・・それは女性蔑視なのか、あるいは投影されたイメージが男性のものだと分かっていながら、受け入れられたかどうか疑問ですが・・・

デ・ヴァン:時代が変化したのでしょうね、私はそう言った事には影響されていません。女性蔑視と言う考え方も私には適当だとは思えませんね、この作品が映画のステレオタイプを集めるように女性に関するステレオタイプを集めていているとしてもね。女性らしさって、文化的にラベル付けされていて、それは女性蔑視ではありません。イメージを入念に作り上げた作品で、特定な理論を挟み込もうとはしているわけじゃありませんから。



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