クラシック映画用語辞典

- ア行 -

RKO(アール・ケイ・オー)

RKOハリウッドの黄金期の5大メジャー・スタジオの中で最も小さいスタジオ、ラジオ・キース・オルフェウムの略称。1921年に独立プロデューサーのロバートソン・コールが、ハリウッド共同墓地から13エーカーを譲り受けて、ロバートソン・コール・プロダクションを設立。やがて会社はフィルム・ブッキング・オフィス(FBO)となり、26年には後に35代合衆国大統領となるジョン・F・ケネディの父親ジョセフ・P・ケネディよって買収される。トーキーに興味を示すケネディは、映画の音響システム「フォトフォーン」の特許所有者で、ラジオ会社RCA(ラジオ・コーポレーション・オブ・アメリカ)の社長デイヴィッド・サーノフと組んでスタジオを合併。キース・アルビー・オルフェウムから700の劇場チェーンを譲り受けて、社名をRKOラジオ・ピクチャーに改める。最初のトーキー『Syncopation』は商業的成功を収めて、30年代はウォルト・ディズニー製作の短編アニメーションや、『白雪姫』(38)、『ファンタジア』(40)などの長編アニメーションの配給、キャサリン・ヘプバーン主演の『愛の嗚咽』(32)や『若草物語』(33)フレッド・アステアジンジャー・ロジャース共演のダンス・ミュージカル『コンチネンタル』(34)や『トップ・ハット』(35)、怪奇映画の金字塔『キング・コング』(33)などの質の高いヒット作に恵まれ、31年には大河ウェスタン『シマロン』でスタジオ初のアカデミー作品賞を手にする。40年代に入るとオーソン・ウェルズの映画史に燦然と輝く『市民ケーン』(41)『偉大なるアンバーソン家の人々』(42)アルフレッド・ヒッチコック監督の『断崖』(41)や『汚名』(46)、ジョニー・ワイズミュラー主演の『ターザン』シリーズなど古き良きハリウッドの名作を量産するが、創立以来幾度ものオーナー交代による経営危機を脱することは出来ず、興行的な不振も続いて、第二次世界大戦時は「空襲の時は、当り(ヒット作)のないRKOに非難しろ」とジョークのネタにされたほどだった。48年には億万長者で実業家のハワード・ヒューズが当時としてはハリウッド史上最高の880万ドルでスタジオを買収。大幅な人員削減を行い、過去のRKO作品を売りに出した。52年にヒューズはスタジオを閉鎖し、55年にスタジオをジェネラル・タイヤ・アンド・ラバー社の子会社であるジェネラル・テレラジオ社に売却する。テレラジオ社は、RKOが製作した740本の映画のテレビ放映権を売却して資金を調達し、破綻したスタジオの復興を試みるが57年に倒産。その後、撮影所はテレビ・ドラマ『ルーシー・ショー』の主演俳優ルシル・ボールとデジー・アルナズの会社デジールー・プロダクションの手に渡った。



赤狩り(レッド・パージ) / McCarthyism

米ソの冷戦が激化していた40年から50年代に、共和党のジョセフ・マッカーシーらが中心となって行った非米活動委員会(HUAC)による極端な反共主義とこれに関連する一連の思想、言論、政治活動を弾圧する運動で、アメリカではマッカーシーの名前を取って「マッカーシズム」と呼ばれている。日本でも連合国司令部の指示によって50年の6月から行われた。1947年HUACの委員長であった下院議員のJ・パーネル・トーマスによって調査委員会がワシントンで組織され、当時下院議員だった元合衆国大統領のリチャード・ニクソンも委員会のメンバーとしてその名を馳せた。委員会にとって、ハリウッドのスターや有名人を召喚する事は、彼等の行動を一般大衆にアピールするための格好の宣伝となるために、俳優のロバート・テイラーやゲーリー・クーパーといった共産主義者及びそのシンパの疑いのある映画人たちが次々と召喚された。赤狩りが映画産業を崩壊しかねないと感じた俳優のハンフリー・ボガートや監督のジョン・ヒューストンたちは、アメリカ合衆国憲法第一修正条項の規定にある思想と政治的信条の自由をHUACが侵害しているとして「第一修正条項委員会」を発足。ワシントンに乗り込んで抗議を行うが、委員会の力が強くなるに連れて反対運動は次第に衰えていった。また、委員会の圧力を恐れたハリウッドの映画スタジオは、共産党員及びシンパの疑いがある人物や、委員会への証言を拒否した人物のブラック・リストを作成して、このリストに名前が載った映画人たちをアメリカの映画界から追放する。1953年までには『緑色の髪の少年』(48)の監督ジョセフ・ロージーや、『ジョルスン物語』(46)の俳優ラリー・パークスを含めて324人もの映画人がハリウッドのブラック・リストに記録された。このハリウッドの暗黒時代の中で、「ハリウッド・テン」のように権利章典を楯に証言を拒否して委員会に敢然と立ち向かう者もいたが、監督のエリア・カザンや、俳優のリー・J・コッブのように仕事を続けてゆくために仲間を裏切る者も続出した。喜劇王チャールズ・チャップリンも共産党員のレッテルを貼られた一人で、72年に『ライムライト』(52)が公開されるまでアメリカに再入国する事を禁じられていた。アメリカではその狂信的で過激な行動が反発を買って、1954年12月上院の問責決議がなされて下火となるが、ハリウッドでの赤狩りの影響は50年代の終りまで続いていた。



アカデミー賞(オスカー) / Academy Awards

2002オスカー・ポスターハリウッドで行われる映画賞の一つで、映画芸術科学アカデミー(A.M.P.A.S.)が、毎年1回、最も優秀な作品、俳優、監督たちに対してM-G-M社の美術監督セドリック・ギボンズが、フィルムのリールの上に立つ剣を持った騎士のイメージをもとにデザインし、ロサンゼルスの彫刻家ジョージ・スタンリーが作成した「オスカー」と呼ばれる黄金像を与える。アカデミー賞のノミネーションは各部門のアカデミー会員によって選ばれ、最終的な投票はどの部門に関してもアカデミー会員全員の投票によって行われる。1回目の授賞式は1928年ロサンゼルスのルーズヴェルト・ホテルで開かれ、カテゴリーはわずか12部門で、授賞式自体は4分半ほどだった。後年、ラジオやテレビの普及によって一般の人々もリアルタイムで結果を知ることが出来るようになってからは、授賞式はショー形式になり、現在では毎年何千万人もの人々が授賞式をテレビで鑑賞している。知名度が高いためアカデミー賞の受賞効果は抜群で、作品賞には1000万ドルの価値があるといわれ、作品賞を受賞した映画の興行収入は受賞後は最低でも約15%は伸びるために、映画スタジオは自社の作品をノミネート、または受賞させるために莫大な宣伝費を使って派手な宣伝合戦を繰り広げるようになる。しかし、世界で最も有名な映画賞ながら、オスカーの行方はスタジオの政治力や派手な宣伝キャンペーンによって左右されるため、『風と共に去りぬ』(39)[8部門受賞]、『ベン・ハー』(59)[11部門受賞]、『タイタニック』(97)[11部門受賞]のように大掛かりなキャンペーンによって話題の集中した作品が賞を大量に受賞することが多く、その年の最高傑作が受賞することはまれである。



アクターズ・スタジオ / Actor's Studio

1947年にグループ・シアターのメンバーだったエリア・カザン、リー・ストラスバーグらがニューヨークの44丁目に創設した演技者のための学校。ここでは、モスクワ・アート・シアターの舞台監督コンスタンティン・スタニスラヴスキーによって考え出された、自分の経験を役に投影する自然でリアルな演技テクニック「メソッド」を教えている。スタジオへの入学は非常に難しいものの、一度入学を許されると、いつでもスタジオに戻って指導を受けることが出来る。「メソッド演技」はアクターズ・スタジオ出身のマーロン・ブランドジェームス・ディーンらによってハリウッドに持ち込まれ、彼らの自然な演技はハリウッド映画の演技スタイルに大きな影響を与えた。主な卒業生はジャック・ニコルソン、ロバート・デ・ニーロ、アル・パチーノ、スティーブ・マックィーン、ポール・ニューマン、マリリン・モンロー



アバンギャルド映画(前衛映画) / Avant-garde Cinema

20年代にヨーロッパで興った前衛映画運動。エンターテイメントを追求する一般映画とは一線を画し、古典的なものを否定して新しい芸術的表現を模索していた芸術家たちは、スクリーンをキャンバスに見立てて新しい映像による芸術的な表現の可能性を追求して難解な映画を続々と製作する。ルイス・ブニュエル監督が、シューレアリズムの画家サルバトーレ・ダリと組んで制作した17分の短編『アンダルシアの犬』(28)によってアバンギャルド映画は一つの頂点を極める。50年代頃から活動が注目されだしたニューヨークを拠点に活動したオフ・ハリウッド派の映像作家たちは前衛的な作品も数多く制作し、ポップ・アートの草分け的存在である芸術家のアンディ・ウォーホルは、眠りや食事、散髪など日常的な行動を延々と撮った奇妙な映画を数多く製作した。



アメリカン・ニューシネマ(ニューシネマ) / American New Cinema

60年代後半から70年代にかけて製作された、当時の怒れる若者たちの心情を反映して、リアルな人間像を過激な暴力や性描写で描いた映画。60年代のアメリカでは、ベトナムにおける戦争の泥沼化によって若者たちによる反戦、反体制運動が激化し、これらはアメリカが抱えていた様々な矛盾を表面化させる。アメリカの若い映画監督たちはこの矛盾に疑問を投げかけて、楽天的なハッピーエンド主義のハリウッド映画に挑戦するかのように、ハリウッド映画のタブーを無視して斬新な内容や表現を含んだ全く新しい映画を製作するようになる。67年に公開されたアーサー・ペン監督による『俺たちに明日はない』は、若者たちの無軌道な生きざまを過激なバイレンスを織り交ぜて描いてハリウッド映画にセンセーションを巻き起こし、その後、恋人の母親との不倫を扱ったマイク・二コルズ監督の『卒業』(67)や、ドラッグに溺れる無軌道なヒッピーの姿をデニス・ホッパーが監督、主演で描いた『イージー・ライダー』(69)など過去のハリウッド映画には見られないアメリカの旧体制に反発した自由で過激な映画が続々と発表された。「ニューシネマ」と呼ばれたこれらの作品の登場によって、映画の性描写、暴力描写、そして台詞の表現は一段と過激になった。「ニューシネマ」という表現は『俺たちに明日はない』を特集したタイム誌の見出し「ニューシネマ/暴力・・・セックス・・・芸術」から取られたもの。



アンダーグラウンド映画(オフ・ハリウッド,ニューヨーク派)/Underground Film

1940年代から60年代にかけて映画の都であるハリウッドの外で製作され、前衛的で商業映画ではタブーとされるテーマやストーリーを扱った映画をさす。日の当る(注目を浴びる)場所であるハリウッドで製作する映画人とは反対に、アンダーグラウンド映画の作り手たちはあまり注目を浴びず、人の目につかない場所である地下 (アンダーグラウンド)で活動する印象を与えるためにこう呼ばれた。また、彼らの本拠地がニューヨークであったため「ニューヨーク派」、または「オフ・ハリウッド派」とも呼ばれている。黒人問題扱った『アメリカの影』(59)で一注目を浴びた監督で俳優でもあるジョン・カサベテスや、眠る男を8時間にわたって記録した『眠り』(63)を撮ったポップ・アーティストのアンディ・ウォーホルたちがニューヨークを中心に活躍し、彼らの作風は後に本場のハリウッドにまで影響を与えるようになる。



一人称映画 / First Personal Movie

キャメラが主人公の目になって動き、観客は始めから終わりまで主人公の視点から観賞する映画を指す。オーソン・ウェルズがこの斬新なテクニックを使ってジョセフ・コンラッドの小説『闇の奥』の映画化を試みるが、予算の関係で失敗に終り、47年に製作されたロバート・モンゴメリー扮する名探偵フィリップ・マーロウの視点からストーリーが進行する『湖中の女』がこのジャンルのはしりとなる。この映画の出来があまり良くなかったため、この作品以後一人称映画はあまり作られなくなるが、キャメラがキャラクターの目になって動くという手法はキャラクターの感情表現や観客の恐怖感を煽るのに適しており、同年の『潜行者』や『13日の金曜日』シリーズ(80〜93)などのサスペンスやホラー映画に多用される。



