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<電子出版> [解説]

レーピン



大月源二著 人民文庫 青木書店 1953年


目次

時代と環境

生涯と製作









<レーピン> 大月源二著

[目次]

 時代と環境

   戦闘的なブルジョア美術

 芸術における国民性と自立性のためたたかいはロシヤにおいては、すでに十九世紀の初頭からはじまり、美術においてはロシヤ自然派の父、ヴェネツィアーノフがその先駆となった。この傾向は一八五〇−六〇年代にいちじるしく強められた。
 美術における国民性の理解は、まず題材の問題としてとりあげられた。この傾向は一つにはスラヴ主義者の工業貴族的思想に刺戟されたものだが、他方、美術における現実的な題材を積極的にとりあげようとするブルジョア的欲求にも関連している。当時の進歩的美術批評家スターソフは考えた、美術家は「毎日かれをとりまくものを描きはじめるやいなや、すぐに国民的なものとなるだろう。」
 ロシヤ美術の国民性を現実主義として理解する傾向と並んで、古い貴族=地主的基盤に立つもう一つの理解は、四〇年代の終りに、古代ロシヤとビザンチン美術への関心となってあらわれ(特に建築において)、一種の復古主義的傾向をみちびきだしたが、もちろんこれは、新しい国民美術建設の課題を前進させることが出来なかった。
 他方、美術に於ける思想性の要求は、五〇―六〇年代を通じて極めて重要なものとなった。「芸術は写真ではない」―この声は、五〇年代のすべての批評を支配し、アカデミストでさえこれを承認した。このようにして、当時の現実主義的な美術家たちは、その手を古典主義の父、プーサンにのばした。かつてプーサンは、美術において大事なものは頭脳であって、手はそのつつましい下女であると断定した。もちろんこういう教義は、あきらかにアカデミーの信条の基礎にもよこたわっていた。だが、当時のアカデミーでは、この基礎がすっかり腐りきっていた。また現実主義美術家の、思想性にたいする要求には、美術家の「教養」の問題が結ばれた。「真の芸術家は、教養ある人間であらねばならぬ」―ここにも新しい美術家と、生きのこりの古典主義者の考え方の接触点がある。しかしこの両者の知性と合理主義のあいだには深くするどいちがいがある。古い合理主義は、デカルト的な、抽象化された、形而上学的合理主義であり、新しい合理主義は、十九世紀的な、フォイエルバッハ的な、経験的知識の探究だった。
 芸術における現実性の探求は、必ず個性の探求となる。描かれる対称のなかに個性的なものを探求し、これを描く画家自身もまた個性的であろうとねがう。このようにして美術家は、かれに縁のない様式の方規(カノン)を破り、直接に「自然」に立ちむかい、何よりも自分自身の眼に信頼しようとする。「魂のうえにどんな深い、火のような痕跡をも残さぬ題材をひたすら恐れよ。美術においては、燃えさかる、深く感動的なたましいによって創られたものだけが、何か意味がある。」とスターソフは言った。(一八六四年、アカデミー展について)。
 一八五〇年代から六〇年代にかけて、はげしい闘争が二つの戦線で進行した。すなわち無思想的な自然主義との―内容のための、美学的アカデミズムとの―同じく内容のための、だが単純と具体性と生活的真実のための闘争である。それは同時に美術家の個性の自由のためのたたかいでもあった。
 ところで、新しい批評が攻撃した自然主義については、だれもあえてこれを防衛しようとはしなかった。創作の実践においてはともかく、理論的には、純粋な自然主義はすでに克服されつつあったようだ。他方アカデミストは、四〇年代のロシヤ自然派が果した革新的意義を少しも理解せず、自然派は「人民をでなく、社会の屑と廃物とを描いている」―と言い放ったり、「リアリストと泥んこイスト」とののしったりした。絶対的な美と「美しい自然」(ラ・ベル・ナチュール)しかみとめなかったアカデミストにとっては、自然派のむきだしの傾向に我慢がならなかったのだ。
 美術の思想性一般については、アカデミーの陣営から抗議の出る余地がなかったのだが、しかし若い戦闘的な美術が自由主義的、民主主義的傾向をあらわすやいなや、するどい対立点をあらわにした。
 これらのたたかいが理論的美学においてどのようにあらわれたかを見るためには、チェルヌィシェフスキイーの論文「芸術の現実にたいする美学的関係」をよむのが一番いい。この論文は、かれの学位論文として一八五三年に書かれ、五五年に出版された。
美なるものは生活である」―チェルヌィシェフスキイーによって投げられたこの有名なテーゼは、美の絶対的、精神的な土台にしばられた観念論的美学の城塞を粉みじんにした。
 チェルヌィシェフスキイーは言う、美なるものは自然それ自身のうちにある、われわれが生きた人間の美しさに満足しないというのは正しくない、と。芸術にたいする現実の優位性を宣告するかれの論旨は極めて強烈な印象を与えたが、精神の絶対美を、現実の客観的な絶対美にひっくりかえしただけだったところに、古典主義美学の残りかすがあったし、また芸術が現実生活の反映であって、この限りにおいて現実主義芸術は、自己のうちに人間の革命的な幻想を統一できるという弁証法的反映論の見地にはまだ距離があった。
 しかしかれの理論は更に補足する、「芸術の内容は、ただたんに美なるものだけでありえない。生活における一般関心のあるもの―これが芸術の内容だ。」この補足は、実際に芸術における現実主義にたいして広い門戸をひらいた。
 チェルヌィシェフスキイーの美学の第一のテーゼは、当時ある程度勝利しつつあった現実主義を確認し、堅固なものにした。しかし今や批評の任務は、現実性の高揚よりも、むしろ芸術における思想性のためのたたかいを強めることにあった。かれは、これを極めてはっきりと次のように表現した、「芸術は生活を再現して、その現象に対する判決を発言しなければならぬ。」ここには道徳的行為または市民的行動への訴えはないが、―客観的現実への分析と批判がある。
 チェルヌィシェフスキイーが果した理論的実践的な意義は、ロシヤの若々しい工業ブルジョアジーの経済的土台に立って、アカデミーの貴族=地主的な観念論的美学に手ひどい打撃を与え、同時代の新しい創作をはげまし、六〇−七〇年代の、特にレーピンを含む移動派の最良の部分の、国民的思想的現実主義美術の理論的先駆となった点にある。
 五十−六〇年代のロシヤ絵画において、風俗画―わけても思想的生活的風俗画の量的比重が相対的に増大している。
 自然派絵画の静力学と構図の分散性とは、フェドートフによって、40年代の末頃から、思想的現実主義(イデイヌイ・レアリズム)へと転換されはじめた。形式的には、運動と、物語の出現であり、構図の立体的な集中化だった。一般に色彩性が低減し、フェドートフやペローフの作品にみとめられるように、むしろ単色への傾向が強められた。
 一八五三年には、フランスでクールベーが、「グスターフ・クールベーの現実主義」と名づけた個展をパリで開いた。だが、ロシヤの現実主義絵画は、クールベー的な「純粋に現実主義的な形式」への方向とはかなりちがった、―もっと表現的、心理的で、思想的、批判的な性格を帯びてゆく。
 一八五八年には、ヴェ・ゲ・ペローフの「地方警察署長の訊問」、「下層の息子」があらわれ、一八六〇年には、エヌ・ペ・ペトローフの「三人の百姓」、ヴェ・イ・ヤーコビの「乞食の復活祭」、一八六一年にはペローフの「村の説教」、「復活祭の十字架行進」、ヤーコビの「囚人の到着」などがあらわれた。
 ちょうどこの頃、ブルジアジーの自由主義的改革の要求が高まり、一八六一年二月一九日アレクサンドル二世は、「土地つきの農奴解放令」に署名し、ロシヤの経済的発達の新しい段階がはじまると同時に、六〇年代のロシヤ美術は、あきらかに新しい時期、ブルジョア美術の時期に入ったのだ。新しいブルジョア美術は、時として貴族的な古いイデオロギーと混合されながらも、根本的にこれと対立した。ペローフは、この戦闘的な六〇年代のブルジョア美術のもっともかがやかしい表示者だった。
 一般にインテリゲンチャと美術家の発生を歴史的にみるとき、前者ははじめ中・小貴族から発生し、一八四〇年代からは小ブルジョア層からあらわれるようになったが、美術家は、十九世紀の前半まで農奴の子弟から育てられ、上層階級から出ることは極めてまれだった。だが美術家の出身が、その作品に直接反映することはほとんどなかった。かれらは、注文者の忠実な召使だった。ところが十九世紀の半ばから事態は変った。美術家の出身は、一般のインテリゲンチャとほとんどかわらなくなり、創作の自由が叫ばれ、自分自身小ブルジョアとして、その民主主義的な気分と要求を直接に作品の中に反映させた。しかし製作者が所属する階級は、必ずしもその時代の美術の社会的主体であることを意味しない。六〇年代の美術の社会的主体は、若々しいブルジョアジー、―正確にいえば、ブルジョア化した貴族と、純粋のブルジョアと、小ブルジョアとの連合体だ。
 「農奴解放令」をめぐる社会的変動のもっとも緊張した瞬間における農民は、六〇年代絵画のなかの流行の人物だった。農民はそこでは、ブルジョアジーの同盟者として関係づけられた。都市下層民の生活への関心は、これらの下層民が、ブルジョア・イデオロギーによって養われ、そしてその同盟者である限り、十分に是認された。
 美術アカデミーの学生は、より多く地方から出てきた。かれら自身、もはや農奴制によって飼いならされた徒弟ではなかった。アカデミーの使い古された神話による課題製作は自分に身ぢかな題材を要求する学生たちにとって我慢のならないものとなった。
 すでに改革の波は、貴族=地主的美術のとりで、アカデミーの壁のなかにさえも浸みこんできた。アカデミーはそれまで十才の官費の生徒ばかりが学んでいた寄宿学校から、さまざまな年齢と身分の青年に解放された美術学校に改められた。
 レーピンがアカデミーに入学する前の年、一八六三年に十四人の学生がアカデミー会議に上申書を提出して、独自の主題による課題の遂行を許せと請願した。アカデミーはこれを拒絶して、スカンジナヴィアの神話からの課題を与えた。そこでイ・エヌ・クラムスコイ、ア・イ・コルズーヒン、カ・ゲ・マコフスキー、ア・イ・モロゾフを含む十三人の学生が示威的にアカデミーから去った。かれらはアカデミーの支持を失って一時は生活に困ったが、「いろいろと考えたうえ、一つの結論に達した。それは工房と事務所の美術商会にるいする、看板と定款を持って、街の注文をとる美術家の協同組合(アルテリ)を、政府の許可によって創設することだった」(レーピンの「思い出」)。この美術家共同組合は、一方では、新しい資本主義的商品生産の諸条件に適応した商業的、生産的企業であり、他方では、夕べのつどいや朗読や、共同生活をやり、平等な分配をやるコンミューンのようなものだった。しかし新しい美術品にたいする市場の需要は大きかった。協同組合は五、六年も続いたが、もう一般の需要の増大に答えるのに間に合わなくなった。

