-『8人の女たち』は、女性たちだけで演じられていますが、これは前からやってみたいと思われていたことだったのですか?

女性を通じて、何か個人的なことを話してみたいと言うのは、ファスビンダー監督の『ペトラ・フォン・カントの苦い涙』を見た時感じたのです、この映画でファスビンダーは自分自身が体験した恋愛の一つを語っているのです。通常、映画で僕は女性の役に自己投影しやすいのです;女性の方がより感情を伝えてくるからだと思います。それに『焼け石に水』のキャストを決める際に、最終的にベルナール・ジロドーが演じた役をやってくれる俳優を探すのにあまりに苦労したために、一時は登場人物全員を女性にしてしまおうか?と考えたほどでした。ジロドーが引き受けてくれるまで、何人もの俳優に断わられたんですね。彼にも承諾してもらえるまで、返事を待たされました。ああ言った場合には、キャスティングには全ての仮説を想定しておくんです、登場人物の性別を替えてしまうことまでですね。

−男優は女優に比べると、もたらす物が少ないと思われますか?

女優の方が自分のイメージに対して、より冒険的だと思いますね;彼女たちの方がよりリスクを負ってくれるのです。ジェームズ・スチュワートやケーリー・グラントのような大スターもいつもほとんど似たり寄ったりの役を演じていましたし、ジョーン・クロフォードのような女優は凄く役柄が広かった訳です。フランスでも同じですよ。イザベル・ユペールは様々な役を演じて来ましたが、その反対にベルモンドやドロンが観客たちの期待とは違った役を演じようとすると多くの障害に出会うのです。

-ロベール・トマ原作の『8人の女たち』を脚色するのを決める以前に、ジョージー・キューカー監督の"The Women"の再映画化を考えていたと言うことでしたが・・・

大笑いさせられたキューカー監督のこの映画を再見したんですね、喧嘩するシーンなど、動きが凄く計算されていて、衣装も引っ張ると、破れてしまうようにデザインされているんです。この作品には演出のアイデアがたくさん詰まっているのですが、しまいには女性蔑視と登場人物たちが皆感じが悪いのにうんざりしてしまいました。あの女性たちの中には、自分が懐くだろうと思える人はいないのです、それにアメリカ映画を撮りたいとか、英語で撮影したいとは思いませんでしたし、キューカー監督作品の原作となった劇は凄くアメリカ的なのです。どうフランス語で脚色したらいいのか分りませんでした。とにかく、この劇の版権は既にハリウッドで押えられていたのです。そんな時、ドミニク・ベスナールが70年代 "Au theatre ce soir"で見たロベール・トマ原作の劇:『8人の女たち』の話してくれたのです。今では当時この劇が大成功を収めたことは誰も覚えていません。演劇学校のレパートリーにも入っていますし、この劇はアジアや日本のみならず、世界中で上演されたことがあるんです。実際には、僕は出来栄えとしては及第点の推理劇の骨格を残して、毒入りのコーヒーや電気が切られているとか、シャンデリアが落ちてくるとか・・・いくつかの出来事を省略することで話を洗練した訳です:アヌイがトマに提案したと言う面白い結末はそのまま使いました。反対に僕は、あまりに風刺的になり過ぎていた登場人物たちの関係に手を加えました。

-あれほどのキャスティングを実現させるためにどんな手順を踏まれたのですか?

この作品に深みを与えるために、普通こう言った映画では見慣れない女優たちが必要だと思ったのです。スターたちを集めることで女優と映画についても話題にすることが可能になったのです。理想的だと思う配役を考え、それを実現できました。中心人物となる母親のギャビイから始めたのです。カトリーヌ・ドヌーブを選んだのは、彼女が内外を問わずフランス映画を代表する女優で、そう言う人物が欲しかったからです。それから彼女を中心に配役を考えて行ったのです。これはある家族を廻るお話でもあるので、肉体的な類似点も大切でした。ダニエル・ダリューはドミーとテシネの作品で既にカトリーヌ・ドヌーブの母親を演じていました。ライバルとなる妹役には、非常に有名なもう一人の女優イザベル・ユペールを考えました。

-彼女達は簡単に出演を承諾したのですか?