異常心理映画 / Neurotic Picture

ニューロティック映画



イタリアン・リアリズム / Italian Realism

ネオ・リアリスモ



ウェスタン(西部劇) / The Western

19世紀後半のアメリカ西部開拓期を舞台に、カウボーイや開拓者たちを主人公にしたアメリカの時代劇とも言える、ハリウッドがもっとも得意としたジャンル。最初の本格的な西部劇は、史上初めて本格的な筋書きを持った映画としても知られるエドウィン・S・ポーター監督による1903年の『大列車強盗』だと言われている。それ以後、ウェスタンは人気のジャンルとなるが、内容は陳腐なものが多く子供向けのアクション活劇の域を出ることはなかった。しかし、ジョン・フォードハワード・ホークスらの登場によってアクションだけでなく素晴らしい物語を持った良質のウェスタンが数多く登場して、40年代頃までにはハリウッド屈指のジャンルとして定着するようになる。砂埃が舞い、欲望が渦巻く西部のフロンティアで活躍する人間たちのドラマは、善と悪の対決というシンプルな物語に一括されがちであるが、個人と社会、荒野と文明、西部と東部の闘争を通して語る数々の抒情詩はフォード監督の『駅馬車』(39)『荒野の決闘』(46)といった伝統的な西部劇から、ミュージカルを融合した『カラミティ・ジェーン』(53)、フィルム・ノワールの影響を受けた『追跡』(47)、リアリズムを重視した『真昼の決闘』(52)など様々なジャンルを網羅し、ジョン・ウェインゲーリー・クーパーといった数多くの西部劇スターを生み出してゆく。60年代の中頃には残酷描写を売りにしたイタリア製のマカロニ・ウェスタン(アメリカではスパゲッティ・ウェスタンと呼ばれている)が世界的な人気を博し、クリント・イーストウッドやジュリアーノ・ジェンマらを一躍トップ・スターに押し上げた。アメリカでは登場人物たちが馬に乗っていることから「ホース・オペラ」とも呼ばれている。



ウォルト・ディズニー / Walt Disney Company

ミッキーマウスを初めとする数々の愛らしいキャラクターと、大人も子供も楽しめる親しみやすい物語のアニメーションや実写映画を数多く製作して世界的な人気を誇る映画スタジオ。スタジオの生みの親ウォルト・ディズニーと後に彼の片腕となるアブ・アイワークスと共にアニメーション製作会社を設立してハリウッドに進出。23年にウォルトの兄ロイ・ディズニーが共同経営者となってスタジオの母体を確立する。『兎のオズワルド』シリーズでスタジオは軌道に乗り、28年の『蒸気船ウィリー』で初めて登場したネズミのミッキーマウスが好評を博す。その後ウォルトは音と映像のシンクロや、テクニカラーの採用などアニメーションの革新に積極的に挑み、37年には初のオールカラーの長編アニメーション『白雪姫』を製作。映画はその年最大のヒットを記録して、トップ・アニメーション・スタジオとしてハリウッドに君臨する。その後もクラシック音楽とアニメーションを融合させた『ファンタジア』(40)や実写とアニメーションの合成が見事なミュージカル映画『メリーポピンズ』(64)を製作して高い評価を得る。55年、ウォルトはロサンゼルスに大型アミューズメント・パーク「ディズニー・ランド」を建設。大人から子供まで年齢を超えて楽しめるテーマパークとして高い人気を得て、後にフロリダ、東京、ヨーロッパにも建設される。66年にウォルトが死亡すると、家族映画離れからアニメーションの収益は下降してスタジオは低迷するが、83年に発足した一般映画部門「タッチストーン・ピクチャーズ」が『スプラッシュ』(84)や『ロジャー・ラビット』(88)などのヒット作を次々と製作してスタジオは再び軌道に乗り、老舗のアニメーション部門も89年の『リトルマーメイド』のヒットで息を吹き返し、『アラジン』(92)や『ライオン・キング』(94)などの大ヒット作を量産する。89年にはもう一つの一般部門「ハリウッド・ピクチャーズ」を設立し、93年には良質の独立系映画や外国語映画を製作、配給する「ミラマックス」を傘下に収める。95年にはアメリカの3大ネットワークの一つABCを買収して、世界第2位のメディア企業となった。



AIP(エー・アイ・ピー) / American International Pictures

50年代から80年代にかけてB級映画を製作、配給したスタジオ。サミュエル・Z・アーコフとジェームズ・H・二コルソンによって54年に設立されたARC(アメリカン・リリーシング・コーポレーション)が前身となり、56年に社名をAIP(アメリカン・インターナショナル・フイルムズ)に改称する。当時映画界を脅かしていたテレビに対抗するため、映画人口の大半を占める10代の若者たち向けに製作したB級映画を、ドライブイン・シアターを中心に配給する新たなダブル・フューチャー(二本立て興行)を確立し、『戦慄!プルトニウム人間』(57)や『アッシャー家の惨劇』(60)など若者に人気のSF映画やホラー映画などをロジャー・コーマンやバート・I・ゴードンらに少ない予算で製作、監督させて高収入を上げる。60年代に入ると海外との合作や、海外で製作された作品の配給にも力を入れるようになり、日本のゴジラ・シリーズを輸入してアメリカで配給する。また、若い映画人に活動の場を積極的に与え、マーティン・スコセッシ、ジョナサン・デミ、フランシス・フォード・コッポラ、ウディ・アレンといった現在ハリウッドで活躍する名監督たちにデビューの機会を与えた。しかし、70年代になると業績は次第に悪化し、79年にはフィルム・ウェイズ社に併合された。



映画芸術科学アカデミー(A.M.P.A.S.) / Academy of Motion Picture Arts and Sciences

映画界の芸術や技術研究などの向上を目的に設立されたハリウッドの非営利組織。1927年5月11日にスタジオ経営者のルイス・B・メイヤーやアーヴィング・G・タルバーグ、女優のメアリー・ピックフォード、興行主のシド・グローマンら36名のハリウッドの有力な映画関係者によって設立され、初代会長には俳優のダグラス・フェアバンクスが選出される。設立当初の真の目的は、スタジオの労働者を統括して、労働組合の結成を阻止することだったが、現在の主な活動内容はフィルム、書籍、スチール写真、ポスター、脚本など映画関係資料の保存や活用、そして初代会長フェアバンクスの発案で翌28年から始まり、今では年に一度のハリウッドの祭典となったアカデミー賞の授与などである。



映画製作倫理規定(映倫) / Production Code

プロダクション・コード



SF(サイエンス・フィクション)映画(空想科学映画)/Science Fiction Films

宇宙や未来の世界、異生物との遭遇など空想の世界や出来事を扱った映画をさす。フランスのジョルジュ・メリエスによって1902年に『月世界旅行』が発表されると、そのトリックの斬新さで世界的な大ヒットとなり、SF映画という新しいジャンルが生み出さる。第二次世界大戦によって急速に発達した科学技術は人類の目を再び異世界へと向けさせる事ととなり、ジョージ・パルが50年に発表したSF映画『月世界征服』のヒットを皮切りにしてハリウッドではSF映画が再びブームとなるが、『未知との遭遇』(77)や『E.T.』(82)のような人類と宇宙人の交流を描いたファンタジー色の濃いものではなく、冷戦による共産主義への恐怖を反映した宇宙人の侵略物[『地球の静止する日』(51)、『宇宙戦争』(53)、『ボディ・スナッチャー / 恐怖の街』(56)]や、核実験による突然変異体が人間を襲う映画[『原子怪獣現わる』(53)、『放射能X』(54)]が主に製作されて当時の世相を反映する。



M-G-M(エム・ジー・エム) / Metro-Goldwyn-Mayer

MGMライオンが吼えるトレード・マークでおなじみの、『オズの魔法使』(39)『ベン・ハー』(59)を制作したハリウッド黄金期のメジャー・スタジオの一つ、メトロ・ゴールドウィン・メイヤーの略称。元劇場経営者のマーカス・ロウが買収した製作会社「メトロ・ピクチャーズ」、サミュエル・ゴールドウィンが1916年に創設した「ゴールドウィン・スタジオ」、ルイス・B・メイヤーが1917年に創設した「ルイス・B・メイヤー・プロダクション」の3つの映画スタジオが合併して24年にM-G-Mが創設される。会長のルイス・B・メイヤーと「ボーイ・ワンダー」と呼ばれた敏腕製作者アーヴィング・G・タルバーグの指揮の下に、30年代までには映画業界をリードするトップ・スタジオに成長する。世界最大の映画スタジオと呼ばれ、撮影所だけでなく病院、売店、鋳物工場、食堂が立ち並ぶ180エーカーもの敷地には俳優から技術者に至る5千人もの人々が昼夜を問わず休みなく働いていた。「ハリウッド・キング」クラーク・ゲイブルを筆頭に、グレタ・ガルボスペンサー・トレイシージョーン・クロフォードジェームズ・スチュワートエリザベス・テイラーといった専属スターを擁して、その数は「天国よりも多くのスターを擁するスタジオ」と評されたほどだった。40年代中頃までは第一の黄金期を謳歌し、『グランド・ホテル』(32)や『戦艦バウンティ号の叛乱』(35)など、豪華なセットや衣装と人気絶頂のスターたちを売りにした多彩なジャンルの映画を年間に40本から50本近く生産して一大栄華を築く。40年代から50年代はM-G-Mミュージカル映画の最盛期で、名プロデューサー、アーサー・フリードらが手掛けた『イースター・パレード』(48)『巴里のアメリカ人』(50)『雨に唄えば』(53)といったフレッド・アステア、シド・チャリシー、ジーン・ケリージュディ・ガーランドらミュージカル・スターたちが唄って踊る豪華絢爛なシネ・ミュージカルは世界中の映画ファンを魅了した。しかし、巨大になりすぎた社の製作方針は時代の流れに折り合わず、60年代頃から次第に衰退してゆき、『ドクトル・ジバゴ』(65)や『2001年 宇宙の旅』(68)といったヒット作に恵まれながらも、73年には配給部門を整理して、ユナイテッド・アーティスツ社が配給権を管理する。81年にはユナイテッド・アーティスツと併合して社名をMGM/UAに変更。86年にはメディア王テッド・ターナーが買収してテレビ局TBSの傘下となるが、89年にスタジオ施設は売却される。90年にはパテ・コミュニケーションが買収し、92年にフランスの銀行クレジット・ライオネイが新しいオーナーとなり『ゲット・ショーティ』(95)や『ハンニバル』(01)などのヒット作を発表して好調ぶりをアピールしている。有名なライオンのトレード・マークはゴールドゥイン社が使っていたもので、マークに登場するライオンの正式な名前は「レオ」という。



オスカー / Oscar

アカデミー賞の俗称であるが、本来は受賞者に手渡される黄金像に付けられたニックネームである。アカデミーの事務員だったマーガレット・へリックが、黄金像が自分の叔父のオスカー・ピアス氏にそっくりだと言ったことが名前の由来とされているが、映画コラムニストのシドニー・スコルスキーや女優のベティ・デイヴィスが命名したという説もある。



オフ・ハリウッド派 / Off Hollywood

アンダーグラウンド映画



オムニバス映画 / Omnibus Movies

「オムニバス」とは乗り合い自動車の意味で、そこから短編、または中篇の映画をいくつか集めて一本の映画にしたものをさす。ハリウッドでのオムニバス映画の需要は高くなく、あまり作られることはなかったが、53年にはイギリスのオムニバス映画の成功に刺激されて、O・ヘンリーの短編をハワード・ホークス、ジーン・ネグレスコら5人の第一線の映画監督たちが人気スターを贅沢に使って映画化した『人生模様』が公開された。




- カ行 -

怪奇映画 / Monster Films

人間の想像を絶する恐ろしい怪物と人間達の対決を描く映画。最初の怪奇映画は映画の創生期にメアリー・シェリーの小説を基にトーマス・エジソンが製作した16分の短編『フランケンシュタイン』だと言われている。ドイツ映画の『カリガリ博士』(19)がヒットすると、ハリウッドでもユニヴァーサル社を中心に怪奇映画が作られ始め、「千の顔を持つ男」の異名を持つロン・チャーニー主演の『ノートルダムのせむし男』(23)や『オペラ座の怪人』(25)が人気を博す。31年にユニヴァーサルが製作したベラ・ルゴシ主演の『魔人ドラキュラ』と、ボリス・カーロフ主演の『フランケンシュタイン』は大恐慌に苦しむ人々の共感を呼んで共に大ヒットを記録し、怪奇映画というジャンルをハリウッドに定着させ、狼男、オペラ座の怪人、キング・コング、半魚人といった様々なモンスターを主人公にした怪奇映画が続々と製作される。特に、死への誘惑を象徴する「ドラキュラ」、神の領域を犯した人間の愚かさを象徴する「フランケンシュタイン」、そして人間の野性の本能を象徴ともいえる「狼男」は、怪奇映画の三大モンスターとして長年にわたって人気を博す。



カットバック / Crosscut or Parallel Cut

二つ以上の異なる画面を交互に写し出す編集の手法で、「切り返し」とも呼ばれる。二つのものを対立させたり、作り手の主観を伝えるために使われることが多い。



カラライゼーション / Colorization

モノクロ(白黒)の映画にコンピューターを使って色を付ける作業。『フィラデルフィア物語』(40)『カサブランカ』(42)『素晴らしき哉、人生!』(46)、『34丁目の奇跡』(47)等のモノクロ映画の傑作がカラー化されるが、ベタ塗りで人工的なイメージが強い色彩は、逆にモノクロの良さ、奥の深さを再認識させる。M-G-M社やRKO社が製作したクラシック映画の権利を所有していたメディア王テッド・ターナーがモノクロ映画のカラー化をリードしていたが、クラシック映画のカラー化は製作者の意図に反するという理由から、マーティン・スコセッシやウディ・アレンといった現在ハリウッドで活躍する映画人から非難される。



