シノプシス:この作品のヒロイン;サラ・モートンはあなた自身ですよね?
オゾン:ええ、これは自画像ですね。自分の仕事の仕方について、様々なことを語っています。でも若き映画監督の悩みについての映画にしたかった訳ではなかったのです。それに関しては特に言いたいことはありませんからね。長いこと、エクリチュール:書くことについての映画を撮ってみたかったのです。創作の過程を出来るだけ具体的に見せたかったのです、仕事に取り掛かる時の細かいこだわりや、自分がしたい事を基本に自分の世界を管理しなくてはならないこととか。僕が大好きなイギリスの女流作家にしたかったのです!見た目もキツそうで、感じも良くない口の悪いオールドミスという性格が好きなんです、彼女自身たちが放っているものと書くものが一致していない訳ですね。このコントラストが僕は面白いと思いました。僕は自分が撮る映画に似ていないって言われるんですよ。僕のことを、もっと変態っぽい人なのだと思っているようです。自分の創造物と自分の人生で人に見せる部分の落差みたいなものが好きなんです。

シノプシス:このシナリオはシャーロット・ランプリングのために書かれました。『まぼろし』のヒロインとサラ・モートンの間に連続性を求めたのでしょうか?
オゾン:いいえ。映画が完成してみると、この2作品に共通しているものが何だか分りますが、当初は正反対の人物を作りだそうとしたのです。『まぼろし』ではヒロインはシャーロット・ランプリング自身でもあるんです。あの作品では非常に日常的な場面での彼女をありのまま撮ることが肝心でした。『スイミング・プール』では、彼女からは程遠い作り上げられた役柄でしたから。2作品に共通しているものが、空想することだと判ったのは後になってのことです。シャーロットは空想と言う事に関して、僕になにかインスピレーションを与えてくれるのです。とても存在感のある女優で、同時にとても豊かな内面性も備えているのです。彼女を撮影すると、彼女の中に生きている何かがあるのです。彼女の中で何が起こっているのかを知りたくなって来るわけです。この2人のヒロインの共通点はそれだと思います。

シノプシス:『スイミング・プール』では太陽の下の密室劇といった趣きがあります。戸外なのですが、サラの頭の中に閉じ込められたような気がするのです・・・
オゾン:ええ。『まぼろし』がそうだったようにこれは頭で考える映画です。何かを創造する時、自分を環境から切り離すことはできないので、セットが重要でした。この日当りがいい大邸宅では彼女のロンドンのアパートと比べると執筆活動も違ってくるはずなのです。

シノプシス:それで冒頭、ロンドンを見せることが大切だったのですね。
オゾン:まず日常生活から見せるのが不可欠だと思ったのです。彼女は調子が悪く、お酒もたくさん飲んでいる。自分の編集者とも折り合いが悪く、薄暗いアパートに父親と同居していること、それに職業的には若い作家たちの台頭に恐れをなしていることを観客に知らせておく必要があったのです。コントラスト効果でルベロンのシーンはもっとパワーが出ると思えました。彼女がストレスを抱えていて;でも南へ行くと天気も良く、家も気に入って、彼女は良い方向へ向かいたいと思っているのを観客は感じます。彼女は健康的なものを求めているのです。ダイエットを始めて禁酒し、すぐさま仕事に取り掛かります。この作品には2箇所の設定があって、最初は短いロンドンのシーン、2番目は南仏に到着してからの長いシーンです。映画が本当にスタートするのは、ジュリーが登場してからですけど。

シノプシス:ストーリーをどのように構築されたのですか?
オゾン:映画のリズムの中で創作の仕事のリズムを見つけ出そうとしました。つまり僕が執筆する時は、ゆっくり熟していく感じで、ある時になるとアイデアが生まれ、事が繋がりを見せ、全てが加速し、僕もどんどん早く作業します。映画ではロンドンのシーンで何も起こっていません、サラが一人で帰宅します。まだ何も起こりません。全てがとてもゆっくりなのです。映画がどこへ向かっているのか分りません。そしてジュリーが登場する、しかし彼女らの関係が決まるまで、最初の喧嘩まで、まだ時間がかかります。ストーリーが持っている全ての要素を長い時間をかけて提示して行きます。ある程度時間が経つと、これはある夏の時を向かい会って過ごすことになった2人の女性の日記みたいな映画に過ぎないのでは?と思って来ます。それから少しづつスタート以来陳腐に思えてきた事柄が加速して、そうかと思えて来る。そして突然、全てが
ある場所に収まり、話は独りでに進行する。そして映画のラスト30分で、たくさんの反響が生まれる。

