ジョージ・キューカー監督作品 "The Women"
1939年にキューカー監督がしたことをフランスでやるのは無理だと言われていたんです:現代の女性スターたちを一本の映画に集結されることですが。我々の女優さんたちはライバル意識と感受性が強すぎるからと。僕がコンタクトした女優さんたちは全員が出演を承諾してくれました、まさにキューカー監督の映画、男性が一度も映ることがない皮肉たっぷりの悲喜劇に促されてです。この映画の原作となっているお芝居の権利について問い合わせてみると、その版権を持っているのはジュリア・ロバーツとメグ・ライアンの二人だったのです・・・この作品は『8人の女たち』の撮影において、皆の指針になったと思います。例えば喧嘩のシーンですが、衣装デザイナーはおもむろに破れてしまう衣装を想像しましたし、オープニングのクレジットには各女優さんの個性を象徴するように、各人を動物に例えているのです。僕は鳥を使って同じ事をしようと考えました、ニワトリや七面鳥を予定していて、女優さんたちは笑っていました。最終的には各女優さんたちに花を選び、さらに気風をあげようとしました。The Women は楽しくておかしな作品ですが、女性蔑視の映画です。キューカー監督はあの女性たちを怪物のように見ていたのです。愛情を感じることができる女性は一人もいません。『8人の女たち』では、時にじゃじゃ馬たちは大喧嘩しますが、彼女達が感動的で、親近感を覚えるようにしたかったのです。

ジュリアン・ディヴィヴィエ監督作品 『自殺への契約書
10人の登場人物(女性一人に男性9人)のモノクロの密室劇で、その中の一人が殺人を犯す。この映画は知らなかったのですが、『8人の女たち』を準備するために特別に見たのです。この映画は僕をさらにアメリカ映画へと向かわせてくれました。『自殺への契約書』はあまりにリアルで暗く、系統的過ぎる部分があります。まあ、対独協力を描いた戦後の映画ですから、それが普通だとも言えますが。この映画のお陰で自分がしたい事が明確になりました、この映画とは反対の方法へ行きたいと思ったのです。互いに責め合うと言う状況の中で、軽快さや、あり得そうもないことや、色使いや皮肉などを盛り込みたかったのです。この手の推理作品としては、ガイ・ハミルトン監督のキッチュなアガサ・クリスティー原作の映画化(『クリスタル殺人事件』『地中海殺人事件』)も好きなのです。シドニー・ルメット監督の『オリエント急行殺人事件』も好きですね、タイトル・バックで、スターたちが互いに当てこすりをやっています。『自殺への契約書』は『8人の女たち』のセットを考えるのにとても役立ちました、あの桁外れの居間や、各部屋がはっきりしていますよね、書斎や居間、ダイニング・ルームなど・・・・観客たちが疲れないように工夫されているのです。

ファスビンダー監督作品『ペトラ・フォン・カントの苦い涙
キューカーとは反対に、ファスビンダーは登場人物の声を借りて非常に個人的な事を伝えた男の監督の一例です。彼はペトラ・フォン・カントを通じて自分自身のラブ・ストーリーを語っているのです、カントはデザイナーでハンナ・シグラ演じる若いモデルに夢中な訳です。ファスビンダーは完全に感情輸入しています。女優に自己投影するほうが僕は好きなのです、異性を通じて、気持ちを打ち明ける方が激しさが和らぐからだと思います。8人の女たち一人一人に自分を見出すことが出来るのです、彼女たちが傷ついた部分もそうですが、彼女達の残酷さや意地悪なところにもです。でも僕が一番自己投影できる人物を一人上げるなら、それはあの犯人ですね。

ダグラス・サーク監督作品 『人生の幻影』 『天はすべて許し給う
『天はすべて許し給う』は窓から雪が見えるシーンがたくさんあるんですね。特に家のすぐ近くを鹿が通って行くシーンがあって、僕も『8人の女たち』の冒頭に鹿を登場させたかったのです、この作品の非現実的な面を分らせるためとスクリーンに一匹でもオスを出したかったからです・・・しかし撮影を行っていた4月にはオス鹿には角がなくて、まるで偶然のように、メス鹿で撮影することになってしまったのです。『人生の幻影』はカトリーヌ・ドヌーブが演じた人物にインスピレーションを与えてくれました。ラナ・ターナーに似ているのです、髪形までそうなんですが、自分の娘と複雑な関係で苦しむ母親役です。女性の共同生活をこの映画では描いていますから、『8人の女たち』には黒人の家政婦がいるべきだと思いました。アメリカ映画の乳母たちへのオマージュでもあるのです。ダグラス・サークの色や照明に対して、またメロドラマの様式化が好きなのですが、ギリシャ悲劇にも拮抗するまでになっています。毎回どこにでもあるような話からスタートして、とても普遍的な何かに昇華するのです。演出で日常を神話化する術を知っていたのでしょう。

