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それは、いったいナニモノなんだろう?、まったく不思議なものである。 |
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ここでは、音楽(芸術?)この不可解な現象について、いろんな角度から、切り込んでいきます。
この疑問に対しての、ヒントになるのでは?カギを握っているなぁなど、と思ったこと、
それから、これは違うだろうと、確信を得たことなどです。
ストラビンスキー
はっきりいって、僕はこの人が、どんな人だか、ほとんど知らない。
知っている事と、いえば、「春の祭典」の作者で、即興でピアノを弾くのが好きで
ナディア.ブーランジェと友達で、武満徹の音楽を誉めた人で、、くらいだ。
しかし、彼の次の言葉を読んだ時、僕の音楽に対する考えが一変した。
今まで、誰もが、触れたくても触れられなかった(感じてても言えなかった)
こと、何かの言葉で誤魔化していたこと、それを認めれば、自分の音楽的アイデンティティの
崩壊になりかねないこと、、、それを彼は一喝した。
僕は、これを読んだとき、言葉にならないくらいショックを受けた。
以下その問題の文章です。
音楽という現象は、物事に一定の秩序、中でもとりわけ人間と時間との間の秩序を設定する、
という唯一の目的を私たちに与えているに過ぎない。
従って、音に体現化するには当然、ひたすら構成のみが要求される。
構成が定まり秩序が達成されれば、すべては語られたことになる。
それ以外の物を探し求めたり、期待するのは無駄なことだ。
この構成や秩序の樹立こそ正しく、日常生活に伴う一般的な感情や条件反射的な感応とは、
まったく異質の、まさに一種独特の感動を私たちにもたらすのである。 とは言え、
感動が、構築的様式の機能を熟慮することによってもたらされると確認したところで、
音楽によって生じる情感を説き明かすことは、不可能であろう。
「建築は石化した音楽である」と言ったゲーテは、そのことをよく理解していた。
私自身の音楽について考えても、その本質的要素から言って、
ある感情にしろ、取り組む姿勢にしろ、心理状態、生理現象にしろ、
何かを表現するという意味においては、まったくの無力である。
表現行為が音楽の内在的特性であったことなど一度もなかった。
「音楽であるための理由として表現行為が条件付けられる」ということはまったくない。
仮にもし、ほとんどの場合がそうであるように、音楽が何かを表現しているように見えたなら
それは真実ではなく幻覚に過ぎない。
それは、単に常識や礼儀作法のような暗黙の了解の、言わば習性の慣例によって生じる
付加的要素に過ぎないのである。
つまり、慣れと無意識から我々は、それを本質と混同するに至ったのである。
イーゴリ.ストラビンスキー(我が人生の年代記)
少し余談ですが、この世期末に向けて、昨年末、「音楽の友」という雑誌が行なったアンケート、
(ミュージシャンとリスナーと、分けてやったもの)今世紀最大の音楽家は?の結果は、
双方とも、このストラビンスキーでしたそうです。
ゲーテ
先のストラビンスキーの言葉の中にも出てくるゲーテ
物の本質についての一喝だ。(我が「95年 夏」のライナーにもなっている)
ある物の本質を表現しようと試みても、それは徒労に帰するであろう。
その物の作用を知覚して、その作用を総合すると、むしろその総合の中に、
物の本質が含まれている可能性がある。
同様に、ある人物の性格を描写しようとする試みも徒労であり、
むしろ、その者の行為行動を記述することで、
かれの性格の真の姿が出されるのである。
ゲーテ「色彩論」より
音楽の本質について考え続ける僕にとって、とってもありがたい
目からウロコの言葉だった。
若き日に、僕は、ゲーテの「ウィルヘルムマイスターの修業の時代」
を探し求めて、古本屋を回ったことを思い出す。
もう忘れたが、その中の一遍の詩に引き付けられたからだ。
しかし、ストさんといい、ゲーさんといい、天才とは、本当におそるべしです!
