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本名: | チャールズ・スペンサー・チャップリン | ![]() |
愛称: | チャーリー / シャルロ / リトル・トランプ | |
職業: | 俳優、監督、製作者、脚本家、作曲家、編集者 | |
生年: | 1889年4月16日 | |
出身国: | イギリス | |
出身地: | ロンドン ウォルワース | |
没年: | 1977年12月25日 | |
代表作: | 『キッド』(21) 『独裁者』(40) 『ライム・ライト』(52) | |
ミュージックホールの芸人だった両親のもとに生まれるが、1歳の時に父親は蒸発。 以後、場末の舞台芸人だった母親に育てられ、5歳の時に初舞台を踏む。 しかし、7歳の時に母親は貧困と病が原因で発狂して病院に収容されてしまい、兄と共に孤児院に預けられる。 子供の頃から路地などで芸を披露して人気を集め、 10歳でエイト・ランカシア・ラッズ劇団に入団して、翌年にはパントマイム劇のロンドン公演に出演。 以後、劇団を転々としながら芸を磨いてゆき、17歳になると兄の薦めでイギリスの劇団フレッド・カルノーの一座に入団。 ここでパントマイムの技術を磨いて一躍劇団の若手看板俳優にのし上がる。 彼が主演した寸劇『Skate』が好評を博し、1910年にチャップリンは一座と共に渡米。 翌年、ニューヨークのミュージック・ホールで上演された舞台を見た喜劇監督のマックス・セネットに見出され、 13年にキーストン社と週給150ドルで映画出演の契約を交わす。翌14年の『成功争ひ』で映画デビューを飾り、セネットに面白い格好をしてくれと頼まれたチャップリンは、ちょび髭、山高帽、だぶだぶのズボンにステッキを持った姿で『ヴェニスのベビー・カー競争』(14)に出演、有名な浮浪者スタイルを完成させる。また14年には『チャップリンの総理大臣』で初めて監督業にも進出して、1年間で35本の短編に出演するが、ストーリー重視の映画制作を目指すチャップリンは、翌年キーストンを離れて10倍の週給でエッサネイ社に移る。 彼が作り上げたみすぼらしい浮浪者が繰り広げる悲喜劇は世界中の観客から絶大な人気を獲得し、「リトル・トランプ(小さな浮浪者)」の愛称で親しまれた浮浪者役はチャップリンのトレード・マークとなる。 16年には週給1万ドルでミューチュアル社に移籍。この頃から作家性の帯びた作品を作り始め『チャップリンのスケート』(16)、『チャップリンの霊泉』(17)、『チャップリンの移民』(17)など良質の短編喜劇を送り出す。 18年には1作25万ドルのギャラでファースト・ナショナル社と契約。以前よりも制作期間は延び、同じシーンを何十回と撮り直すことが多くなるが、『犬の生活』(18)、『担え銃』(18)、そして初の長編映画『キッド』(21)など、計算されたスラップスティックなドタバタ喜劇の中に心温まる人情ドラマや痛切な社会批判を盛り込み、感情移入によるドラマ性を重視した傑作を発表してゆく。 19年には俳優のダグラス・フェアバンクス、メアリー・ピックフォード、監督のD・W・グリフィスらと共に、大手の映画スタジオの制約に縛られない自由な映画製作の場を求めて「ユナイテッド・アーティスツ社(UA)」を設立。 ファースト・ナショナルとの契約が終了するとチャップリンもUAに移籍する。UAでの最初の作品として監督業に徹したメロドラマ『巴里の女性』(23)は高い評価を得るものの、主演のエドナ・パーヴィアンスのスキャンダルも手伝って興行的に惨敗。 続く『黄金狂時代』(25)は、一攫千金を狙う人々の姿を面白おかしく描いて絶大な支持を得て、チャップリンの最高傑作と評された。 28年の『サーカス』ではアカデミー特別賞を受賞するが、27年のトーキー革命後もパントマイムの芸術性にこだわるチャップリンはサイレント映画の制作に固執。 31年の浮浪者と盲目の花売り娘の恋を描いた『街の灯』(31)はサイレントで撮影するが、チャップリンは自分で作曲した音楽と音響効果を付けて公開する。 しかし、時代の流れに逆らうことが出来ず、資本主義を風刺したチャップリン最後のサイレント映画『モダン・タイムズ』(36)では初めて自分の声を披露した。 ヨーロッパにファシズムの嵐が吹き荒れた40年には初のオール・トーキー映画『チャップリンの独裁者』を発表。ラストのスピーチでヒットラー率いるナチスを痛烈に非難した。 ミルドレッド・ハリス、リタ・グレイ、ポーレット・ゴダードらとの結婚に失敗したチャップリンは、 43年にノーベル賞作家ユージン・オニールの娘ウーナ・オニールと結婚するが、同年には女優のジョーン・バリーから父権認知訴訟を起こされる。 血液型鑑定によって父親でないことが立証されたが、その3年後にはアメリカに忠誠を誓わず、共産主義に貢献したという理由で無理矢理養父の義務を認めさせられた。 7年ぶりの映画となったブラック・コメディ『チャップリンの殺人狂時代』(47)では、戦争による大量殺戮の是非を問うが、映画は反米的とみなされて全米でボイコット運動が起き、チャップリンの愛国心の薄さが非難された。 52年には老芸人と若きバレリーナの交流を切なく描いた傑作『ライムライト』を発表。 家族と共に『ライムライト』のプレミアのため船でロンドンに向かうが、以前から共産主義の疑いをかけられていたチャップリンは、赤狩りを行う非米活動委員会からの召喚状を船上で受け取る。 チャップリンはアメリカに戻ることをあきらめ、アメリカ政府は彼の再入国許可を取り消してアメリカから追放した。 チャップリンはスイスのヴヴェーに移住して家族と共に静かな日々を過ごしながら、イギリスで最後の主演作『ニューヨークの王様』(57)と、マーロン・ブランドとソフィア・ローレンを主演に迎えた最後の監督作『伯爵夫人』(67)を手掛ける。 72年にはアカデミー協会から特別賞が贈られ、チャップリンは19年ぶりにアメリカに戻って映画ファンの熱烈な歓迎を受けた。 75年にはイギリス政府からはサーの称号が授与され、64年には自叙伝を出版。92年にはこの自伝を基にして『ガンジー』(82)のリチャード・アッテンボロー監督がチャップリンの半生を描いた伝記映画『チャーリー』が公開された。 | ||
紹介作品 | ||
製作/監督/脚本/出演/音楽 | ||
製作/監督/脚本/出演/音楽 | ||