カルト・ムービー / Cult Movies

世間一般には無視され、興行的に惨敗しながらも、一部のファンには熱狂的に支持される映画を指す。カルト・ムービーはエド・ウッド監督の『プラン9・フロム・アウター・スペース』(59)ような一般的に知名度の低い作品だけでなく、公開当時はその作品の面白さや素晴らしさが理解されずに黙殺された『チャップリンの独裁者』(40)や『黒い罠』(58)などの現在では名作や傑作として認知されている作品もカルト・ムービーに属する。



戯曲 / The Play

『欲望という名の電車』(50)や『去年の夏突然に』(59)といったテネシー・ウィリアムズの作品に代表される、上演する目的で書かれた演劇の脚本、または脚本形式で書かれた文学作品。



キネトグラフ / Kinetograph

アメリカの発明王トーマス・エジソンがイギリス生まれの発明家W・K・L・ディクソンと共に1889年に開発した世界最初の映画撮影カメラ。撮影にはジョージ・イーストマンが開発した、セルロイドの35ミリ透明ロールフィルムが使用された。6年後の1895年にはフランスのリュミェール兄弟が同じく35ミリのフィルムを用いる「シネマトグラフ」を開発。1秒間で16コマの画像を撮影する手法はサイレント映画の標準速度となる。



キネトスコープ / Kinetoscope

アメリカの発明王トーマス・エジソンとW・K・L・ディクソンが開発した最初の活動写真の映写機(「キネト」は英語で「動く」を意味する)。しかし現在のようなスタイルではなく、ピーピング(覗き見)・スタイルで、約40フィートのフィルムを1秒46コマの速度で約30秒間回転させ、鑑賞は覗きメガネ式の装置で行っていた。1894年に登場した最初のキネトスコープ小屋「キネトスコープ・パーラー」には5台のキネトスコープが設置され、観客は1台ずつ順番に覗いて映画を鑑賞していた。エジソンはスクリーンに投影する映写装置(バイタスコープ)を完成させてはいたものの、人々は音のない映画にお金を払わないと考え、キネトスコープ本体の販売で利益を得ていた。そのため映画の始祖の栄誉をフランスの興行師リュミェール兄弟に譲る事になる。



ギャング映画 / Crime Films

アメリカの裏の世界を舞台に、夜の大都会に巣食うギャング達の抗争を暴力的に描いた映画を指す。1920年にアメリカでは禁酒法が発令されたが、ギャングたちはこれを破って密造酒を販売し、この利益をめぐったギャング達の抗争が20年代後半から表面化する。毎日のように報道されるギャング達の抗争のニュースは、映画スタジオの格好の素材となり、メジャー・スタジオのワーナー・ブラザーズ社が先頭に立ってエドワード・G・ロビンソン、ジェームズ・キャグニー、ジョージ・ラフトといった俳優たちを起用してギャングを主人公にした映画を量産する。ギャング映画が隆盛を極めるのはトーキー時代に入ってからで、効果音の導入による派手なマシンガンや拳銃の轟音、ギャング独特のタンカやスラングなどによってギャング映画の人気は頂点に達し、暗黒街のボスにのしあがった男の栄光と破滅を描くマーヴィン・ルロイ監督の『犯罪王リコ』(30)や、アル・カポネをモデルにした変質的なギャングの数奇な運命を描いたハワード・ホークス監督の『暗黒街の顔役』(32)等の傑作が生まれる。しかし、犯罪者をヒーローとして描くハリウッドのやりかたに人々は難色を示し、プロダクション・コードによる規制もあって、ギャングはヒーローとしてではなく人生の敗北者として描かれることが多くなる。



空想科学映画 / Science Fiction Films

SF映画



グランド・ホテル形式

特定の出来事、又は特定の場所に集まった人々の人間模様を、複数のスター俳優を起用して描く映画を指す。ベルリンの高級ホテルを舞台に、様々な人生の交錯をグレタ・ガルボやジョン・バリモアといった30年代のM-G-Mの看板スターを総動員して描いた『グランド・ホテル』(32)がこのジャンルのはしり。70年代には、『ポセイドン・アドベンチャー』(72)や『タワーリング・インフェルノ』(74)など、国際色豊かなオール・スター・キャストで描いたグランド・ホテル形式のパニック映画が大量に製作された。



コロムビア / Columbia

コロムビア有能なシナリオライターを抱え、彼らの機知に富んだ都会的な脚本を基に良質のコメディやドラマを制作して名声を博した映画スタジオ。ユニヴァーサル社の社員だったジョー・ブランデンと、ハリーとジャックのコーン兄弟が1920年に設立したCBCセールス・フィルム・コーポレーションが前身となり、その4年後の1924年にスタジオのイメージアップを図って社名をコロムビアに変更する。ハリーがスタジオを仕切って製作を担当し、配給先の劇場を持たないスタジオの為にジャックがニューヨークから配給を担当して好スタートを切り、トム・マッコイやバック・ジョーンズ主演のB級ウェスタンや『バットマン』等の連続活劇を手掛ける。また、「三バカ大将」主演のコメディ・シリーズや、ハリーが招いたフランク・キャプラ監督が手掛けた一連のハートウォーミング・コメディやメロドラマの成功によってスタジオとしての地位を確立。経営を司るコーン兄弟の権力抗争は凄まじいものであったが、32年にハリーを追放しようとしたジャックの陰謀を打破すると、ハリーは名実ともにコロムビアのタイクーンとして君臨する。お抱えの映画スターを持たず、他のスタジオから借り受けて映画を製作するが、34年にクラーク・ゲイブルとクローデット・コルベールを他社から借り受けてキャプラ監督が手掛けた『或る夜の出来事』が大ヒットを記録。スタジオに初のアカデミー賞をもたらすとスタジオは勢いに乗り、ジェームズ・スチュワート(M-G-M)や、キャサリン・ヘプバーン(RKO)といった他社の有名スターを起用して『素晴らしき休日』(38)や『スミス都へ行く』(39)『ヒズ・ガール・フライデー』(40)等の質の高いヒット作を続々と手掛ける。 40年代になるとスタジオは娯楽路線に徹するようになり、スターの育成にも力を入れてリタ・ヘイワースを生み出して、『晴れて今宵は』(42)や『ギルダ』(46)等のヘイワース主演のヒット作や、ジーン・オートリー主演のミュージカル・ウェスタン、『バットマン』(43)や『スーパーマン』(48)等の連続活劇の成功によって興行収入は過去の2倍となり、純利益は6倍に達する。しかし、50年代からは芸術路線に転向したことが裏目に出て業績が悪化し、フレッド・ジンネマン、エリア・カザン、デビッド・リーンら独立プロデューサーと組んでアカデミー受賞作『ここより永遠に』(53)『波止場』(54)、『戦場にかける橋』(57)を発表し、51年にはテレビ部門「スクリーン・ジェム」を設立して再起を図るが、業績は不振の一途を辿る。63年には撮影所を売却し、70年代初めには倒産の危機に追い込まれるが、経営者を一新して経営の見直しを図り、『クレイマー・クレイマー』(79)、『未知との遭遇』(80)などのヒット作を手掛けて経営は再び軌道に乗る。82年にはコカ・コーラ社の傘下となり、翌年には新しい製作部門「トライスター」を設立するが、『ゴーストバスターズ』(84)以外のヒット作に恵まれずに、89年には日本企業のソニーが48億ドルで買収して、『ゴジラ』(98)や『スパイダーマン』(02)など人気監督や俳優を起用して大金を投じた娯楽大作を続々と発表する。




- サ行 -

サイレント映画(無声映画) / Silent Movies

チャールズ・チャップリンや、バスター・キートンのスラップスティック・コメディでおなじみの、セリフや音響の無い映画を指す。サイレント映画のセリフやストーリーは画面と画面の間に挿入される字幕(インター・タイトル)、日本では活動弁士によって説明され、音楽は上映時にピアノやオーケストラによって生演奏された。効果音や声を録音する必要がないため、防音のスタジオを必要とせず、悪声でも顔がよくて多少演技が出来れば俳優になることができた。しかし、俳優がしゃべらないとはいえ、カットバック、クローズアップ、移動撮影といった現在の映画の撮影技法やストーリー・テリングを形成したD・W・グリフィス監督による一連の作品や、モンタージュという編集によって製作者の意図を語る手法を確立したセルゲイ・エイゼンシュタイン監督の『戦艦ポチョムキン』(25)など、現在の映画のスタイルを形成した貴重な作品が多く、フランスの前衛映画運動やドイツの表現主義など芸術的な映像表現を追及する実験的な映画もサイレン期に多数製作された。27年に初のトーキー 『ジャズ・シンガー』が公開されるとハリウッドはトーキーに移行してゆき、チャップリンら数名の映画人はサイレント映画を作り続けるものの、トーキーの発展に反比例してサイレント映画は人気を失ってゆく。



災害映画 / Disaster Films

パニック映画



サミュエル・ゴールドウィン / Samuel Goldwyn Company

インディペンデント映画の租と称えられる映画製作者サミュエル・ゴールドウィンによって設立された独立プロダクション。1922年に経営危機に陥ったゴールドウィン社を、メトロ・ピクチャーズならびにルイス・B・メイヤー・プロダクションオと合併させてハリウッドのメジャー・スタジオの一つM-G-M(メトロ・ゴールドウィン・メイヤー)の母体を確立するが、資力の無いゴールドウィンは23年にM-G-Mを脱退して独立プロ「サミュエル・ゴールドルイン」を設立する。ゲーリー・クーパー、スーザン・へイワード、ルシル・ボールといった興行価値の高い俳優達を擁し、監督のウィリアム・ワイラー、脚本家のベン・ヘクトやリリアン・へルマン、カメラマンのグレッグ・トーランドといったハリウッドを代表する有能な人材にも恵まれて、『嵐が丘』(39)、『偽りの花園』(41)などの文芸作品、『教授と美女』(41)、『虹を掴む男』(47)などのコメディ作品、アカデミー賞を受賞した『我等の生涯の最良の年』(46)などの社会派作品等、質の高い娯楽作を数多く製作し高い評価を得て独立系製作会社の先駆けとなる。女優のフランシス・ゴールドウィンの間に生まれた息子のゴールドウィン・ジュニアも55年に独立プロを設立。父親の死後、両プロダクションを合併させて『から騒ぎ』(93)や『ワイルド・アット・ハート』(90)といった低予算ながらも質の高い映画を製作、配給する。



史劇 / Biblical & Historical Epics (Costume Films)

聖書や歴史的な事件、クレオパトラやナポレオンなど過去の人物を題材に、贅沢なセットや衣装、そしてエキサイティングなアクションなどを売りに、歴史的な出来事に遭遇する勇気に溢れた誇り高いヒーローやヒロイン達を主人公にしたコスチューム・ドラマ。サイレント映画の頃から聖書や歴史はハリウッドにとって欠かせない素材であり、『イントレランス』(16)、『十戒』(23)、『ベン・ハー』(26)などが製作されるが、50年代にテレビに対抗するため登場したワイド・スクリーンにとって、派手な戦闘シーンやスペクタクル・シーンが多いこのジャンルは、スクリーンの広さを最大限に生かせる事が出来た。「シネマスコープ」第一弾『聖衣』(53)や、「ビスタビジョン」による『十戒』(56)など横長のスクリーンを最大限に利用した様々なスペクタクル史劇が制作された。



シネマ / Cinema

フランス語で映画を意味する。アメリカではシネマは主にアート系の映画を指す[ムービー(Movie)は大衆向けの娯楽映画を指す]。語源はギリシャ語の「Kinein(動く)」。



シネスコ

20世紀フォックス社が開発したワイド・スクリーン、シネマスコープの略称。



シネマスコープ / CinemaScope

映画スタジオの20世紀フォックス社によって開発されたワイド・スクリーン。アナモフィックスと呼ばれる映像を縦長に圧縮するカマボコ型の特殊レンズを使って撮影し、上映時にワイド(1: 2.55)に変換して上映する。フォックスは1927年にアナモフィックス・レンズを開発していたものの、大恐慌のあおりを受けて実用化は見送られていたが、52年に発表されたシネラマの人気に刺激されて53年のスペクタクル史劇『聖衣』で初めて使用される。先発のシネラマより安価だったため一時期シネマスコープはワイド・スクリーンの主流を占め、『エデンの東』(55)や『王様と私』(56)など、横長のスクリーンを見事に活用した傑作が次々と生まれた。しかし、M-G-M社がシネマスコープよりも性能の良いパナビジョンを開発するとシネマスコープの人気は下火になり、開発元である20世紀フォックスも1960年にシネマスコープの使用を断念する。また、フォックスは、62年にワイド・スクリーンの映像を切り取り(トリミング)、テレビ画面のサイズ(1:1.33)に収めるための方式「パン&スキャン」も開発する。