マイルスの法則
’60年代のマイルスのバンド(ショーター・ハービー・ロン・トニー)取り決めのようなものだが、
1. 同じことをやる。
2. 似たようなことをやる。
3. 反対のことをやる。
4. 関係のないことをやる。
彼等は、ジャズ理論のギリギリのところで(崩壊寸前まで)
これを、やってたわけだが、ロックでも、フリー.インプロでも、
はたまた、舞踏、パントマイムなど、との他流試合でも、
他者とPlayする上で、ほとんどパーフェクトな事だとやはり思う、
別にこれは、マイルスが言ったわけではないと、思うのですが(ほんとのところは知りません)
4人のうちの、誰かが言い出したのか、それとも暗黙の了解で、そうなったのか、
なんにしろ、コンテンポラリーな理論の上でも、最先端を行ってた(創造してた)
バンドで、しかもこの法則、、、。黄金のクインテットと言われたのも当然だと思うのであります。
そして、マイルスがこのバンドのメンバーに言った注意事項は、この一言のみ。
「もっとよくきけ!」
ほんとこの人、最高にヒップです。
その上この人は、こんな最高のバンド(サウンド面でも、世間の評価も)に
あっさり背を向けて、’69以降 エレクトリック時代に行ってしまうのです。
’65のプラグド.ニッケルのライブについて、マイルス本人はあまりよく言ってないが、
(調子が悪かったらしくミストーンが多い、それがまた、強烈にスリリングに聞こえてくるのはなぜだ!
それと、マイルスが激烈にホットに吹きまくっているのが、クールな本人は気に入ってないらしい。)
僕は、上記のやりとりが、最高に堪能できると思うので、ぜひともおすすめです。
ついでに、当時のマイルスのすごさを、言い当ててるハービーの言葉を入れときます。
「演奏中のあるとき、僕はとてつもなく、間違ったコードを弾いてしまったんだ、
するとマイルスは、瞬間的に、その間違った和音の中から音を拾いだし
なにくわぬ顔で、アドリブを続けていった、僕はあまりの出来事に、ガクゼンとして
数小節のあいだ、何も弾けなかった。」
なんか、マイルスについて、みたいになっちゃったけど、僕の20代は、音楽について考えることは、
マイルスについて考えるようなものだったので、ここに入れました。
フリー.インプロヴィゼィションについての考察
フリー.インプロヴィゼィションについては、僕と松田くんは、ホントに昔から日々色々語り合って考えています
そこで現時点での結論と言うか、、、その中間発表と言うか、、、とりあえず、書いてみます。
まず言葉をバラバラにして考えてみることにします。
自由とは?
自由について、考えてみた。まず、反対語は、、、ない!、不自由と言うしかない。
「束縛」されないこと(一般的には、これが近いか、、、)。
では、何から?、、、いったいこの世界で、何からも束縛されないことが可能か?。
たとえば、無人島で、ひとりぼっちで、、、このロケーションなら、何からも束縛は受けないはずだ、
しかし、その人は自由か?、、違う!心(孤独感というか、、、)に束縛されるはずだ。
だいたい、自由で無いからこそ、その理想?として、自由というう言葉が生まれてくるんではないか?