一番運が良かったのは、これはシャーロット・ランプリングのお陰でもあるのですが、『まぼろし』の成功とマスコミの批評がとても良かったことがあります。あの作品の成功で8人の女優たちが承諾してくれたことが疑いの余地がありません。でもこの企画自体にワクワクしてくれたのだとも思います。参加してみたいと思って来てくれたのでしょう。

                       

-出演者が決まってから、シナリオにまた手を加えたのですか?

全ての女優たちが出演をOKしてくれてから、彼女たちに合わせて人物を書き直したのです。彼女たちがこれまで演じた役やそのイメージ、また彼女たちを結びつける絆を常に思い描いていました。ファニー・アルダンとカトリーヌ・ドヌーブの二人はトリュフォーの女優だったので、たくさんの考えが浮かんで来ました。別の例を出せば、原作の劇ではイザベル・ユペールが演じた人物は最後に変身をすることはなく、オールド・ミスのままなのです。でもイザベルに会った時、彼女も一時だけでも綺麗になりたいはずだと思い、それが物語にも役立つはずだと思ったのです。基本的にはスターたちが集まったことで観客たちが多かれ少なかれ期待していることを出すことでした、つまり彼女たちが互いに憎しみあったり、口論したりして観客たちを別なものへ向けて行くと言うことです。第一段階では、ダイアローグがお互いを責め会うように仕向けてあります、その裏では別な解釈も成り立つ視線にも工夫をしてあるのです。

-同時にスター女優たちに指示を出すのは難しかったですか?

僕が各女優さんに合わせることにしました。皆仕事の方法が違うからです。凄い量の情報欲しがり、シナリオを徹底的に読み込み、アクターズ・スタジオ風の自分の経験に照らし合わせる女優さんもいれば、反対に物語に身を任せるタイプの人もいます。でも8人の女優さんがいて、撮影期間は2ヶ月だったのですから、僕も厳密に直接指示を出す必要があった訳です。もし各女優さんがテイク毎に自分の意見を出していたら、一日に1カットしか撮れなくなってしまうでしょう。こう言った権威的な面は、イザベル・ユペールのような女優は喜ばれました。制限や目印があればあるほど、彼女は仕事に没頭するのです。その反対に、カトリーヌ・ドヌーブはテシネ監督との撮影では間違いなくもっと自由にやっていたでしょうが、僕に動き方などを指示されるのを好みません。そこで彼女はセリフで埋め合わせをしていました。イザベル・ユペールがキッチンで泣いている場面で、彼女を"Titine"と呼ぶのを決めたのはドヌーブなのです。とても感動的でしたし、彼女たちの関係をさらに豊かなものにしたと思います。

                                               

-本番の撮影時に、驚きを大きくするために他の女優には知らせずに、ある女優さんにだけ指示を出したりもしたのですか?

スタントマンを使って様々な角度から、何度も撮影をした喧嘩のシーンは別です。突然、イザベル・ユペールがカトリーヌ・ドヌーブの髪を引っ張るなんてことはない訳です;ピアラの映画とは違いますからね!でもカトリーヌ・ドヌーブと彼女が対立するシーンでは、カトリーヌの役柄に関して、ドヌーブには隠していた事をエマニュエル・ベアールに色々と言いました。実際、一番秘密めいたエマニュエル・ベアールの役に関してはそうやって進めて行ったのです。彼女の動機を本当に知ることないんですね。あの役は撮影前に最も多くの書き直した役なのです。原作劇では、カリカチュアされた、悪戯っぽいご主人様とねんごろになるメイドさんなんです。別の映画でも既に一緒に仕事をしたことがあるマリーナ・デ・ヴァンと共に彼女をより困惑させる人物にした訳です、『メイドたち』のジュネ風の関係や家の女主人にも興味を示すところなど、階級の関係を示唆するようにしたのです。

-シナリオに沿って撮影したのですか?

