Ludivine Sagnier stars inSwimming Pool.
Profile and Interview: Ludivine Sagnier by Carlo Cavagna

リュディヴィーヌ・サニエはフランソワ・オゾンのおかげで女優を始めたわけではない。彼女のキャリアは少女時代へ遡る。彼女の才能もオゾン監督から与えられたものではないのだ。また彼女の光り輝くような美貌も、オゾンが作り出したものではない。23歳になるサニエはいつも演技をして来た。子供の頃YD.イエロニムス・ドラマスクールで演技の勉強をして、ティーンになるとフランスのコンセルヴァトワールに入学した。映画デビューは1989年パスカル・トマ監督の『夫たち、妻たち、愛人たち』で、翌年にはジェラール・ドパルデュー主演の『シラノ・ド・ベルジュラク』に出演。その後も映画、TV、舞台と活躍して来た。

オゾン監督がしたのは、当時また無名だったサニエのキャリアを次の段階へ押し上げたことだ。2000年に(ファスビンダーの劇を原作とした)『焼け石に水』で奇妙なバイセクシャルの4重恋愛関係者の一人として彼女を出演させ、年上の男のために自分のフィアンセに捨てられる若い女性を演じた。次にオゾンは2002年アメリカでも絶賛公開となった『8人の女たち』の最年少者として彼女をキャスティングする。他の強力なキャスト(カトリーヌ・ドヌーブ、イザベル・ユペール他)と共にヨーロッパ・フィルム・アカデミー女優賞と2002年ベルリン国際映画祭では銀獅子賞を受賞した。単独でもまたロミー・シュナイダー賞(最も有望な新人女優に贈られる)とセザール賞にもノミネートされた。

今回は、オゾン監督は(『まぼろし』で組んだ)シャーロット・ランプリングと再び組むことを決めた時、ランプリング扮する堅物のイギリス人ミステリー作家サラ・モートンへの引き立て役となる厚顔なジュリーをサニエに演じさせたいと考えた。『8人の女たち』でサニエが演じたおてんばとは対照的な役だが、サニエなら演じることが出来ると監督は思っていて、オーディションはやらなかった。

『まぼろし』同様、スイミング・プールは強烈な心理劇だが、より多彩で衝突があり、より複雑になっている。この作品でサラは充電のために南フランスにある彼女の編集者所有の別荘へ滞在するが、その編集者の娘ジュリーが彼女の静寂な滞在に水を指す。彼女たちはすぐに衝突するが、奇妙な事の成り行きでジュリーは現実としてサラのインスピレーションとなり、彼女の創造性が高まり、サラは徐々に心を開いて、書き手としてだけではなく、実際に世界を体験することとなる。一方、サラの影響でジュリーの生意気さの影にある脆さが露呈してくる。

北米の公開を控えたロスで、サニエは取材の記者たちに、『スイミング・プール』のこと、フランソワ・オゾン監督のこと、そして次の新作2003年のクリスマス公開となる大作『ピーターパン』で、口がきけないティンカーベルを演じたことを話してくれた。部屋の中へ入って来たサニエは、ジュリーよりもそのティンカーベルに近いだろう。凄く美しいというよるも可愛らしく、攻撃的というより、少し物怖じする感じだ。もちろん演技では、それなりの感情を生み出し、自然なセリフ廻しも必要だ。この作品で自分とは極端に異なる人物を形にしなければならなかった。俳優たちは、小道具や衣装の助けを借りてそうするが、『スイミング・プール』でサニエにはそんな道具を使うことは許されなかった。ジュリーはほとんど裸かそれに近い状態だからだ。サニエの体が彼女の唯一の道具だった、それで役のためにシェイプアップに専念。華奢な彼女は、撮影後には体重が増えたと言う(もしそうなら、増えた分はホテルの部屋に置き忘れて来たのだろう:見た目には増えたと思えない)フランス語訛りが強いが、複雑な考えを伝えるのに一生懸命だったが、全ての質問に完全にそしてしなやかに答えてくれた。

WARNING: For readers who have not yet seen Swimming Pool, the first two questions and answers contain a great deal of information regarding the resolution of the film that may spoil its enjoyment.

ジュリーは何者なんですか?
彼女は若いフランスの女の子よ、南仏から来た少しステレオタイプな感じ。とても攻撃的なのね。可愛くてセクシーで、なんだか哀れなの。最初に見た時はみなそう思うんじゃないかな。でも映画が進むにつれて、彼女はどんどんサラのイマジネーションの標的になって、インスピレーションの源になるのよ、それで、もっと詳しく話しをする?


