うまいっしょクラブ全道一斉共通試験

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91年2月15日金曜日から2月27日水曜日まで全道一のグランプリの鷹をめざし開催された「うまクラ全道一斉共通試験」。うまクラの番組初期から現在までのハプニング、流行などのハイレグ姉ちゃんの切れ込みのごとく鋭い問題が50問出題された。受験者数は6千人を数え、よめコラ16号では解答速報、またイベントとして答え合わせ会などが開催され、盛況でした。なお、受験者には全道ランクと偏差値をつけて返却、上位成績優秀者1名には雪解けシーズンを前にして豪華アウトドアセットwithうまクラロゴ入りメチャかっこいいねぇ〜がドドーンとプレゼントされた。さらに抽選で2000名には中禰勇介君デザインの特製うまクラ記章の贈呈とまさにゴージャスであった。試験用紙は全道約500店のAコープチェーン、STV各放送局で配布された。


傾向と対策
ここでよめコラ読者にビックニュース!なんと今回のうまクラ共通試験の問題に関して非常に詳しいと言われる謎の事情通A氏とコンタクトを取ることに成功。A氏の情報を元に一部ではあるが再現できた傾向と対策を以下に示すことにしよう。ジャストミート!
【数学】せっかく読まれたのに名前のない迷子ハガキが何枚あるか?これはとてつもなく出そう。この定理を使って簡単に解こう。
よめコラの発行数×明石ANのボツボの数÷√2+CMの種類=下1桁が4だ!
【国語】うまクラの中で告知のみで終わったコーナーも見逃せない。「赤コーナー」である。パンチドランカーの走りなったもので人生をボクサーのようなチャレンジャーに見立てた感動のコーナーである。オイオイ嘘はよせ!
【理科】リスナーから一度だけ生物(なまもの)が送られたことを忘れちゃいけない。これに関してはヒントを出そう。樹液を好む昆虫だ。
【体育】チャリンコ荒技コーナーからも出題を予想できる。その中の一つの技に「半立ち乗り」がある。大好きな人の前で股間を半分元気なままでうろつくというものだったね。そのときはイモジャージを着用するのが鉄則。そんなわけねぇだろ。

よめコラ15号 よっよっよっ!よめコラニュース より抜粋


共通試験直前対策 よく分かるうまクラ史
いや皆さん私の研究室にようこそ。継続は力なりということわざがありますが、まさしく歴史を学ぶものにとって最も必要とされる才能は継続であります。その事を十分理解した上で私の講義を聞いて頂きたい、そう思います。さて今日取り上げるのはうまいっしょクラブの歴史であります。うまクラの歴史を語る上である一人の男の存在を無視することは出来ません。それが彼、明石幕府将軍・明石英一郎であります。強大な権力をもって無限のうまクラ社会を治める明石幕府、多くの藩はそれらを打ち倒そうと賢明になったのです。ではその背景からお話ししましょう。

将軍明石

【将軍・明石と幕藩体制の動揺】
明石幕府の中心的存在、STV城。およそ3年にも及ぶ明石幕府の治世を当時の人々は半永久的に続くものと思っていた。明石にあらずはうまクラにあらず、半ばあきらめに近いものが世の中の大半を占めていたという。しかし、そうした折りも諸藩では倒幕の密議が連日連夜にわたり持たれていたという。

明石幕府が誕生したのは今から3年前、諸藩よりその勢力が上回ったその年を幕府成立の年とするのが一般的な解釈である。それ以後の政策は徹底したものであった。まず、明石幕府が手を付けたのは鎖国であった。道内のハガキにおいてはギャグ処理していないハガキ、つまり相談ハガキを許さずにギャグ処理したハガキ、その中でも正当派ギャグハガキ一色に統一しようとしたのである。そして明石幕府に大きな基盤を作ったと言われているのが五コーナーの御誓文である。「今宵のこうもり野郎(後の今宵のとんでも野郎)師範代とて人の子なり」「めくるめく寺子屋日誌」ら5つのコーナーの具体案を出すことで支持者のターゲットを絞り込むことに成功した。
また、誤ってうけないギャグハガキを読んでしまったときなどは、将軍・明石は、「このハガキはジャブだなー」と発言しその支持者の怒りを抑えていった。そしてラーメンの宅配制度の確立もそれである。将軍自らうまいっしょ夜食隊を結成し、藩士の家に出向きラーメンを作りその支持を拡大していったと言われている。