シノプシス:そしてあなたも執筆しながら、そのリズムに従ったのですか?
オゾン:長い時間をかけて自分の考えを熟成させました。取り巻きの人たちにも話をしましたし、十分に考えて、突然書き出すことになるのです。シナリオの第一稿は1週間で書き上げます。書き出しでは既に多くの事が判っているのです。でも不足もあるのです。例えばラストでロンドンに戻って来る必要があるのは分っていました。でもその方法が分らなかったのです。本が出版された時のサイン会を考えて、それにジュリーがサインをもらいに来る。悪くないと思いました。編集者との関係へ戻りたかったのですが、どうしたらいいのか迷いました。結末ではルベロンへまた戻ることを提案してくれたエマニュエル・ベルンハイムには色々な面で助けてもらったのです。

シノプシス:彼女はどのようにシナリオに参加したのですか?
オゾン:第一稿を読んでもらったのです。特に編集者とのシーンに関して助言をもらいました。彼女自身作家ですから、良く知っているのです。そして迷っていた結末の打開案を彼女がくれたのです。
 
                     

シノプシス:映画で描かれる犯罪は最初から考えていたものですか?
オゾン:いいえ、全く考えていなかったのです。この作品の構想を練り始めた時は、五里霧中でした。サラの一日目、二日目、三日目、ジュリーがやって来て、家の平穏が乱される、何が起こるのか?殺人と彼女らが共犯となるのはかなり後になって考えたことです。最初はジュリーの役は若い男の子にしようと考えていたのですが、それでは古典的な誘惑のお話になると思いました。サラの視線は女の子を連れ込む男の子と、男を連れ込む女の子では同じではありえないからです。登場人物2人の間には性的な曖昧さがないほうが面白いと思ったのです。ジュリーとサラがレズに耽るシーンがあったシナリオのヴァージョンもありましたし、またフランクと共に3Pで夜が終わることも考えました。

シノプシス:『スイミング・プール』は抑制をテーマにした作品だと思います。あなたの作品では何かを偶然に任せることはありますか?
オゾン:分りません・・・『スイミング・プール』は現実をどうしたらコントロール出来るのかを理解しようとしているのです。またこの映画は現実はすり抜けてしまうことも描いています。多くの事がサラ・モートンをすり抜けています。彼女は殺人を予見できませんでしたが、なんとか出来事を再びやりくりしようとし、自分の物語の中で反復するのです。彼女は
再スタートします。

シノプシス:あなたの作品では全てその抑制をテーマにしていると思います。凄いコントールを伴っていますけど。
オゾン:うわぁ、それは心配になって来ますね。(笑)たぶん、そうかも知れません・・・『8人の女たち』では、リュディヴィーヌ・サニエがプロットを進行させていますが、途中からずれて行き、プロットは彼女の思い通りには運びません。彼女がシナリオの終わり方を予言できる訳じゃありませんから。『まぼろし』では死を抑制して、また死を夢想できるように自分の人生を演出する女性の話でした。『クリミナル・ラヴァーズ』でも空想を実行へ移そうとしています。

シノプシス:現実を制御するというのは映画監督の特質と言ってもいいのではないですか?
オゾン:分りませんね。僕はいつも女優たちに追い付かれて、彼女たちに圧倒されているような気がします。『まぼろし』ではシャーロット・ランプリングが導いてくれ、『8人の女たち』ではとても話をすることも出来ませんね!全て事前に考えてあったと思えますか?(沈黙)そうですね、『8人の女たち』は僕が取り返して、編集で書き換えた作品ですから。

シノプシス:シナリオの作成段階で既に編集の事も考えているのですか?
オゾン:ええ、多くのことを視覚化しようとするんです。画面が変わると言う点を考えます。シナリオの原稿は厳密で既に演出について多くの示唆があります。とは言ってもシナリオからずれて行くこともあります。撮影に入ると、翌日に撮るセリフを除いてはシナリオを読むことはもうしません。撮影の時間やセットの空間などを楽しむようにしています。『スイミング・プール』のシナリオを書いた段階では、あの家のことは全く知りませんでした。サラが覗き見するという点で重要な位置を占め、あのプールを見下ろしているテラスがあるとは分らなかったのです。あの場所を見た時、僕はダメ出しから始めました。考え直すことで、あのテラスが演出への可能性としてストーリーにもたらす、諸々のことが分ったのです。

