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職業: | 製作者、監督、脚本家 | ![]() |
生年: | 1897年5月18日 | |
出身国: | イタリア | |
出身地: | シチリア島 | |
没年: | 1991年9月3日 | |
代表作: | 『或る夜の出来事』(34) 『スミス都へ行く』(39) 『素晴らしき哉、人生!』(46) | |
イタリアでぶどう園を営む家庭に生まれるが兄弟が多かったため家は貧しく、
6歳の時に一家がアメリカに移住すると新聞の売り子や酒場でバンジョーを弾いてお金を稼いで家計を支えた。
苦労の末に高校まで進学し、2年間働いて学資をためてからカリフォルニア工業学校に入学。
第一次世界大戦でアメリカが参戦すると陸軍に入隊。
戦後、家庭教師をしながら学校を卒業したものの希望するエンジニアの仕事が見つからなかったので、
酒場で歌手として働きならが作家になる勉強をしていたが、シナリオ学校では小説よりも映画に魅了されるようになる。
21年に独立系のクリスティ映画社に裏方として入社。
その後、ポール・ガースン映画社で助監督として主に喜劇映画の製作に関わり、
22年にはルドヤード・キプリングの詩を自ら脚色した短編映画『Fultah Fisher's Boarding House』で監督デビューを果たした。
ハル・ローチ社では、当時人気だった喜劇「ちびっ子ギャング」シリーズのギャグ・ライターとして活躍。
26年にはチャールズ・チャップリンを見出したマックス・セネット撮影所に入社して、
喜劇俳優ハリー・ラングドン主演の『初陣ハリイ』のギャグと脚本を手掛けただけでなく、共同監督として長編監督デビューを飾った。
続く『当りっ子ハリイ』(26)や『初恋ハリイ』では一人で演出を担当してラングドン人気の立役者となったが、
主演四作目の『岡惚れハリイ』(28)からはラングドン自ら演出するようになり、
仕事を失ったキャプラは、28年に当時二流のマイナー・スタジオだったコロムビア社に招かれてコメディ『呑気な商売』を演出。
これがスタジオの重役ハリー・コーンらに認められて専属契約を結ぶことになった。
以後、コロムビアの職人監督として『サブマリン』(28)、『渦巻く都会』(28)、『空の王者』(29)、『大飛行船』(31)、『狂乱のアメリカ』(32)など、スタジオの話題作や大作ドラマを監督。
29年にはスタジオの最初のトーキー映画『The Younger Generation』を手掛けた。
31年にはバーバラ・スタンウィック主演のドラマ『奇跡の処女』のストーリーを担当した脚本家のロバート・リスキンと知り合い、
意気投合した二人はハートウォーミング・コメディ『一日だけの淑女』(33)を発表。
リンゴ売りの老女を貴婦人にするために周囲の人々がひと芝居打つという痛快なドラマは幅広い層に支持され、
スタジオ初のアカデミー作品賞とキャプラ初の監督賞ノミネートを含む4部門でのノミネーションを果たした。
この作品で監督と脚本家しての評価を高めたキャプラは、翌年、再びリスキンと組んで大恐慌のアメリカを舞台にしたスクリューボール・コメディ『或る夜の出来事』を発表。
クローデット・コルベールとクラーク・ゲイブルの二大スターを主演に迎え、
お転婆な富豪の娘と新聞記者の珍道中を描いたこの作品は不況に苦しむ人々に受け入れられて大ヒットを記録。
アカデミー作品賞をはじめ、主演男優、主演女優、監督、脚本賞の主要5部門を独占する快挙を成し遂げ、コロムビアは一躍メジャー・スタジオの仲間入りを果たした。
その後もキャプラとリスキンの快進撃は続き、競走馬の育成に情熱をそそぐ人々の姿を描いた『其の夜の真心』(34)や、
ゲーリー・クーパー扮する田舎の青年が突然大金持ちになる騒動を描いた人情劇『オペラハット』(36)を発表。
親しみやすいキャラクターを主人公にして、庶民の視点から上流社会や巨大な権力を皮肉って笑い飛ばす痛快な作風は時代の風潮に見事に合って批評家と観客の両方の心をつかみ、
『オペラハット』では二度目の監督賞に輝いた。
35年から39年にかけてアカデミー会長を務め、36年にアカデミー協会との対立から起こった俳優と監督組合の授賞式ボイコット運動を切り抜けて、第8回アカデミー賞を無事開催させた手腕は高く評価された。
37年にはジェームズ・ヒルトンの壮大な冒険小説を贅沢に映画化したアドベンチャー大作『失はれた地平線』を発表。
人類の理想郷を描いたキャプラの野心作は批評的にも興行的にも奮わず、大幅にカットされて公開された。
38年には再びリスキンと組んで、庶民の立場から拝金主義を皮肉った人情劇『我が家の楽園』(38)を発表。
ブロードウェイのヒット戯曲を手堅く演出して三度目のアカデミー監督賞を獲得した。
39年には『我が家の楽園』で知り合ったジェームズ・スチュワートを主役に抜擢して政治風刺劇『スミス都へ行く』を発表。
政治家を皮肉った内容がワシントンの政治家から反感を買ったものの、観客からは好評を得て大ヒットを記録した。
その後、古巣のコロムビアを離れてワーナー・ブラザーズ社に移籍。
マスコミに作り上げられた架空の人物を描いた『群集』(41)と、ケーリー・グラントを主演のブラック・コメディ『老嬢と毒薬』(44)を手掛けた。
第二次世界大戦が勃発すると、陸軍の映画班に所属。
ワシントンに駐在して新兵教育のための『われらは何故戦うのか』シリーズなどのドキュメンタリーや宣伝映画の監督や監修にあたり、その功績が認められて中佐にまで昇進した。
戦後、映画監督のジョージ・スティーブンス、ウィリアム・ワイラーらと共に独立製作会社「リバティ・ピクチャーズ」を45年に創設。
しかし、キャプラが手掛けた生きることの素晴しさを描いた人情劇『素晴らしき哉、人生!』(46)と、
スペンサー・トレイシーとキャサリン・ヘプバーン共演の政治風刺劇『愛の立候補宣言』(48)は興行的に惨敗。
48年、リバティ・ピクチャーズはパラマウント社に吸収された。
以後、作品数は激減し『其の世の真心』をリメイクしたビング・クロスビー主演の『恋は青空の下』(50)や、
ベティ・デイヴィスを主演に迎えた『一日だけの淑女』のリメイク『ポケット一杯の幸福』(61)など自作の再映画化が多くなり、他の作品も往年の冴えを失ってしまう。
64年の短編映画『Rendezvoures in Space』を最後に映画界から引退し、71年には自伝『Frank Capra: The Name Above the Title』を発表。91年9月3日、老衰が原因でこの世を去った。
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