シネラマ / Cinerama

50年代、ハリウッドがテレビという新しいメディアに対抗するために発表したワイド・スクリーンの1つで、35年にパラマウント社で特殊効果を担当していたフレッド・ウォーラーとサウンド・エンジニアのハザード・リーブスが、39年のニューヨーク・ワールド・フェアのためのアトラクションとして開発。146度に湾曲した縦8メートル、横16メートルの巨大なスクリーンに、3台の35ミリ・キャメラで撮影した3つの映像を同調映写機で映し出すシネラマ独特の映写方式は、映像が微妙にズレたり切れ目が入ったりするものの、他のワイド・スクリーンにはない迫力がある。50年にラジオキャスターで冒険家のローウェル・トマスと、ブロードウェイの興行師マイケル・トッドは、第二次世界大戦時に爆撃手の訓練用に使われていたこの方式に目をつけ、7チャンネルの立体音響を採用してシネラマ映画第一作となる紀行映画『これがシネラマだ』を52年に発表。シネラマは観客に好評を持って迎えられ、『シネラマ・ホリデー』や『世界の七不思議』などシネラマを駆使した紀行映画を製作。62年にはメジャー・スタジオのM-G-M社と組んで『不思議な世界の物語』と『西部開拓史』の2本の劇映画を発表する。しかし、シネラマ用の重いキャメラは動き回る映画撮影には向かない上に、費用も他のキャメラよりかかるため、63年に公開された『おかしなおかしなおかしな世界』からは、3台の映写機によるシネラマは切れ目がなく1台の映写機で済む70mmのワイド・スクリーンに取って代わられてしまい、シネラマは7本のみの劇場用映画を残してその短い歴史の幕を閉じる。 ちなみに、シネラマの語源はアメリカン(American)の綴りを並べ変えたアナグラムである。



女性映画 / Woman's Films

ハリウッド黄金期に、男性より多い女性客と、スタジオが擁するスター女優の機嫌をとる為に製作された女性が主人公の映画。ハリウッドの各スタジオは、ベティ・デイヴィスイングリッド・バーグマンジョン・クロフォードといった女性の観客に人気のあるスタジオ専属のター女優達を主演に迎えて、強い意思を持ち、男性と対等の立場にある自立した女性を主人公にした『黒蘭の女』(38)、『ガス燈』(44)、『ミルドレッド・ピアース』(45)といった女性向けの映画を量産する。68年のレーティングの緩和は女性映画の形を変え、『ジュリア』(77)のような女性の友情を扱った映画など、今までタブー視された映画が続々と制作される。女性映画のエッセンスは後年の『愛と追憶の日々』(83) や『テルマ&ルイーズ』(91)に引き継がれる。



スクリーン・プロセス / Screen Process

あらかじめ別の場所で撮影されたフィルムを背景としてスタジオ内のスクリーンに投影して、そのスクリーンの前で俳優達に演技させる事によって彼らがその場所で演技をしているように見せる合成撮影テクニックで、車や列車内のシーンや屋外シーン、アクション・シーンに迫力を出す時などに用いられる。スクリーンの後ろから画像を投影する「リア・プロジェクション」と、俳優の正面からスクリーンに画像を投影する「フロント・プロジェクション」の二つの方法がある。このプロセスを使うと、俳優と撮影クルーたちが現地でロケ撮影をする必要がないので経済的ではあるが、俳優達の演技と背後のスクリーンに投影された画像の調子を合わせる事は難しく、画像の鮮明さにも欠ける為に昔の映画は簡単に現地ロケーションかスクリーン・プロセスかを見分けることが出来る。



スクリューボール・コメディ / Screwball Comedy

スクリューボールとは変化球の意味で、ソフィスティケーテッド・コメディ独特の都会的で機知に富んだテンポの良い台詞の応酬やストーリー展開と、スラップスティック・コメディ独特の騒々しいアクションを融合させてそのミスマッチで笑いを誘い、どんなトラブルが起きても必ず全てが丸く収まる結末が観る者を和ませる、ハリウッド黄金期独特のコメディ。『襤褸と宝石』(36)でのキャロル・ロンバードの演技がスクリューボール的だと評価されたことが名前の由来となり、大恐慌の最中の34年に製作された富豪の令嬢と新聞記者の珍道中を描いたフランク・キャプラ監督の『或る夜の出来事』は、恐慌に落ち込む人々に笑いを提供してスクリューボール・コメディはしりとなる。おてんば娘と堅物男の恋愛劇を描くハワード・ホークス監督の『赤ちゃん教育』(38)や、バツイチ令嬢と2人の男性の恋愛合戦を描いたジョージ・キューカー監督の『フィラデルフィア物語』(40)など、現代でも十分笑えて楽しめる作品が30年代から40年代にかけて数多く製作された。また、ケーリー・グラントクラーク・ゲイブルキャサリン・ヘプバーン、クローデット・コルベールといったハリウッドを代表する美男、美女たちがドタバタ演技を披露する意外性もこのジャンルならでは。



スター・システム / The Star System

映画の成功は主演俳優の人気が左右していたハリウッド黄金期(1930s-1940s)に、映画スタジオが彼等の抱える専属のスター俳優たちの価値と魅力を最大限に生かし、スターの人気に依存して映画を制作したシステムのこと。当時の映画スターは現在のようにフリー・エージョント制ではなく、特定の映画スタジオと最長7年間の長期専属契約を結び、給料を貰って週6日、1日12〜14時間働き、契約期間内は他社の作品への出演は禁止され(その代わり、他社へのスターの貸し出しは頻繁に行われていた)、彼等のイメージはオン、オフ・スクリーン問わずに、スタジオの広報部が服装から体重に至る全ての面においてコントロールしていた。その結果、スターたちはスクリーン上だけでなく私生活も広報部にコントロールされて、彼らが映画の中で演じたキャラクター並みの華やかながらもウソで塗り固められた人生を映画ファンに提供する。このスター・システムとスタジオ・システムによって映画スタジオは絶対的な権力を誇っていたが、1948年の独占禁止法の施行によって映画スタジオがスターと専属契約を結ぶことは禁止されてスター・システムは崩壊する。現在のハリウッドの映画スタジオは専属のスター俳優を抱えてはいないものの、スターの人気に依存した映画作りは続けている。



スタジオ・システム / The Studio System

個々のメジャー・スタジオが制作部門、配給部門、劇場(興行部門)を管理して、映画の制作から配給、上映まで全てのプロセスをスタジオが支配したハリウッド黄金期独特のシステム。トーマス・エジソンらが1908年に設立した映画の撮影・上映・配給の特許を管理する会社モーション・ピクチャー・パテンツ・カンパニー(MPPC)による市場の独占がスタジオ・システムの始まりだと言われている。独自の劇場チェーンを持つ5大メジャー・スタジオ(M-G-Mパラマウント20世紀フォックスワーナー・ブラザーズRKO)は、自分たちの劇場では話題作のみを封切して、他の劇場を経営する独立興行主には、買い手に作品の内容を検討する機会を与えずに販売する「ブラインド・セリング」と、話題作を提供する代わりに何本かの質の悪い作品を抱き合わせて販売する「ブロック・ブッキング」によって、思い通りの番組編成を組ませる事が出来た。この独占的なシステムによって、映画スタジオは巨万の富を得ていたが、1948年に独占禁止法が制定されるとスタジオは製作部門と興行部門を分離させられ、俳優やクルーとの専属契約制度も禁止されてハリウッド独特のスタジオ・システムは終わりを告げる。



スニーク・プレヴュー / Sneak Preview

映画を正式に公開する以前に観客の作品に対する評価や反応を調べるため、映画のタイトルの公表や予告を一切せずに行う覆面先行試写会。観客の評価が芳しくなければ映画スタジオは作品の内容を観客の受けが良くなるように再編集や追加撮影を行う。しかし、プレビューでの反応が正しい観客の反応というわけでなく、逆に当てにならない事の方が多く、過去にも『失はれた地平線』(37)や『偉大なるアンバーソン家の人々』(42)といった傑作が、プレビューの否定的な反応によって真の評価を得ないまま再編集されてしまう。



スペクタクル映画 / Spectacle Movies

スペクタクルとは直訳すると見せ物という意味であるが、そこから大がかりで派手な仕掛け、群集やアクション・シーンなどを売りにした映画を指すようになる。サイレント映画時代はイタリア製のスペクタクル映画が一世を風靡して『クオ・バディス』(12)や『カリビア』といった大作が世界中で好評を博す。これらの映画に強い影響を受けたD・W・グリフィスは『国民の創生』(15)や『イントレランス』(16)といった長編スペクタクル映画を発表、彼のライバルだったセシル・B・デミルも『十誡』(23)や『キング・オブ・キングス』(27)を製作してスペクタクル映画はハリウッドにとって欠かせないジャンルの一つとなる。デミルはその後も巨額の制作費をかけて『クレオパトラ』(34)、『サムソンとデリラ』(49)などを製作してハリウッド黄金期のスペクタクル映画の基礎を築いて、スペクタクルの巨匠としてハリウッドに君臨する。



スラップスティック・コメディ / Slapstick Comedy

スラップ(叩く)とスティック(棒)を合わせた造語で、叩いたり叩かれたり滑ったり転んだりする攻撃的なアクションによって笑わせるサイレント時代に数多く制作されたドタバタ喜劇をさす。1912年にマックス・セネットが創設したキーストン撮影所はスラップスティックな喜劇を専門に製作。16年間にロスコー・アーバックルやチャールズ・チャップリンといった人気コメディアンを起用した100本以上もの喜劇映画を送り出してアメリカ製喜劇の黄金時代を築き上げた。この頃作られていた大抵のスラップスティック・コメディは、単純明快なストーリーに、ひたすら笑いを追及した意味のない追いかけっこと騒々しさを売りにした短編であったが、チャップリンやバスター・キートンらは笑いだけではなく感情移入によるドラマ性も重視して、スプラスティックなジョークと濃厚なドラマを見事に融合させた『キッド』(21)や『セブン・チャンス』(25)などの傑作を発表した。



3-D映画(立体映画) / 3-D Films

二台のキャメラを使って同じ映像を右目用と左目用に二重撮影し、観賞の際に特殊なメガネをかける事によって立体的な映像を楽しむ事が出来る両目の視差を利用したギミック映画。初めての立体映画は、映画の始祖であるフランスのリュミェール兄弟によって1903年に公開される。50年代に入ると、ハリウッドの映画スタジオはテレビに奪われた観客を取り戻すために「ナチュラル・ビジョン」と銘打ってギミック映画の一つとして売り出す。3-D映画第一弾の『ブワナの悪魔』(52)や『肉の蝋人形』(53)の成功によって立体映画はブームになるが、厚紙で出来た3-Dグラスをかけることを観客は嫌がり、長時間の観賞は目を痛めたり頭痛の原因となったりした上に、質の悪い3-D映画の乱発によって観客に早々と飽きられ、メジャー・スタジオが3-D映画として制作した『キス・ミー・ケイト』(53)や『ダイヤルMを廻せ!』(54)は3-Dギミック抜きで公開される。



西部劇 / The Western

ウェスタン



セミ・ドキュメンタリー映画 / Semi-documentary Films

第二次世界大戦後、イタリアのネオ・リアリスモの影響を受け、ロケーション撮影や即興的な演技を多用してドラマにリアリティとフィクションを密接に絡み合わせた作品を指す。45年に製作された『Gメン対間諜』の成功によって、セミ・ドキュメンタリー映画は終戦直後のアメリカ映画の一つの風潮となり、48年に公開されたジュールス・ダッシン監督の『裸の町』はニューヨークの市外で撮影を行い、殺人犯を追う刑事たちの葛藤をNYの現実を織り交ぜて描くことによって、スタジオで撮影されたこしらえ物のドラマでは決して表現できないリアルなドラマを作り出す事に成功してセミ・ドキュメンタリー映画は一つの頂点を極める。しかし、セミ・ドキュメンタリーの定義は曖昧で、芸術運動には盛り上がらなかったが、アメリカン・ニューシネマの到来によってロケーション撮影と過激な暴力やセリフを組み合わせて麻薬組織とはみ出し刑事の対決をリアルに描いた『フレンチ・コネクション』(71)のような新しいタッチのセミ・ドキュメンタリー映画が製作されるようになる。



前衛映画 / Avant-garde Cinema

アバンギャルド映画



ソフィスティケーテッド・コメディ / Sophisticated Comedy

エルンスト・ルビッチビリー・ワイルダー監督の映画に代表される都会的で知的に洗練された喜劇。ソフィスティケーションとはギリシャ哲学の一派である詭弁家のソフィストから生まれた言葉で、詭弁のほうではなく知的でスマートな面をさす。トーキーの到来によって騒々しいだけのスプラスティックな喜劇は次第に影をひそめるが、その反面トーキーの売りの一つであるセリフの魅力や面白さを最大に生かして男女の恋愛合戦を面白おかしく描いたルビッチ監督の『生活の設計』(33)、ジョセフ・L・マンキウィッツ監督の『三人の妻への手紙』(49)、ジョージ・キューカー監督の『アダム氏とマダム』(49)などのソフィスティケーテッド・コメディが観客から絶大な支持を得て、笑いだけでなく映画の舞台となる上流社会やプロフェッショナルな世界はキャサリン・へプバーンケーリー・グラントら映画スターたちの華麗な演技と相まって観客に夢を与えた。