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   移動派−人民の中へ

 そこで新しい組織が生まれた。十八七〇年モスクワで、「移動美術展覧会組合」が創始され、さきの協同組合の成員の一部がこれに合流した。新しい組合の創始者は、ペローフ、ゲ・ゲ・ミャソエドフ、プリャニシュニコフ、クラムスコイ、エム・カ・及エム・ペ・クロット、ヤーコビ、シシュキン、カ・エ・及、ヴ・エ・マコフスキイ、コルズーヒンなどだった。後になって更に数十人の美術家がこれに加わった。このようにモスクワ、ペテルブルグその他の都市を結ぶ大きな美術団体が作られ、その成員は「移動派」(ペレドゥヴィジュニキ)と呼ばれた。移動派は毎年ロシヤの各都市を巡回し、若い美術家の作品を、新しい需要者の広汎な層に近づき易いものとした。ロシヤで初めての有料入場制がとられた。
 最初の移動展は、1871年5月1達、ペテルブルグのアカデミーの大広間で開かれ非常な成功を見た。
 七〇年代の移動派の中の最良の部分は、人民主義の思想に鼓舞された。
 既にレーピンは若い社会主義的グループの指導者カラコーゾフが、1866年にアレクサンドルU世の狙撃に失敗し、公開死刑になる光景を見て感動し、その印象からカラコーゾフの像を素描している。この事件の後6、7年の間後退していた革命運動の波は、ラヴロフや、バクーニンの指導によって「人民の中へ!」の運動へ高まり、幾千のロシヤの青年を把えた。七〇年代の終りになると、「土地と自由」と「人民の意志」という二つの革命的な結社の運動で最盛期に達した。
 ナロードニキは農民の「自然発生的」な運動を待ったが、しかし結局かれなどは農民を動かすことは出来なかった。なぜならかれなどは具体的に農民を動かし、組織するようなスローガンを発見できなかったし、又、賦役労働(バールシチナ)の廃止によって七〇年代の農民は農業生産を著しく増やし、80年代の初め迄生産力を増加し続けていったからだ。しかし、人民主義の思想は、ブルジョア・インテリゲンチャ間に根深い影響を与え、移動派の多くの画家も又、「人民の中へ」のスローガンに強く励まされたのだ。
 だが移動派が活動しはじめた時は、ロシヤ社会とロシヤ美術二一つの転機が始まった時でもあった。
 六〇年代の終りに、ロシヤのブルジョアジーは階級としての形成化を完成させると同時に、反動的な要素と妥協、和解に進んだ。七〇年代の時期は「最初の蓄積の時期」と言われる段階の、資本主義的諸関係の嵐の様な発達の時期であり、泡沫会社の設立と貧困の増大がこれに伴った。だが労働者と農民は、未だ全く組織されずにいた。六〇年代が広汎な民主主義運動と、ブルジョアジーの階級的形成の時代であり、80年代が本当の反動であるなら、七〇年代はそれへの過渡、−漸いに改革前の反動的内容が復活し、反動との和解へブルジョアジーが近付く時代に他ならない。
 だが七〇−80年代のブルジョアジーが美術の面に全く無関心だったとは言えない。ブルジョアジーは、政治的には反動との和解に傾いたが、経済とイデオロギーとの領域では大きな積極性を示した。
 六〇年代のブルジョアジーは未だ若々しく健康であり、芸術にたいして積極的な思想的な要素を求めていた。階級闘争の武器としての戦闘的で摘発的な六〇年代のブルジョア現実主義は、その積極性を後退させながら、受動的、観察的な現実主義へ移ってゆく。
 新しい美術は尖鋭な主題をとることに同意しながらも、それをやはり受動的、外面的に扱う。六〇年代の引き締った色彩と、飾り気の無い構図から、所謂「芸術的リアリズム」へ、−対象の理想化された描写への移行が見られる。「あらわな真実」が前時代の現実主義のスローガンであるなら、七〇年代のスローガンは「芸術的真実と美」だった。七〇年代を進むに従い、−一般に民衆の生活的な情景が少くなってゆき、生活と現実の演劇化の要求があらわれ、構図と素描と色彩に、前時代よりも高い技術上の発達があらわれる。青年レーピンの傑作、「舟曳き人夫」(19七〇−3)は以上の意味で、六〇年代の帰結、−しかももっとも優れた高い帰結であると同時に、七〇年代への典型的な出発点を含むものと言えよう。
 六〇年代の政治的及市民的自由のための闘争は、高揚された人間評価と生活感情とを創造した。ここに市民的風俗画が果した前衛的役割があった。ところが妥協の時代、個性の解放の思想が中心的問題となり得なかった七〇年代では、人間よりむしろ、風景画が、その領分を絵画の中に拡大しはじめる。若いブルジョア美術にはあまり重要視されなかった「歴史的風俗画」は七〇年代になると、特別な重要性を持ちはじめた。
 だが、ブルジョア現実主義の革命的な伝統が七〇年代において全く失われたと見るならば、正しくない。レーピンの「補祭長」(1877)「宣伝家の逮捕」(1878)に見られるように、最良の現実主義的作家は七〇年代の一般的な影響の中にありながらも、ナロードニキ的な戦闘的精神を、新しい時代の新しい形式によって生かし得たのだ。
 移動派の成立其物は、六〇年代の美術家協同組合に比べると極めて現実的な美術家の利害に基いていた。共同組合いの果しない論争や、朗読の代りに新しい組合は計算と、組織問題に従事するという事務的な性質を強くなった。
 美術にたいする地方の需要は、著しく増大した。「金がもうかる」という限り、作品を地方へ送らぬ手はない。移動派が強固なものとなった実際の理由はここにある。スターソフが印刷画の普及のために闘ったのも不思議でない。事実、版画は広く普及され、殊に移動派絵画の複製は全ロシヤの流行となった。
 ところが地方の観客の大部分は小ブルジョアジーだった。つまりこの時代に、美術需要者としての小ブルジョアの役割が増大したのだ。それは移動派にとっては、入場料や目録や、複製の売上げの増大を意味し、他方では、地方にたいする美術教育的役割の増大を意味した。又小ブルジョアの一部は作品を買った。かれなどにとっては、大絵画や、華美な作品や官僚的な肖像は必要でない。又六〇年代の扇動的絵画も必要でない。大地番に、作品の値段ができるだけ安いことを要求し、小さな型の「より美しい」絵や習作を要求した。しかし絵を買うことでは小ブルジョアよりももっと大きな役割を次の二つの需要者が占める。――一つは宮廷と其の周囲であり、他は大ブルジョアだ。
 宮廷は、移動派の活動の初めには一種の危険を感じていたが、其後はこの心配をさほど感じなくなっている。七〇年代の終りには、宮廷の美術にたいする消費は極めて大きなものとなった。それは再び力をとり戻しつつあった美術アカデミーを一層強化したばかりでなく、移動派の多くの画家も、宮廷の注文に応じ、これに貢き物をささげた。宮廷は、「正教、独裁、人民性」という思想を作品に反映することを要求した。移動派の多くの画家は七〇年代から80年代にかけてこの三位一体のスローガンを一歩一歩受け入れていった。
 第三の需要者であるブルジョア・パトロン、即ち商人及び工業家達は、莫大な金を消費しながら画家たちに向って、自分の新しいイデオロギーと文化の創造を鼓舞し奨励した。トレチャコフ其他の商人、工業家はブルジョアジーの時代に適応した多くの作品を買い集め、より小さな金額とより多くの慎重さで、過ぎ去った地主的時代の作品を買った。かれなどはブルジョア美術に特徴的な大構図の絵画や、ブルジョア的時代のかれなどの活動を永久化するところの肖像を集めたのである。