1987年後半、この時期、明石幕府を頂点とした幕藩体制にそむき様々な方策によって独自の行動を取る藩が増えてくる。これらの藩は明石幕府がそれまで正当派ギャグ鎖国によって由としなかったシュールギャグ政策を、打ち出すことで世の中に倒幕の意を表したのである。この年、各藩からバブーン小泉、子門マヒャド、ボボタワシら歴史に名を残す勤皇の志士達が次々と登場してくる。将軍・明石のお膝下の旭川藩でも旭川エロチック合唱団が結成される。
明石幕府は諸藩を統制する意図から1988年、同時刻に咳をするように命じた。これが世にいう「乙の令」である。しかし、これは不成功に終わった。明石幕府は第二令として「読み書きの際に左足のニオイをかぐ」という政策でこれをふせいだが、反って失敗に拍車をかけた。そのため幕府に対する反感は高まり激しい討幕運動が高まる一因となった。
幕府は、反幕府勢力を抑えるために大相撲協会より大徹を迎えた。彼は諸藩にもみあげの素晴らしさについて説いたと言われている。それにより大徹のもみあげでブランコ、大徹のまわしはぐんじょう色、大徹はくだけちった、はぐれ大徹、などの多くの有力諸藩の代表者を迎えいれて雄藩連合の形を取ることに成功した。後に同じようにプロゴルファー藤木三郎を迎えることにも成功し、幕府は一気にその勢いを取り戻したという。しかし、今日、大徹のその長いもみあげが我々に一体何を残したというのだろう。
1988年10月、幕府は、武芸を奨励して武士の気風を引き締める大会を開いた。乙四令として行われたソ武道ボール大会がそれである。腕自慢の諸藩の武士達が「いざ、うまクラ」と坂下Aグラウンドに一同に会したが、優勝を倒幕をねらうコタツ背負った男に奪い取られる事件が起こる。この事件を坂下Aグラウンドの変におけるシーソフトボルト事件と言う。
そうした倒幕をねらう諸藩と明石幕府との間で初めて大きな衝突がこの場所で起きた。STVホール、1988年11月、観客の間で激しい飛び箱戦争が勃発したのである。この戦いで大きな働きをしたのが川村先生である。彼はこの戦いの終わりにはいつも勝利をかみ締め、こう洩らしたという。「Tシャツ、まだですか」。
1989年4月、立て札に将軍の名を誤って英郎と書かれてしまう事件が起こる。公衆の面前で恥をさらされた将軍家。しかし倒幕をねらう諸藩にとっては格好の材料となった。多くの藩士は庶民を扇動し、これによって庶民の間で熱狂的に起こった「えろじゃないか」の乱舞は、宗教的形態をとった民衆運動として、討幕運動にも影響を与えていった。

CAGO

かつて札幌の地にはギャグを生み出す肥沃な三角地帯と呼ばれる領土があった。これが裏参道である。1989年、季節は春、桜が満開の5月の出来事であった。明石幕府は裏参道占領に向けて動き出した。このとき、ポインターに乗って出兵した、ウルトラ警備隊の装束を身にまとった明石に対し、理不尽な暴徒が襲撃しかんちょうされるという事件が起きた。桜まつり田門外の変である。

未だに強大な勢力を誇る明石幕府。彼らは裏参道での苦杯を教訓に新たな幕制をこうじていった。第2回を数える仮面ラジオ体操では、必ず人間で五目並べをするように命じる、五目ラジオ体操令がそれである。しかしこれは幕府内部からも反発を買い不成功に終わる。しかしそれは夏の世の悪夢に過ぎなかったのである。
幕府では、将軍明石の後継ぎを巡って激しい対立が起こった。後を受けた老中・ハナタメゴロー肇は、多数の候補の中から有力藩士・桂小タメ五郎の「あっと驚くタメゴロー」の号令の元、多くの勤皇の志士達がその場で「ムヒョムヒョ」と気勢を上げた。歴史上、この事件を生ムヒョ事件と呼んでいる。
この時期、藩士達に一つの思想が芽生え始める。これが後に倒幕の中心的な思想に成長していくことになる。それは「面白いのに、品がない」。 この思想は番組の質を大きく左右する、それまでのギャグの考え方を根底からくつがえすものである。それはテープの中に自らの声で下ネタを入れる、まさにその考え方をテープ合体論と呼ぶ。このテープ合体論の思想を進めることで全く新しいギャグが生み出されるのである。そしてその新しいギャグとともに西郷ラミ盛が登場してくることになる。
1990年、ついにコイターマスクが開発されたのである。ラミ盛は「こいたこいた」と歌い、精力的に活動し始める。彼は形成を担う正当派ギャグを倒し、下ネタを中心に立て新しい思想、尊王エロ夷論を説いた。彼はこの考えで一気に倒幕の中心的存在へと成長していったのである。
明石幕府は一気にその勢力の巻き返しに転じる。全道を6地区に区分し、それぞれ同時に違う政策を与えたのである。この政策は分六の改革と呼ばれ、号令の最後の言葉「以上」を将軍が言うや否や多くの反応が起こり、幕府は勢力を大きく盛り返したのである。