シノプシス:なぜ『スイミング・プール』という題名にしたのですか?
オゾン:"La Piscine" で呼ぶことはできませんでした。(笑)(訳注:このタイトルで別の作品があるため:邦題『太陽が知っている』1968年製作:主演アラン・ドロン/モーリス・ロネ/ロミー・シュナイダー)最初は"Ecrire"(書く)と呼んでいたのですが、実はこの題名も既に使われていますし(訳注:デュラスの同名小説またブノワ・ジャコーが撮った同名のドキュメンタリーがある)、本編を見る前から、中身についてかなり分ってしまうからです。スイミング・プールという題名が独りでに浮かんで来たのです。それまで考えなかった題名でした。映画は大半が英語で撮影されましたから、題名も英語がいいと思ったのです。

シノプシス:それでセットのプールに特別な意味があると思います。この題名がなければ、それほどプールには注意が払われないと思うのですが。プールにはどんな意味がありますか?
オゾン:水の周りで話を展開させたかったのです。水の中に入るのか、入らないのか?賭けというのは登場人物にとっても重要なんです。でもそれほど深く考えていた訳ではありませんでした。もちろん今なら様々な解釈が可能でしょうが、でも当初は映画を撮りたいという欲求は具体的な事から生まれるのです。水、泳ぐ人、水着を着た人物を撮って行く。これはそうたやすく体を見せようとはしない張り詰めたイギリス人の女性には意味があることなのです。

                      

シノプシス:シナリオも撮影が進むにつれて、変化して行ったのでしょうか?
オゾン:ええ、もちろんです。例えば、シャーロット・ランプリングがマルセルに体を許すシーン:これはシナリオではフランクとジュリーの場面に応える形での空想のシーンでした。死体も家から遠くへ埋められていました。サラが窓から、眠っているジュリーの傍らにマルセルがいるのに気付き、こんな風に無造作に胸を見せるシーン。撮影中にセットを目にして死体を近くに埋めて、マルセルが掘り返された地面を観察しているのを止めさせるために、彼に体を許すとした方が断然面白くなると思ったのです。それで曖昧さが出ます。これは策略なのか?彼女は感じているのか?ジュリーに似たいという気持ちと、自己投影なのか?シナリオではジュリーの女らしさがサラを腐食するといった感じなのですが、映画では交換にしたかったのです。この行動でサラはジュリーを救うのです。

シノプシス:この作品では対称になっている部分がありますね。場面が応酬するというか、まるで2人の女性の役が入れ替わるような瞬間があります。
オゾン:ええ。決定的な瞬間はサラが自分のパソコンで「ジュリー」のファイルを作成する時です。ジュリーはあの時からサラにとって、空想の人物となるのです。あのシーン以後、サラはジュリーの領域だったプールで泳ぎ、隠れて食事をしないで大っぴらに食べます。彼女が眠っている間、マルセルに見られています。フランクがジュリーを見るシーンの対称になっている訳です。サラはジュリーの影に隠れていたのですが、映画を自分の物へ取り返したのです。

シノプシス:『ジュリー』のフォルダーが作成されるシーンは映画中かなり時間が経ってからですね。特にどんな出来事も彼女を挑発していません。何がきっかけとなっているのでしょうか?
オゾン:ジュリーが連れ込む男たちですよ。サラには理解できなんんです。それで突然ジュリーに興味が湧いたのです。サラは親の寝室を見ようとする子供の立場に身を置いています。ドアの裏側の秘密を暴露したいのです。それをシナリオにどう書いたのか、厳密には覚えていないのですが、撮影の仕方は明解でした。窓際で見ているサラの視点から俯瞰で撮っています。ジュリーがその日に連れてきた男をマルセルに紹介して、3人は木の茂みの後ろに回ってしまい、姿が見えなくなってしまうのです。覗き見をしていたサラは欲求不満になり、執筆に勤しみます。彼女は自分が見えなかった物を書いているのです。クリエイターとして、全てを知りたいのに、親たちが話してくれない子供の状態に少し似ています。