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   反動の時代

 人民の中へ赴いたナロードニキは結局本当に人民と結びつくことができず、七〇年代の末には、ツアーリズムの権力を倒すために、個人的なテロ戦術をとることを決議した。ジェリャーボフを首領とする「人民の意志」当のテロリスト達は、1881年3月1日アレクサンドルU世の暗殺に成功した。この時から80年代の暗黒な政治的反動の時代が始まった。ブルジョアジーは封建制とその政治的独裁との協調に決定的に転じた。政府の側からは工業資本に対し、関税の引上げ、金本位制の採用、大シベリア鉄道の建設によって相応した保護政策がとられ、このためロシヤ資本主義は著しい発達を途げた。80−90年代を通じて、ナロードニキ運動はロシヤ資本主義の発達と、プロレタリアートの成長の現実を見ることも、農民の富農と貧農の分解の事実を見ることもできず、次第にツアーリ政府にたいする革命闘争の旗を下してこれとの妥協に転じ、ついには富農(クラーク)の代弁者とまでなり下がった。
 80−90年代のこういう時代におけるロシヤ社会の上層の気分は、美術の上にもその刻印を押さないわけはなかった。この時代のブルジョアジーイデオロギーと芸術にたいする要求は、反動と自分の達せられた富による満足の側へと、鋭く決定的に変っていった。ブルジョア・パトロンは、貴族パトロンに交替し、ロシヤ美術に強い影響を与えてゆく。
 新しい美術家のタイプが現れる。「パトロンのなぐさめ手」がこれだ。かれなどは広い市場ではなしに、限定された注文者と、購求者のために描いたり。ブルジョアの邸宅や寺院を壁画で飾ったり、劇場の装飾をやったりした。一般観衆の要求や趣味にたいする軽蔑的な態度が表われた。クラムスコイやペローフの様な、もっとも堅固で典型的な移動派でさえ、著しく変質してゆく。移動派の風俗画は依然として重要な地位にあるけれど、それはもう社会現象への批判の目的に答えず、外面的記録的な性質を帯びてゆく。「半主題的」な風景画が流行し、更に「没主題的」な静物画の流行へと移る。歴史画の役割は決定的なものとなってゆく。宗教的及物語的主題の作品が現れることもこの時代の移動派の一つの特徴だ。
 だが反動の80年代は多くの有名な傑作力作が次から次へと創られた時代でもあった。社会的に積極性のある主題と取組んだ作品に、レーピンの「クールスク県の十字架行進」(1881−3)「思いがけなく」(1882−4)jマコフスキイの「銀行の破産」と「夕べの集い」があり、民族的、国民的な歴史画にレーピンの「ザポローシツィ」(1878−91)スリコフの「近衛兵の死刑の朝」(1876−81)と「モロゾワ大貴族婦人」(1881−7)などがある。これなどの作品は、一般的な時代的制約の中にあったにも拘らず、尚もナロードニキ的伝統を続けさせた。中でもレーピンは、「十字架行進」「思いがけなく」などによって、ナロードニキの限界を打ち破るだけのリアリズムの力を示したのだ。
 しかしながら一般に移動派の、ロシヤ国民美術の発展のために果した偉大な進歩的役割は90年代の終りには完全に破局に到達した。ただ80年代にその鋭鋒を現わしはじめたエス・ヴェ・イワーノフだけがプロレタリアートの美術の方へ前進していった。

[目次]

−生涯と製作−

   生い立ち

 レーピンは、1844年、ハリコフ県チュグエフ市の貧しい退職軍人の家に生まれた。少年の美術的教養は、10才の時、チュグエフの軍隊の地形測量教室に入った時に始まり。14才になってチュグエフのイ・エム・ブナコフのアトリエに入った。そこで1年以上も学んだことは、レーピンに絵画の初歩的な準備を与えるとと同時に、一定の美術的慣習を習得させた。「伯母グルーシャの像」(1859)は未だ聖像画術のサビを持ってはいるが、同時に人間描写への興味が早くから呼び起こされことを語っている。
 チュグエフの画家達の名声は、ヴォロネジにも聞こえ、そこから地方寺院の仕事の注文があった。レーピンも17才の時から寺院の仕事をし、小遣いを稼いだ。
 1863年の夏、ヴオロネジ県ヴァルイ郡シロティナヤ村の寺院の大きな聖像を描き、五十ルーブルかせいだ。この金がかれをペテルブルグ間で運んだ。11月1日(旧暦)ペテルブルグに着いた。ふところには17ルーブル残っていた。
 かれは先ず、貧乏な建築家、ア・デ・ペトローフの家の屋根裏の部屋を借りてすんだ。ここで人々に美術アカデミーの入学試験の困難さを聞かされ、自分でも自信が無かったのでペトローフの推めに従って、ペテルブルグ美術奨励協会の素描学校に入った。しかし、現ソビエトの美術批評家グラバリによれば、既にこの頃のレーピンの素描は、その儘でも第一級の成績で試験をパスする位の技術に達していたという。
 ペトローフのところでシェフツォフ家の人達と知り合ったレーピンは間もなく、シェフツォフの家に引越した。
 素描学校でレーピンは初めて、クラムスコイと知合った。この年有名な「14人の請願事件」でアカデミーを飛び出したクラムスコイの名は、既にレーピンがチュグエフに居た頃から聞いていた。
 1864年の1月末にレーピンはアカデミーの試験に合格して初め自由聴講生となり、間もなく学生となった。
 シェフツォフ家で、かれの処女作とも言うべき、「試験勉強」が描かれた。モデルにはシェフツォフ兄弟がなり、40−五十年代の生活的風俗画を思わせる作品であり、レーピン自身の言葉によれば、チュグエフ派の油絵の手法の見本となるようなものだった。