質問はエンディングに関してなのですが、たくさんの可能性があると思います―彼女は編集者の娘を元にした最初から架空の人物なのか、あるいは一部フィクションが入っている人物へ変身する実際の人物なのか?
個人の解釈次第ね。この作品で私が気に入っているのは、ジュリーはサラの空想の一部に過ぎないのか、彼女は編集者の娘で、本当に精神的におかしいのか、それとも全てはサラの空想なのか?どういう意見でも、それが間違っているってことにはならないから。

あなたがフランソワ・オゾン監督の作品に出演するのはこれが3度目ですね。すでに知ってる人と仕事をするほうが楽ですか?
自分を信頼してくれて、やっている事を信じてくれる人と仕事をするという意味では楽ですね。オゾン監督はいつも同じスタッフを使うので楽なんです、彼とだけ仕事するのではなくて、他の大勢の人も一緒ですから。でも監督の私への要求はどんどん高くなっているのでその分大変です。毎回、新しい挑戦なんです。

創作過程が実生活へ入り込んで来ることもありますか?2つをどうやって区別しているのですか?
区別するのが難しいこともありますよ。だからジュリーにはとても親近感を覚えたんです。だってXXX(不明)から来たアバズレに自分が近いはずはないんですけど。(笑)

(ふざけて)でもアバズレになってしまった?
ううん、そのチャンスはなかったわ、だって後で体重が増えてしまったから。でもフィクションと現実の間を行ったり来たりするっていう考え、その考えの中で迷ってしまうこと、女優として、手掛かりやセリフ、形やその力と共に全身で何かを作り出すはずなのですけど、迷ってコントロールを失った気がしたんです。自分がどうなってしまったのか分らなくて、フランソワは素晴らしい監督で、自分がどうなったのか私が気付かないように演出していたんですね、私は、これってどういうこと?って感じていました。

続けてください。
いいわよ。(笑)この役に関してたくさんの質問があったの。だから手掛かりが欲しくて監督に聞いたのね。でも何も答を出してくれなかった。なぜ教えてくれないのか最初は分らなくて。監督はすごい身勝手な奴で、出演女優の演技指導もしないし、酷い監督って思っていたのよ。腹を立てていたの。でも答をくれないから、私は霧の中にいたような気がしたのね。心理的な背景も分らないし、サラとの関係もわからないまま。だから迷っていたの。(大きなジェスチャーで)「どうなってんの?」って思って。熱っぽくなって、ドギマギしてて。それで私がこんな状態なのは、監督が演技指導をしなくて私を不安にさせてることを気付いたのよ。私はサラに対してジュリーが感じているのと同じ状態になってる。女優としてフィクションのために現実をつつくのではなくて、今回は偶然その反対なんだって気がついたの。自分の現実を出し抜けに供給してくれるのがフィクションなのよ。でもそれがどんな風に可能なのかは分らない。そんな魔法みたいな交換状態がアートなんじゃないかしら。

 “Let’s Do it” を背景に踊る短いシーンがありますが、『焼け石に水』や『8人の女たち』のように、ダンスナンバーがないのは物足りなかったのでは?
そうね、振り付けが恋しかったわ。でもこの映画では踊りはヘタクソじゃなければならなかったから、可笑しかった。このシーンのジュリーは可愛そうね、自分が出来ること全てをやっているんだけど、どうしていいのか判らなくなっているのよ。

じゃあ、ヌードのシーンは?違和感ない感じでしたけど。
そんなことないわ。

恥ずかしかった?でもやったみた。
そうね、ギャラも、もらっちゃったし。(笑)

あなたが演じた役はどうでしたか?ジュリーは自分がショッキングな存在だと思っていたでしょうか?ヌードは全く普通だと彼女は思っていたのでしょうか?
彼女はヌードはどうでもいいと思っていたんじゃないかしら、だから私にも折り合いがついたの。一端自分の役が掴めたら、自分が遠慮する部分に関して考えなかったから。日焼けして、あんな服を着て、化粧をしたゴテゴテした女の子が鏡の中に見えたら、それが自分だって認識できなかったし、カメラの前で自意識が高くなっているリュディヴィーヌとは関係ないと思ったの。ジュリーはアバズレでヤケクソで苦しんでいて、他人の関心と優しさを欲しがっていて、寂しさから毎晩違う男を連れてくる女なの。時々役柄から生まれるある種の放電のようなものがあるんだけれど、役がどんな反応をするのか考える必要はなくて、役に乗ればいいのよ。自分が役になるんじゃなくて、役が自分になるようにする。この映画のテーマはそれだと思うの。

当初のシナリオではジュリーの役は男だったんですね。
そう、男の子の役。でも監督がこの質問をされた時、あの2人の役の間に曖昧さが生まれるのは目に見えていたのね。監督は観客を驚かせたくて、性的な怪しさがあるって観客に思って欲しくなかったのよ、登場人物たちの性的な曖昧さがテーマの映画ではないから。2人の出会いをこのアイデアと合わせたくなかったから女の子にしたほうが簡単だって考えたのよ。

でもあの2人には性的な葛藤があると思いますけど。
ええ。でも性的に惹かれ合っているんじゃないわ。うーん、時々、それもあるかも知れないけど『8人の女たち』では監督はやり過ぎた所もあるから、はっきりとは言えないわ。