- タ行 -

ダブル・フィーチャー / Double Feature

映画の二本立て興行をさす。1930年のアメリカでは週あたりの映画の観客は一億人を超えていたが、33年には大恐慌の影響を受けて6000万人にまで落ち込んでしまう。スタジオはこの6000万人を逃さないために、興行システムをそれまでの一本の長編映画に複数の短編を合わせて上映する一本立て興行から長編映画の二本立て興行に変更。1931年の末にアメリカ東海岸のニューイングランド地方の映画館で始められ、1935年には大都市を除く全米のほとんどの映画館が二本立て興行を実施していた。この二本立て興行によって観客動員数は週あたり7500万人にまで盛り返すが、その反面作り手達に負担を強いる結果となる。この問題を解決するために考え出されたのが、上映時間が50分から70分程度の「Bムービー」で、この上映時間が長編の基準ギリギリのBムービーと、従来の長編映画を組み合わせて上映する興行システムが次第に定着してゆく。また、このダブル・フィーチャーによって映画館を持たない独立系のスタジオは自社の作品をより多くの劇場で上映することが出来るようになる。



デイ・フォー・ナイト / Day for Night

特殊な赤いフィルターをレンズに装着して、夜間のシーンを日中に撮影するテクニック。フランスでは「アメリカの夜」と呼ばれている。夜間に夜のシーンを実際に撮影するテクニックは、「ナイト・フォー・ナイト」と呼ばれている。



テクニカラー / Technicolor

ハーバード・カルマス博士によって1926年に設立されたテクニカラー社が開発した天然色映画の商標名。初期のテクニカラーはサーモン・ピンクと茶色っぽいグリーンの2原色法を採用しており、この方法では青色や黄色が出ないうえに色彩は非情に不安定だった。34年にカルマス博士らはプリズムを使って分光された赤、青、緑の3色を別々のフィルムに感光させ、その後もう一度プリズムで重ね合わせてプリントに色を付ける新しい3原色システムを開発。翌35年に公開された『虚栄の市』で初めて採用されて好評を博し、『風と共に去りぬ』(39)『オズの魔法使』(39)などのハリウッド黄金期のカラー映画に多用された。テクニカラー社の副社長ナタリー・カルマスは、映画の衣装デザイナーや美術監督たちにスクリーン上での色使いやバランスをアドバイスするカラー・デザインのコンサルタントとして活躍した。



トーキー / Talkie

セリフと音響を画面にシンクロさせた映画をさす。映像と音の融合は映画創生期から試みられ、各映画スタジオは映画のトーキー化を進めるが技術的な問題で実験の域を出ることはなかった。しかし、映画産業に投資する電話業界とラジオ業界の協力の下で技術は飛躍的に向上し、1926年にワーナー・ブラザーズ社はウェスタン・エレクトリック社が開発したディスク式トーキー「バイタフォン」を使って伴奏音楽と効果音をシンクロさせた『ドン・ファン』を公開。翌27年にはアル・ジョルスンを主演に迎えて初めて俳優の声と歌をシンクロさせたトーキー『ジャズ・シンガー』を発表して興行的成功を収める。『ジャズ・シンガー』のヒットよってハリウッド映画はサイレントからトーキーに移行してゆき、翌年にはセリフ、伴奏音楽、効果音などすべての音を聞くことの出来る最初の映画『ニューヨークの灯火』が製作される。音楽やセリフ、効果音のおかげで映画はよりドラマティックでエキサイティングになり、豪華な歌と踊りが売りのミュージカル映画、テンポの速い会話を売りにしたソフィスティケーテッド・コメディ、カー・チェイスやマシンガンの派手な効果音を売りにしたギャング映画など新しいジャンルを生んだ。 トーキーの語源は、英語の「Talk(話す)」に「Movie(映画)」の「ie」を合わせたものだと言われている。



トッドAO / Todd-AO

エリザベス・テイラーの三人目の夫で、興行師のマイケル・トッドが発表したワイド・スクリーンの一つ。アメリカン・オプティック・カンパニーのオブライエン教授が開発した、巨大なパノラミック魚眼レンズによって撮影された映像は、35ミリの約二倍の長さの65ミリ・フィルムを使用することもあって画質は鮮明なうえに、1台の映写機でシネラマ並みの大きさ(縦横比1:2.066)の映像を提供することが出来た。通常は65ミリのネガで撮影し、6チャンネルのサウンドトラックにつき70ミリのプリントに焼きつけられる。55年に製作されたミュージカル映画『オクラホマ!』で初めて使用され、翌年マイケル・トッドはトッドAOを駆使して大作『80日間世界一周』(56)を発表。後に20世紀フォックスがトッドAOを購入して、スタジオが60年代に製作したスペクタクル映画などに使われた。



ドライブイン・シアター / Drive-in Theater

屋外の広場に巨大なスクリーンを設置し、観客は車に乗ったまま映画を鑑賞する映画館。50年代、アメリカでは人々が都会を離れ郊外に住み始めた為に都市にある映画館は観客の減少に悩まされ、1946年から53年の間に5000以上の映画館が倒産。その反面、ビルを建てる必要がなく、空き地や駐車場を利用して映画を上映できる経済的で便利なドライブイン・シアターが郊外に住む人々に映画を提供するために全米各地に建設された。ドライブイン・シアターは若者たち―特にティーン・エージャーから絶大な支持を受け、1947年には554館しかなかったドライブイン・シアターは、58年には4700館にまで増加して、50年代を代表するアイコンの一つとなる。AIPなどのB級映画専門の映画スタジオが若者向けに製作した低予算のB級ホラー映画や青春映画が主に上映されるが、これらドライブイン・シアター向けのB級作品はロジャー・コーマンのような才能あるプロデューサーを育て、現在ではハリウッドの巨匠として知られるフランシス・フォード・コッポラやマーティン・スコセッシら若い映画人に活動の場を与えた。



トニー賞 / Tony Awards

トニー賞トロフィートニーの愛称で親しまれて、46年にこの世を去った女優アントワネット・ペリーをしのんで設立されたアメリカ演劇界のアカデミー賞。第一回目の授賞式は翌47年に行われ、以後、毎年一回ブロードウェイで上演された新しい芝居やミュージカルを対象にノミネートを選考して、最も優れた舞台や俳優たちに賞を与える。ハリウッドで成功を収めた映画俳優たちが舞台に立ってトニー賞を獲得するケースも少なくなく、ヘンリー・フォンダが48年に舞台版『ミスタア・ロバーツ』で、ロザリンド・ラッセルが53年に『Wonderful Town』で、ヴィヴィアン・リーが63年に『Tovarich』で、ローレン・バコールが70年に『イヴの総て』(50)の舞台ミュージカル版『アプローズ!』と81年に『女性No.1』(42)の舞台版でトニー賞を受賞している。




- ナ行 -

ナタラージュ / Narratage

ナレーションとモンタージュを合成した造語で、キャラクターが自分の過去を回想する際に、キャラクターは現在の立場から話し始め、場面が過去に遡っても、そのキャラクターには引き続き現在の立場から話しを続けさせる手法。脚本家時代のプレストン・スタージェスが鉄道王の生涯を回想形式で描いた『力と栄光』(33)で初めて用いられ、41年にはオーソン・ウェルズがナタラージュを駆使して『市民ケーン』を発表した。



長まわし / Long take

『黒い罠』(58)のオープニングに代表される、20秒以上の長さのショットをさす。映画監督のオーソン・ウェルズウィリアム・ワイラーらは長まわしとパン・フォーカスを組み合わせて舞台劇的な感覚を作品に取り入れることを好んだ。



20世紀フォックス / 20th Century-Fox

20世紀フォックスミュージカルから文芸作品まで幅広いジャンルの作品を製作してハリウッドの黄金期をリードしたメジャー・スタジオの一つ。1915年にニューヨークの映画興行師ウイリアム・フォックスが映画製作に進出してフォックス・フィルムを設立。20年代にはジョン・フォード監督と専属契約を結び、ワーナー社が開発した音響システム「バイタフォン」に対抗して「ムービートーン」を開発。ウェスタンなどを中心に低予算ながらも質の高いヒット作を生み出してゆく。30年代には事業拡大を試みるが、株の暴落で破産の危機に陥ってしまう。しかし、天才子役シャーリー・テンプル主演の映画の大ヒットによって破産は免れ、33年にプロデューサーのダリル・F・ザナックが設立した20世紀プロダクションと35年に合併して20世紀フォックスとなる。マリリン・モンロー、ベティ・グレイブル、グレゴリ−・ペックヘンリー・フォンダといった大スターを生み出し、ユダヤ人差別に鋭いメスを入れた『紳士協定』(47)や、演劇界の骨肉の争いを赤裸々に描いた『イヴの総て』(50)等の硬派な社会派映画から『王様と私』(56)、『南太平洋』(58)をはじめとするロジャース&ハマースタィンによるブロードウェイ・ミュージカルの映画化まで質の高いエンターテイメント映画を続々と手掛ける。また、新しい技術の開発にも積極的で、50年代にはワイド・スクリーンの一つ「シネマスコープ」を発表して映画の大型化に拍車をかける。 歴史大作『クレオパトラ』(63)では、主役のエリザベス・テイラーの病気とスキャンダル、監督の交代などのトラブルが続いて制作費が予想以上に掛かりスタジオは再び倒産の危機に陥るが、スタジオに復帰したザナックの手腕によってスタジオは軌道に乗り、以後『猿の惑星』、『スター・ウォーズ』、『ダイ・ハード』シリーズなどのヒット作を続々と発表。85年にオーストラリアのメディア王ルパート・マードックが会長に就任し、スタジオはテレビの進出にも意欲を示して、全米で第4位のシェアを誇るフォックス・チャンネルとケープルテレビ用のチャンネルを軌道に乗せる。



ニッケル・オデオン / Nickelodeon

アメリカで、映画の最低入場料がニッケルと呼ばれる5セント硬貨一枚だった1900年代頃に全盛を極めた、座席数が200ほどの安映画館の俗称。1905年の6月にハリー・デイビスとジョン・P・ハリスがペンシルベニア州のピッツバーグに最初のニッケル・オデオン(映画館)を建設する。ニッケル・オデオンの語源は5セント硬貨の俗称「ニッケル」と、ギリシャ語で劇場を意味する「オデオン」を合わせたもの。



ニューシネマ / New Cinema

アメリカン・ニューシネマ



ニューロティック映画(異常心理映画) / Neurotic Pictures

第二次世界大戦終了後のアメリカで流行した人間の心理の異常性を強調した映画をさす。アルコール中毒者が体験する幻覚の恐怖を描いた、ビリー・ワイルダー監督の『失われた週末』(45)がこのジャンルのはしりとなり、精神分析をテーマにして、記憶喪失者の悪夢の世界をシュールレアリズム(超現実主義)の画家サルバドール・ダリに担当させたアルフレッド・ヒッチコック監督の『白い恐怖』(45)、精神に異常をきたした女性作家の精神病院での生活を描く『蛇の穴』(48)などが製作される。また、ニューロティック映画は他のジャンルにも強い影響を与え、心理的屈折と翳りを帯びたウェスタン『追跡』(47)や、フィルム・ノワール 『白熱』(49)などが製作された。



ニューヨーク派

アンダーグラウンド映画



ヌーベルヴァーグ / Nouvelle Vague

フランス語で「新しい波」を意味する、50年代後半にフランスで起こった若い映画作家たちによる前衛的な映画運動。51年に創刊されたフランスの映画雑誌「カイエ・デュ・シネマ(フランス語で映画の手帳を意味する)」の批評家として活躍した映画好きの青年ジャン=リュック・ゴダールやフランソワ・トリュフォーらは映画とは自由な映像表現の場と考えて、撮影所経験が無いにも関わらずに自分達で映画を作り始める。彼らは脚本に沿った撮影を否定し、屋外撮影を好み、俳優に自然でリアルな演技を要求し、ジャン・ルノワールらフランスの古典映画の巨匠を否定する反面、ハリウッドのクラシック映画からの引用を多用して、無軌道な青年とアメリカ人留学生のはかない恋を斬新な手法で描いた『勝手にしやがれ』(59)や、1人の奔放な女性と2人の青年との愛と友情を描く『突然炎のごとく』(61)といった自由で創造的な作品を作り出してフランスの映画界に新風を巻き起こす。また、彼らは映画はスタジオやプロデューサーのものではなく監督のものであると考え、映画監督を作家として評価してアメリカで低い扱いを受けていたフリッツ・ラングアルフレッド・ヒッチコック達の作品を再評価する。彼らの自由な作風は、後のアメリカン・ニューシネマの監督たちに影響を与える。