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   アカデミー時代

 六〇年代初頭のロシヤ社会の、ブルジョア的改革の波と、「14人の事件」は、貴族美術の伝統の護持者としてのアカデミーに、手痛い打撃を与えたが、まだ教授法の保守的な制度を滅ぼす程迄には至らなかった。そこでは以前通りに同時代の生活から遠い、歴史的及宗教的な主題性が支配していた。生活的な風俗画は、低級な種類の絵画と考えられていた。生きた自然ではなく、古典的な方法が、価値ある訓練として承認されていた。新入生レーピンにとって、当時の教授陣は「チュグエフ人とさえ、どんな権威をも感じさせなかった。」(レーピン)
 レーピンの根本的な社会的美学的見解を育てたのはアカデミーの外側のチェルヌィシェフスキイーとクラムスコイであった。
 六〇−七〇年代のインテリゲンチャの思想に大きな影響を与えたチェルヌィシェフスキイーの見解はレーピンの中に、回りの現実にたいする批判的態度の感情を呼びさました。知識への渇望、社会生活に有益であろうとする志向、的な美術の要求――これら前衛的な民主主義的な理想は深くレーピンを捉えた。一時かれはアカデミーを放棄して大学に入ろうと望んだ。
 他方レーピンは、自己の美術探求において、クラムスコイから非常に大きな支持を受けた。クラムスコイの冷静な智能、アカデミーの慣習の無慈悲な批判、自然そのものに学ぶことの頑強な主張はカビ臭いアカデミーの雰囲気の力強い反対作用となった。
 これら二人の思想に鼓舞されながら、学生レーピンのアカデミーの壁の中での仕事は二つの対立し合う傾向のたたかいを興味深く示している。一方ではアカデミックな美術の古典的な原理の成功的な獲得であり。他方では自然と現実的な生活の生き生きした実り多い観察の獲得である。この二つの対立物のたたかいにおいて勝利した指導的原理は、自然と現実であった。
 E.ジュラーヴレフは、レーピンの学級における仕事の優れた典型として、18七〇年に描かれたモデルの油習作(ロシヤ博物館)を挙げている。「形象の深い感情、人体の全てのもっとも繊細な屈曲を表現する筆触の確信的な所有、色彩家的な技巧などは、アカデミー在学期間にレーピンが経過した大流派を物語る。その基盤において未だアカデミックな−薄肉彫の方則によって建てられた理想的な釣合いや形式を与えるこの習作においてすでに生きた自然の直接の感覚が響いている。」
 金牌のための二つの仕事がある。その一つ「ヨブとその友」(1868)は完全に絵画の古典的な組立の方法を獲得したことを示している。もう一つの「イアイルの娘の復活」(1871)ではもっと成熟し、絵は深い内面的な感情で暖められている。絵の右の部分は未完の儘である。死んだ少女と、その寝台に近づいて少女の手をとるキリストの像は、絵の中でももっとも印象的だ。この少女のリアリスチックな像は、レーピンの若くして死んだ妹の生き生きした記憶の下に描かれたという。だが全体としてこの絵の中には、アカデミックな典型の或る冷たさと硬さとが漂っている。
 この作品はレーピンの創作のアカデミックな頂点にありながらも、かれの作風の発展の過程において著しい役割を演じたところの、レンブラントの遺産の摂取の最初の試みであることを示している。この作品の「荘重なリズム、構図の企図の偉大さと簡潔さ、高音の色彩の階調、光と影との不思議なたたかい」による「瞬間の一般的な気分」の表現は、古匠レンブラントの現実主義的作風の伝統に立つものであり、古匠の導きによって、アカデミズムの乾燥と抽象、構図の静力学と色彩の固有色性(ローカリティー)、行動の外面的な演劇性を克服してゆくレーピンの道を示している。
 だがレーピンによるアカデミズムの克服は、主として、生きた自然の現実主義的把握は、レーピン的創作の著しい特性、−作品における思想性(イデイノスチ)によって、一層拍車をかけられ、高められてゆく。そして有名な作品「舟曳人夫」で、アカデミズムにたいするレーピンのたたかいの終結を迎えることになるのだ。
 所で、ここで我々は、学生レーピンがその貧しさの故に学費補助についてアカデミーへ請願書を出した事実に注意を向けよう。
 「…長らく私はアカデミーに補助をお願いする決心がつきませんでした。ついに不幸な事情が゜私を強いました。私は帝国アカデミー会議が、私の貧しい状態を援助され、学業を続けることを何とかして私に保証して下さるようお願い至します。私の方からは、芸術と学術とに真剣に携わることを約束至します。如何なる場合においても、私はアカデミーを放棄せず、全力を上げて仮令夜間のクラスへでもゆくように努めましょう。けれども私は、私の健康を著しく弱めている喪失に永く堪え忍ぶことが出来るかどうかは保証至しません…」(1885年3月17日、アカデミーへのレーピンの請願書から)
 この請願書から、我々は、レーピンの貧しさと、その貧しさ故に強いられた、アカデミーという官僚体制への忠誠との、二つのモメントを抽き出すことが出来る。かれの貧乏な学生生活は、チェルヌィシェフスキイー的な、ナロードニキ的な思想的影響をかれに一層強く与え、美術における貴族的官僚的要素−アカデミズムにたいするたたかいに一層強く奮い立たせたに違いない、と同時に、かれの貧しさに基く、組織としての帝室アカデミーへの妥協は、後年レーピンが移動派美術展に参加することを暫くの間ためらわせる原因ともなったのだ。
 レーピンはアカデミー会議に向って一度ならず、カンヴァスと絵具のせめて少しの補助でも与えてくれるよう願ったが、拒否されている。かれはこの時期について語っている。「私は大変貧乏して自分の存在を引き伸ばすために色々な手段を考え出した。私はアカデミーのモデルになろうとさえ考えた。この考えからかれを救い出したのは親友アントコリースキイの厳しくも、愛情に満ちた叱責だった。後で優れた彫刻家となったアントコリースキイはレーピンと同じ年にアカデミーの彫刻科に入ってから、レーピンと非常に気が合って、しまいには、アントコリースキイの部屋で共同生活をはじめる程になった。この共同生活は二年程続いた。技術的理由からレーピンは自分の部屋を別にするようにしたが、やはりそれは同じ下宿だった。この共同生活のおかげで、レーピンの生活のひどい苦しさが、いくらか柔らげられたのだ。然し、そのことよりも重要なのは、真面目で純粋で、素朴なアントコリースキイの人柄によって、自然に作り出された友情の雰囲気だった。二人は互に深く尊敬し合い、その友情は生涯保たれた。
 二人が同じ下宿に住んでいた頃のレーピンの素描に「アントコリースキイの像」がある。それはレーピンの手で「1866年10月14日、第一回、芸術の夕べ」とサインされている。「芸術の夕べ」とはレーピンを中心に親しい美術学生仲間が週二回催した夕べの集いのことで、順番に各自の下宿の一室に集まり、一人がモデルになって他の者が、素描し、本を朗読したり、論争したり、合唱したりした。アントコリースキイに次いで親しかったレーピンの同輩ムラシコの自著「老教師の思い出」によると、芸術の夕べは「茶とパンと、共同素描と朗読である。小さな部屋、そして我々はいつも十人以上だ。夕べの終りには酸素の不足からランプが消えた。若者にはそんなことは何でもない。
 集まった者はレーピン、アントコリースキイ、後で病気で学校を退学し、1876年にキエフ市に素描学校を創設したマカロフ、又後年目を病って画を止め、ペテルブルグ大学の最初の美術史講座を受け持った。プラーポフなど14人。そして間もなく、大学の聴講生も数人参加した。大部分はレーピンと同郷の小ロシヤ人で、合唱の時など、自然に小ロシヤの唄となった。ムラシコはよく本を読み、よく記憶し、人民の生活の機微に通じ、話術に巧みでよく皆を大笑させた。プラーポフは一番の知識人でレーピンと一緒にドイツ語をやった。
 レーピンは第一回の芸術の夕べで、アントコリースキイを描いた他、その後多数の仲間の像を素描しているが、その中で、アントコリースキイとムラシコの像の二つが、対象の性格描写の点で、優れた肖像画家としての才能を、もっともよく示している。
 1865年の或授業時間に、ムラシコはレーピンに、カラコーゾフの狙撃事件について知らせた。鉛筆の走る音の中でかれはレーピンにそっと囁いた。「君は知っているかい−今日何があったかを?」そしてかれはアレクサンドルU世にたいする夏公園での襲撃について物語った。その物語は深くレーピンの魂に残った。やがてスモレンスクの原でカラコーゾフの死刑が行われると分った時、レーピンとムラシコは未だ薄暗い朝明けの中のヴァシーリェフ島の大通りをゆく群集に交って死刑の場所へ歩いて行った。レーピンはこの日自分の眼で見た出来事の思い出を五十年も経った1910年にゴーリキーによって出版された雑誌「年代誌」に詳しく描いている。「原っぱにゆくと、遠くに木の台−簡単な足場の上に黒いテ字形に立った絞首台が見えた…。」そこで二人は犇き合う群集の間を分けて、やっと小高い、硝石か石炭かの小山の上に立って待っていた。「もうすっかり明るかった。その時遠くにバネの無い腰かけのある黒い四輪馬車が揺れはじめた。その腰かけにカラコーゾフが坐っていた。やっと馬車の幅だけ迄が警官に保たれて、その空間に罪人が丸石の鋪装の上で衝動のために左に右に揺れているのが判然り見えた。板の小壁−腰かけに釘づけになったかれは、動きのないマネキンのように見えた。背を馬に向けて坐って少しもその無感覚な坐り方を変えなかった…。かれは近づいて来る、我々の傍を通ってゆく。やはり並歩で、我々の傍近く。顔と体の全ての状態をよく観察することが出来た。化石のように顔を左に向けた儘だった。顔の色は、永い英田外気と光を見ていない独居囚に独特なものだった。それは灰色がかった影のある、黄色く蒼ざめた色だった。かれの髪は−明るいブロンドで−生まれつきの捲きぐせのあるものだった。灰色に苔がかかっていて、長いこと洗っていず、軽く前にまぶかくかぶった檻房用の大黒幅の下で、ヤットもつれていた。長い、前に張り出した鼻は死人の鼻に似ていた、そして眼は一つの方向に向けられ、大きな灰色の眼はスッカリ輝きを失い、やはりもうこの世のものでないようで、その中には一つも生きた思想も、生きた感情も認められなかった。只固く結ばれた唇だけが決心して最後迄自己の運命を耐え忍んで凝固したエネルギーが残っていることを物語っていた。総じてかれの印象は特に恐ろしいものだった…。」
 カラコーゾフに関する文献で、レーピンが書き込んだもの以上に、カラコーゾフの外貌に関するもっと鮮明でもっと印象的な物語はないとされている。(ジリベルシテインの「レーピンの創作的伝記の新しい頁」による)。
 しかし我々がもっと驚くのは、レーピンが死刑の後で家に帰ってから新鮮な印象と記憶によって、カラコーゾフの顔をスケッチブックに描いた、その出来栄えだ。印象によって描かれたこの像が、ジリベルシテインによれば、カラコーゾフに完全に似ていることで証明されるという。しかし単に似ているだけでなく、しかしどんな画家が、死刑の直前の一人の男の全ゆる風貌をこんなにも現実的に描いたことがあったろうか?…しかもその顔が死刑囚一般ではなく、大衆から孤立した意識的な個人の英雄主義的な行動に頼る他の手段を持たなかったナロードニキ革命家の最後の、全ての矛盾を露く典型的な顔として掴まれていることは、一層驚くべきレーピンのリアリズムの力ではないか!
 レーピンのアカデミー在学期間はペテルブルグの美術家の創設とその開花の時期と一致している。組合は毎週木曜日に夕べの集会を開いた。この「木曜会」には、組合員の外、協同組合に正式に参加していない、アカデミーの教授や学生、其他と氏のお置くの進歩的、社会的活動家も出席した。学生レーピンも多くの先輩の間に交ってその常連となった。この木曜会では、専門の美術の問題と並んで、「憂国の生活問題」やチェルヌィシェフスキイーやピーサレフやプルードンや、ロバート・オーエンの論文が討論された。若いレーピンの知性的芸術的発達のために、この夕べは大きな役割を演じた。「木曜会」では、討論ばかりでなく、素描もやった。円熟した大家の間で、レーピンは自分の天性の才能を磨き上げた。
 クラムスコイの死んだ翌年、1888年にレーピンは雑誌「ロシヤ古代」に「クラムスコイの思い出」を発表し、その中で、協同組合のことに触れている。それによれば「木曜会には40人−五十人が集まって大変愉快に時を過した。大広間に据えられた大きなテーブルに紙や、絵の具や、鉛筆その他の美術材料が、備えられてあった。やりたい人が好きな材料を選んで頭に浮かんだものを制作した。隣りの広間では、誰かがピアノを弾き、歌った。時折其処で展覧会や美術についての重要な論文を朗読した。…ここである時アントコリースキイは、自分の「現代美術にたいする批評的見解」を読んだ。真面目な読書ともっとも多様な素描のあとで大変質素な、その代り大変楽しい夕食が続いた。これらの夕べで1869−71年に、シシキンの生徒エフ、ア、ヴァシーリェフが、その才能と非常な活気で特に秀でていた。それは19才の健康な若者で、クラムスコイはかれの才能を自分の才産の勘定を知らず、惜しみなく至る所にそれを投げ出すおとぎばなしの金持に比べていた。夕べの集いではかれの豊かな幻想に魅きつけられた人々が、かれの後ろに佇んでいた。かれの手から魅惑的な楽想の全ての新しい真珠がこぼれ出し、其などはかれを注視する人々のおそれに迄其場で無数の和音に仕上げられていった。…誰よりも高く、シシキンの声が響いていた。緑の威力ある森林のようにかれはその健康な喜びとよい食欲と本当のロシヤ人の言葉で、皆を感染させた。かれはペンで以ってこれらの集会で、優れた素描を沢山描いた。…屡々クラムスコイは、のんびりした楽しみの例外を作った。かれの回りに坐った客達を、かれは何か政治的または道徳的論争の中に引き入れていた、その時人々は少しずつ耳をそば立て、論争に注意して活発に参加していった。」
 レーピンがこれらの「木曜会」の夕べで創った素描のうち、ソヴエート同盟に現存しているのは1871年作のセピア色による二つの素描、ボロ服をまとって竿をたれる「漁師」と農村の少年が少女に戯れかかっている、「納屋の中の光景」とで、両方ともレーピンとしては珍しく想像で描いている。
 さていよいよこの辺で、レーピンの学生時代の最後を飾る傑作「舟曳人夫」の誕生に向うのだが、そのためには特に行を更めることにしたい。