ええ、スタジオ撮影でしたから、それが可能だったのです。お話の時系列に沿って行くのが、一日の時間が経つにつれて変化して行く照明に凄く重要だったからです。それで女優さんたちが映画に少しづつ溶け込んでいく助けにもなりました。『焼け石に水』の時も同じように仕事を進めました、あの作品は台詞がとても多くて演劇的でしたから。レネのように撮影を始める前に2週間リハーサルを出来たら良かったのでしょうけど、女優さんたちのスケジュール上それは無理でした。それにジロドーもリハーサルをやりたがりませんでしたね・・・彼位の俳優になれば、リハーサル抜きでも問題ないことは分りましたけれど。スタジオ撮影ならば、時間も豊富にありますし、繰り返しが可能で、色々試すことも出来ますし、徐々に役を構成して行けるのです。現場では皆二ヶ月間一緒でしたから、2週間のリハーサルがなくとも良かった訳です。

-いつもより、テイクの数は多かったのですか?

今回は平均10テイク位でしたね、普通は4 か 5 です。一番多い時で12 か13テイクだったと思います。理由は簡単です。しばしば画面の中に多くの女優さんが映っていて、全員がうまく行ってないとならないからですし、また僕自身がフレーミングするので、同時に女優さんたち全員を見ることが出来ないからです。画面の中に6人いるとしたら、僕が集中できるのはその中の二人だけだと思います。それに満足行くものが撮れたとしても、念のためにもう1テイク撮っていましたから。

-ある女優さん一人を画面の中心に置くことをされなかったのはどう言う理由からだったのですか?

多くのスターたちが出演してはいるが、決して一緒には演技しない映画にしたくなかったからです。画面を切り返すショットも避けました、同じ時に撮影していないのだろうと思われる可能性があるからなんです。僕にとっては、8人のいつも一緒で、劇団のようなグループ思考があるのが大切だと思ったのです。仮に画面の枠内に現れていないにせよ、女優たちは現場にいた訳です。

                                     

-その劇団と言う考え方は登場人物も発展させたのでしょうか?

現場の雰囲気つくりには貢献したと思いますね。スター女優たちは一緒に仕事をするのを楽しんでくれました。唯一難しかったのは場面によっては特に何かをするわけでもないのですが、とりあえず画面の中にいなくてはならないと言う事でしたね。エマニュエル・ベアールのような性格の人にだだ何もしないで画面の中にいればいいからと言うのはなかなか微妙でしたね。

-ある女優さんよりも別の女優さんを撮りたいと言う誘惑にかられることはなかったのですか?

僕の映画の撮影ではこれまでなかった中立性と距離を置くことが今回は必要でした。『まぼろし』の時はシャーロット・ランプリングととても強い関係を持っていたのですが、今回はそれを止めたのです。民主主義的にやって、他の女優さんと比較して一人の女優を特権的な扱いにしないことがとても重要だったのです。監督の僕と強い関係が持てず、少し投げやりな印象を持つ人がいるかもと言う危惧もありましたが、その方が映画のためなのだと思ったのです

-あのグループの中で、既にあなたと仕事の経験があったのは唯一、ルディヴィーヌ・サニエでした。キャスティングをした際にこれで最低一人は味方が出来たと思われました?

