ポール・ニューマン Paul Newman

本名:
ポール・レオナルド・ニューマン
ロバート・ミッチャム
職業:
製作者、俳優、監督、脚本家
生年:
1925年1月26日
出身国:
アメリカ
出身地:
オハイオ州 クリーブランドハイツ
没年:
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代表作:
『傷だらけの栄光』(56)
『ハスラー』(61)
『明日に向って撃て!』(69)

父親がスポーツ用品店を営む裕福な家庭に生まれ、子供の頃は体が弱く学校ではよくいじめられていた。 演劇好きの母親の勧めで児童演劇団に入団。7歳の時に学校劇『ロビン・フッド』の道化師役で舞台デビューを果たしたが、この頃は演じることが好きではなかった。 高校を卒業すると、定職に就かず百科事典の訪問セールスなどをしていたが、第二次世界大戦が激化すると海軍に入隊。 色盲のためパイロットになることができずに爆撃機の通信兵として従軍するが、実際の戦闘は体験せずに除隊した。 除隊後は家業を継ぐことを嫌ってケニヨン・カレッジに入学。 大学ではフットボールに打ち込んでいたが、喧嘩が原因でチームを除名されてしまい、子供の頃にかじった演技に打ち込むようになる。 卒業後は地方劇団を転々としながら幾つもの舞台に出演して演技修行に励み、49年には劇団で知り合ったジャッキー・ウィットと結婚。 50年に父親が他界すると家業を継いだが、演劇講師になるため店を売り払ってイェール大学に進学。 学生演劇での演技がエージェントの目に留まってニューヨークに招かれると、テレビドラマや舞台の端役で生活費を稼ぎながら修行を積み、 52年にはその演技力が認められてアクターズ・スタジオに入学。ここで彼の演技に大きな影響を与えるメソッド演技を習得した。 ブロードウェイの舞台『ピクニック』では初の大役を獲得。 その演技は高く評価されただけでなく、彼の才能に目をつけたワーナー・ブラザーズ社と5年間の専属契約を交わす。 『エデンの東』(54)の主役を逃し、映画デビュー作となった史劇『銀の盃』(54)は批評家に酷評され失敗作の烙印を押されてしまう。 満足できる映画に出演させてもらえない上に、「第二のマーロン・ブランド」の触れ込みで売り出して二人を対比させるスタジオや批評家のやりかたに失望したニューマンは、 古巣のブロードウェイに戻って舞台『必死の逃亡者』やテレビドラマ『わが町』などに主演。 その演技は絶賛を博し、56年にはハリウッドに戻って実在のプロ・ボクサー、ロッキー・グラジアーノの伝記映画『傷だらけの栄光』に出演。 ボクシングの基本とボクサーの体型を身につけただけでなく、グラジアノに会って彼の話し方や癖を研究するなど役作りのため入念なリサーチを行った。 その甲斐もあって、ニューマンの演技は映画と共に高く評価され一躍注目を浴びる存在となった。 56年にはウィットと離婚。『ピクニック』の舞台で知り合ったジョアン・ウッドワードと恋に落ち、『長く熱い夜』(58)で初共演を果たしたことが切っ掛けで58年に二人は再婚。 58年のテネシー・ウィリアムズの戯曲の映画化『熱いトタン屋根の猫』ではアカデミー主演男優賞に初ノミネートされた。 他愛無い映画ばかりあてがい、他社への貸し出しで利益を得るスタジオの方針に不満を募らせていたニューマンは、ワーナーに50万ドル支払って契約を解消。 フリーになった彼のもとには出演依頼が殺到し、イスラエル建国を描くスペクタクル映画『栄光への脱出』(60)、ウッドワードと共演した『孤独な関係』(60)や『パリの哀愁』(61)などに出演。 61年の『ハスラー』では徹底したリサーチでプロのビリヤード・テクニックを身につけ、ビリヤードに人生を賭けるハスラー、エディ・フェルスンを熱演。 63年の『ハッド』では身勝手で無情なタイトルロールのカウボーイを演じて、アンチ・ヒーローとしての魅力を存分に引き出し女性ファンを虜にした。 ロス・マクドナルド原作の『動く標的』(66)では私立探偵ルー・ハーパーを演じて好評を博し、67年の『暴力脱獄』では自由を求めて脱出を繰り返す囚人ルークを演じて絶賛を浴びた。 