[目次]

   「舟曳人夫」の誕生

 青年レーピンが、自己の全ゆる自由な創造的熱情を傾けた絵画、「舟曳人夫」の構想の端緒は、1868年、かれが同僚サヴィツキーとネヴァ河を訪ねた時にはじまる。「…そこで朝になるともう我々はネヴァ河の波をさわがしていた。そして私は岸の美しさのために言いがたい喜びを感じていた、…船は早く進んだ…美しい階段と凝ったファサードのある別荘があらわれた。それら全ては特に正午に近づけば近づく程輝かしく着飾った人々によって生気づけられた…だが停船所だ。高い岸…人々の群れはおりる…呑気な会話、機知に富んだバラ色の笑い…青年の群れ、−学生や軍服が、白や淡黄色や紅の洋傘の花園に元気のいい影を落としている。…
 −だがあそこをこっちへ動いてくるのは何だろう?−と、私はサヴィツキーに訊ねた。
 −ほら、あのぼんやりした薄汚ない…
 −あゝ!あれは曳綱でハシケを引っ張る舟曳人夫だよ…あんなタイプだ。そら見たまえ、今そばへ寄って来る…
 近寄って来た…一人はボロボロのズボン下を地面にひきずっている、或者は帽子がない、シャツもない、シャツも…曳綱で引っ張る胸は赤くなる迄擦りむけて、裸になり、日焼けで鳶色になっていた…顔は陰気で、時々只重々しい眼付が、こんがらがった紡ぎ糸の様なぶら下がった髪の下からひらめくだけだ、汗ばんだ顔は光っている、そしてシャツはすっかり真黒だ…紳士達のあんなにも清潔な香しい花園との対照がここにある!
 −信じがたい絵画だ!−と私はサヴィツキーに叫んだ。−誰も信じないだろう…だが何という恐ろしいことだ…人間が家畜の替りをさせられている…
 −だが君はヴォルガの上流が如何なか見るがいいよ…とサヴィツキーは答えた。」
 18七〇年にレーピンは、ヴァシーリエフ、マカロフ弟と一緒にこんどはヴォルガ河を訪れた。
 「我々はもうトヴェリから平底の小蒸気に乗ってヴォルガ河を進んで行った。私はチフヴィンカに向って下りる。そこへ11人の舟曳人夫の一隊が近ずいて来る。かれなどと一緒に、親方から全てを任された少年が居た…率直に認めねばならないが、この舟曳人夫達と親方達との契約の状況や、その社会的体制の問題は、少しも私の興味をひかなかった…だが…実にこの少年なのだ、私がそれと並んで足をそろえていったのは…額に突進する眉に迫る眼の何という深さ。そして額は−大きく賢く、知的な顔だ。これは鈍物ではない…(それがカニンだった−未来の「舟曳人夫」の中央の人物)。私はカニンと並んで、かれから目を離さずに歩いて行った。そしてかれは増々私の気に入った。私はかれの性格の全ゆる特徴に、そしてかれの皮膚と大麻のシャツとの全ゆる陰影に情熱的に惚れ込んだ。その色彩にあるあのような温かさ…まる一週間私はカニンに熱中して屡々ヴォルガの岸へ駆け出した。舟曳の陰気な群れが沢山通り過ぎた…だがカニンは、カニンは見えない…しばし遊んでいる舟曳人夫達が私達の所へ寄って来てこう申し出た、「旦那、舟曳人夫を描いて20カペイカ払っておくんなさい、わしらはこのとおり用意してるんですよ」…そこで私はこの舟曳人夫のスケッチを思う存分描いた。私はついにカニンの習作を描いた。…シリヤエヴォの小屋では恐怖が皆なを殺した、と人々は囁いていた。だけどここで、岸の只中で、親愛な舟曳人夫のもっとも完全な典型を観察しそして描写しながら私は悠々自適していた…」(「舟曳人夫」の回想)
 ヴォルガの岸の、炎暑で焼けつく砂の上で、レーピンは様々なタイプの舟曳人夫の習作をやり、岸辺の写生をやった。
 「その絵は未だ生まれていなかった。だが既にペテルブルグの美術家のより良き人々は皆な、レーピンから何か稀有なものを期待していた。かくてかれがヴォルガから持って返った油絵の小さな習作は驚くべきものであった。どの画布も全き性格、全き独自の世界を表わすタイプであり、新しい人間である。…」(スターソフ)
 このようにしてレーピンは生きた自然から直接に準備した仕事の基礎に立って、大作「舟曳人夫」を作り、1871年の初め、ペテルブルグ美術奨励協会の展覧会に出品した。
 しかしレーピン自身はその出来栄えにひどく不満だった。かれはその改造に取掛かり、年の間にもう一度ヴォルガを訪ね、熱心に描き直し、1873年に、現在見られるような姿に完成させた。
 「2年ほど前にこの絵が美術奨励協会に数日間出品されてそれを見た人は皆驚いた。然しその時それは未だ単に習作だった。それ以来大きな改造が始まった。それは今では程ん度すっかりやり直され、変えられ、高められ、そして完成させられた。短い間にかれは成熟し成人した。…そして今や、これまでロシヤ美術によって創られた全てのものが程ん度比べものにならない程の絵画となったのだ。」(スターソフ)
 この作品でレーピンは、ペローフ、クラムスコイなどの全ての先輩を追いこして、前衛的美術家の先頭に立った。「…昨日は未だ前方にあったものは明日には、言葉の文字通りの明日には不可能となるだろう。一人や二人にとって不可能なのではなく、全ての者にとってあきらかとなるだろう。四年前にはペローフが皆なの前方に立っていた、未だ僅か四年のことなのに「舟曳人夫」のレーピンの後ではかれはもう不可能だ…」(クラムスコイ。ポレーノフ宛、1875.4.5)
 ところでサヴィノフの研究によると、この作品の「改造」の過程は次のようである。
 空は最初発表された作品では、強い純粋な青さだったのが、後の作品では、金色がかった色で蔽われている。これで空の冷たさを避け、ヴォルガの太陽の炎熱と、空気と砂の灼熱状態を伝えることを助け、このことで舟曳人夫の労働のひどさを際立たせている。
 この色彩の変更の外に人物のポーズと構成が少しづつ変えられた。初めは中央の若者(カニン)を除いた他の人物は一体に、体をもっとかがめ、頭を垂れ、元気のない疲れた状態を示していた。それはスターソフの「魯鈍さと完全に獣の様な生活の表現」にたいする指摘に相応するものだったようだ。それが後では、列の一番最後のすっかり頭を下げた人物を除けば、少しづつ身体が高くなり、疲れた憂鬱な状態に代って、顔付も「智力と鋭さと皮肉な笑い」が加わり、「重い重労働にも打ちひしがれぬ複雑な力強い知性が前面にひき出された。前方の三人の形象を描き変えながらレーピンは人間の精神の曲げることの出来ない威力、人民の力の威力でこれを満たした。」(サヴィノフ)
 「舟曳達の中に混って一人の兵士が描き込まれている。後ろから三番目の白いルパーシカを着て軍帽を被り、長靴をはいているのがそれだ(他の者は、わらじかはだしだ)。レーピンがヴォルガへ習作に行った18七〇年の2年前に、ヴェレシチャーギンはこれと同じ白ルパシカの兵隊を、交戦している姿でモデルから描いている。それは1864年から始まったロシヤ軍隊のトルキスタンへの行進に参加した兵隊なのだ。レーピンの兵士はこういう兵隊の一人で砂漠の焼けつくような砂の上の行軍と、戦闘の後で祖国にたいする義務はヴォルガへ舟曳にゆくより他に見出せなかったのである。
 このようにしてレーピンの「舟曳人夫」は「人民の中へ!」という時代の前衛的な見解を、舟曳人夫の重い労働への深い同情と、人間の醜い搾取の形にたいする摘発的な感情との中に力強く鳴り響かせたばかりでなく、美術における現実主義のはちきれるような力でもって、同時代人をひどく驚かしながら、当時のロシヤ美術界の大事件となったのである。
 絵は実に単純で表現的である。見る人は一目でそこに何が描かれてあるかを理解する。しかし決してそれだけでは終らない。目を細部に移せば移す程、全体の理解がそれだけ深められてゆく。背景の伝馬船のふなばたの装飾の細部の表現、−その上に乗っている番頭−肥った体に長いシャツを帯びなしで着ている−の大きく開いた口から、長く伸ばされた叫びが聞こえてくるかのようだ。舟曳達の顔や手やきものの全ゆる細部の真実さ、−そしてついに一人の男の顔に流れる汗に気がつく時、アッと驚かない訳にいかないだろう。
 そこでは19世紀前半のヴェネチアノフ以来の静的な、ブルジョア地主的な自然主義が動的な、市民的現実主義に迄高められている。又そこではレーピンが、最早完全にアカデミーの壁の外で独立した、成熟した大家として足を踏み出したのを我々は見る。
 自然の研究や外気における直接の写生の仕事は、ロシヤで七〇年代のはじめ迄は、尚小さな試みであったようだ。とはいえ、外気の探求は既に始まっていた。レーピンはヴァシーリエフの風景画に夢中になった。それは生きた自然の観察の新鮮さでかれをひきつけた。
 ヴォルガの岸での舟曳人夫の習作を通して、レーピンは外光の課題へ、絵画的手段による光と空気の伝達へ密接に近づいた。かれは自分の「思い出」の中で自然の観察をかれの前に開いた新しい芸術的地平線にどんなに心を奪われたかを語っている。「常に我々は美術の手段においても、自然にたいする見解においても何らかの新しさを感じていた。我々は既に無限の広さと物の色彩とを本質的に理解していた…。」
 然し「舟曳人夫」における外光の解決の仕方はフランスの印象派のそれとは、未だ少し距離があったようだ。人夫の顔の取り扱いに残る幾らかの固さ、色調の人参色、色彩の固有色性などがそれを示していよう。しかしこの距離は、1872年の変形(ヴァリエテ)「浅瀬をゆく舟曳人夫」(トレチャコフ美術館)でもっと縮められ、更に73年からはじまる3年間のレーピンの外遊で完全にゼロになると同時に、レーピンが、アカデミズムと決定的に袂を分つこととなるのである。
 尚「舟曳人夫」の制作時期に於る、他の主な作品は、「シェフツォヴァの像」(1869)「イアイルの娘の復活」(1871)「スラヴ民族の作曲家達」(1871−2)などである。
 又この間に72年2月にレーピンはシェフツォヴアと結婚した。