ジュリーとサラのように実生活でも年上の友人や相談相手がいるんですか?
ええ、シャーロット・ランプリングって言う50代の友人がいます。(笑)ええ、もちろん年上の友人はいますよ。

『ピーターパン』ではアメリカ作品・ハリウッドの映画に進出しました。
一本だけね。素晴らしい冒険だったわ。本当に大冒険だったと言ってもいいわね。

予算的も大作ですよね、これまでの出演作でおそらく一番の大作なのではないですか。
ええ、大作ね。この映画の予算は私がこれまで出演した全ての低予算映画の総額と同じくらいか、多分それ以上だと思う。

大作への出演は定期的にやってみたいですか、それともフランスに居るほうがいい?
分らないわ。到来したチャンスを掴むだけね。ピーターパンは、素晴らしいチャンスだったわ、アメリカ映画に出演するためって訳じゃないけど。以前にもオファーされたことがあったのだけど、興味が湧かない役だったから断ってしまったの。自分は特別な人間だと思っているという印象を与えるかも知れないけど、お金儲けには興味はないわ、ベバリーヒルズに別荘を持つほどお金持ちになりたいとも思わないし、パリなら、そんなにお金は必要ないから。ピーターパンでティンカーベルをやったのは、それが冒険だったから、口がきけない役だったから、飛んだりワイヤーにつながれたり、ジェスチャーを使ったりして妖精で、魔法みたいだったから。アメリカでキャリアを重ねたいって思ったからじゃなくて、チャレンジだと思ったからなの。私はフランス人で聞いて分る通り、英語も問題あるしね。だからまだ準備不足かな。会ってみたい監督はいるし、アメリカで映画に出るのもいいじゃない?でもその考えに凝り固まってはいないわ。ヨーロッパではとても自由を感じているから。

口が聞けないティンカー・ベルを演じて、利点・不便だったことは?
分らない。これまで私がやって来たことと全く違うから楽しかったわ。ちゃんと演技したっていうよりもジェスチャーって感じね。道化師を演じたような気分だった。これまでオファーされなかった仕事だった。参考になったのは漫画、サイレント映画や劇画だったの。ああいう種類の作品に出演できたのはワクワクするような経験だったし、特撮やどうやってああいう大作を撮るのか勉強にもなったし。良かったわ。ティンカーベルを演じて大変だったのはいつもブルースクリーンの前にいなくてはならないの。だから共演者はいないわけ。唯一の共演者は粘着テープ。時々は寂しい気分だった。ある世界を丸ごと自分の想像力で再構築するなんて好きじゃないから。でも集中して全てを想像するのが仕事だったら、疲労感もかなりのものだった。それにワイヤーだらけで。時には演技もしなくてはならなかったし(笑)

ではシャーロット・ランプリングの方が(撮影用の)粘着よりもいいですか?
ええ、もちろん、彼女は生き生きとした人ですから。

『スイミング・プール』と『ピーターパン』に出演して、シャーロット・ランプリングのようにフランス語・英語の役を交互に演じてみたいと思われましたか?
ええ、そう思うわ。でもシャーロットと比較はできないわ。違う世界で行き来するのが好きね。だからある意味、フランスでは低予算の作品をやって、それからもっと大きな作品に出演したいと思う。フランスへ戻ってパリの小さな劇場でお芝居をするのもいいかも。環境が変わるのって、やっぱりいいわね。シャーロットは、キャリアを通じてたくさんのリスクを取って来た人で、今50代だけと昔と変わらず大胆ね。でも賢くなっていると思うわ。美しいし落ち着いていて優雅で、頭のいい人。もちろん彼女は大きなお手本だと思うわ。

サラとジュリーの関係をどう定義しますか?
ジュリーが登場すると、プールを背景に彼女とサラは衝突するって思うでしょ。でも少しづつサラはジュリーに惹かれて行って、彼女たちの関係に変化が生まれるの。この映画で私とシャーロットを比較することでフランソワは、自分の映画の2つの流れを融合しようとしたの。私は『焼け石に水』や『8人の女たち』に代表される概念的・演劇的で、様式化された作品に出演して、シャーロットは『まぼろし』というとても親密な作品に出たわ。『スイミング・プール』ではこの2つの流れがぶつかって、互いに、ジュリーとサラの相互作用を刺激しているのね。ジュリーはとても人工的て、下品な感じでしょ。サラは知的で内向的よね。でも映画が進むにつれて、この2人がぶつかり合って、異なる発展を見せるの:ジュリーは自己反省を始めて、サラは肉体的に開花するの。

『スイミング・プール』でオゾン監督は凄く個人的な話をしたかったのだと思う。フィクションと現実の境目は時にはとても薄くて不安定だってことを。そして創造者とミューズについて。ミューズに圧倒される創造者と、その反対にミューズが創造者によって完全に骨抜きにされるってこともね。


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