風と共に去りぬ Gone With the Wind
公開:
1939年
風と共に去りぬ
製作:
セルズニック・インターナショナル / M-G-Mスタジオ

デビッド・O・セルズニック
監督:
原作:
マーガレット・ミッチェル
脚本:
シドニー・ハワード
撮影:
アーネスト・ホラー
音楽:
マックス・スタイナー
出演:

アメリカ南部の町アトランタで自由奔放に生きる女性スカーレット・オハラ。彼女は初恋の男性レスリーに求婚するが、レスリーは彼女の申し入れを断る。そんな中、南北戦争が勃発しアトランタは戦渦に巻き込まれる。混乱の最中、スカーレットは風来坊の男レット・バトラーと出会い、次第に彼の魅力に惹かれてゆく。30ヶ国語以上に翻訳されてアメリカだけで1,000万部を、全世界で3,000万部を売った世界的なベストセラー小説をもとに、南北戦争によって荒廃したアトランタで力強く生きる南部女性スカーレットの姿をテクニカラーで壮大に描いたハリウッド黄金期を代表する超大作。

原作はマーガレット・ミッチェルが9年がかりで完成させた同名小説で、タイトルはアーネスト・ドーソンの恋愛詩「シナラ」からとられたもの。小説が1936年に出版されると爆発的な人気を博して聖書につぐベストセラーになり、37年度のピューリッツアー賞に輝く。 出版元のマクミラン社は、小説出版の1ヵ月前に映画化権をM-G-M社に売り込むが、10万ドルという高額な映画化権料のためM-G-Mは興味を示さず、本が出版された4週間後に、独立製作者のデヴィッド・O・セルズニックが当時としては破格の5万ドルで映画化権を獲得。 レッド・バトラー役にはロナルド・コールマン、バジル・ラスボーン、エロール・フリン、ゲーリー・クーパーの名前があがるものの、小説が出版された時から原作者のミッチェルを含めてファンの間では “ハリウッド・キング”のクラーク・ゲイブルが適役であるという意見が圧倒的だった。ゲイブルはM-G-M専属の俳優だったので、セルズニックはM-G-Mに世界配給権を譲り、純益の50%を支払うという条件を呑んでゲイブルを借り受けるが、ゲイブル本人は最初レット役にあまり乗り気ではなかった。 セルズニックは、アシュレー役にインテリを連想させるレスリー・ハワードが最適だと考えていたが、ハワードは乗り気ではなかったためメルビン・ダグラス、ジェフリー・リン、レイ・ミランドらを候補に上げるが、彼らに満足出来ないセルズニックはハワードを説得して出演を承諾させる。 フランシス・ディー、アンドリア・リーズ、アン・シャーリーらがメラニー役の候補としてテストされ、セルズニックはジョーン・フォンテーンをこの役で本格的に売り出そうと考えたが、スカーレット役を狙うフォンテーンはワーナー・ブラザー社に所属していた姉のオリビア・デ・ハビランドを推薦する。 主人公スカーレット・オハラ探しは“スカーレット・フィーバー”と呼ばれたほど全国で大々的に行われ、14歳以上の全てのハリウッド女優がスカーレット役に名乗りをあげる。キャサリン・ヘプバーンベティ・デイヴィス、ポーレット・ゴダード、ノーマ・シアラーらを含めて現役の女優121人が候補に上がり、60人がスクリーン・テストを受ける。 デイヴィスとゴダードは最後まで候補に残っていたが、デイヴィスは前年の『黒蘭の女』(38)での役がスカーレットに似ているという理由で、ゴダードはチャールズ・チャップリンとのあいまいな関係が理由で候補から外された。 この作品をスター映画にしたくなかったセルズニックは、無名の女優の起用も考えて一般オーディションもおこなったため、スカーレット役探しはハリウッドの女優だけでなく、無名の素人まで巻き込んだ文化的な盛り上がりを見せ、スカーレット役探しの費用だけで9万2,000ドルもかかり、総応募者数は1,400人、スクリーン・テストをした人数は90人、使用したフィルムはモノクロが4万2,000フィート、テクニカラーが1万3,000フィートにも及んだ。 最終的にスカーレット役は、『嵐が丘』(39)を撮影中だった恋人のローレンス・オリビエを追ってイギリスからハリウッドにやって来た、アメリカでは無名のイギリス人女優ヴィヴィアン・リーが抜擢される。 『キング・コング』(33) で使われた神殿の門など、過去に製作された映画のセットを燃やして撮影された「アトランタの炎上」と呼ばれるアトランタ操車場での弾薬庫の炎上シーンの撮影をオリビエと見学に来たリーがセルズニックの目に留まってスカーレット役に起用されたというのが通説になっているが、実際はセルズニックの兄でオリビエのハリウッドでのエージェントだったマイロン・セルズニックが、火災シーンの前に二人を会わせていたといわれている。 1,037ページもの原作の脚色は予想以上に難航し、この大仕事にセルズニックはピュ−リッアー賞受賞作家シドニー・ハワードを雇ったが、彼が書き上げた脚本の上映時間は5時間を超えてしまう上に、ヘイズ・オフィスや全国黒人地位向上委員会から劇中の好ましくない描写に対して抗議される。 