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   最後の外遊

 美術アカデミーの規則によって卒業制作に金牌をもらった学生は、それと同時に国費による「給費生」として「美術における完成」のために外国へゆく権利を得た。レーピンもその一人だった。かれは1873年5月に出発し、3年余りを外国で暮らした。かれは初めの数ヶ月を外国の巡歴に使った。先ずウィーン、(ここでは全世界美術展に「舟曳人夫」が出陳されていた)を訪ね、次いでヴェネチア、フローレンス、ローマを巡った。九月の終りにはパリに居を構え、そこで三年間を住み通した。ここからかれはただ習作のためにノルマンディへ行き、又1875年6月にロンドンへ友人の美術家達と一緒に短に旅をしただけだった。
 レーピンがイタリーでもっとも強い印象を受けたのは、ヴェネチア派の絵画であった。「ヴェネチアでは、美術は肉と血である。それは全ヴェネチアの生命を以って生き全ゆる人を感動させた。ヴエロネーゼの絵画では、かれと同時代の市民が、自然から直接とられた詩的な環境の中に隠されている。…(アカデミー会議書記イセーエフの手紙)」とレーピンは、アカデミー会議書記イセーエフへ書いている。ヴェネチア派の絵画の中に、「熱い泉のように沸き立つ」昔のヴェネチア市民の生活の反映をみ、生活と美術との密接な絡りを見たレーピンのこの評価には、全く正しい、現実主義的な本能が響いている。
 フローレンスは余り強い印象を残さなかったし、ローマはかれを幻滅させた。ただミケランジェロの「モーゼ」だけが、画家の言葉によれば、「一切を償っている。この作品を人物の再現と理想と考えることが出来る。」のであった。
 ペローフを初め多くのロシヤのリアリスト美術家がパリで経験したように、レーピンも又、パリ滞在の初めのころは、西欧の美術界の基調に無限に遠く、又没交渉なものとして自分を感じた。
 レーピンがパリに着いた時は既に71年のパリのコンミューンの労働者革命は挫折しており、それと共にクールベー的リアリズムが後退し、前期印象主義者達が歴史の舞台に登場しつつあった時期である。
 ヴォルガの砂地を踏むはだしとわらじと兵隊靴の舟曳人夫の友レーピン、時代の民主主義的なイデーに共鳴するイデー的な美術の味方であるレーピンは、フランスのショウシャたる前期印象主義の絵画とぶつかった時、それはかれに殆ど重苦しい印象を与えた。
 「フランスは余り私を魅きつけない、−とかれは1873年にイセーエフに書いた−かれなどの所では方法は別だし、根気が少ない。修練が足りない…私の頭にはやはりロシヤの主題が大きい。私は思う、私は永くはここで寿命を縮めないでしょう…」。
 しかしかれが不満に思ったのはフランスの「美術」についてであって、フランスの現実そのものではなかった。それにかれは一刻といえども仕事をせずにはいられなかった。同じイセーエフにパリに住んだ一週間に「かってなかった程仕事しています。実際こんなに沢山の作品が私の頭に群ったことは一度もなかった。…」と書いている。沢山の油絵と素描を残した異常な創作的高まりの三年間が始まったのだ。
 パリ滞在の第一週に「群った」レーピンの創作的構想の中には大作「パリのカフェ」の構想があった。モデルを雇って沢山の習作がやられていった。この年の末に作品(タブロー)にとりかかり、翌74年の2月には、基礎的な色彩を終え、殆ど全ての習作を終えていた。作品の方は際限なく加筆されて、75年には、「サロン」に出品し、レーピンがロシヤに帰ってからも、1916年にスエーデンの蒐集家エム・モリソンに売却するまでも、度々加筆された。
 サロンに出品された時、美術の評価に厳しかった画家ア・ペ・ボゴリューボフはこの作品について書いた。「この展覧会(75年サロン)に並ベられたロシヤ美術家の絵画の中にレーピンの絵画「ブールヴァルのカフェ」−大変良く描かれた、性格的なタイプで満たされた作品がある」だがその後40年の間に描き続けた結果は初めの絵画的な値打ちを損ねてしまった。むしろこの作品のための習作の中にレーピン的な、「油絵の自由さと広さ」が反映している。
 ところでこの「パリのカフェ」を描き進めている間に若いレーピンの芸術観に重大な変化と動揺が表われて来た。
 レーピンはパリの現実ばかりでなく、フランスの新しい美術に惹きつけられて行った。かれは初めに否定した印象主義者の絵画的手法の承認へ次第に傾きはじめた。「…私は今や考えることを全く忘れてしまった。そして私を蝕んだ失われた能力について悲しみはしない。−むしろそれがもう戻って来なかったらとさえ望んでいる、仮令それが愛する祖国の領土では私にたいしてその正当さ−風土を示すだろうと感じているとは云え。だが神は少なくともロシヤ美術を蝕む分析から救うであろう。いつそれはこんなごまかしから脱け出るだろう?この不幸ぱロシヤ美術を、技巧に於る筆の無益な正確さに、又分別ある意見、経済学から汲み取られた思想の上に恐ろしく長びかせる。こんな事態では詩まで遥かに遠い。」(クラムスコイ宛1874)
 僅か一年前に「舟曳人夫」を発表して人々を驚かせ、ナロードニキ的な思想的リアリズムの旗手となったばかりのレーピンの何という早い又烈しい変り方であろう。この変化はスターソフとクラムスコイに強に不満を呼び起こした。クラムスコイは、スターソフと共にレーピンのフランス滞在をかれの創作のために有害であると考えて、「パリのカフェ」にたいしてレーピンを厳しく批判した。
 だが六〇年代のロシヤ美術の思想的リアリズムから、七〇年代の移動派による「芸術的リアリズム」への転換は、当時のロシヤ美術界に現れた一般的な情勢であった。レーピンの変化も、この一般の変化の一部しかも極めて敏感な「環境にたいしてひどく熱中的となり、ただちに反応する人間」(ジュラーヴレフ「レーピンの創作」)であったレーピンによって顕示された一部であるに過ぎない。しかもレーピンの一度血肉となったロシヤ的国民的な現実主義が、そうた易く滅びさるものとは考えられない。事実、「パリの喫茶店」の習作や、ノルマンディにおける仕事などを見ると、パリにおいて過ごされた年々は自然から学ぶというレーピンの志向をより固いものとし、かれの芸術的な趣味の水準を高め、絵画的な視野を拡げ、西欧の印象主義のもっとも値うちのある要素−太陽光線と空気の伝達、純粋な輝くパレットを受けとってその後のレーピンのリアリズムの発展の上に実りの多い影響を与えたものであることが認められる。
 1874年の4月15日、第一回印象主義者独立展覧会がパリで開かれ、モネー、シスレー、ピサロ、ドガ、ルノアール、ベルタ・モリゾ・ギョーマンが作品を出した。これらの作品は、若い画家達が、新しく自然を見、新しくそれを伝える能力があることを示した。
 レーピンがこの展覧会に大きな関心を持ったことは言う迄もない。この年から数年たってレーピンはインプレッショニストの「直接的な印象の新鮮さ」がもたらした利益を、感謝の念をこめて思い出しながら、「インプレッション」即ち印象の新鮮さと力無しには、真の芸術作品は有り得ない。かれなどの画布はその新鮮さで美術を活気付けた。」と確言している。
 1874年の夏、レーピンはノルマンディの海岸のヴアイユ村で二ヶ月ばかり過ごした。このことはかれの創作に大きな影響を与えた。
 レーピンがこの村へ行ったのは、「直接の印象」を探求するためだった。