自由であれば、自由なんて言葉自体、考えつきもしない概念ではないのか?。
Free、、、自由、これは決してイコールではないだろう、
元来、人は国民性、生活様式、気候などで考え方、感じ方が違ってあたりまえのものだ。
では日本語の自由に絞ろう、自らを、由し、とする、と書く。
なんだ、、、これがすべてではないか。
否定して自由な訳がない。
受け入れてこそ自由ということなのではないだろうか。(言うはやすし、、、だよな)
しかし、ここでも問題は生じる。自由の定義づけてしまうことにより、
その定義の支配、束縛を受けてしまうことになるからである。これではまるで終りの無いイタチゴッコだ。
大平洋のどこかの小島の民族には、幸せと言う言葉が存在しない、という驚くべき事実が有る。
その民族がどうなのかは、本当のところは知らないが、一つのことを考えることができる。
そもそも、言葉(単語)は必要だからできる訳である、
すると、その民族には、幸せと言う概念が、必要で無いということになる。
では、「必要」はどうして必要になるのか?。
幸せを例に取ると、幸せでないから、幸せを思い、望み、その言葉が必要になるのである。
その大洋の民族は、幸せとは?などと疑問にも思わないほどに、
そんな概念さえも必要としないほどに幸せなのであることだろう。
話を戻すと、不自由だから自由という概念が必要になるのである、
でも、その概念は不自由からの脱却の為の仮想概念であるがゆえに、
実体がないではなかろうか?。
だが、これもイタチゴッコの予感の匂いがしてしまう。
つまり、何というか、「呼吸と空気」だな、
意識せずに僕らは呼吸をしている、だれに教えられた訳でもなく。自分でしている訳だが、
その実自分でしているとは言い切れない何かを感じないわけにはいかない。
そして空気の存在を気にしてる訳でもなく、当たり前すぎて普段気に止めたこともないほどに、
その空気をちゃんと、寝ている時でさえ休むことなく呼吸し続けている。
うまく言えないが、、、「呼吸と空気」=「自由と演奏」
究極の理想論なのかもしれない。
デレク.ベイリィーの考察
彼はよくこう言っている、
それでは何か(ジャズなりロックなり)を、演奏していることになってしまう、
わざわざフリーインプロヴィゼィションと名うって、演奏すべきことではない。
即興の定義が問題なんだが、、、
これは、「前もって用意されたイベント(曲なりモチーフなり、、、)を、やるのではなく、
純粋に、その場その瞬間にやるイベントのこと」
じゃあ、前もって用意されたものの定義とは?イベントの定義とは?、、、ときりがなくなるが、
どこまでがソレで、どこからがソレじゃない、、、などの境界線は、
決められず曖昧なものにならざるをえない、、、とこういう状況での話だから始末に終えない。
あくまで、一般論で話すことを前提としても、どんなもんだろう???。
やはり、人それぞれだし、結局その人が「その満足を得るには」何をどうやりたいか、
と言うことになってしまう。
まあ、何はともあれ、デレク.ベイリーの「探究者としての姿勢」は、尊敬に値するものだし、
生半可な決意では、マネの出来るものでは無い。
即興 (演奏)とは?
これには規制のメソッドがないゆえに、他人がどうやってそれをやっているのかは、
分かることが出来ない。
即興を瞬間現場作曲と定義してしまうと(これはムリがあるけど)、
方法論とかは、いっぱいあるから、他人の演奏を聞いていても、
「あぁ、あのパターンを膨らましてンだな、とか流れに乗ったり逆らったりとか、、、」
色々、分かることはあるが、、、。
でも、これは、その演奏を音楽にしようとする努力の部分なのではないだろうか、
問題は、最初のそのパターンは?流れは?どこから、どうやって出てきたのか?だろう。
僕は常々思っていたんだけど、作曲はチャネリングだと感じていた、
幼少の頃、小学校の帰り道など、一人で歩いてると止めども無くメロディがあふれてきて、
鼻唄歌ってれば、キリが無かった。しかし、意識も無かったし、気がつけば「ん?こんな歌知らんナ、
まぁ、いいや、、、」てな具合で、誰でもみんばそんなもんだと思って疑いもしなかった。
後々になって自分のしていることを、統計立てて考えてみたことがある。
元来メロディは空間(三次元ではない)にあふれていて、フワフワと流れているもので、
