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本名: | レスリー・ハワード・ステイナー | ![]() |
職業: | 俳優、監督、製作者、脚本家 | |
生年: | 1893年4月3日 | |
出身国: | イギリス | |
出身地: | ロンドン | |
没年: | 1943年6月1日 | |
代表作: | 『ロミオとジュリエット』(36) 『ピグマリオン』(38) 『風と共に去りぬ』(39) | |
ロンドンの株式仲売人の息子として生まれ、ダルウィッチ・カレッジを卒業すると銀行員として働いていた。
第一次世界大戦が勃発すると仕事を辞めて従軍するが、戦場で精神を病んでしまい、セラピーの一環として医者が薦めた演技に魅了されて俳優を志すようになる。
14年には短編映画『The Heroine of Mons』で映画デビューを果たし、その後も何本かのイギリス製サイレント映画に出演するが、舞台俳優としての成功を目指すハワードはロンドンやブロードウェイの舞台に積極的に参加。
舞台のトップ・スターとしての地位を築いたハワードは、ワーナー・ブラザーズ社と映画出演の契約を交わす。
30年には彼が出演した舞台の映画化で初のトーキーとなった『Outward Bound』に出演。
スリムで背が高く、教養があり、感受性の強い完璧なイギリス紳士役を得意としたハワードは、女性ファンから絶大な支持を集めた。
イギリスとアメリカを行き来しながら映画出演をこなし、33年のロマンティック・ファンタジー『Berkeley Square』ではアカデミー主演男優賞に初ノミネートされた。
34年には『痴人の愛』でセンセーショナルな演技を披露したベディ・デイヴィスの相手役を務め、冒険活劇『紅はこべ』ではタイトルロールを好演。
また、34年にはブロードウェイの舞台劇『化石の森』に出演し、無名の俳優ハンフリー・ボガートが凶悪犯デューク・マンティ役を演じたこの舞台は好評を博した。
36年にはワーナーによって映画化され、ハワードは同じ役に起用されたが、彼はマンティ役にギャング映画スターのエドワード・G・ロビンソンの起用を進めていたスタジオにボガートを強く推薦。
ハワードの尽力によってボガートは映画で初の大役を獲得し、この作品での好演が切っ掛けとなって世間に認められることとなった。
ボガートはこの時の恩を決して忘れることはなく、ローレン・バコールとの間に生まれた自分の娘をハワードと名付けた。
同年にはノーマ・シアラー共演の『ロミオとジュリエット』でロミオを演じ、
2度目のオスカー主演男優賞のノミネーションを受け、ヴェネチア国際映画祭の主演男優賞を受賞した38年の『ピグマリオン』では、主役のヒギンズ教授を演じただけでなく、監督のアンソニー・アスキスと共に演出も担当。
このジョージ・バーナード・ショー原作の映画化は、後にブロードウェイ・ミュージカルと映画化されて大きな成功を収めた『マイ・フェア・レディ』(64)に大きな影響を与えた。
39年にはイングリッド・バーグマンのハリウッド・デビュー作『別離』と、世紀の大作と謳われたマーガレット・ミッチェル原作の『風と共に去りぬ』に出演。
『風〜』ではヒロインのスカーレット・オハラが思いを寄せるアシュレー・ウィルクス役に抜擢され、持ち前の弱々しい繊細さを役柄に投影して見事な演技を披露した。
『風〜』の撮影が終了するとイギリスに戻り、『潜水艦轟沈す』(40)や製作と監督を兼ねた『スピットファイアー』(42)など愛国心を高揚させる映画に出演。
しかし、43年の6月1日、リスボンからロンドンに帰還する途中で、ハワードを含む13名の乗客と4名の乗務員を乗せた飛行機は、大西洋上空でドイツ空軍の戦闘機の攻撃を受けて墜落。若干49歳にして帰らぬ人となった。
ハワードは戦争で亡くなった最初の映画スターとなったが、攻撃された理由は未だに解明されていない。
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