『スイミング・プール』の出発点は何だったのですか?

『8人の女たち』の後で、登場人物が少ない、もっと親密でシンプルな作品へ戻りたいと思いました。自然と自分と馴染み深い女優さんたちと仕事がしたい思いました。その方が楽ですからね。すぐにシャーロット・ランプリングのことが頭に浮かびました、『まぼろし』は僕たちにとって素敵な経験でしたから。当初はリュデュヴィーヌの役は男の子にしようと思っていたのですが、女性2人の関係にした方がもっと面白いだろうと思ったのです。特に『8人の女たち』で描いたギャビイ(カトリーヌ・ドヌーブ)とルイーズ(エマニュエル・ベアール)のような関係を更に深く描きたいと思っていたのです。シャーロット・ランプリングをリュデュヴィーヌ・サニエと対比させることで、母親と娘の関係を考えることにもなりますし、経験豊かな女優と若手を対立させることにもなります。『8人の女たち』でリュデュヴィーヌには他の女優たちと比較して、あまり気を使ってあげられなかったと感じていて、あの映画では彼女はおてんばを演じていました。この作品ではもっと楽しいセクシーな軽い女の子を演じさせたのです。リュデュヴィーヌはトレーニングをしてこの役のために減量し、地中海のマリリン・モンローと言った感じになったと思います。

創作過程に関しての映画を撮ろうと思った理由は?

僕が絶えず聞かれる質問から生まれた映画です:「作品をどうやって連打しているのですか?インスピレーションはどこから沸いて来るのですか?」とね。この質問に答えるために、映画監督としての自分を語るよりも、イギリスの女性作家に自己投影してみようと思ったのです。作家はどうやってインスピレーションを得るのか?どうやってストーリーを生み出すのか?このストーリーを現実と結びつけているのは何か?サラ・モートンは仕事のために一人になる必要があって、快適な家に閉じこもり、ダイエットをして、あるルールに従って暮らしています。それで突然現実が彼女を襲って来る。彼女の最初の反応は、言うまでもありませんが、拒絶なのです。引き篭もってしまいます。それからこの新しい現実を自分の仕事へ取り込もうとするのです。遅かれ早かれ、アーティストというのは、現実に落とし前をつけなくてならないのですから。

なぜ英語で撮ろうと思われたのですか?

イギリスの作家を主人公にしてシャーロット・ランプリングに彼女を演じてもらうことにしてから、この映画の言葉は英語にするのが自然に思えたからです。それに僕は英語は完全には出来ませんが、英語で演技指導をするのも面白いだろうと思えたからです。シャーロットはフランス語がうまいので、あまり問題はないだろうと思ったわけですね。言葉遊びという面もありました。シナリオはフランス語で書き、それを英語に訳してもらいました。翻訳の段階でシナリオが変わりました、と言うのはフランス語が持ついくつかのニュアンスは英語では消えてしまうからです。同じ意味を持つ表現を探すことになり、僕が第一稿で使った表現とは必ずしも一致しない場合もありましたから。

サラ・モートンのキャラクター作りはどのようにしたのですか?

『まぼろし』のマリーはシャーロット・ランプリング自身の性格に合わせてありました。この作品では、キャラクター作りは1から始める必要がありました。この役は完全な創作作業でした。シャーロットは実生活では全くサラ・モートンには似ていません。でも彼女のために書いた役ですし、彼女の承諾をもらってから、作品の準備をスタートしました。衣装担当のパスカリーヌ・シャヴァンヌと僕でパトリシア・ハイスミス、ルース・レンデル、パトリシア・コーンウェルやPD・ジェイムズらの写真を見たのです。彼女らに共通していることは、皆かなり男性的な面を持っていて、1970年代で人生が止まったような感じなのです。シャーロットには髪を短く切ってもらい、彼女たちと同じ方向へ行ってもらった訳です。映画の中で彼女の衣装そして態度が変化して来るのです。サラは自分を解き放って、女性的になり、どんどん明るくなって行きます。僕にとって、シャーロットは日常的な仕草を美化してくれる女優なのです。それに自分の持つイメージにナルシスト的な関係を持ち合わせていないのです。

推理小説家としたのはなぜですか?