 画家達がよく出かけるこの村はレーピンに非常に快適な印象を与えた。
 かれは友人ポレーノフにそこへやって来るよう手紙を書いた。「うれしくって仕方が無い、そんなにヴァイユは良い所だ。ありと全ゆる種類の魅惑的な場所だ…。」そして非常な驚きと喜びで風景の素晴しさを、故国の小ロシヤの古式な部落に似た、「城」(ザーモク)のあることを、かれの下宿のそばの清冽な小川と、粉ひき水車の子守唄と、そして海の魅力を書き送っている。
 かれは又スターソフにヴァイユの美しさを書き送り、殊にそれが小ロシヤを想わせることを強く訴えている。
 間もなくヴァイユにはレーピンとボゴリューボフの他にポレーノフ、サヴィツキーなどが集まってロシヤ美術家の「小さな植民地」となった。
 レーピンはここで沢山の写生をやった。かれはスターソフへの前述の手紙(74年7月)の中で、「自分自身で大きな興味を持って次の作品を待っています。そして若干の作品は大変多くのものを私の感情に語ってくれるので大変満足しています。」と書いた。
 レーピン自らこのヴァイユ滞在の時期を非常に高く評価し、自分の創作的発展の重要な段階と見ている。「最初の基礎的な過程を私はチュグエフ付近で、自然の中で過し、二番目は、−ヴォルガで(森の中で私は初めて構図を理解した)、そして三番目の過程は、恐らくヴァイユで過すでしょう」とレーピンはヴァイユ到着の二週間後に7月8日にスターソフ宛書いた。
 ヴァイユでの習作のうち、ソヴィエト同盟にはっきり現存しているのは「石を集める馬」(サラトフ芸術博物館)と「乞食娘」(イルクーツク芸術博物館)の二点だけである。
 前者は、前景にヴァイユの石を集める馬がいる。陽に照らされた海岸の一隅を描いた習作で、グラバリによれば、「絵画的な意味において、−レーピンにとって大きな前進である。」
 1875年4月1日のスターソフ宛のレーピンの手紙では、美術アカデミーが給費生にたいしてどこでどうあろうと、作品を出品するのを禁じていたことを伝えながら、「だが私はやはり『カフェ』を、それと一緒に婦人像と、陽に照らされた、海岸の白い馬の小さな習作とをサロンへ送りました。この最後のものを出したのは只、ルロア氏とボンナ氏とがそれを主張したからです。」と書いた。
 ルロア氏というのは、美術評論家ルイ・ルロアのことで1874年、雑誌「ル・シャリヴァリ」に書いた論文で、若い流派にはじめて、印象派の名を与えた人である。乞食娘のモデルは「地株みたいに愚か」(レーピン)だったが、この習作は成功した。青空と野草の花咲く草原を背景に、娘は太陽に照らされて、単純な子供らしい姿勢で立っている。ジリベルシテインの評価に依れば、「この習作(乞食娘)は油絵らしい自由さの優れた技術によって注意を引いている。頭部の出来栄えは見事で、破れた短衣は力強く魅力を以って描かれ、空気遠近法と、太陽光線の全身にたいする反射は巧みに伝えられている。習作の色調はその明るく澄んだ色彩によっって注目すべきだ、少し前アカデミーでやったレーピンの仕事にはこの色彩はなかった。」(ジリベルシテイン「レーピンの創作的伝記の新しい頁」)
 確かにこの習作には、印象主義を学びながら、印象主義のとりことならず、新しく高められたレーピンの現実主義的作風の出発点が含まれている。(大きさ五十×73p)
 パリに着いたばかりのレーピンの頭の中に「群った」沢山の構想のうちにはヴォルガに関する一連の構想があった。かれはそれをヴォルガ旅行の時期の若干の習作や下絵と一緒にパリへ持ち込んで、そこで完成させた。例えば「ヴォルガの嵐」(1873)と「小船の上のステンカ・ラージン」(1874、ヘルシンキの「アテネウム」博物館)がそれである。「ラージン」は夏の月夜のヴォルガでのレーピンの感動に基くものであって、かれはこの絵をパリで描きはじめて間もなく中止した「ゲッセマネの園のキリスト」の画布の上に描いたのだった。
 レーピンは生涯の終り迄特別な温かさでかれの故郷−ウクライナを思い出していた。パリ時代にも、しばしば「小ロシヤ」と「小ロシヤ人」とを思い出した。ノルマンディへ行っても、「恐ろしく小ロシヤに似ている」と書いた。かれは一度ならず、ウクライナへ帰りたいとさえ思った。この憧れは、パリで75年と76年に描かれた二つの「ウクライナの女」の習作となった。モデルに色彩的なウクライナのコスチュームと、髪飾りと、首飾りをつけさせ、背景は想像で描かれた。
 これらの「ウクライナの女」や、「ステンカ・ラージン」パリで描かれたことは、レーピンが飽く迄ロシヤ人であって、民族的な題材と、祖国の主題にたいする根強い志向を持ち続けたことを示すものと言える。
 レーピンはパリに妻と、生まれて間もない長女ベーラと一緒にやって来たが、パリで妻の像とベーラの像を描いた。75年にヴェーラの像を描いた後レーピンは、「私はヴェーラの像を(モネー風に=ア・ラ・モネー)続けて二時間で描きました。」とスターソフに伝えている。
 パリ到着早々とりかかった仕事に、大作「サドコ」があった。海底の人物と、人魚や魚や、海草を扱ったこの幻想的な主題は、皇室の相続者、未来のアレクサンドルV世の注文によるものだが、「パリのカフェ」やヴァイユの風物に夢中になっていたレーピンの仕事とは、基礎的に矛盾するものだった。「サドコ」の仕事はかれの気に入らなかったので非常に骨を折ってやっと1876年にこれを仕上げた。この「サドコ」に関してかれはスターソフにこの年の春に書いている。「何かもう少し良い仕事をはじめねばならない、−だかここでは全ての私の仕事は中身を食われた卵にも値しない、−全く恥かしく腹立たしい、一つの体操で其以上の何物でもない、感情も思想もどこにも毛程も見えない。」
 故国へ出発する数ヶ月前にレーピンはアカデミー会議書記イセーエフに書いている。「あなたは私が゛フランス化しないように書いていられます。おゆるしを願います、ひたすら私は、どうして早く帰って真面目に仕事をはじめるかを考えているのです。しかしパリは私に大きな利益を齎しました。それを否定することは出来ません。」
 パリにあったレーピンが、アカデミーの一定の物質的補助の中で、故国の移動派の運動を傍観できず、アカデミーの援助との矛盾に悩んだことをここで付記せねばならぬ。
 レーピンはパリからスターソフに「もしも…アカデミーが恥知らずの僭越さで私を追求するならそんなものはそいつの補助と一緒に犬にでも食われろです。赤ん坊みたいに閉じ込められているのはもう沢山、私はもう子供じゃないのです。…」(1874.1.14、スターソフ宛)
 この年にかれは移動美術展覧会へパリから作品を送った。ところが−「もしも私の作品が移動展に届いても展示しないで下さい…私は恐れます、かれなどが今後私に衝突しやしないかと…」(1875.4.1、クラムスコイ宛)「移動派にさし当って名にも出しません。それは私をアカデミーと喧嘩させるでしょう、だが今それは困ります、アカデミーは私に大変親切なのです…」(1875.10.2、スターソフ宛)
 この手紙の言葉から我々はレーピンの社会的な行動における矛盾と動揺とを見ると同時に、一方からはかれの性格の複雑さとある種のかしこさを他方からはかれの内面的な或種の弱さを特徴づけることが出来る。レーピンのこの様な主体的事情は1878年から公然と移動派に参加しながらも、90年代の社会的反動の時期に際して、再びアカデミーとの或る妥協にかれを導いた。