                                              

シノプシス:サラが何を書いていたのか観客に分るようにしようと思いましたか?
オゾン:いいえ。観客たちが自分たちでその本を作ってくれればいいと思ったからです。でも実はイギリスの女性作家であるルース・レンデルに僕のシナリオを原案として、サラの本を書いてもらえないかと依頼したのです。僕の心積もりでは、僕が作ったお話を使う、使わないは自由でいいとしたのです。彼女を誘導しようとは考えていなかったのですけどね。しかし彼女は僕はノベラリゼーションを求めているのを理解して、簡素な手紙を送って来ました:ストーリーは自分で考えるし僕を必要とはしていないという内容のものでした。彼女がこの仕事を引き受けてくれなかったのは残念でしたね。本編以外にストーリーを更に延ばしてくれる短編小説があったらとても面白いだろうと思ったんですけどね。

シノプシス:作者のあなたはサラが何を書いたか知っていたのですか?
オゾン:ええ、最初はいつもの警部が出て来る奴です:休暇中のドーウェル。

シノプシス:「海辺のマルティーヌ」(人気の児童絵本シリーズ)に似た面がありますよね?
オゾン:推理小説の人物は何度も登場しますね。アガサ・クリスティならポアロ。『ナイル殺人事件』『オリエント急行殺人事件』とか。僕が思うにサラは映画の中で見たもの、それに近い事を書いたと思います。

シノプシス:でも監督のあなたにとって、サラとジュリーのこの物語は、現実なんですか、空想なんですか?
オゾン:どちらかを選びたいとは思いませんね。それでジュリーの分身とも言えるジュリアという登場人物を最後のロンドンのシーンに出したわけです。ジュリアとジュリーの顔が重なることで、これが現実なのか空想なのか我々にはわからなくなってしまうのが狙いです。この映画の編集者は、その前のシーン:ジュリアが父の出版社へ来て、サラがドア越しに彼女を見て、目を閉じるというところで終わりにしたらどうかと提案してきました。考えてみると、それでは既に見たことを弱体化してしまうドンデン返しになってしまうんです。僕はごちゃまぜにして、ジュリーはサラと編集者の娘なのか、どうなのか?という所も含めてあらゆる想像が可能なようにしたかったのです。観客の数だけ解釈も異なればいいと思いました。ある意味ではヒロインが男性に向かって浜辺を走る『まぼろし』のラストに似ているのです。どちらの場合も映画を象徴するようなシーンであるからです。『まぼろし』ではシャーロット・ランプリングが男性の後ろを走っていくに過ぎません、彼は死んでいるのですから、彼女が彼に追いつくことはできないわけです。『スイミング・プール』ではジュリーなのか、そうじゃないのか、サラが作り出した人間なのか、現実ではないのか分らない女性との間で、サラは視線を交えて、手を振っているわけです・・・観客はロンドンのジュリアは編集者の次女だろうと言った人までいました!

シノプシス:しかしそう思うことも可能ですよね、ジュリーは母親のためには捨てなかった「女性と家族」のことを言っていましたから。
オゾン:そうですね!僕はそう考えたことはありませんでした。しかしそう考えても全くいいんじゃないでしょうか。空想という点を強調しすぎてしまうと、状況というものが信じられなくなる心配があります。この映画は信じることと操作することで成立しているのです。疑惑を念を持たずに映画が見てもらえることが重要なのです。

シノプシス:台詞はどうやって書いたのですか?
オゾン:編集者とのシーンが素晴らしく、また面白いものにしたかったのです。何を言わせたいか決めていました。

シノプシス:台詞はどうやって書いたのですか?
オゾン:編集者とのシーンが素晴らしく、また面白いものにしたかったのです。何を言わせたいか決めていました。夕食を食べながら、ジュリーが10代の頃の恋愛話をする語るシーンで、僕が面白いと思ったのは、サラが彼女に向ける視線なのです。ジュリーが語る内容はありきたりのものです。最初に編集した時は、このシーンでとても感動的なリュディヴィーヌ・サニエを使おうと思っていたのですが、そうするとこのシーンの本質が失われてしまうのです。聞き手のサラに焦点を当ててこそ、作家の持つ吸血性を語ることができるのですから。その方がジュリーのおしゃべりよりも強烈なのです。会話は効果音にしか過ぎないのです。