ハワードの後を受けて、ベン・ヘクトが週給1500ドルで雇われてセルズニックと共に書き直しを行うが、撮影が始まっても脚本は完成せず、最終的にジョン・ヴァン・ドールテン、ジョー・スワーリング、作家のF・スコット・フィッツジェラルドら総勢13名もの脚本家が脚本の手直しに関わった。 監督には最初女性映画の名手ジョージ・キューカーが起用されたが、キャラクター描写に重きを置く彼の映画に対する姿勢は、テーマに重きを置くセルズニックのそれと根本的に違っていたうえに、、ゲイブルはキューカーが女優にばかり注意を払って自分の役に関心を持っていないと感じてM-G-Mの会長ルイス・B・メイヤーを使ってセルズニックに圧力をかける。 撮影開始から約二週間後、セルズニックはキューカーを解雇し、後任の監督にはキング・ヴィダー、ジャック・コンウェイ、ロバート・Z・レナードらM-G-Mの専属監督が考慮されるが、ゲイブルの友人のビクター・フレミングに白羽の矢があたり、彼は撮影中だった『オズの魔法使』(39)をキング・ヴィダーに任せて『風〜』の撮影に移る。 しかし、フレミングの演出に不安なリーとデ・ハビランドは、密かにキューカーの自宅に訪れて演技指導を受けていた。 「アトランタの炎上」シーンから始まった撮影は過酷を極め、スタッフは毎週6日から7日働き、一日の撮影時間は時には20時間もかかることもあり、二度と飢えはしないと誓う有名なシーンでは、リーは休憩なしで22時間働きつづけた。 リーはゲイブルが怠け者だと思い、彼の息が義歯のために臭いことに我慢できなかったが、二人は次第に理解しあって撮影中に一つのシーンの中で競ういあうようになる。 反対にフレミングとリーの関係は最悪で、スペクタクルに重点を置くフレミングと、登場人物の性格描写に重点を置くべきだと考えるリーは意見の食い違いから、二人の間には争いが絶えず、フレミングは肉体と精神的な疲労とリーとの確執が原因となって健康を害してしまい、その間『オペラは踊る』(35)のサム・ウッドがピンチヒッターとして雇われた。 セルズニックは撮影終了頃には五班体制で撮影を進め、200日はかかると思われていた撮影を125日で終了させる。 レッド・バトラーがスカーレットのもとを去るときのセリフ“Frankly, my dear, I don’t give a damn.”「知らないね、勝手にするがいい。」は“Damn”が神を冒涜する言葉であるためにヘイズ・オフィスから変更するように指示されるが、セルズニックはこのシーンのインパクトが薄れることを恐れてセリフの変更を拒否し、規定を破った罰金として5,000ドルを支払う。 1939年の12月15日に映画の舞台となったアトランタのグランド劇場でワールド・プレミアが行われ、この日はアトランタの祭日となる。 映画の製作には映画化の権利獲得から3年の歳月を要し、8人の映画監督が関わり、使用されたフィルムは50万フィート(約152キロメートル/上映時間約92時間)にも及び、最終的にかかった経費は当初の予算の2倍以上の423万ドルにものぼり、アトランタでのワールド・プレミアだけでも10万ドルが使われた。232分の上映時間は当時としてはハリウッド最長で、初めてトイレのための途中休憩(インターミッション)が設けられた。 映画は空前のヒットを記録して、アトランタのグランド劇場では3年間ものロングランを記録。現在までの全世界の観客動員数は約20億人と推定され歴代一位である。 第12回アカデミー賞では13部門でノミネートされ、作品賞、主演女優賞(リー)、黒人初の演技賞受賞となった助演女優賞(乳母役のハティ・マクダニエル)、監督賞、脚色賞、カラー撮影賞、室内装置賞、編集賞の8部門を獲得し、アービング・G・タルバーグ記念賞がセルズニックに贈られた。 この頃のアカデミー賞は、授賞式のあとで新聞にすぐ掲載できるように新聞社には受賞結果が事前に告知されていたが、「ロサンゼルスタイムズ」誌が授賞式前に結果を発表してしまうというアクシデントが起き、翌年からは密封された封筒を使って授賞式当日に受賞者を発表する有名なシステムが採用される。 『風と共に去りぬ』の作品賞のオスカー像は競売に出されて、歌手のマイケル・ジャクソンが99年の6月に150万ドル(約1億5750万円)で落札した。

日本では宝塚歌劇団が舞台ミュージカル化して大きな成功を収め、91年にはアレクサンドラ・リプリーが、スカーレットとレットのその後を描いた待望の続編『スカーレット』を出版。全米3大ネットワークの一つCBSが、『007』シリーズのボンド俳優ティモシー・ダルトンをレット・バトラーに、『ウィロー』(88)のジョアン・ウォーリー=キルマーをスカーレット・オハラに配して94年にミニ・シリーズとしてテレビ放映する。


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