ジャック・ドミー監督作品 『ロシュフォールの恋人たち
僕がドミー監督で好きなのは、裏に潜んでいるメッセージなんです:華やかさや、シャンソンやあの色使いの後ろに、彼は色に関して本当に考え抜いた数少ないフランスの映画監督だったと思いますが、とても悲劇的な世界観があるのです。例えば、彼の家族の見せ方ですが、常に近親相姦と言うことに怯えているのです。見た目はチャーミングで惹き付けられますが、底なしの怖さも感じると言う二分化が好きですね。それは恋愛をもたらす出会いや偶然について覚醒的な視線なのです。それにもちろんカトリーヌ・ドヌーブとダニエル・ダリューと言う繋がりがあるのはもちろんです。カトリーヌが『8人の女たち』に出演してくれることになった時、彼女の母親をダニエル・ダリューに演じてもらうことは必然だと僕は思いました。既に『まぼろし』の撮影のためにシャーロット・ランプリングの義理の母親の役をオファーしたのですが、「老人ホームにいる継母の役なんていやよ、母親には相応しくないタバコを吹かしているような老婆の役を頂戴。」と言われて断られてしまったのです。『8人の女たち』の原作者であるロベール・トマは60年代にこの作品を書いた時、ダリューを念頭に入れていたのですね、映画ではカトリーヌ・ドヌーブが演じた役をやって欲しかったと言うことです・・・

マックス・オフュルス監督作品 『たそがれの女心』
この映画でも、凄い軽薄さからスタートし、イヤリングの話で最後には悲劇となって行きます。ダニエル・ダリューが演じた人物は映画の中ですっかり人間が変ってしまうのです。僕が映画で求めているのはそれです:ある種の典型が別人に、見知らぬ人へと変化してしまうことです。観客たちの登場人物への視線を映画が進むにつれて監督が変えさせられることなんです。『8人の女たち』に出てくるどの女性もそのように演出したつもりです。

ブニュエル監督作品 『昼顔
ブニュエル監督は、ドヌーブと言う偶像と戯れていて、彼女に意地悪しているのです。彼女のイメージを汚し、貶めることで、彼女をさらに輝かしいものにしています。彼女のような女優を選ぶ時には、彼女一人が来るわけじゃないのです、彼女がこれまで演じたきた役と過去一緒に仕事をした監督たちもついて来て、観客たちは無意識であっても、必然的に彼らを思い出すのです。これら全ての記憶と向き合わなくてはならないのですから、それで遊んでみたかった訳です。数ある目配せの中でも、映画の中で見えるカトリーヌ・ドヌーブの肖像画は、『昼顔』のポスターを参照したものなのです・・・

チャールズ・ヴィルドア監督作品 『ギルダ
ファニー・アルダンがこのブルジョワ家の居間の真ん中で、キャバレーのナンバーを即興で踊るシーンで、観客たちが、「どこまでやるつもりなんだろう?」と自問しなくてはダメなんです。彼女と一緒に『ギルダ』の伝説となっているシーンを一緒に試写で見ました、リタ・ヘイワースが焦らし脱ぎを始めるシーンです、検閲が厳しかったあの時代に真にエロチシズムを感じさせる瞬間です。ファニーはあの程度なら難しくはないと言っていました、お尻を動かして、ゆっくり手袋を脱ぐだけでいいわけなのですが。でもそれが可能になるのは、彼女が持っている奇妙な美しさと、あるいはいつもの生活で、どんな状況でも持ち合わせているあのグラマラスな感じのお陰なのです。

クロード・ゴレッタ監督作品 『レースを編む女
イザベル・ユペールは8人の女優さんの中で、僕が一番良く知っている人です。彼女のほとんどの作品を見ていますし、観客にとっては彼女はドラマ性の高い、神経症的な作品で硬い顔つきの後ろで内面的に苦しむインテリ女性のイメージを持っていて、『ピアニスト』はその頂点とも言っていい作品でした。そこであのような閉じ篭った役じゃないものを彼女にオファーすれば面白いだろうと思ったのです、彼女はもっとそう言った役を多く演じるべきだと思うのです、女性版ルイ・ド・フネスのような感じです。哀しみが原因で死んでしまうよりも、前向きに生きていく可能性がある人物を演じるということです。要するに”アンチ-レースを編む女”にしたかった訳です、クロード・ゴレッタのこの人物は、彼女が演じてきた数々の役を性格づける、深い苦しみの権化のようなものだからです。

クロード・ソテー監督作品 『愛を弾く女』 『ありふれた愛のストーリー
『8人の女たち』では、エマニュエル・ベアールのエプロンから落ちたロミー・シュナイダーの写真がちらっと見えるんです。ロミーの思い出とエマニュエルの存在との間で遊んでみた訳です。エマニュエルはクロード・ソテーのフィルモグラフィーで、ロミーの後継ぎでもあるんです。この繋がりに光を当てたかったのです。子供の頃、ロミー・シュナイダーはお気に入りの女優さんだったのです、『プリンセス・シシー』が大好きでしたから。彼女が『8人の女たち』に登場したのは、この理由からです。1970年代にはロミー・シュナイダーとカトリーヌ・ドヌーブは、全く違うタイプの女優として良く比較されていました。ロミーはとても感情豊かで表現に富んでいて、カトリーヌは、より控えめで感情を表には出さないタイプ。エマニュエル・ベアールは基本的にはロミー・シュナイダーと同じタイプの女優さんなのですが、実際はカトーヌにかなり近い演技をする人なのです。二人とも本能的に、シーンがどう展開するのかを厳密に知らないまま、飛び込むように演技をする女優さんなんですね。



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