シノプシス:虚実のほのめかしや謎をどんどん増やして行きます:ジュリーのお腹の傷や母親の死など、事故なのか自殺なのか、殺人なのかなど最後までわかりませんね・・・映画の冒頭ではジュリーは父親に母は彼からの電話を待っていると言っていますね。あれにはどんな意図があったのですか?
オゾン:僕がやりたかったのが物を書く人はあらゆる事をインスピレーションに使うということです。誰かに傷があるのを見ると、それで話を作りたくなる。些細な事柄が意味を持って、フィクションの世界へいざなうのです。サラにとって、あのジュリーの傷は何かを訴えていて、自分の本の要素に使ったわけです。最後に彼女はロンドンに帰る前に、知りたくなり、ジュリーに聞くと、彼女は「交通事故」と答えて、それで十分なのです。誰かと非凡な経験をしても、全てが非凡になるわけではないのです。そしてジュリー自身、ここでは演技をしています。微笑みながら詳細を告げないので、可能性が更に広がるのです。彼女は「母親と交通事故を起こした」と言ってもいいのですが、母親はそれで事故死したのでしょうか?疑問が残りますね。観客たちとインタアクティブな映画を撮りたかったんですね。どうにでも解釈可能なヒントから自分がストーリーを再構築する狂った面がこの映画にはあるのです。映画を見た後で、各自がサラの本を自分の解釈で書けるようにしたのです。

シノプシス:ジュリーの母親の本の位置づけは?
オゾン:僕にとってあれは4人の人物:編集者、母親、ジュリーとサラとを結びつける回り物なんです。時を経て持ち主が変わって行き、もちろん間違いなくサラが知りたいような編集者に関して何かが書いてあるはずですね。

シノプシス:あのマルセルの娘という奇妙な小人にはどんな意味があるのですか?
オゾン:新発見をさせる(ギリシャ神話の)カサンドラのような存在です。質問された訳でもないのに、「あれは事故」だったとジュリーの母親のことを言っていますね。最初は口ごもっている奇妙な女性を考えたのです。次に考えたのはマルセルの妻になりうる年齢の年取った女性で、しかも自分はマルセルの娘だと言うので彼女は頭がおかしくて、本当の事は言わないだろうと思える人を考えました。最終的には子供のような体をしてるが、老婆の顔を持つ人物を使うことにしました。ミレイユ・モッセという女優を知っていて、彼女の体つきを超越して、とても面白いと思っているんです。意味はこれ以上のことはありません。各自が望むことを自分で語れるくらい、彼女の存在感は強いと思います。それにイギリスの女性がフランスの片田舎の閉じられたドアの後ろに隠された奇妙なことを発見するというのが面白いと思ったのです。

シノプシス:観客にもっとカギを与えたいと思わなかったのですか?
オゾン:この人物についてどんな説明がいるんですか?彼女は小人なんですよ、とでも?独りでに想像力が生まれるでしょう。

シノプシス:想像力を生む事を作品に埋め込んでいくのは理由がありますよね。ある意味、他のシーンで語られていることをつながりがありますから・・・
オゾン:マルセルの娘で、彼の妻ではない。そしてビザールなのです。この作品では母性と親子関係を話題にしています。つながりがどこかにあると思います。でもそれは僕が完全につかみ切れていないのでしょう。自分の本能的な要求と自分が撮りたいと思うものを追いかけてしまいますからね。普通の女優さんにもこのシーンのテストをやってもらったのですけどね。ある情報を与える口実以上にこのシーンはミレイユ・モッセのお陰でよりミステリアスになったと思います。

シノプシス:あなたの映画の分身はなぜいつも女性なのですか?
オゾン:自分の羞恥心を処理してくれる距離があるんでしょうね。それで自分の何かをより明確により残酷に言えるのでしょう。自伝的な映画を撮るのは大嫌いだと思います。僕にはできないでしょうね。より劇的な事に自己投影する必要があるんです。サラがイギリス人で、推理小説を書いていて、おまけにシャーロット・ランプリングが演じているのですから、突然並外れた感じになりますよ。自分を語るにはこれが必要なんです。それに僕は女優さんを撮るのが大好きですから!


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