オズの魔法使 The Wizard of Oz
公開:
1939年
オズの魔法使
製作:
監督:
原作:
ライアン・フランク・ボーム
脚本:
ノエル・ラングレー

フローレンス・ライアン

エドガー・アラン・ウルフ
撮影:
ハロルド・ロッソン
音楽:
ハーバート・ストサート
出演:
ジュディ・ガーランド

バート・ラー

ジャック・ヘイリー

カンザスに住む少女ドロシーは、竜巻に巻き込まれて魔法の国に迷い込んでしまう。ドロシーはカンザスに帰るために、旅の途中で出会った脳のないカカシ、心のないブリキの人形と、臆病なライオンと共に、黄色いレンガの道の果てにあるエメラルド・シティに住むオズの大魔王に会いに行く。 M-G-Mミュージカルの黄金期を築いたアーサー・フリードが初めて製作に携わった、有名童話を映画化したファミリー・ミュージカルの傑作。

ライアン・フランク・ボームが1900年に発表した童話『The Wonderful World of Oz(素晴らしきオズの魔法使い)』は、1903年にボーム自らミュージカル化してブロードウェイで上演され、10年には1巻ものの短編として最初の映画化が行われ、25年に行われた2度目の映画化ではローレルとコンビを組む前のオリヴァー・ハーディがブリキの木こりを演じた。 34年、製作者のサミュエル・ゴールドウィンは、エディ・カンターの主演作として童話の映画化権を4万ドルで獲得。 38年に公開されたウォルト・ディズニー製作による世界初の長編アニメーション『白雪姫』が絶大な人気を博して過去最高の興行収入を記録すると、二匹目のドジョウを狙う映画製作者たちは同様の作品として『オズ』の映画化に目をつけた。 M-G-M社専属の作詞家で製作者志望のアーサー・フリードは、M-G-Mの契約女優ジュディ・ガーランドの本格的な主演作としてスタジオに『オズ』の映画化を提案。 5社のスタジオが激しい争奪戦を繰広げた末に、M-G-Mが7万5000ドルでゴールドウィンから映画化権を獲得。『白雪姫』並みのヒットを期待したM-G-Mの副社長ルイス・B・メイヤーは、スタジオに移籍したばかりのヒット・メイカー、マーヴィン・ルロイを製作者に指名。ルロイは監督することも希望したが、莫大な制作費を掛ける映画の製作と監督を兼任するのは無理だと判断したメイヤーに却下されてしまう。 また、メイヤーはフリードを製作補佐に任命し、主にキャスティングや音楽面の手伝いをさせた。 しかし、製作予算200万ドルの大作にまだ知名度の低いガーランドを使うことに上層部は難色を示し、当時9歳のドル箱子役スター、シャリー・テンプルがドロシー役に急浮上する。しかし、テンプルの歌声はミュージカル向きでないと判断され、テンプルと専属契約を交わしていた20世紀フォックス社からも貸し出しを断られてしまう。 ユニヴァーサル社からディアナ・ダービンを借りるという話もあったが、最終的にドロシー役はガーランドに決まる。しかし、当時16歳の彼女がドロシーを演じるには年齢的に無理があると考えたルロイらは、共演者には大男を起用して彼女を小さく見せる作戦をとり、少し太り気味だったガーランドはダイエットで体重を減らしてドロシー役に臨んだ。 スタジオは最初、臆病なライオンには本物の調教されたライオンを使い、それに俳優の声をかぶせようと考えていたが、作詞家のハーバーグの推薦でコメディアンのバート・ラーが起用される。ちなみにラーが着ていたライオンの着ぐるみは、重さが40キロもあるものだった。 当初ブリキの木こり役はレイ・ボルジャーが、かかし役はバディ・イブセンが演じることになっていたが、イブセンは自分の芸を生かすにはかかし役の方が最適だと考え、メイヤーに直談判して役を変えてもらう。 北の魔女グリンダ役には当初ブロードウェイ女優のファニー・ブライスが予定されていたが、最終的に当時53歳でフローレンス・ジーグフェルドの妻だったビリー・バークを起用。西の悪い魔女はM-G-M専属のエドナ・メイ・オリバーが検討されるが、ルロイの案で『白雪姫』の継母をモチーフにしたグラマラスな美女に改められ、ルロイは周囲の反対を押し切って彼の監督作『風雲児アドバーズ』(36)でアカデミ助演女優賞を受賞した美人女優ゲイル・ソンダーガードを魔女役に抜擢する。しかし、彼女のイメージは観客が期待する魔女にそぐわないと判断され、原作どおりの醜い魔女に変更されるが、ソンダーガードは醜い魔女を演じる事を嫌がって役を降りてしまう。最終的に悪い魔女役には、映画界に入る前は幼稚園と小学校の先生をしていたマーガレット・ハミルトンが抜擢された。 