ベン・ハー (1959) Ben-Hur
公開:
1959年
ベン・ハー(59)
製作:
M-G-Mスタジオ

サム・ジンバリスト
監督:
原作:
ルー・ウォーレス
脚本:
カール・タンバーグ
撮影:
ロバート・L・サーティース
音楽:
ミクロス・ローザ
出演:
チャールトン・へストン

ジャック・ホーキンス

スティーブン・ボイド

ローマ帝国の支配下にあったエルサレムのユダヤ人貴族の息子ジュダ・ベン・ハーは、ローマ軍の司令官となった旧友のメッサラと再会。しかし、二人は人種と思想の違いから対立するようになり、メッサラの裏切られたベン・ハーは奴隷としてローマ軍のガレー船に送り込まれてしまう。マケドニアとの海戦で司令官アリウスを助けたベン・ハーは、ローマで二輪戦車の旗手として名を馳せてアリウスの養子に迎えられる。その後、ローマ軍に囚われた母親と妹を助けるためにエルサレムに戻り、宿敵メッサラに戦車競争を挑む。 キリストが誕生した頃のエルサレムを舞台にユダヤの王ベン・ハーの波乱の人生をスケール豊かに描いた、聖書に次ぐ世界的ベストセラーと言われた南北戦争の英雄ルー・ウォレス将軍の同名小説の3度目の映画化にしてスペクタクル 史劇の決定版。

テレビの台頭による観客の減少で経営危機に陥っていた老舗の映画スタジオM-G-M社は、倒産の危機を脱するために25年のヒット作『ベン・ハー』の再映画化を企画。 製作者には25年版の編集を務めたサム・ジンバリストを抜擢。ジンバリストは25年版に助監督として参加していた友人のウィリアム・ワイラーに監督を依頼。いつかセシル・B・デミルのような映画を撮りたいと考えていたワイラーは監督を引き受け、監督としては最高額の100万ドルのギャラが支払われた。 脚本の執筆は難航を極め、40もの脚本が執筆されたが、どれもワイラーを満足させることが出来ず、スタッフとキャストがローマ入りしても最終的な脚本は完成していなかった。 ワイラーはカール・タンバーグが執筆した脚本で撮影を開始しようとしたが、彼は脚本に大幅な変更が必要だと感じてゴア・ヴィダルをローマに呼んで脚本の書き直しを依頼。 その後、イギリスの脚本家クリストファー・フライが脚本に手を加えるが、脚本の執筆は映画の撮影と同時進行で行われた。 ワイラーはフライの業績を高く評価して脚本家組合に彼の名前をクレジットに記載するよう依頼するが、最終的にクレジットにはタンバーグの名前しか出なかったため、ワイラーはタンバーグのアカデミー脚本賞受賞に反対し、その結果ターンバーグはノミネートされたが受賞はしなかった。 ベン・ハー役にはポール・ニューマンが候補にあがるが、彼はデビュー作の史劇『銀の盃』(55)での悪評に懲りて出演を辞退。その後、マーロン・ブランド、カーク・ダグラス、バート・ランカスターらが候補にあがり、スタジオは公開オーディションまで行うが、最終的にワイラーは前作『大いなる西部』(58)で起用したチャールトン・へストンに白羽の矢をあてる。 メッサラ役にはデビュー間もない青い目のアイルランド人俳優スティーブン・ボイドが起用されるが、あいにく他のキャストのほとんどが青い目の俳優だったため、ワイラーはボイドに茶色のコンタクト・レンズをつけさせた。 ベン・ハーの母親ミリアム役には『十戒』(56)でもヘストン扮するモーゼの母親を演じたマーサ・スコットを、妹のティルザ役にはワイラーの義妹キャシー・オドネルを抜擢。最終的に5万人を超える俳優やエキストラたちがこの映画の撮影に参加した。 撮影は25年版と同じイタリアのローマで行われ、美術監督のエドワード・カルファーノはローマのチネチッタ撮影所に古代ローマ時代の世界を再現。 二輪戦車レースが行われる円形競技場建設のため考古学者に意見を求めるが、彼らの答えは「ローマ風」、「フェニキア風」、「エルサレムに競技場は存在しなかった」と曖昧だったたために、美術スタッフは25年版の戦車競争のシーンをもとにして競技場を製作。1000人以上の技術者たちが1年以上もの時間を掛けて壮大なセットを完成させた。 300以上ものセットの建造のために1,100立方メートルの木材、450トンの漆喰、400キロメートルのパイプ、4万トンの地中海の海岸から運ばれた白い砂が使われたが、スタジオは『ベン・ハー』のセットを使って低予算映画が作られることを恐れて、全てのセットは撮影終了後に壊してしまった。 海戦シーンに使うガレー船の建造では、専門家を雇ってできるだけ忠実に再現したが、完成した船は1隻動かすのに300人の力が必要なうえに、上部が重すぎて横波を受けると横転してしまう欠陥品だった。そこで、池に浮かべた船が横転しないように錨を下ろし、それをケーブルで固定して撮影を行った。 海戦シーンの撮影は、25年版のように本物の海でなく池を掘って行い、茶色い池の水は科学者によって作られた特殊な染料によって地中海の青い海の色に染められた。しかし、エキストラたちが池に落ちると全身が青く染まってしまったため、スタジオは染料が完全に落ちるまでエキストラ達にギャラを払いつづけた。 この映画最大の見せ場となった、4頭の馬につながれた二輪戦車がしのぎを削るレース・シーンの撮影のために、ヘストンを含めたキャストとスタッフはイタリアで4ヶ月の緻密な撮影リハーサルを行い、3ヶ月かけて撮影された。 このシーンの演出はワイラーではなく、第二班監督でウェスタンの名作『駅馬車』(39)のスタントで名を馳せた元スタント・マンのヤキマ・カヌートが担当。カヌートの息子ジョー・カヌートがヘストンのスタント・マンを務めた。 スピード感を出すためにレンズを交換したり、平均は1秒24コマのフィルム速度を20から16コマにまで落としたり、実際は3分間程度の戦車競争を11分かけて映写したりして、前代未聞のスピード感と迫力を出すことに成功。 戦車の残骸を飛び越すシーンでジョー・カヌートが戦車の前に落ちてしまったり、10万ドルもする65ミリのワイドス・クリーンのキャメラに馬が突進して壊してしまうなどのアクシデントがあったが、死者や大きな怪我をした者は一人もなかった。 超大作の製作を任されたプレッシャーからか、ジンバリストは製作途中で心臓発作が原因で急死してしまい、スタジオはワイラーと25年版の製作に関わったJ・J・コーエンに後を引き継がせる。 様々なトラブルに見舞われたものの、当時としては天文学的数字といわれた1,500万ドル(54億円)もの制作費と6年半もの製作期間を経て映画は無事完成。 迫力のアクション・シーンと見応えのあるドラマが観客に受け入れられて、映画は8,000万ドルもの利益を上げる記録的なヒットとなり、第32回アカデミー賞では12部門でノミネートされ、作品賞、主演男優賞(ヘストン)、助演男優賞(ヒュー・グリフィス)、監督賞、カラー撮影賞、編集賞、劇・喜劇映画音楽賞、カラー美術監督・装置賞、カラー衣装デザイン賞、音響賞、特殊効果賞の11部門を独占。これは『タイタニック』(97)がタイで受賞するまで最高の記録だったが、技術部門での受賞が大半を占める『タイタニック』よりも、演技部門で受賞者を出し、脚色賞にもノミネートされた『ベン・ハー』の方が質で勝っている。


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