シナリオを書くと言うことと関係があるように思えたからです。重要なのはスタイルではなくて、物語、プロット、それに殺人まで行き着く手掛かりの積み重ねと言ったことが大切なのです。シナリオを書くのも同じことなんです。撮影で命が吹き込まれるように、あらゆる要素を作りこんで行くわけです。アガサ・クリスティー以降、とても不安になるような酷い人物や状況を描いて来た女性推理作家の伝統がイギリスにはあるのです。この手の小説のスペシャリストであるフランソワ・リヴィエールに会ったことがあり、リヴィエールはアルコール依存症や秘めた同性愛、変態性への傾向など、推理作家たちが持つ心理について説明してくれました。撮影を始める前に、シナリオをルース・レンデルへ送り、サラがこの映画の中で書いている小説を想像して欲しいと依頼してみました。返事はすぐに帰って着ましたが、それは素っ気無いものでした:彼女は僕が自分のシナリオのノベラリゼーションを頼んで来たと思ったようです。また執筆には誰の手助けも必要ないと書いて来ました。シャーロット・ランプリングは面白がって、サラ・モートンなら絶対同じ返事をするわよと僕に言ったのです。

サラという人物をあれほど長く描写したのはなぜですか?
大きく分けると2つの描写があるのです。まずはロンドンで、日常の世界にいるサラを見る、編集者との関係や父親と暮らすオールド・ミスと言う家庭状況や飲むのが好きなこと・・・その後でルベロンへ行き、仕事を始めた彼女を見ることになります。僕にはこれらを見せることがとても重要だったのです、正確にはすぐにアクションに入って行かずに、少し普通のリズムとは違ってしまう危険性がありましたが:その人物の仕事の仕方、また習慣や癖など、厳密な環境に自分を置く必要がある作家の特性、つまり登場人物の行動に入り込んだわけです。この作品は創造の過程をなぞっているのです:事は少しづつ形を成して来て、最後の30分間で一気に加速します。多くのことが反響し合い、様々な感情が生まれます、全てがとても凝縮されいるのです。

映画が終わる前にジュリーはサラが創造した人物に過ぎないと言う事を思わせるヒントを何もくれませんね・・・

演出の立場からすると、想像の世界もリアルスティックに扱い、想像と現実を同じレベルで全て平坦になるようにしたかったのです。何かを生み出す時、全てがとても早いスピードで混ざり合ってしまうからです。ストーリーを語り、それを映像化しながら、登場人物たちへ自己投影して行く過程はとても強いですから、彼らのロジックや気持ちに完全に入り込んでしまいます。まるで彼らと同じ気持ちを共有するかのようです。創造過程は、いろいろ複雑です:何が本当なのか?なにがそうではないのか?現実と想像をどうしたら区別できるのか?このテーマは現実と想像を混同してしまった『まぼろし』のヒロインの問題に少し重なる部分があります。しかし今回の場合は、想像が創造をもたらし、狂気へとつながって行く訳ではありません。

作家が作品を書く過程で起こる肉体的な変身にも、大変な注意を払っていますが・・・

ええ、自分の肉体と折り合いが付かない老年のイギリス人女性という使い古されたタイプから出発したかったのです、もちろん後になってサラは若い頃とても魅力的だったろうと判るのですが。そしてジュリーの肉体よりも、成熟した肉体を欲望の対象にしたかったのです。同時に本を書いているのはサラですから、それを決めるのもサラだと言えるでしょう・・・特にサラとジュリーの体が互いに影響しあう設定にしたかったのです。少しづつ、サラも肉体を曝け出して行き、彼女が着ている服もより女性的になり、彼女の失われていた生活のある部分が再生されるのです。その反対にジュリーは虚飾を脱ぎ去り、純化されます。当初は、とても攻撃的で性的な若い女性から子供帰りするのです。この2人の女性の間で、ある種の交換がなされる訳です。
 

音楽は?

普通、編集の段階で作曲家に依頼するのですが、今回は、執筆途中の本がテーマの作品ですから、本が語る内容を音楽が推測できるように事前にシナリオを渡せば面白いと思いました。最初、音楽は細切れになっているのですが、音符の数も少ないですね。徐々に本当のテーマ曲が聞こえて来るのです。本編を通じて様々な楽器が聞こえて来ると良いと思いました、あるジャンルから別のジャンルへ移行しますし、年代記のようでもあり、推理物、心理的な対立、女性そして作家の肖像でもあるのです・・・

プールは何を表しているのでしょうか?

プールには各人は自分が見たいと思うシンボルを見ていいと思います。僕はよく水を撮影しています、大抵、海ですがそれは抑圧と言うか、ある種の不安と結びついているからです。この作品でプールは見た目もありますが、水が「閉じ込められて」いることも面白いと思いました。海とは違いプールは扱いやすく、コントロールされています。プールはジュリーの領域です。彼女は映画のスクリーンのようで、そこへ様々な物が映写され、人物が入り込んで来ます。サラ・モートンはこのプールに入るのに長い時間をかけるのです:ジュリーが彼女のインスピレーションとなり、プールがきれいになって初めて入って行くのです。


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