ネオ・レアリスモ(イタリアン・リアリズム) / Neorealism

第二次世界大戦後のイタリアで起った映画運動。戦時中、イタリアはファシストの体制下にあったため、イタリア映画は製作の自由を失い、映画人たちはレジスタンスに参加したり、雑誌に反ファシズムの論文を発表してファシズムを攻撃していた。イタリアの映画監督ロベルト・ロッセリーニやヴィットリオ・デ・シーカらは、自分達が体験した現実をフィルムに収めるため、資金も機材もない最悪の条件の中でありのままの現実を映し出すという理論の下、フランスの映画監督ジャン・ルノワールや、ソ連のプロパガンダ(戦意高揚)映画などの影響を受け、素人俳優を起用して、長まわしを多用し、屋外で撮影を行ってナチズムに立ち向かうレジスタンスの人々の姿を描いた『無防備都市』(45)や、実際の浮浪者や孤児を俳優に起用して、荒廃した戦後イタリア社会の中で苦しむ人々の姿を描く『靴みがき』(46)といった、イタリアの悲惨な現実を真正面から捉えたリアリティあふれる作品を作り出す。ネオ・レアリスモは、自国のイメージダウンを恐れたイタリア政府の圧力によって急速に衰えるが、フェデリコ・フェリーニやルキノ・ビスコンティらイタリア映画界の巨匠を生み出し、そのエッセンスはエドワード・ドミトリク監督の『十字砲火』(47)や、ジュールス・ダッシン監督の『裸の町』(48)などのハリウッド映画にも影響を与えた。




- ハ行 -

ハードボイルド / Hardboiled

ハードボイルドとは英語では堅くゆでたという意味で、ゆで卵などに使われるが、この言葉が文学の世界でもダシール・ハメットやレイモンド・チャンドラー、アーネスト・ヘミングウェイなどの小説に見られる探偵や警官、または職業犯罪者たちを主人公に感情を排除したクールで乾いた文体を特徴とした文学に使われるようになる。ハメットとチャンドラーたちの活躍によってハードボイルド小説は市民権を獲得し、ハメットが創造した一匹狼の私立探偵サム・スペードの活躍を描く『マルタの鷹』(41)の映画化によってハードボイルドの世界は映画にも進出する。この作品でスペードを演じたハンフリー・ボガートは孤独で冷徹ながも正義感溢れる新しいタイプのヒーローを演じて新境地を開拓し、引き続きヘミングウェイの小説を映画化した『脱出』(44)では自由のために戦う船長、チャンドラーの小説の映画化『三つ数えろ』(46)では私立探偵フィリップ・マーロウを演じてハードボイルドの代名詞となる。



バイタスコープ / Vitascope

アメリカの発明王トーマス・エジソンが開発したスクリーン投射方式の映写装置。フランスのルミエール兄弟が開発した投写式映写装置「シネマトグラフ」の評判を聞きつけたエジソンは、それまで主流だった覗き式の映写装置「キネトスコープ」から大勢の人々に一度に見せることが出来るスクリーン投写式に切り替え、1896年4月23日ニューヨークのコスター&バイアル音楽堂で初めての興行を行う。



パナビジョン / Panavision

映画スタジオM-G-M系列のパナビジョン社によって開発されたワイド・スクリーンの一つ。基本的な原理と画面の大きさは20世紀フォックス社が開発した「シネマスコープ」と同じであるが、シネマスコープが使用する歪曲レンズ(アナモフィックス・レンズ)の欠点である画質の劣化、歪みなどを改善しており、ハリウッドの各スタジオで採用された。



パニック映画 / Disaster Films

複数の登場人物たちが火事や地震などの自然の災害、または船の沈没や飛行機の墜落などの人為的な災害から脱出する様を描いた映画をさす。ダイナミックなアクション・シークエンスに、登場人物たちのさまざまな人生の交錯を絡み合わせたプロットがパニック映画の魅力であるが、最終的に映画の成功を左右するのは、劇中最大の見せ場となる、その時代の最高の特殊効果が駆使されたリアルな災害のシーンである。ハリウッド黄金期にはクラーク・ゲイブルを主演に迎えてサン・フランシスコで起こった地震を描いた『桑港(サンフランシスコ)』(36)や、当時としては最高の制作費(180万ドル)をかけて1871年に起こったシカゴの大火災を描いた『シカゴ』(38)などのパニック映画が製作された。70年代になると『大空港』(70)の大ヒットによって再びパニック映画がブームになるが、豪華客船の沈没を描いた『ポセイドン・アドベンチャー』(72)や、高層ビルの火災を描く『タワーリング・インフェルノ』(74)といった70年代の大掛かりなパニック映画は、ドラマよりもアクションや災害シーンに力を入れているのが特徴である。また、映画をあらゆる年齢層にアピールするため新旧様々なスター達を起用した豪華なキャスティングも70年代に製作されたパニック映画の売りの一つとなる。



パブリック・ドメイン / Pbulic Domain

映画や書物などの著作権が消滅して、誰からの承諾も得ずに自由に使用できる状態。アメリカの著作権法では、個人が創作した著作物は創作者の死後70年間の保護期間を与えているが、1978年以前に発行された著作物については、1909年に制定された法律が適用され、1790年の最初の著作権法で定められた28年に加えて、更新すれば更に47年(合計75年)の保護を受けることができる。その後、ハリウッドの大手スタジオとアメリカ映画協会は著作権の保護期間を20年延長することを議会に働きかけ、1998年から著作権は最長95年(28年+47年+20年)にまで延長された。著作権を更新せずにパブリック・ドメインとなった映画も多く、クリスマス映画の定番『素晴らしき哉、人生!』(46)の著作権もパブリック・ドメインになっている。



パラマウント / Paramount

パラマウントかつての専属スター俳優の数を表す22個の星がアメリか北部の最高峰マッキンレー山の頭上に輝くロゴマークを目印に、良質のエンターテイメント映画を提供したハリウッド黄金期のメジャー・スタジオの一つ。配給業者のアドルフ・ズーカーは1912年に新興会社パラマウント・ピクチャーズを併合して「フェイマス・プレイヤーズ」を設立してスタジオの母体を確立。13年にはジェシー・L・ラスキー、サミュエル・ゴールドウィン、監督のセシル・B・デミルらが製作会社「ジェシー・L・ラスキー・フィチャー・プレイ・カンパニー」を設立し、翌年にはハリウッド初の長編映画『ザ・スクォー・マン』を発表する。16年に「ジェシー・L・ラスキー・フィチャー・プレイ・カンパニー」は「フェイマス・プレイヤーズ」と併合して「フェイマス・プレイヤーズ=ラスキー・スタジオ」となり、ゴールドウィンが社長に就任する。しかし、ズーカーとラスキーが手を組んだため、ゴールドウィンはスタジオを離れてズーカーが社長に就任。19年に興行網を統一して、27年に社名をパラマウントに改める。サイレント時代はメアリー・ピックフォード、クララ・ボウ、グロリア・スワンソン、ルドルフ・バレンチノらの大スターを擁してヒット作を連発し、23年にはデミル監督のスペクタクル超大作『十戒』を完成させる。映画がトーキーになるとゲーリー・クーパーを売りにして大成功を収めて、マレーネ・ディートリッヒやエミール・ヤニングスといったエスニックな魅力に満ちた外国俳優たちを積極的にハリウッド入りさせる。しかし財政難がたたって33年に破産宣告して35年に再建。再建後はミッチェル・ライゼン、エルンスト・ルビッチや、プレストン・スタージェスといった洗練されたコメディを得意とした監督たちの映画を製作して、ソフィスティケーテッド・コメディ映画専門のスタジオとしての地位を確立し、最もヨーロッパ的で洗練されたスタジオと評された。40年代から50年代にかけて『地上最大のショウ』(52)のセシル・B・デミル、『裏窓』(54)のアルフレッド・ヒッチコック『深夜の告白』(44)ビリー・ワイルダーといった巨匠たちの黄金期の作品を数多く手掛けて高い評価を獲得し、カーク・ダグラスやバート・ランカスターなどの新しいスターを次々と送り出す。また、 技術革新も積極的に行い、54年にはワイド・スクリーンの一つ「ビスタビジョン」を発表する。66年には石油資本のガルフ&ウェスタン社の傘下となるが会社の勢いは衰えず、『ゴッドファーザー』、『スタートレック』、『インディ・ジョーンズ』シリーズ等の興行的に価値の高いヒット作を次々と発表。94年にはケーブル会社のバイアコムの傘下となる。



ハリウッド・テン / Hollywood Ten

赤狩りの嵐が吹き荒れたアメリカで、1947年の10月にワシントンD.C.で行われたハリウッドの映画人に対する非米活動委員会の聴聞会に出頭して、言論の自由、表現の自由を盾に、実質的な証言を拒否して委員会に協力する事を拒んだ10名の映画人(映画評論家で脚本家のアルヴァ・ベッシー、監督のハーバート・ビーバマン、脚本家のレスター・コール、監督のエドワード・ドミトリク、脚本家のリング・ラードナー・ジュニア、脚本家協会の創設者ジョン・ハワード・ローソン、脚本家のアルバート・モルツ、脚本家のサミュエル・オーニッツ、脚本家で製作者のエイドリアン・スコット、脚本家のダルトン・トランボ。実際は作家のベルトルト・ブレヒトを含めた11名)たちをさす。召喚状を受け取ったのは彼らを含めた19名だったが、他の8名はこの時点で召喚は行われなかった。彼らは思想と政治的信条の自由を規定した憲法修正第一条を盾にとって一切の証言を拒否するが、必死の反抗もむなしくハリウッド・テンは非米活動委員会を糾弾したために議会侮辱の罪で起訴される。49年には有罪の判決を受け、彼らは刑務所に6ヶ月から1年間服役した上に、ハリウッドからは完全に締め出されて、地位、名誉、仕事の全てを失う。服役後、エドワード・ドミトリクら数名のハリウッド・テンは転向して非米活動委員会に忠誠を誓ってハリウッドに復帰、またはハリウッドを離れてヨーロッパに活動の場を移すが、ダルトン・トランボは『栄光への脱出』(60)で再び実名でクレジットされるまで、偽名や他人の名前を使って脚本を書き続け、『ローマの休日』(53)と『黒い牡牛』(56)では、偽名でアカデミー脚本賞を受賞した。



パン・フォーカス / Deep Focus

撮影監督のグレッグ・トーランド『市民ケーン』(41)で完成させた、焦点深度が深い広角レンズで撮影して前景と後景の焦点を合わせて、どの被写体にもピントを合わせる事によって画面に奥行きを持たせるテクニックで、ディープ・フォーカスとも呼ばれる。黄金期のハリウッドでは前景の俳優を際立たせるだけでなく、セットの制作費を節約できる後景をぼかして撮影する「ソフト・フォーカス」が主流であったが、オーソン・ウェルズウィリアム・ワイラーら舞台劇的な演出を好む監督達は、キャラクターたちの劇的な葛藤を一画面の中にとらえる「タテの構図」のパン・フォーカスを用いた長まわしを多用する事によって1カットでその場面の状況を描写して、モンタージュでは表現できないリアリズム溢れるシーンを好んで作品に取り入れていった。



Bムービー(B級映画) / B Pictures

短い制作期間と低予算で製作された映画をさす。30年代からアメリカで始まったダブル・フィーチャー(二本立て興行)の有名スターを起用した高予算フィーチャー(長編映画:Aムービー)の添え物として製作される。Bムービーは基本的にフィーチャーよりも制作費が少なく、上映時間が長編映画の規定ギリギリで(50分以上[上映時間が50分以下の作品は短編と呼ばれる]、70分以下)、制作期間が短いのが特徴で、メジャー・スタジオのBムービー製作班や、リパブリック、モノグラムといったBムービーを専門に製作した独立系の映画スタジオによって、知名度の低い俳優達を起用して低予算で早撮りしたフィルム・ノワール、サスペンス、SF映画ウェスタンが量産される。近年、映画評論家たちは低予算と厳しい製作環境にも関わらずに独自のスタイルを確立したBムービーの作り手たちに注目するようになり、エドガー・G・ウルマーやロジャー・コーマンらの作品を再評価する。



ビスタビジョン / Vista Vision

システム自体は1919年に開発されていたが、映画スタジオのパラマウント社が大型映画ブームに便乗して1954年に発表したワイド・スクリーンの方式の一つ。普通のフィルムの約二倍の大きさのフィルムを用いるので、画像の鮮明度にすぐれている。54年のパラマウント映画『ホワイト・クリスマス』で初めて使用され、鮮明で「シネラマ」や「シネスコ」ほど長過ぎない映像は好評を博した。



非米活動委員会 / House Un-American Activity Committee (HUAC)

赤狩り



表現主義 / Expressionism

第一次世界大戦直前のドイツのベルリンを中心にして生まれた芸術運動で、人間の内面的な不安、激情、怒りなどを、ゆがんだイメージや非自然主義的なスタイル、誇張した色彩などで表現した美術、文学、演劇などを指す。この表現主義を最初に映画に持ち込んだのがロベール・ヴィーネ監督の『カリガリ博士』(19)で、ヴァルター・レーリッヒら表現主義の画家たちが手掛けた、誇張されて不気味にゆがんだセットは先の見えないショッキングな物語と相まって観るものの不安感を煽った。この作品の成功によってドイツ表現主義はブームになるものの、内容や表現にこの形式を流用しただけの作品が氾濫したために一時的な流行に終わってしまい、第一次世界大戦が始まってナチスが台頭すると表現主義は退廃芸術として批判された。しかし、表現主義はフリッツ・ラングビリー・ワイルダーといったドイツ映画人たちのアメリカ進出によって、ハリウッドで製作された怪奇映画ミュージカルフィルム・ノワールといった様々なジャンルに強い影響を与えた。



