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本名: | エドナ・メエ・ダービン | ![]() |
愛称: | ウィニペグの恋人 | |
職業: | 俳優 | |
生年: | 1921年12月4日 | |
出身国: | カナダ | |
出身地: | ウィニペグ マニトバ | |
没年: | ---- | |
代表作: | 『オーケストラの少女』(37) 『年ごろ』(38) 『春の序曲』(43) | |
イギリス人の両親のもとに生まれ、翌年一家はカリフォルニアに移住。
11歳の頃から歌のレッスンを受けるようになり、35年リサイタルに出演していたところをタレント・エージェントのジャック・シェリルに見出され、
当時最大の映画スタジオM-G-M社と契約。
翌36年にもう一人の子役ジュディ・ガーランドと共演した短編映画『Every Sunday』で、本名のエドナで映画デビューを果たした。
その後、出演映画の製作が中止となり、ダービンはM-G-Mを離れて当時財政難にあえいでいた二流スタジオのユニヴァーサル社と契約。
スタジオはディアナの芸名を与え、36年の『天使の花園』で長編映画デビューさせた。
映画はその年のスタジオ最大のヒットを記録。
ダービンが演じたペニー・クレイグ役は好評を博し、以後シリーズ化されて『庭の千草』(39)と『Hers to Hold』(43)が作られた。
この頃、エディ・カンターのラジオ番組にも出演し、自然で美しい歌声で聴衆者を虜にした。
『天使の花園』の監督ヘンリー・コスターと製作者のジョー・パスターナクは、次回作としてダービンの美声と愛らしさを生かしたホームドラマ『オーケストラの少女』を企画。
この映画でダービンは失業者の楽団を成功させるために奔走する天真爛漫な少女を熱演しただけでなく、
世界的な指揮者レオポルド・ストコフスキーと名門フィラデルフィア交響楽団の演奏をバックに天使のような歌声を存分に披露。
映画は空前の大ヒットを記録し、『天使の花園』と『オーケストラの少女』の成功によってユニヴァーサルを倒産から救ったダービンは一躍スタジオのトップスターに踊り出た。
『アヴェ・マリア』(38)のプレミアではチャイニーズ・シアターに手形と足型を残し、39年には子役としての活躍が認められてアカデミー特別賞が授与され、子役用の小さなオスカーが贈られた。
39年の『銀の靴』では初めてキス・シーンを披露。このロバート・スタックとのキス・シーンは新聞の見出しになるほどの話題を呼んだ。
その後もスタジオはダービンの愛らしさと歌声を売りにした映画を製作。『ホノルル航路』(40)や『青きダニューヴの夢』(40)に出演して年40万ドルを稼ぎ出し、
ダービンの人形や洋服などのキャラクター・グッズが売り出されるほどの人気を獲得。
留まる所を知らない人気とは裏腹に、ダービン自身はスターとしての華やかな生活には興味を持たず、普通の生活を望んでいた。
41年には助監督のヴォーン・ポールと結婚するが、長くは続かず43年に離婚。
44年には唯一のテクニカラー映画『Can't Help Singing』が公開され、
同年の『クリスマスの休暇』(44)では初めてドラマティックな役に挑戦。
ジーン・ケリー扮する逃亡者と恋に落ちる悲劇の女を熱演した。
45年には『クリスマスの休暇』の製作者で20歳年上のフェリックス・ジャクソンと再婚。翌年には一女をもうけた。
48年には『恋ごころ』に出演し、この21本目の出演作を最後に28歳の若さで映画界からの引退を表明。
49年にはジャクソンと離婚して、翌50年にダービン主演の『Lady on a Train』(45)の演出を手掛けたチャールズ・デイヴィッドと再婚し、
家族と共にパリ郊外の片田舎に移住。
その後も舞台版『マイ・フェア・レディ』のイライザ役など幾つものカムバックの企画が持ち上がったが、ダービンは全ての出演依頼だけでなくインタビューの依頼も拒否。
引退から現在に至るまで一度もカムバックすることなく、ヨーロッパで悠々自適の生活を送っている。
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紹介作品 | ||
出演 | ||