現場が戦場のような感じではなかったのですよ、女優さんたちはすぐに僕が親方で、彼女達の一人が権力を振るってもしょうがないと理解してくれましたから。でもルディヴィーヌが僕の身代わりだったのは本当です。彼女には率直にお世辞を言うこともありませんでした。既に僕のことを知っていて、仕事振りも分っていましたから、僕らには無言の了解があったと思います。始めから他の女優さんたちにより気を配るからと前もって彼女には言ってありましたが、それにも関わらず映画の中では素晴らしい演技を見せてくれています。

-エマニュエル・ベアールが写真を落とすことで9人目の女優が登場します、ロミー・シュナイダーのことですが・・・

最初はそのシーンを僕の母の若い時の写真を使って撮影したのです。でもあまりにもプライベート・ジョークで、観客は理解できずに興味を失ってしまうだろうと思いました。そこで自分が子供の時、好きだった女優を思ったのです-僕は『プリンセス・シシー』が大好きだったんですね。アメリカのスターを選んでも良かったのですが、でもこの作品はフランス女優の映画ですから。1970年代にロミー・シュナイダーが外交的で人気者であり、カトリーヌ・ドヌーブは冷たそうで近寄りがたい印象だと言うことで、この二人をよく比較していたんですね、それにエマニュエル・ベアールはソテー監督の映画でロミー・シュナイダーの後継人のような登場の仕方をしていたと思ったのです。

-女優さんたちはこの映画の衣装選びに参加したのですか?

スタッフたちはいつものチームでやりたかったのです。女優さんたちは自分のメイク担当、美容師を選びましたから(全員、一流の人ばかりで、この企画に完璧に適応してくれました)僕は衣装係にはパスカリーヌ・シャバンヌを希望したのです。−彼女は『クリミナル・ラヴァーズ』以降、僕と仕事をして来ましたし、女優たちに自分のデザインのプレゼンをする前に50年代に関して膨大な調査をしていました。初めて衣装の打ち合わせをした時に、僕も参加して各女優さん一人一人の意見を取り入れながら、細かい調整を行ったのです。全員が美しくあって、そして着心地も良いと思ってもらうことが肝心でした、彼女たちはどうしたら自分の価値が最大限に引き出せるのか誰よりも詳しく知っていましたから。例えば、ファニー・アルダンは全身真っ赤になってしまう衣装を着るのをとても恐れていました。そこで後で外すことになる小さな黒のベストを着てもらいました。彼女の役の発展に完璧に合ったと思います。撮影中に、カトリーヌ・ドヌーブには毛皮の肩がけを付けてもらいました、彼女が気に入ってくれるのを知っていたからです。それにこっそりマリリン・(モンロー)へのオマージュにもなっているのです。

-この作品では他の映画からの引用が何度となく出て来ますね。

50年代と映画についての作品の監督をするのですから、映画からインスピレーションを得たのです。とは言え、全てがプログラミングされていた訳じゃありません。クレジットの個所で見えるダイアモンドを施したセットのランプですが、あれなどは僕の注文に合っていないのですが、持って来てしまえば、僕が気に入るだろう事を美術の人が知っていたからです。構図を決めた時に、サークの『人生の幻影』のクレジット・タイトルを思ったのは本当です。

-そのサークからの引用に関してですが、『天はすべて許し給う』に登場する鹿を連想させる牝鹿が出てきます。

本編の中に一匹でもオスがいるようにオス鹿が欲しかったのですが、一年のちょうどその時期にはオス鹿には角がないのです。もちろんニセの角を付けさせる事も出来たのですが、僕としてはメス鹿を受け入れた方が良いと思いました。衣装に関しては、ミネリ監督が最も参考になりました。彼は登場人物に黄色や赤を着せたり、現在では見ることが出来ないような衣装と靴を組み合わせたりしているのです。それはテクニカラーには理想的だったのです、化学的な現像プロセスだけではなく、衣装やセットの色合いにも多く影響されていたのですから。『8人の女たち』はテクニカラーで撮影はしませんでしたが、その精神に固執したのです。

-『8人の女たち』は長い間、あなたが追求してきた華々しいアプローチの集大成とも思える印象を受けます。

この作品ではそのアプローチを最後まで推し進める予算があったことと主題がそれに見合っていたこともあります。『焼け石に水』は違った方向性を持っていましたし、『ホームドラマ』にはB級映画の精神がありました。

                                     