フィルム・ノワール / Film Noir

直訳すると「闇の(黒い)映画」。40年から50年代に制作された低予算の犯罪映画や探偵映画をさす。犯罪者、または犯罪の世界に身を置くキャラクターを主人公にして、フラッシュバックや登場人物たちの独白(ボイス・オーバー)を駆使して語られる複雑で難解なプロット、光と闇を対立させるロー・キー照明を効果的に使ってミステリアスで退廃した雰囲気を作り出すライティング、主人公を悪の道へいざなう美しき悪女(ファム・ファタール)の存在、破滅的な結末、ドイツ表現主義の影響、セックスやバイオレンス描写ヘの厳しい規制から逃れるための編集テクニックとストーリー・テリングなどが、黄金の鷹の像をめぐる人々の醜い争いを描く『マルタの鷹』(41)や、美しい人妻にそそのかされて夫殺しを手伝う男の悲劇を描いた『深夜の告白』(44)など独特の雰囲気を持つサスペンス・スリラーを作り出した。また、共産主義、スパイ、核兵器など当時の世相を反映した恐怖も、ノワール映画のプロットに盛り込まれた。当時、これらの作品はアメリカでは低い評価を受けていたものの、フランスのヌーベルヴァーグの監督達によってその素晴らしさが評価され、アメリカ製ノワールに魅せられたジャン=リュック・ゴダール、ルイ・マル、ジャン・ピエール・メルヴィルらヌーベルヴァーグの監督たちは、ヌーベルヴァーグとフィルム・ノワールを融合させた『アルファヴィル』(65)、『死刑台のエレベーター』(57)、『サムライ』(67)等のフランス製フィルム・ノワールを製作した。



フリー・シネマ / Free Cinema

50年代後半のイギリス映画界で起こった芸術運動。50年代に入ると、イギリスではモラルと教養に守られた堅苦しい階級制度に反発する若者たち(アングリー・ヤングメン/怒れる若者たち)が台頭し、彼らは文学や演劇を通してイギリスの若者たちが抱える矛盾や怒りを鮮やかに表現してゆく。運動の余波は映画界にも波及し、若い映画作家たちは戦後のイギリスの閉鎖的な状況を訴えるドキュメンタリー映画運動(フリー・シネマ)運動を起こす。やがて彼らは劇映画にも進出し、その先駆けとなったのがフリー・シネマ運動の中心的存在であったトニー・リチャードソン監督が56年に発表した貧しいトランペット奏者の生活を描いたジョン・オズボーンの戯曲の映画化『怒りをこめてふりかえれ』であった。続いて、ジャック・クレイトン監督が上流階級への批判を大胆な性描写を織り交ぜて描いた『年上の女』(59)を発表して全世界でセンセーションを巻き起こす。60年代に入るとフリー・シネマ運動は更に活発となり、『土曜の夜と日曜の朝』(60)のカレル・ライス、『孤独の報酬』(63)のリンゼイ・アンダーソンらの登場によってフリー・シネマ運動は頂点に達する。彼らの活躍はイギリス本国だけでなくアメリカでも高く評価され、リチャードソン監督の『トム・ジョーンズの華麗な冒険』(63)は63年度のアカデミー作品賞を獲得した。



プロダクション・コード(映画製作倫理規定) / Production Code

アメリカ映画製作者配給者協会(MPPDA)が、映画の中での過激な性描写や暴力描写などを規制するために1930年に設定した規定。年々過激さを増すハリウッド映画の内容を取り締まる為に、ウィル・へイズ率いるMPPDAは「悪人は必ず罰せられる」、「婚前の性交渉は見せてはならない」、「宗教や組織団台を侮辱してはいけない」などの一般規則を施行してゆくことを表明。34年になるとコードの規制はより厳しくなり、「未婚のカップルはベッドを共に出来ない」、「キスは3秒まで」など現代では考えられないコードが施行されていた。ハリウッドのメジャー・スタジオはこの独自の規則に従って映画製作を続けてゆくが、作品の表現をめぐってMPPDAと映画製作者たちが争うことも少なくなかった。時代が移り変わってヨーロッパで『不良少女モニカ』(52)や『素直な悪女』(56)などが公開されて性の解放が活発になり、54年に協会の会長であったジョセフ・ブーリンが辞任すると、規制範囲外の暴力やセックスを売り物にした低予算映画が数多く登場するようになった。66年にジャック・バランティが会長に就任するとプロダクション・コードは大幅に改定されて、68年にはアルファベットによる4段階[G、M、R、X]の入場者の年齢を基準にしたシステム「レーティング」が採用された。



ヘイズ・オフィス / Hays Office

ハリウッドが黄金期に設立した映画を検閲する機関である映画制作倫理規定管理局を擁する「アメリカ映画制作者配給者協会(MPPDA)」のことで、会長であった共和党政治家ウィル・ヘイズの名を取ってこう呼ばれた。20年代のハリウッドでは業界の発展とは裏腹に、喜劇俳優ロスコー・アーバックルの婦女暴行事件などで業界はスキャンダルにまみれ、劇中の暴力やセックス描写は日増しにエスカレートしていった。その結果、保守派の批判を招いて全米各地で映画撲滅運動が起こったため、ハリウッドの有力者たちは業界内の規制と、風俗を乱す映画を追放することを目的として、22年に長老派教会の大御所で元郵政長官のヘイズを会長に迎えてMPPDAを設立する。34年にへイズは映画制作倫理規定(プロダクション・コード)と呼ばれる自主検閲規則を尊守することを表明。ハリウッドは自主的に作品の内容を検閲して劇中の性、暴力、反社会的な行為の描写の規制の強化を図る。MPPDAは映画の内容を検閲する機関である映画制作倫理規定管理局(PCA)を発足し、元ジャーナリストのジョセフ・ブーリンを局長に任命する。通常スタジオは脚本をPCAに提出して許可が出ると映画の撮影を開始し、プロダクション・コードに違反しているとして脚本が却下された場合は、PCAの許可が下りるまで書き直しが行われる。その後、完成した映画の検査が行われ問題がなければMPPDAの認可マークが与えられるが、この認可マークがなければMPPDAに加盟しているスタジオ系列の映画館では映画を上映することは出来なかった。45年にヘイズは引退し、エリック・ジョンストンが二代目会長に就任すると、MPPDAは「ジョンストン・オフィス」と呼ばれるようになる。また、PCAの局長ジョセフ・ブーリンの名前を取って「ブーリン・オフィス」とも呼ばれていた。



ボックスオフィス・ポイズン / Boxoffice Poison

映画スタジオの傘下にない映画館主らの団体インディペンデント・シアター・オーナーズ・アソシエーション(独立配給者協会)が、観客に人気がないので映画の興行上の価値がないとみなした俳優たちに使った言葉。映画館の館主で、独立映画館主協会の会長だったハリー・ブラントは、1937年にハリウッドの業界紙「ヴァラエティ」誌に全ページの広告を出して、高給取りの俳優の多くは興行的に人気がない事を指摘し、男優ではエドワード・アーノルドやフレッド・アステア、女優ではキャサリン・ヘプバーングレタ・ガルボ、ケイ・フランシス、ジョーン・クロフォードマレーネ・ディートリッヒ、メイ・ウェストらをボックスオフィス・ポイズン(切符売り場の毒)と名指しで非難した。この広告はハリウッドだけでなくマスコミの注目も集め、以後、独立系の劇場館主たちはボックスオフィス・ポイズンに指名された俳優たちが人気スターと共演しているときに限り、彼らの出演作品を購入するようになる。反対に興行的に価値のある俳優に選ばれたのはシャーリー・テンプル、ディアナ・ダービン、ジンジャー・ロジャースだった。



ボードビル / Vaudeville

歌入劇や通俗的な喜劇、舞踊、曲芸、またはそれらを取り混ぜながら演じる寄席演芸。ボードビル出身のチャールズ・チャップリンやバスター・キートンらはサイレント映画時代にハリウッドに招かれてスターとなるが、映画がトーキーになるとハリウッドの映画スタジオは演劇界やラジオなど様々なメディアから有能な人材をハリウッドに招き、彼らは一味違った芸を売りにするボードビルの芸人たちにも再び注目して、マルクス兄弟やメエ・ウェストらをハリウッドに呼び寄せた。




- マ行 -

マッカーシズム / McCarthyism

赤狩り



ミュージカル / The Musical

黄金期のハリウッドが最も得意としたジャンルの一つで、歌や踊りが盛り込まれた映画をさす。歌と踊りで物語を綴るというアメリカン・ミュージカルは、1866年ニューヨークの劇場で初めて生まれ、1927年に最初の本格的なアメリカン・ミュージカルである『ショウ・ボート』が上演される。同年には最初のトーキー『ジャズ・シンガー』が公開され大ヒットを記録すると、映画での音楽の需要は急激に増し、美しく楽しい歌や華麗なダンスを売りにしたミュージカルはハリウッドにとって欠かせないジャンルとなる。最初の頃は、歌と踊りだけが見せ場でストーリーはたわいないシネ・ミュージカルが多数作られていたが、やがて『四十二番街』(33)『雨に唄えば』(52)など、見応えのある物語に、映画的な見せ場や歌と踊りを違和感なく盛り込んだ質の高いミュージカルが制作されるようになる。シネ・ミュージカルには、ストーリーのない歌と踊りがメインのレヴュー[『ジーグフェルド・フォーリーズ』(46)]、オペラを基にしたオペレッタ・ミュージカル[『ラヴ・パレイド』(29)]、ダンス・ミュージカル[『トップ・ハット』(35)等のフレッド・アステアジンジャー・ロジャースのコンビによる一連の作品]、ショービジネスの世界を舞台にしたバックステージ・ミュージカル[『ショウほど素敵な商売はない』(54)]、コメディと音楽のコンビネーション[ビン・クロスビーとボブ・ホーブの『珍道中』シリーズ]、ドラマと音楽のコンビネーション[『スター誕生』(37,54&74)]の6つのサブ・ジャンルがある。また、ハリウッド黄金期にはソーニャ・へ二ー主演のスケート・ミュージカル[『水上乱舞』(38)]や、エスター・ウィリアムズ主演の水泳ミュージカル[『世紀の女王』(44)]など異色のミュージカルも製作された。



無声映画 / Silent Movies

サイレント映画



メトロ・ゴールドウィン・メイヤー / Metro-Goldwyn-Mayer

M-G-M



メロドラマ / Melodrama

メロドラマとは、音楽が入った通俗劇という意味であるが、ここから男女の恋愛や、家族の葛藤、難病など、通俗的で感傷的なテーマを扱った作品をさすようになる。このジャンルの誕生は、リリアン・ギッシュ扮する田舎娘が分不相応だと考えて、恋人をほかの女性と結婚させるというストーリーの1919年に製作されたサイレント映画『清らかなるスージー』だといわれている。メロドラマは瞬く間に女性たちの心をつかみ、ハリウッド黄金期には、ベティ・デイヴィスグリア・ガースンらスター女優を起用して『情熱の航路』(42)や『ミニヴァー夫人』(42)のような良質のメロドラマが多数制作された。



モンタージュ / Montage

フランス語で合成や編集を意味する言葉で、複数の短いショットを連続的につなぎ合わせる事によって観客に製作者の意図や観念を伝える映画ならではの編集テクニック。『戦艦ポチョムキン』(25)や『ストライキ』(25)など、ソ連の映画監督セルゲイ・エイゼンシュタインが手掛けたプロパガンダ(戦意高揚)映画によって確立された。




- ヤ行 -

ユナイテッド・アーティスツ / United Artists

映画スターたちによって設立された最も歴史の古い独立プロダクション。映画スタジオに束縛されずに、自由な映画製作の場を求める俳優のチャールズ・チャップリン、メアリー・ピックフォード、ダグラス・フェアバンクス、そして監督のD・W・グリフィスらは1919年に芸術家連合[ユナイテッド・アーティスツ(UA)]を発足して、世界的な注目を集める。製作者たちに創造の自由を与えることをモットーにして、他のスタジオのように独自の撮影所を持たずに、映画の配給を中心にした事業を展開する。25年に社長に就任したジョセフ・スケンクの指揮のもと、設立メンバーのフェアバンクスやチャップリンの主演映画だけでなく、ハワード・ヒューズ、サミュエル・ゴールドウィン、ダリル・F・ザナックといった独立製作者達の作品を配給し、主に他のスタジオでは見送られたリスクの高い独創的な作品を送り出してゆく。51年にアーサー・B・カリムとロバート・B・ベンジャミンがチャップリンとピックフォードから手持ちの株を買い取り、57年には事業を拡張してテレビと音楽業にも進出。50年から60年代にかけて『真昼の決闘』(52)『十二人の怒れる男』(57)など、芸術志向の娯楽映画を多数配給して高い評価を獲得し、アメリカ映画だけでなく『トム・ジョーンズの華麗な冒険』(63)、『ビートルズがやって来る ヤァ!ヤァ!ヤァ!』(64)、『007』シリーズなどを配給してイギリス映画の素晴らしさをアメリカの観客にアピールした。67年には銀行や保険業の大手トランス・アメリカの傘下に入るが、ヘクト・ランカスター・プロやミリッシュ・カンパニーといった独立プロダクションと組んで、引き続き質の高い映画を送り続け、60年代から70年代にかけて『アパートの鍵貸します』(60)、『ウェスト・サイド物語』(61)、『ロッキー』(76)、『アニー・ホール』(77)等の9本の作品でアカデミー作品賞を獲得。73年にはM-G-M映画の権利を獲得するが、1980年に製作されたマイケル・チミノ監督の高予算作品『天国の門』の興行的な失敗によってスタジオは経営困難に陥り、翌年トランス・アメリカはスタジオをM-G-Mに売却、併合されてMGM/UAとなった。