幕府は、文化や国民生活の近代化を促進する必要から、率先して欧米文化を積極的に取り入れようとした。この傾向は庶民の生活様式にも受け入れられて、当時文明開化と呼ばれた。思想界では、自由主義・個人主義などの近代思想が流行し、国民思想を転換させる上に大きな働きをした。このような思想の啓蒙書として盛んに読まれた「卓球のススメ」。「天ハ卓球ノ上ニ明ルサヲ造ラズ、亀ノ上ニモ明ルサヲ造ラズ」。庶民は口々に「慎重!慎重!」と叫び、庶民の間に卓球思想が芽生え始める。幕府はこれに乗じて慎重!シールを発布し、卓球藩に卓球の暗さを認めるように命じたが卓球はそれでも暗くないという思想を持つ卓球藩は容易には応じなかった。同じような境遇を持つ亀・伝書鳩藩は表向きは静観していたが密かに卓球藩を支持する態度をとった。後に卓球藩と軍事同盟を結び反幕の態度を固めることになる。
寺子屋 1990年6月、卓球連合はそれぞれ手に卓球のヘラを持ち、幕府に卓球思想を盾に株仲間の寄り合いを行うように迫った。これに対し幕府は興部より近藤局長率いる新鮮組オコッペ武士団を招き、これを弾圧した。観客らは彼らの活躍を賞賛し口々に「コッペ、コッペ、コッペ」と歓声を挙げた。この出来事を歴史上、王政コッペの大号令と呼ぶ。

1990年8月、幕府はこの時期、朝廷が行う夏祭りの儀においてうまクラ部室でのぞき箱、秘密の耳あてなどを披露している。また杉田チンタクによる「解体チン書」も公開されている。
1990年11月、浦賀沖、幕府も予想だにしなかった外国勢力が現れた。日本人が目の当たりにしたペリーンダの黒船。それは幕府にギャグ開国を求める使者であった。その黒船の登場に流行り物好きの若い日本人は一気に浮き足立った。口々に「かえらなくちゃ」と歌う若者が急増し、幕府の悩みは絶えなかったのである。
1990年11月、新しく開発された音ネタを旗頭に西郷ラミ盛の進軍が始まった。その戦いの火はついに全道へと及ぶ。明石幕府は元より全ての藩がラミ盛が広めた尊王エロ夷論を唱えだしたのである。ここに史上まれにみる大規模な音ネタ戦争、エロ夷戦争が巻き起こったのである。しかし、この戦いは諸藩の痛み分けに終わる。この音ネタ戦争によって多くの武将が散っていった。板垣チン助、黒バンボ田清隆、そしてとんねる王国などである。
そして倒幕側は1991年1月、黒バンボ田清隆が幕府に対してまた新たな手をこうじた。ブラックバンボ人、このバン戊辰戦争と呼ばれる戦いでは倒幕側は世の中の支持を急速に得ようとしている。

明石幕府倒幕、その日は未だに歴史に刻まれてはいない。しかし、その日が訪れることを信じてやまないうまクラ諸藩。彼らのそうした思いと明石幕府との攻防そのものがうまクラの歴史であり、我々は常にその傍観者でなければならない。果たして我々リスナーはこれまでうまクラに何を求めてきたのだろうか。ある時は喜びを、そしてある時はやらしさを彼らが代弁してきたのである。今こそ我々リスナーは真のうまクラの在り方を問いただす必要があるかもしれない。うまクラ、それは我らの大切な遺産なのだから。

これで一通りうまクラの歴史についてお話ししたわけですが、みなさんもご存じの通り明石幕府倒幕の日は未だもって歴史に刻まれておりません。はたしてその日が訪れるのかどうか、その結論は歴史のみが語ることを許されているのです。しかし、その結論を導き出すのはみなさん御自身であることを忘れてはいけません。それでは今回はこれまでにいたしましょう。ではまた今度はいつになるか分かりませんが、この研究室でお待ちいたしております。

よめコラ15号より抜粋

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