-『ホームドラマ』には古典的なB級映画にはない演劇性の概念がありました、これはあなたの他の作品にも見受けられます。

映画における演劇が大好きなんですね。演劇がもたらす異化の効果が好きなのです。映画である訳ですが、突然上演中となるのです。それに正面から見られることと、演劇のように等身大の登場人物が映るショットが好きなのですね。多くの映画監督たちは安易にクローズ・アップで撮りますがアクションを大きなショットで見せることが出来ず、俳優の演技を流れを見せることが出来ないのです。僕は反対にそれが好きなのです。ドラマ化の効果とその結果産まれる異化作用が好きなのです。もちろん観客として考えても、感情の機微も見せればより強烈になると思います、気持ちと言うのはメカニズムに組み込まれた時、より強くなるものだと思うのです。

-シャンソンもこの演劇性に貢献していますね、音楽のインターバルは既に『焼け石に水』と『サマードレス』の中で使われていました。

ええ、皆あれをすごく気に入ってくれたのです。『8人の女たち』が快楽に関しての映画と決まった時点から、カトリーヌ・ドヌーブの歌声を聞きたい、あるいはめったに歌わないイザベル・ユペールが歌うのを聞いてみたいと思いました。民主主義的に事を運ぼうと思っていましたから、どの女優さんも華麗に歌をうたうシーンがあれば良いと思ったのです。自分自身で歌詞を書くよりも自分のレコード・コレクションから自分が好きな歌を選んだほうがいいと思ったのです。選んだ全ての歌が有名と言う訳ではないのですが、それらが語っている事を考えると面白いと感じたのです。選ぶのには時間はかかりませんでした。選ぶのは60年代から80年代絞りました、と言うのも僕は50年代の歌手を知らないからなのです。もちろん調べることも出来たのでしょうけど、時代を混ぜ合わせることで、異化の働きが増すと思ったのです。

-単に楽しいと言うのを超えて、あのシャンソンはきちんと映画の流れの中で役割を果たしていると思います。

歌が登場人物たちの新しい面を曝け出している訳です:ユペールは密かに思っていた自分の希望を明らかにするために歌いますし、ドヌーブはアルダンを誘惑するために、ベアールは女主人を挑発するために歌うのです・・・撮影段階では、徐々にこれら歌のシーンに移行するように演出をしたのです。しかし編集する段階で色々考えることなしに、突然歌いだす方がうまく行くことが分ったのです。合理的に考えずに、快楽を前面に出した訳です。

-振り付けはどのように考えたのですか?

『サマードレス』に出演し、『焼け石に水』の振り付けを考えてくれたセバスチャン・シャルルと仕事をしました。彼とはとても馬が合うのです、それは彼が本当の振付師ではないからでしょう。彼は皆が真似できる位シンプルな事を僕が希望しているのを知っていますから。それもまた快楽と言う概念である訳です。

-あなたの5本の長編を考えて見る時、当初は物語の中で驚かせたいと言う気持ちがあったのですが、次にそれが形式と耽美主義へと移行したと言う印象を受けるのです。

僕はいつも同じ事を言っていると思うんです。おそらくそれを今の方が飲み込み易くなったのではないですか、僕もより注意深く見せていますから。あるいは当時はそれをうまく語る術が自分にはなくて、また自分が語っていた事が自分自身良く分っていなかったのかも知れません。確かに僕は脚本を書くのも早いですし、作品も続けて撮りたがる傾向があります。とにかく僕には挑発したいとか言う気持ちはありません、力強い演出への賭けに自分を立ち向かせたいだけです。つまり演出の賭けと言うのは、カフェにいる二人よりも近親相姦を撮影したほうが大きくなりますからね。『ホームドラマ』以降、僕も大人になった訳です。でもこの初長編には学生のような面があって、それが演出の中に入っていて、ごく僅かな人にしか理解してもらえなかったのです、皆それが僕の個性だと思いたがったからです。