ユニヴァーサル / Universal

ユニヴァーサル地球が回転するロゴでおなじみの映画スタジオ。ドイツ移民で映画製作の先駆者カール・レムリが1909年に創立したインデペンデント・モーション・ピクチャー・コーポレーション(IMP)が母体となり、3年後の12年に幾つかの古いスタジオと合併してユニヴァーサル社を創設する。15年にはロサンゼルス近郊のサン・フェルナンド・バレーにあった養鶏場跡地に「ユニヴァーサル・シティ」と名付けられた240エーカーの巨大なスタジオを構えて、ハリウッドの黄金期には低予算作品の作品を中心に制作。30年代はレムリの息子レムリ・ジュニアが手掛けた『魔人ドラキュラ』(31)『フランケンシュタイン』(31)といった一連の怪奇映画を大ヒットさせる一方、アカデミー作品賞を獲得した『西部戦線異常なし』(30)のような質の高い映画を制作して高い評価を得る。その後、スタジオは財政難で経営危機に陥り、35年にレムリはユニバーサルを売却するが、ディアナ・タービン主演のミュージカル映画のヒットによってスタジオは起死回生を図る。46年から6年間インターナショナル・フイルムに併合されるが、40年代はバッド・アボットとルー・コステロの凸凹コンビによるコメディ映画やアラビアン・ナイトを主題にしたアドヴェンチャー映画をヒットさせる。52年にはデッカー・レコード社の傘下に入り、50年代頃からはA級作品も手掛けるようになって、ドリス・デイとロック・ハドソン共演のセックス・コメディを送り出して興行的成功を収める。62年にはタレント・エージェンシーのミュージック・コーポレーション・オブ・アメリカ(MCA)に買収されて、64年には映画とテレビの舞台裏を公開するテーマパーク「ユニヴァーサル・スタジオ・ハリウッド」をオープン。90年にはフロリダ、2001年には大阪にも作られた。70年代から90年代はジョージ・ルーカスやスティーヴン・スピルバーグらの若手の監督と組んで『アメリカン・グラフィティ』(73)、『ジョーズ』(75)、『E.T.』(82)、『ジュラシック・パーク』(93)といったハリウッド映画の興行収入記録を塗り替えるヒット作を連発。90年には日本の松下電器が親会社のMCAを61億ドルで買収したが、95年にカナダの大手飲料メーカーのシーグラムに70億ドルで売却した。




- ラ行 -

ランナウェイ映画 / Runaway Movies

第二次世界大戦後に海外で公開されたハリウッド映画の膨大な収益は、各国の外貨事情が悪化していたため凍結されていた。この凍結された収益金を資金にして、ハリウッドのスターとスタッフを使って海外で全面的に撮影されたハリウッド映画を「ランナウェイ映画」と呼ぶ。アメリカの経済援助の一環として主にヨーロッパで撮影が行われ、『ローマの休日』(53)『ベン・ハー』(59)などのヒット作が相次いで製作されるが、ハリウッドでの制作費が高騰するにつれてランナウェイ方式で撮影される映画の本数も増えてゆき、1962年にはアメリカ映画の約30%が海外で撮影された。日本でもマーロン・ブランド主演の『八月十五夜の茶屋』(57)や『サヨナラ』(57)がランナウェイ映画として制作された。



立体映画 / 3-D Films

3-D映画



リパブリック / Republic

ハリウッド黄金期に低予算のBムービーや連続活劇を中心に製作した映画スタジオ。煙草の相場で財をなしたハーバート・J・イェーツは1932年にフィルム現像所コンソリディーテッド・フィルム・インダストリーズを買収。その後も幾つかの会社を買収して合併させ、35年にはマスコット、モノグラム、リバティの3社を合併させてリパブリック社を設立した。ジョン・ウェイン主演のウェスタンや戦争映画、ジーン・オートリーやロイ・ロジャース主演の歌うカウボーイが主人公のウェスタン、そして『ロケットマン』や『ローンレンジャー』などの連続活劇を数多く製作。しかし、1948年の独占禁止法の制定によってBムービーの供給先を次第に失ってゆき、50年代に入るとテレビに対抗するためにジョン・フォード監督を招いて『リオ・グランテの砦』(50)や『静かなる男』(52)などの質の高い娯楽作を送り出したものの、悪化する経営に歯止めがかからず、1959年にスタジオはアメリカのテレビ局CBSに売却されて、同ネットワークのテレビ用撮影所となった。



リメイク / Remake

海外や過去に作られた映画のストーリーを、キャストやスタッフを一新して、新たな要素を取り入れた作品として作り直す事。アイディア不足の現在のハリウッドではリメイクは格好の素材であり、ハリウッドの大手スタジオは外国語映画のリメイクだけでなく、アレクサンダー・ホール監督の『幽霊紐育を歩く』(41)[78年と2001年に『天国から来たチャンピオン』としてリメイク]、ルイス・マイルストン監督の『犯罪都市』(31)[40年に『ヒズ・ガール・フライデー』(40)として、74年に『フロント・ページ』として、88年に『スイッチング・チャンネル』としてリメイク]ジョージ・キューカー監督の『栄光のハリウッド』(32)[37年、55年、76年に『スタア(スター)誕生』としてリメイク]、ヘンリー・コスター監督の『気まぐれ天使』(47)[96年に『天使の贈り物』としてリメイク]など、現在では名作として知られる作品を再びスクリーンに蘇らせる。ウィリアム・ワイラー監督[『この三人』(31)『噂の二人』(61)]、アルフレッド・ヒッチコック監督[『暗殺者の家』(34)→『知りすぎていた男』(56)]、ハワード・ホークス監督[『教授と美女』(42)→『ヒット・パレード』(48)]、フランク・キャプラ監督[『一日だけの淑女』(33)→『ポケット一杯の幸福』(61)、『其の夜の真心』(34)→『恋は青空の下』(50)]、レオ・マッケリー監督[『邂逅』(39)→『めぐり逢い』(57)]らは過去に演出した映画を自らリメイクした。



リュミェール兄弟 / Lumiere Brothers

映画の始祖と呼ばれるフランスの興行師。ルイとオーギュストのリュミェール兄弟は、覗き見スタイルのため一人ずつしか観る事が出来なかったトマス・エジソンのキネトスコープを改良して、映画の鑑賞方法を映写装置(シネマトグラフ)からの映像をスクリーンに投影して大多数の観客に見せるスタイルに変え、1895年12月28日にパリのグラン・カフェ地階のサロン・ナンディアンで初めての映画興行をおこない、列車が近づく駅の風景を撮影した史上初の映画『汽車の到着』などを上映した。



レーティング・システム / Rating System

アメリカ映画協会(MPPA)が、劇中のセックスや暴力描写などの度合いを観客に伝える目安として1968年の11月から実施した、年齢を基準にして入場者を制限するシステム。最初は、G(一般向き映画)、M(保護者の判断が必要)、R(成人の同伴が必要)、X(成人向け映画)の4つのアルファベットによる4段階のレベルに別れていたが、現在では映画の多様化に伴ってレーティングはさらに細分化され、G(一般向き映画)、PG(保護者同伴が望ましい)、PG-13(13歳未満は保護者同伴。1984年に新設)、R(17歳未満は保護者同伴)、NC-17(17歳未満入場禁止。1990年に新設)、X(17歳未満入場禁止。1991年に廃止)に分かれている。



レッド・パージ / McCarthyism

赤狩り



連続活劇 / Cliffhanger or Serial

アメリカではシリアルやクリフハンガーと呼ばれ、毎週主人公が絶体絶命の危機を前にして映画が終わり、観客に次回作の展開を心待ちにさせ、大勢の子供達をスクリーンの前にクギ付けにした、派手なアクションが売りの連続的な短編映画。『市民ケーン』(41)の主人公ケーンのモデルになった新聞王ウィリアム・ランドルフ・ハーストが、映画会社を買収して自社の新聞に掲載された冒険マンガの映画化に着手し、元サーカスの曲芸師だったパール・ホワイトを起用して『ポーリーンの危機』(14)を発表。危機また危機の手に汗握るスリリングなアクション満載の物語はたちまち観客の心を掴んで、連続活劇映画のはしりとなり『ロケットマン』や『キャプテン・マーヴル』などの娯楽的な連続活劇映画が続々と制作された。



ロード・ムービー / Road Pictures

主人公たちが旅をしながら、様々な問題に直面してゆく映画。ロード・ムービーの由来は、ビング・クロスビー、ボブ・ホープ、ドロシー・ラムーアのトリオがモロッコやシンガポールなどの異国の地で歌あり笑いありの旅をする『珍道中』シリーズで、シリーズのアメリカでの題名が全て『ロード・トゥ 〜』で始まることからロード・ムービーと呼ばれるようになる。最初の頃は、ロード・ムービーという言葉は異国の地を舞台にした映画を指す言葉として使われていたが、後に『珍道中』シリーズだけでなく主人公たちが旅をする映画全般に使われるようになり、オートバイに乗ってあてのない旅を続ける男達を描いた『イージー・ライダー』(69)や、罪を犯した2人の女性の逃避行を描く『テルマ&ルイーズ』(91)など、主人公達が旅によってアメリカが抱える社会的、政治的、文化的な問題を目の当たりにする姿を描いたロード・ムービーの傑作が続々と生まれた。




- ワ行 -

ワーナー・ブラザーズ / Warner Bros.

ワーナー社名の頭文字「WB」をあしらった盾をロゴマークにして、ギャング映画女性映画で隆盛を極めたハリウッド黄金期のメジャー・スタジオの一つ。1903年に興行業を始めたポーランドからの移民ハリー、アルバート、サム、ジャックのワーナー4兄弟は1923年からは製作業にも進出。名犬リン・チン・チンの人気と渡米したヨーロッパの映画人たちの活躍によって映画ファンに親しまれるが、2年後早くもスタジオの経営は悪化。苦境を切り抜ける切り札として音響メーカーのウェスタン・エレクトリック社と協力して26年にディスク式のトーキー「バイタフォン」を開発し、翌27年に初の長編トーキー映画『ジャズ・シンガー』を発表。今作の成功によってワーナーはメジャー・スタジオとしての地位を確立する。ワーナー社が最も得意としたのは当時の世相を反映したギャング映画で、30年代には『民衆の敵』(31)や『汚れた顔の天使』(38)といったアンチ・ヒーローの活躍を描いたギャング映画の傑作を多数製作してジェームズ・キャグニーやエドワード・G・ロビンソンといったスターを生み出した。40年代にはフィルム・ノワール・ブームの火付け役となったハンフリー・ボガート主演の『マルタの鷹』(41)『三つ数えろ』(48)などの傑作サスペンスや、アカデミー受賞したメロドラマの名作『カサブランカ』(42)を発表。また、30年代から40年代にかけて活劇スター、エロール・フリン主演のアクション・アドベンチャー映画や、『黒蘭の女』(38)や『ミルドレッド・ピアース』(45)などベティ・デイヴィスジョーン・クロフォードらワーナー専属のスター女優主演の女性映画を多数製作して大きな成功を収めた。しかし、50年代に入るとテレビの進出によって低迷し、56年には50年代以前の作品をユナイテッド・アーティスツ社に売却。67年には独立プロダクションのセブン・アーツと合併し、69年にはレンタカー会社のキーニー・ナショナル・サービスの傘下に入り、テレビや音楽など映画だけでなくあらゆる分野に進出した。70年代以降は『ダーティハリー』シリーズや、『エクソシスト』(73)、『タワーリング・インフェルノ』(74)などのメガ・ヒット作を送り出し、89年には出版界の大手タイム社と合併してタイム・ワーナーとなり世界第1位のメディア企業となった。



ワイド・スクリーン / Wide Screen

50年代に、ハリウッドの映画スタジオがテレビに奪われた観客を再び映画館に足を運ばせるために開発した画面の縦横比がスタンダード・サイズ(1.33:1) と異なる1.66:1以上の横幅の広いスクリーンの総称。3台の映写機を使って上映する「シネラマ」、圧縮した映像を上映時にワイドに変換する「シネマスコープ」、普通のフィルムの約二倍の大きさのフィルムを用いる「ビスタビジョン」、65ミリのフィルムを使う「トッドAO」など様々な方式のワイド・スクリーンが登場した。 アメリカでは画面の形が郵便受けに似ていることから「レター・ボックス」とも呼ばれている。


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