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本名: | アーチボルド・アレック・リーチ | ![]() |
職業: | 俳優 | |
生年: | 1904年1月18日 | |
出身国: | イギリス | |
出身地: | ブリストル | |
没年: | 1986年11月29日 | |
代表作: | 『赤ちゃん教育』(38) 『めぐり逢い』(57) 『北北西に進路を取れ』(59) | |
決して裕福とはいえない家庭に生まれ、子供の頃は病弱だったため過保護に育てられた。
10歳の時に母親が失踪。映画好きだったグラントは役者だった祖父の影響もあって俳優を志すようになり、
少年のアクロバット団「ペンダース一座」が新人を募集していることを知ると、父親に無断で家を抜け出し、年齢を偽ってオーディションに参加。見事合格する。
パントマイムやアクロバットの厳しい練習に耐えて一座の舞台に立つようになり、入団してから3ヵ月後には大きな役がつくようになった。
1918年にはアメリカ公演に参加。『グッド・タイムス』と名づけられたショーはブロードウェイで大きな成功を収め、全米での巡業も成功裏に終わった。
公演終了後、グラントは帰国せずアメリカに留まる事を決意。
遊園地の売り子やベンダース一座の仲間と共に地方巡業に出て生活費を稼いでいたが、27年にはハマースタインのオペレッタ『黄金の暁』に出演。
続く『ポーリー』では主役に起用されて好評を博し、以後『ロザリー』やジャネット・マクドナルド共演の『ブーム・ブーム』などのヒット舞台に出演。
この頃、パラマウント社のスクリーン・テストを受けたが、採用は見送られた。
舞台に戻ったグラントは『ストリート・シンガー』や『ニッキ』に出演。31年にはパラマウントの短編映画『Singapore Sue』の船乗り役で映画デビューを果たした。
翌32年には再びパラマウントのスクリーン・テストを受け、今回は見事合格。
長期契約を結び、『ニッキ』の主人公ケーリー・ロックウッドから取ったケーリー・グラントの芸名で、ゲーリー・クーパーの後継者として売り出された。
ソフィスティケーティッド・コメディ『その夜』(32)で長編映画デビューを果たし、クーパーの企画だった『七月の肌着』(32)や、
マレーネ・ディードリッヒと共演した『ブロンド・ヴィナス』(32)など32年だけで7本の映画に出演。
33年には舞台出身のメイ・ウェストに気に入られて『わたしは別よ』(33)に出演。貫禄あるウェストの相手役を堂々と務めて、続く『妾は天使ぢゃない』(33)でも共演を果たした。
以後、イギリス訛りの英語にアメリカ的なアクセントを加えた独特のしゃべり方と、甘いマスクをトレード・マークに、ハリウッドで最も信頼できる男優として活躍。
33年には『街の灯』(31)のヒロイン、ヴァージニア・チェリルと恋に落ちて結婚。理想のカップルと言われたが、長くは続かず35年に離婚した。
36年にパラマウントとの契約が終了すると、再契約を断って独立。
当時、俳優の独立は珍しかったが、出演作を自由に選べるようになったグラントは、
コメディ『男装』(36)、メロドラマ『間奏楽』(36)、アドベンチャー大作『ガンガディン』(39)など質の高い作品に出演して安定した人気を獲得。
30年代中頃からスクリューボール・コメディがブームになると『新婚道中記』(37)、『赤ちゃん教育』(38)、『フィラデルフィア物語』(40)、『ヒズ・ガール・フライデー』(40)などに出演。
洗練された男の魅力とアクロバティックなコメディ演技のミスマッチ、女優たちとの丁々発止の駆け引きが大いに受けて更なる人気を獲得した。
41年にはアルフレッド・ヒッチコック監督のスリラー『断崖』に出演し、複雑で心理的なキャラクターを見事に演じて新境地を開拓。
同年のアイリーン・ダン共演のメロドラマ『愛のアルバム』(41)ではアカデミー主演男優賞に初ノミネートされた。
チェリルと離婚後はフィリス・ブルックスやジンジャー・ロジャースといった女優たちと浮名を流し、
42年には富豪の娘バーバラ・ハットンと再婚。しかし、生活習慣や趣味の違う二人の結婚は長くは続かず45年に離婚した。
戦争が始まると、戦時債権募集キャンペーンや兵士の慰問活動に参加。
戦意高揚映画『Destination Tokyo』(43)では潜水艦の艦長を熱演し、
ブラック・コメディ『老嬢と毒薬』(44)ではフランク・キャプラ監督の演出のもとで得意のドタバタ演技を披露。
グラントお気に入りのドラマ『孤独な心』(44)では二度目のオスカーにノミネートされたが、受賞には至らなかった。
戦後はヒッチコックと再び組んだスパイ・スリラーの傑作『汚名』(46)や、クリスマス映画の定番『気まぐれ天使』(47)などに出演し、
49年には若手女優のベッツィ・ドレークと再婚。
50年代に入ると『危機の男』(50)や『モンキー・ビジネス』(52)などに出演するがヒットに恵まれず、『ローマの休日』(53)、『スタア誕生』(54)、『戦場にかける橋』(57)などのヒット作への出演を辞退。
53年には引退をほのめかすが、ヒッチコックのたっての希望で『泥棒成金』(54)に出演。
グレース・ケリーを相手に元宝石泥棒をエレガントに演じて絶賛を浴び、映画を大ヒットに導いた。
『泥棒成金』の成功によって第二の黄金期が始まったグラントのもとには出演依頼が殺到。
スペイン・ロケを行った『誇りと情熱』(57)ではイタリア女優ソフィア・ローレンと共演。
グラントはローレンに夢中になるが、恋人のいるローレンは興味を示さず、グラントを失望させた。
56年の『無分別』では『汚名』以来の共演となったバーグマンと息の合った演技を披露。
また、同年には独立プロ、グラナード・プロダクションを設立して、トニー・カーティス共演のコメディ『ペティコート作戦』(59)を製作。グラント出演作の中でも最高の収益を上げた。
メロドラマの古典となった『めぐり逢い』(57)ではデボラ・カーとのすれ違いの恋に苦悩する男を演じ、
『北北西に進路を取れ』(59)では気心の知れたヒッチコックの演出の下でスパイに間違われた男を好演。
好調なキャリアとは裏腹にドレイクとの結婚生活もうまくいかず、別居してから精神療法を受けるようになり、麻薬のLSDにも手を出すようになった。
60年代に入ってもドリス・デイ共演の『ミンクの手ざわり』(62)や、
オードリー・ヘプバーン共演の『シャレード』(63)などで若手女優を相手に衰えることのないセックス・アピールで観客を魅了。
ドレイクとは62年に離婚して、65年には33歳年下の若手女優ダイアン・キャノンと再婚。一子もうけたが、やがて別居。
この時ダイアンはグラントがLSDを常用していることを暴露し、LSDを服用すると暴力的になる事が明るみに出て、映画の役柄とは正反対の退廃した私生活は世間を驚かせた。
日本ロケを敢行した東京オリンピックが題材の『歩け、走るな』(66)を最後に映画界からの引退を宣言。
68年には化粧品会社ラエット=ファベルジュの重役に就任し、
70年には一度もオスカーを受賞していないグラントにアカデミー名誉賞が贈られ、86年心臓発作が原因でこの世を去った。
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