オズの大魔王役には舞台コメディアンのエド・ウィン、ウォレス・ビアリー、ロバート・ベンチュリーらが候補にあがり、最有力候補のW・C・フィールズは他の映画の撮影中だったために出演出来ず、最終的に候補の一人だったM-G-Mの専属俳優フランク・モーガンが演じることになり、オズ役以外にもマーベル教授、門番、御者、衛兵役として映画に登場している。 主人公の一人として素晴らしい演技を披露したドロシーの飼い犬トトは一週間で125ドルも稼ぎ、その額はマンチキンを演じた俳優たちの出演料(一週間で50ドル)よりも高額だった。 原作の脚色が難航を極めたために撮影開始は延々と遅れ、最終的に14人もの脚本家の手を経て、原作の面白さを損なわずに映画ならではの視覚的要素を盛り込んだ脚本が完成。音楽はブロードウェイ出身の作曲家のハロルド・アレンと作詞家のイップ・Y・ハーバーグが担当。アカデミー主題歌賞を受賞した「虹の彼方へ」を含む、一度聞いたら決して忘れる事の出来ない7曲を提供する。 ノーマン・タウログが監督に決まるが、撮影開始が遅れたために別の映画の撮影準備に入ったタウログは監督を降り、新たにリチャード・ソープが抜擢される。撮影2週間目にブリキの木こり役のイブセンがメイクに使用したアルミニウムの粉に肺を侵されて呼吸不全で入院したため撮影は中断。スタジオは代役として20世紀フォックスからジャック・ヘイリーを借り受け、メイクは安全を考慮して練り粉に変えられる。 ラッシュ・フイルムを観たルロイは、この映画に必要な子供らしい雰囲気が出ていないと考えてソープを解雇。『風と共に去りぬ』(39)の撮影に入る直前だったジョージ・キューカーを臨時の監督に任命する。キューカーは主なキャストのメイクや衣装の変更を行い、ガーランドには金髪のかつらをやめさせて、メイクを半分にしてカンザスの田舎娘らしくさせる。キューカーが『風と共に去りぬ』の撮影に移ると、ルロイはビクター・フレミングを監督に任命。男性的な映画を得意とするフレミングだったが、自分の子供たちに楽しんでもらえる映画を作るため『オズ』の製作には意欲的に取り組んだ。 しかし、フレミングはデヴィッド・O・セルズニックの依頼で『風と共に去りぬ』の監督をキューカーに代わって務めることになり、最後の3週間はキング・ヴィダーが演出を担当。ヴィダーが監督したのは映画の冒頭とラストのカンザスのシーンで、その中にはガーランドが「虹の彼方に」を歌うシーンも含まれていた。 撮影は新開発の3色減色法のテクニカラーで行われたが、カンザスのシーンは制作費を抑えるためにモノクロで撮影された。 ドロシーが魔法の国のマンチキン・ランドに迷い込むシーンでは、マンチキン役のために124人もの小人の芸人たちが世界中のサーカスやボードビルから集められた。衣装デザイナーのエイドリアンはマンチキン一人一人のサイズを測って衣装をデザインし、5週間かけて全員の衣装が作られた。 悪い魔女が赤い煙と共に消え去るシーンの撮影中、火がマーガレットのメイクを施した顔に燃え移ってしまい、彼女は全治6週間の火傷を顔と手に負ってしまう。また、魔女が乗るほうきの柄が爆発した事もあり、マーガレットのスタントを務めたベティ・タンゴは爆発に巻き込まれて顔に一生消えない傷を負ってしまう。 今ではスタンダード・ナンバーとなった「虹の彼方に」をガーランドが歌うシーンはスニーク・プレヴューでの評判が悪く、スタジオも「スローなバラードは映画の流れを停滞させる」、「M-G-Mのスターが納屋の前で歌うべきでない」などの理由から2度目のスニーク・プレビューの後このシーンをカットしてしまう。しかし、フリードは自らの辞任をかけてスタジオの重役を説き伏せて「虹の彼方に」は映画に残される事になる。 23週にも及ぶ撮影期間と、当時としては莫大な277万ドルもの制作費をかけて映画は完成。公開されると絶大な支持を集めて301万ドルを売り上げる大ヒットを記録したものの、プリントと宣伝費にも大金がかかっていたので初公開時は興行的には赤字となった。アカデミー賞では作品賞を含む5部門にノミネートされ、作曲賞と歌曲賞(「虹の彼方に」)の2部門に加えてガーランドが特別賞としてミニチュアのオスカーを受賞する。

71年に公開されたアニメ・ミュージカル版『Journey Back to Oz』ではガーランドの娘ライザ・ミネリがドロシーの声を担当。75年にはオール黒人キャストのソウル・ミュージック版『The Wiz』がブロードウェイで上演され、85年にはダイアナ・ロス、マイケル・ジャクソン、リチャード・プライアーらを主演に迎えて映画化される。また、85年にはディズニー・スタジオが人形アニメと実写を合成して『オズの魔法使』の後日談を描いた『オズ』を製作した。


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