出演作の中には黒澤明監督の『羅生門』(50)をメキシコに置き換えた『暴行』(64)や、アルフレッド・ヒッチコック監督と組んだスパイ・サスペンス『引き裂かれたカーテン』など 失敗作も少なくなかったが、青い瞳と端正なルックスのセクシーな反逆児としてのイメージは男女問わずに受け入れられマネーメイキング・スターとして安定した人気を保った。 68年には監督業に挑み、妻ウッドワードを主演に迎えて孤独な女性教師の自立を描いた『レーチェル・レーチェル』を演出。映画は絶賛され、ニューマンの幅広い才能の一端を見せつけた。 69年の『レーサー』ではリサーチのためレーシング・スクールに参加するが、レースの世界にのめり込んで44歳にしてカーレーサーとしてデビュー。 次々と記録を更新して同僚のレーサーからも一目置かれる存在となっただけでなく、75年には自分のチーム「PLNレーシング」を結成。 77年のデイトナでは5位、79年のル・マンでは2位という華やかな記録を残した。 69年には後輩のロバート・レッドフォードと共にアメリカン・ニューシネマ・スタイルのウェスタン『明日に向って撃て!』に出演。 銀行強盗ブッチ・キャシディをコミカルに演じて生涯最高のヒットを記録し、同年にはマネーメイキング・スター第一位にも選出された。 同年には製作の自由を求めてシドニー・ポワチエ、バーブラ・ストライサンドと共に独立プロダクション「ファースト・アーティスツ」を設立した。 映画やカーレースだけでなく、公民権運動や反戦運動などの政治問題にも積極的に参加。 その活発な行動は第36代合衆国大統領リチャード・ニクソンの反感を買って、73年にホワイトハウスが発表した政敵リストにあげられた。 73年にはレッドフォードと再びコンビを組でギャングをカモるペテン師の活躍を描いた『スティング』に出演。映画は大ヒットしただけでなくアカデミー作品賞を獲得。 100万ドルのギャラで出演したオールスター・パニック映画『タワーリング・インフェルノ』も大きな成功を収めたが、 その後はヒット作の続編『新・動く標的』(75)、若手のロバート・アルトマン監督と組んだ『ビッグ・アメリカン』と『クインテット』(79)、パニック映画『世界崩壊の序曲』(80)などの失敗作が続いた。 最初の妻ウィットとの間に生まれた息子のスコットも父親の後を追って俳優となり、『タワーリング・インフェルノ』では父子共演を果たしたが、 有名人の息子という重圧に耐えられずにドラッグや酒に溺れ、78年にドラッグと酒の過剰摂取が原因で死亡。 ニューマンはスコットの死を無駄にしたにため、ドラッグの弊害を描く映画やテレビ番組などに奨励金を与える「スコット・ニューマン基金」を設立した。 80年代に入ると、衰えを知らないルックスに円熟した大人の魅力を加えて『アパッチ砦ブロンクス』(80)、『スクープ・悪意の不在』(81)、『評決』(82)などに出演。濃厚な見ごたえのある演技で新境地を開拓した。 長年自家製のサラダを自慢していたニューマンは 82年に食品会社「ニューマンズ・オウン」を設立。 ラベルにニューマンの似顔絵をあしらったホームメイド・スタイルのフレンチ・ドレッシングは好評を博し、ドレッシング以外にもスパゲッティ・ソースやポップコーンなどを製造。 冗談で始めた事業は現在に至るまで莫大な利益を上げ、全ての純益は恵まれない子供達を支援する団体等に寄贈。 その総額は82年以来1億5000万ドル以上にもなり、93年には「ニューマンズ・オウン」の慈善事業への取り組みが評されて、アカデミー協会からジーン・ハーショルト友愛賞が贈られた。 85年には『熱いトタン屋根の猫』、『ハスラー』、『ハッド』、『暴力脱獄』、『スクープ〜』、『評決』の演技で過去に6度アカデミー主演男優賞ノミネートされながら、 一度も受賞していないニューマンに名誉賞が贈られたが、25年後のエディ・フェルスンの姿を描いた『ハスラー2』(86)では念願のアカデミー主演男優賞を獲得。 その後も監督として『ガラスの動物園』(87)を演出し、俳優として『ブレイズ』(89)や『未来は今』(98)などに出演。 少年の心を持った老人を演じた『ノーバディーズ・フール』(94)とギャングのボスに扮した『ロード・トゥ・パーディション』(02)ではそれぞれアカデミー主演男優賞と助演男優賞にノミネートされた。

紹介作品

熱いトタン屋根の猫(58)

出演

ハスラー(61)

出演



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