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本名: | Wilhelm Weiller | ![]() |
愛称: | ウィリー | |
職業: | 製作者、監督、脚本家 | |
生年: | 1902年7月1日 | |
出身国: | フランス | |
出身地: | ミュルーズ | |
没年: | 1981年7月27日 | |
代表作: | 『嵐が丘』(39) 『我等の生涯の最良の年』(46) 『ローマの休日』(53) | |
小物屋を営む父親のもとに生まれるが、家業を継ぐことを嫌ってビジネスの勉強と称してパリに渡る。
パリで音楽を学んだものの、彼のキャリアには結びつかず、1920年代前半に母方の親戚でユニヴァーサル社の社長だったカール・レムリに頼んでアメリカに渡る。
ユニヴァーサルのニューヨーク本社で雑用係として働いていたが、レムリはワイラーの能力を買って国際宣伝部に配属。
撮影現場の仕事に憧れていたワイラーは西海岸に移り、オフィスの雑用係、撮影所の小道具係、配役係、助監督などを経て
25年に2巻物の短編ウェスタン『悪漢野郎』で監督デビューを果たす。
サイレント時代には『ムスタング』シリーズや『ブルー・ストリーク』などのB級の短編や中編ウェスタンなどを演出して監督としての腕を磨いてゆく。
最初は社長の親戚の一人としか見られていなかったが、次第に彼は職人的な才能を開花し始め、『恋のからくり』(29)や、サイレント期の西部劇の傑作『砂漠の生霊』(30)などの手堅い作品を手掛けて30年代にはユニヴァーサルの主要監督の一人として活躍するようになる。
33年のジョン・バリモア主演の『巨人登場』では早くも完全主義者ぶりを発揮し、完璧な英語を操れない彼の指示は俳優たちを欲求不満に陥らせた。
コメディ映画『お人好しの仙女』(34)の撮影では主演のマーガレット・サラヴァンとの喧嘩が絶えなかったが、二人は34年に結婚。
しかし、長くは続かず36年に離婚した。
36年には古巣のユニバーサルを離れて敏腕プロデューサーのサミュエル・ゴールドウィンと契約を交わし、
ゴールドウィンのもとでワイラーは上質のエンターテインメント作品を続々と演出してゆく。
彼が自分の才能を遺憾なく発揮したのは『デッドエンド』(37)、『嵐ヶ丘』(39)、『偽りの花園』(41)といったリリアン・ヘルマンやエミリ・ブロンテらの原作を基にした文芸作品の映画化で、
シーンをカットで割ることを極力避けて長まわしとパン・フォーカスを多用するディテールにこだわった舞台劇のような演出によって、文学的な香りが漂う見応えのある作品を発表していった。
42年には戦意高揚映画の傑作『ミニヴァー夫人』を手掛けてアカデミー作品賞と監督賞を含む6部門を獲得する。
42年から45年までは空軍の少佐として第二次世界大戦に参戦し、『メンフィス・ベル』(44)と『The Fighting Lady』(44)などのドキュメンタリー映画を製作。
しかし、イタリア解放に貢献したパイロットのドキュメンタリー『サンダーボルト』の撮影中、機体から身を乗り出して自分でキャメラをまわしていた時に、風圧と爆音で聴覚神経を傷めてしまい、左耳の聴力は少し回復したものの、右耳の聴力は完全に戻ることはなかった。
戦後、時代の流れを先取りして複員兵問題に取り組んだ『我等の生涯の最良の年』(46)を発表して再びアカデミー作品賞と二度目の監督賞を含む7部門を獲得。
その後も『女相続人』(49)や『探偵物語』(51)などの見応えのあるパワフルなドラマを手掛ける傍ら、新人のオードリー・ヘプバーンにオスカーをもたらしたロマンティック・コメディの傑作『ローマの休日』(53)を手掛けて手堅い職人的な演出を披露する。
59年には当時としては最高の制作費をかけたスペクタクル 史劇『ベン・ハー』を発表。
撮影はトラブルの連続だったものの、ワイラーは的確な手腕でまとめあげて、映画は空前のヒットを記録しただけでなく、アカデミー賞では作品賞を含む過去最高の11部門を受賞してワイラーには三度目の監督賞が贈られた。
60年代に入ってからも彼の手腕は衰えることがなく、再びヘプバーンと組んで36年に自ら監督した『この三人』のリメイク『噂の二人』(61)や『おしゃれ泥棒』(66)を手掛け、68年には喜劇女優ファニー・ブライスをモデルにしたミュージカル『ファニー・ガール』を手掛けて、タイトル・ロールを演じたバーブラ・ストライサンドにオスカーをもたらす。
69年には遺作となった『L・B・ジョーンズの解放』を発表。当時アメリカで深刻な問題となっていた黒人差別に鋭いメスを入れた。
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紹介作品 | ||
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