だから、ここから(三次元)うまくそれを捕まえればいいだけのことだと思う。
それには、あるムード(周波数)に自分を持っていければいいだけなんだと思う、
断わっておくが、僕は何も、この能力に秀でている訳では無く(でなきゃ、作曲家になってるよ)、
ただそのコツを無意識に掴んでしまっていただけのことだ。
話が逸れたが、つまり瞬間現場作曲、最初のパターン、流れは、チャネリングだと僕は思っている、
後は、前記のように、いかにそれを音楽?にするかという方法論と実践できる力量だろう。
他人がどういう方法で、即興をやっているのかは知らないが僕はこうやっている、
しかし、どう考えてもこれは即興演奏とはイコールにならないと感じる。
余談になるが、この方面から見ても、僕はぜんぜん即興演奏家とは言えない(笑)。
以前、バイオリンのIto氏(人物紹介参照)と話してた時に出た言葉だけど、
彼は「前に出した音にも、後に出す音にも、影響されたくない」と言っていた。
目からウロコの言葉だった。
「前の音にも、後の音にも影響されない音の連続で、しかも完璧に音楽に成りうる」
これが、理想だ!けど、可能か?、、、僕は不可能なことではない!と思う、
なぜなら、神は人の中に居ると思うからだ(もう一回言いますが僕は宗教家ではないゾ)。
演奏の定義
演奏、、、考えたこともなかったが、改めて言葉にすると、
「意志を持って、楽器を操作すること」かな。
たとえば、掃除なんかの時、偶然ピアノの鍵盤に触れでた音は、演奏ではないよね、
でも、そういう音を意識してそういうアクションをすれば、それは演奏だしね。
などと、、、軽はずみに言ったら、
松田くんに突っ込まれた。
「じゃ、自動演奏は?」(笑)、
う〜ん、、、意志という言葉の定義に問題があった。
しかし、またしても定義かよ、、、言葉での説明は問題多いよな、、、。
僕は、その(自動演奏)プログラムを作った人の意志があり、
楽器に自動システムの仕組みを作った人の操作がある、と思うんだけど。
「今、生きてるうちにやらなあかん!」
京都の天才派Dr.国近正史氏の言葉
国近氏が、どう言う意味でこう言ったのかは分からないが(たぶん聞いても分からんと思う、、笑)
僕も、まったく同感!よくこう思っています。
僕は、曲であり、アイデアであり、、、それぞれ何でも、それがイキイキしてる時ってのが、
必ずあってそれを、逃すとせっかくの物でも死んでしまうと感じている。
まぁ、死んでしまっても十分良い曲、アイデアなんてのもあるけどね、
せっかくなら、生きてるうちに(良い状態で)、
この空間に解き放ちたいと願うのは人情であろう。
それに、この世でたったひとつ、確かなことがあるとすれば、それは「変化」であろうと思う。
変わらないものなど、何一つこの世に存在しない、これだけが間違いのない真実である、
ゆえに、人は「時間」なんて物を考えだしたと、僕は思うんだ。
でないと説明がつかなくなってくるからね、しかし「時間」とは、ずいぶん曖昧な概念だ、
こんなものは、人が作り出したもので、元来ありはしないものだと僕は感じている(余計な話だナ)。
そして、ここで言っている「生きてる」は「期会」と言い換えられるとも思う、
チャンス、間合い、こう置き換えると分かりやすいよね、
恋愛なんかまさにこれの、生き死に、が、大きく左右するもんね。
8年くらい前、松田くんは、悲しいかなバンドには、必ず寿命があると言って僕を驚かしたことがある。
そうだ、バンドも生きモンだ、いやナマものか?。
イヤ待てよ!生きるとか死ぬとか、なまモンだとか言ったが、これも厳密には外れている。
便宜上分かりやすい、言葉としての表現方法が、これに該当しただけで、
「変化の過程の中での一状態」だと思う。
う〜ん、、、やっぱ、昔?の日本の表現で言う「旬」だね、
なんでも旬がいい!よ、やっぱりさ。
さて、これを人の行動に置き換えると、「今やりたいと、ヒシヒシと感じたことを、今やる」じゃないか?。
この潔さがいるよね、だって、人の一生なんて、あっ!と言う間なんだから。
変化しないものは、何一つない、この世界に生きる覚悟だ!と僕は、今日も思うのである。
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