ジョン・フォード John Ford

本名:
ショーン・アロイシャス・オフィーニー
ジョン・フォード
愛称:
パピー / コーチ
職業:
製作者、監督、俳優、脚本家、撮影監督、美術監督、編集者、スタントマン
生年:
1894年2月1日
出身国:
アメリカ
出身地:
メイン州 ケープ・エリザベス
没年:
1973年8月31日
代表作:
『駅馬車』(39)
『怒りの葡萄』(40)
『静かなる男』(52)

アイルランド人の両親のもとに13人兄弟の末っ子として生まれ、高校を卒業するとハリウッドに移り、 14年に監督兼俳優として活躍いた兄のフランシスが働くユニヴァーサル社に入社。 小道具係として働き始めるが、やがて俳優となり、ジャック・フォード名義でD・W・グリフィス監督の『国民の創生』(15)や、連続活劇『The Broken Coin』(15)に端役として出演。 17年には二日酔いで仕事が出来なくなった兄に代わって助監督を務め、彼が演出したシーンがユニヴァーサルの重役カール・レムリに気に入られて監督に昇進。 同年の『The Tornado』で監督デビューを果たし、ハリー・ケリーやトム・ミックスら西部劇スターを起用した低予算のウェスタンを数多く手掛けた。 その後、ユニヴァーサルを離れてフォックス社に移籍。 23年からジョン・フォードと名乗るようりなり、同年にはサイレント期の大スター、ジョン・ギルバート主演の『侠骨カービー』を手掛け、 翌24年には大陸横断鉄道の建設を大規模なロケを敢行して描いた『アイアン・ホース』を演出して監督としての評価を高めた。 27年にはドイツのベルリンを訪れて、『吸血鬼ノスフェラトゥ』(22)等で知られるドイツ映画黄金時代の旗手F・W・ムルナウと出会い、ムルナウからドイツ映画流の製作技法を習得。 翌年にはドイツ表現主義の影響を色濃く受けた『4人の息子』(28)を演出し、 その後も表現主義的な照明や撮影テクニックは彼のビジュアル・スタイルに強い影響を与えた。 30年代に入るとウェスタンだけでなくシリアス・ドラマにも取り組み、35年には仲間を裏切るアイルランド独立党員の顛末をドラマティックに描いた『男の敵』を発表。 映画は高い評価を得て、フォードは初のアカデミー監督賞を獲得した。 39年にはヘンリー・フォンダを起用した『モホークの太鼓』と『若き日のリンカーン』を演出。 同年の痛快ウェスタン『駅馬車』(39)は、当時B級映画俳優だったジョン・ウェインを抜擢した低予算映画ながら 単純明快なストーリーとスピード感溢れるテンポの良い展開が観客の心を掴んで大ヒットを記録。 屋外ロケを行ったユタ州のモニュメント・ヴァレーは、以後フォードのお気に入りの撮影場所となった。 季節労働者たちの過酷な生活を描いた『怒りの葡萄』(40)と、炭鉱で働く一家の生活を描いた『わが谷は緑なりき』(41)では、 貧しくとも前向きに生きようとする家族の姿を力強く叙情豊かに描いて絶賛を浴び、2年連続でアカデミー監督賞を受賞。 私生活では無類の海軍好きとして知られていたフォードは、第二次世界大戦が勃発すると軍隊入りを志願して、 撮影監督のグレッグ・トーランドらと共に野戦撮影班OSSを結成。 ミッドウェイ海戦ではゼロ戦の空爆を受けて負傷したものの、 海軍少佐として太平洋戦線やヨーロッパ戦線へ赴いて戦争ドキュメンタリー映画の製作や構成に尽力し、 OSSを率いて撮影したドキュメンタリー『ミッドウェイ海戦』(42)と『真珠湾攻撃』(43)はアカデミー短編ドキュメンタリー賞の栄誉に浴した。 戦後ハリウッドに戻ったフォードは、戦争での敗者の美学を描いた『コレヒドール戦記』(45)、OK牧場の決闘を詩情豊かに描いた『荒野の決闘』(46)を発表して健在ぶりをアピール。 46年には製作者のメリアン・C・クーパーと共に「アーゴシー・プロダクション」を設立し、 監督兼製作者として"騎兵隊3部作"として知られる『アパッチ砦』(48)、『黄色いリボン』(49)、『リオ・グランテの砦』(50)などを発表。 念願の企画を映画化した『静かなる男』(52)では、監督としては最多記録である4度目のアカデミー監督賞を受賞して名匠としての地位を不動のものとした。 ブロードウェイのヒット劇の映画化『ミスター・ロバーツ』(55)では意見の相違から主演のフォンダと対立し、撮影途中で胆嚢炎を患って入院。 映画はマービン・ルロイ監督によって仕上げられた。 翌56年には彼の最高傑作との誉れ高い『捜索者』(56)を手掛け、62年にはウェインとジェームズ・スチュワートの二大スターを起用した『リバティ・バランスを射った男』を発表。 64年の『シャイアン』ではそれまで敵として描いてきたインディアンの立場からシャイアン族の悲劇を描いて新境地を開拓したが、 66年の『荒野の女たち』を最後に映画界から引退。 71年にはヴェネチア国際映画祭貢献賞が、 73年にはアメリカン・フィルム・インスティテュートから栄えある第1回目のライフ・アチーブメント賞と、ニクソン大統領から最高功労賞が贈られ、 同年にガンでこの世を去った。
監督した映画は130本を超え、ジャンルにとらわれずに「西部劇の神様」と呼ばれるにふさわしい見応えある娯楽性の高い作品を続々と発表。 ウェイン、フォンダ、モーリン・オハラといったお気に入りの俳優を頻繁に起用し、 撮影現場では雰囲気づくりにアコーディオンを演奏させ、リハーサルは繰り返さず、ひとつのカットを二回以上撮ることは滅多にせずに最初の演技の新鮮さを求めていた。 彼の個性的な作風はオーソン・ウェルズや黒澤明といった世界中の映像作家たちに多大な影響を与え、 彼の映画における型にはまったインディアンの描写は度々議論を巻き起こしたが、 モニュメント・ヴァレーで生活するナバホ・インディアンたちをエキストラや裏方として起用し、 給料を支払うことによって彼らの生活を支援した。

紹介作品

テンプルの軍使(37)

監督

駅馬車(39)

製作/監督

怒りの葡萄(40)

監督

わが谷は緑なりき(41)

監督

荒野の決闘(46)

監督

リオ・グランデの砦(50)

出演

静かなる男(51)

製作/監督

モガンボ(53)

監督

ミスター・ロバーツ(55)

監督

西部開拓史(62)

監督



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