-早く仕事をするやり方で、あなたは若いフランスの監督たちの中でも異彩を放っていますね。

僕はある作品からすぐ次の作品へ移る必要があるんです、プロモーションに食いつぶされたくないからなんです。僕がよしとすれば、世界中で『8人の女たち』を紹介するのに2年という自分の時間をプログラムすることも出来るのです!それに早く仕事をするのが自分のリズムに合っているのです。脚本を書く時、たくさん自問自答する映画監督もいるでしょう。僕もたくさん自問しますが、その答えは撮影あるいは編集の段階で見つかるだろうと思っています。これからどうなるのか知らないために壊れ易い面も必要なのです。どうにかこうにかシーンの撮影をしなければならない。うまく撮れれば、それに越したことはありませんが、そうでなければ編集でカットするか、続く場面で持ち直すかだからです。それに偶然うまく行くこともあるのですから。偶然起こることや、僕のオス鹿と牝鹿の話のように現実を受け入れるしか手立てがないと言うのも悪くないと思っているからです。同じように『焼け石に水』のラストで、アンナ・トムソン演じる人物が空気を取り入れるのに窓を開けるのを考えていたのです。予算が少なかったため、美術係りは窓を開けられるようにしておく必要などないだろうと考えていたのです。そこで窓を閉めたまま撮影し、窓を開けたシーンも再撮影出来るように工夫することを依頼しました。編集で窓を閉めたテイクの方が僕にはより面白く思えたのです。

-あなたのフランス映画界での場所に関してですが、あなたは作家主義という枠の中に自分を見出してはいないように思われるのですが。

僕はありとあらゆる影響を取り込んで、それらをほぼ同一視することが出来る世代に属していると思うんです。僕よりも前の世代では、ヌーベル・ヴァーグとある種の作家主義を理想化していますが、僕はハリウッドのB級映画やヨーロッパの作家映画、あるいはテレビシリーズや日本映画からもインスピレーションを受けることが出来るのです。『8人の女たち』では『ナイル殺人事件』のようなスタイルからプレミンジャーの"Laura" のようなものまでアガサ・クリスティーのアカデミックな翻案を経て行くことに全く何の問題も感じませんでしたね。僕は映画遺産の重さを感じていませんし、”父親を殺す”必要性も感じませんね。

-その父親殺しは、文字通り『ホームドラマ』と『8人の女たち』で起こることです。『焼け石に水』と『まぼろし』での父親的な存在の役は語るまでもありません。あなたの全ての作品に何度となく登場するテーマである自殺、殺人、放棄や近親相姦への誘惑など自覚されていますか?

それは意図的ではありませんよ。ロベール・トマの原作を読んだ時は、8人の女性と言うアイデアが面白いと思ったのです。二度目ではまた父親が死ぬことが問題にされている事が僕には愉快だった訳です。でもあなたがたの今の発言には自分も動揺しますね!また同じテーマに次回作でもぶつかるのかどうか自問しながら、次回作でそれについて考え直してみたいと思います。

-これら変わらないテーマと言うのは、映画を撮るたびに作品の調子に変化をつけ様とするあなたの欲求に全く関係はないのですか?

ないですね。僕が調子を変えるのは何か新しい事を試すためですから。『まぼろし』の後で、この作品は一人の女性の肖像を描いたものですが、これよりもより拡散した形式で、複数の登場人物たちが出てくるものをやりたかったのです。古典的な調子を持つ作品の後で、より人工的で芝居がかった物をやってみたいと思いました。毎回、リスクを負っているのです。8人の女性たちと危険を冒すよりも『まぼろし2』を撮ることも出来だろうと思いますね。主役がいる作品を撮る方が簡単だと思いますよ、自己投影ができる訳ですからね。

-しかしながら『まぼろし』と『8人の女たち』の間には明確な繋がりがあるように思えます、まるで8人を集める前に一人の女性と仕事したかったと言う感じです。

シャーロットと仕事を出来た喜びが女優さんのグループと仕事をしてみたいと僕に思わせたのは間違っていないと思います。でもまさかこうなるとは予見はしていませんでしたね。『まぼろし』を出品したサン・セバスティアンの映画祭でロベール・トマの原作を読んだのです。その時は『まぼろし』があれぼど好評になるとは想像できませんでしたから。次の作品の撮影を予定出来た唯一の時は、完全な失敗でした。『クリミナル・ラヴァーズ』は僕の初長編作となるはずでしたが、資金繰りがうまく行かなかったのです。『ホームドラマ』がヒットしたお陰でこの作品を撮ることが出来たのです。僕の犯した間違いは、続けざまにこの映画を撮ってしまったことです。書き上げてから2年が経過したあのシナリオを手直しすべきでしたし、あのシナリオは当時の僕自身にも連動していませんでした。あまりに長い間ノロノロやっていると、映画の本質を失う危険があるのです。

-財政的な理由でもうこれ以上映画が撮れないと言う若い監督たちはよく見受けられますが。

臨機応変であれば撮れる可能性は誰にもあります。『まぼろし』では制作費を捻出するのに大いに苦しみました。これは誰も興味を示さない年寄りの映画だと言われました。ある時コスト削減のためにデジタル・カメラでの撮影を考え、テストをしたのですが、結果は散々たるもので、他のやり方で節約するしかなかったのです。16ミリで撮影し、シャーロットには利益配分でやりましょうともちかけ、僕とスタッフの報酬を削りました。お金がないことで想像力が働き、本質を見極めざるを得なくなるのです。『まぼろし』の場合、財政的な困難がむしろ原動力になったと思います。半年のインターバルを置いて二度の撮影を行い、その間にシナリオの続きを考えて行ったのです。

-『8人の女たち』の制作費はいくらだったのですか?

あれだけのキャストですから、楽に1億フランの融資を受けることが出来たと思いますね。でも映画の予算は、作る映画に見合うものだと思いますし、これまで一緒に仕事をして来たプロデューサーたちをキープしておきたかったのです。5000万フランは超えていませんよ、とは言えこれは自分の映画の制作費としては最も高額なものですが。撮影に大量にお金を使う監督には僕はショックを受けるんです。それはきっと僕が短編出身だからでしょうけど、物の値段は分っているつもりですし、8テイクではなくその半分にしておくとかですね。女優さんたちも常識的なところで、ギャラはとても良かったんじゃないかと思います。

                                      

-映画を撮る過程で、どの段階が一番好きですか?

編集ですね。女性の編集者一人と僕で一緒に映画を書き直すような作業で、材料で偶発的なことはもうないのですから。シーンを入れ替えたり思いがけない事を試してみたりするのが本当に楽しいのです。あの瞬間に自分の仕事を分析し、批評することが出来るのです。通常、2ヶ月か2ヶ月半で編集を終えます、その期間にスタッフと僕が意見を尊重する友人たちのために試写もやることにしています。

-『8人の女たち』の編集作業では、ある特定の女優さんを特別扱いしたいと言う気持ちは頭をもたげることはなかったのですか?

それはなかったと思います、すべて演出時に考えていましたから。もちろん外交的な理由から、ある女優さんのクローズ・アップを撮りましたが、編集でそれらを使うことはしなかったです。映画に何かをもたらしてくれるショットは最終的にいくつか残しておきましたが。大量のラッシュが残らないように注意はしていました。いずれにせよ、この映画はとても単純な形式なのです。調査があって、責める人と責められる人、そしてそれを見ている他の人たち。何人かはよく分らないうちに時々消えます。例えばフィルミーヌ・リシャールが花瓶が割れ、その破片を拾い集めるのにしゃがみ、また立ち上がって来るのが見えたりはしません。撮影時にはこう言ったディテールに気を配っていたのですが、編集時に実はどうでもいいことなのだと理解したからです。それに気づかない程、他の登場人物たちに注意が向けられているからなんです。

-今は何をしたいと思っていますか?

より小さな映画に戻りたいですね、もっと親密感のある作品です。それがどのように具体化するかはまだ分りませんけど。



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