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   故郷に帰って

1876年の7月、レーピンは帰国した。
 レーピンは母なるロシヤの大地の泉から、新鮮な創作力を汲みとりながら、そこでの緊張した階級闘争の雰囲気と、ナロードニキ運動の昂揚する情勢の中で、再びかれの社会生活にたいする燃える様な興味を高めていった。
 ペテルブルグにちょっと休んだ後、クラスノエ村へ行って描いた「芝生のベンチ」はまだパリがかれに与えた魅力の名残をとどめている。
 10月にはモスクワを通ってかれの故郷ウクライナへ−チュグエフへ行った。
 チュグエフでの一年近くの生活はレーピンの創作にとて極めて重要な、実り多い月日であって、かれはここでかれの生涯の大作「十字架行進」の最後のプランを生み、ロシヤの農民と僧侶との典型を創造した。
 チュグエフで描いた、「醜い眼の農夫」(1877)は重税と負債と圧政のクビキに押しつぶされ、虐げられ従順なロシヤの百姓の典型を描いたものだった。「泥路」「村役場にて」も描いた。ロシヤへ帰ってからのレーピンの最初の傑作となった「補祭長」もこの年の作で、かれはこれをチュグエフ本山の補祭長をモデルにして描いた。かれはモデルの個人的な類似を保ちながらも、暗い色の法衣のしたの肥った身体、脂ぎったふくれた顔、大きな手、粗野で貪欲な眼付を強調しながら、専制の下僕としてのロシヤの僧侶の特徴的な姿を普遍化した。それは本質において、ツアーリズムにたいする痛烈な諷刺であり、摘発であると共に、レンブラントと印象主義の遺産を高め、統一した、偉大な現実主義的造形性を示すものであった。
 スターソフは熱烈にこの「補祭長」を歓迎し、クラムスコイは「我々のうち誰一人として今かれがやったことをやった者はいない」と正直に承認した。
 77年の9月末、レーピンはかれの数少ない歴史画の一つ、「皇女ソフィヤ」の仕事にとりかかった。この絵は1698年近衛兵が死刑となり、かれ女の召使達が拷問されている時のノヴォデヴィチェ修道院の僧坊に幽閉されているソフィヤを描いたもので、レーピンはこの修道院のすぐ傍に住みながら、ソフィアのモデルを探したりモスクワ博物館や、武器庫へ行って資料を研究したりした。
 1878年かれが永い間熱望しながらもためらっていた移動派に参加する日がついにやって来た。かれはこの年「補祭長」を移動派美術展に出品し、正式に組合の成員となった。「今アカデミーの私にたいする保護は断たれました…久しい前からの私の希望に従って、貴移動美術展覧会組合の、−私が既に久しく深い道徳的な結合の中にあった組合の成員諸氏の投要に自分をお任せします…」(1878.2.13、クラムスコイ宛)
 又この年レーピンはパリの全世界美術展に参加しているが、「補祭長」の出品はロシヤの僧侶の醜さを国外に暴露されるのを恐れる美術界の代表者達によって抑えられ、結局レーピンは「舟曳人夫」と「醜い眼の農夫」の二点を送った。
 1873年から75年の間、ロシヤの革命的インテリゲンチャを捲きこんだ「人民の中へ」の運動は、ツアーの政府による大衆的逮捕によって一つのピリオドを打ったが77年には宣伝家(プロパガンジスト)にたいする有名な193人の大裁判事件があり、78−9年には「土地と自由」派と「人民の意志」派の運動が激化し、運動はテロリストの行動によって導びかれて行った。
 78年にレーピンは、最初の「宣伝家の逮捕」の習作をモスクワで描いた。これは恐らく78年の初めに終った。「193人」の訴訟の直接の印象によってもくろまれたものであろう。農村の隠れ家を襲われた宣伝家が、家宅捜索を受けている場面である。レーピンは先ず、この題材に熱中した余り、アトリエから出ないで補足的な観察をやることもせず、仕事をやった。結果は、絵画的技術としては、非常に優れているとはいえ、主題的構成においてはレーピン自身に不満なものとなった。柱に縛られた宣伝家の回りに集まった村の衆は、余り数が多すぎ、官憲はたった一人右の端で煙草をくわえて文書を調べているだけで、内面的な緊張が足らず、余りに風俗画的だった。レーピンは構想を新にして、第二の「宣伝家の逮捕」(1878−89)にとりかかった。
 同じ時期にいくつかのちがった作品を手がけてゆくのが「宣伝家の逮捕」のやり方だ。かれは「皇女ソフィヤ」のために四人のモデルで習作した。そのうち三人は頭部の習作に、一人は全身の姿勢の習作に役立った。作品は1879年春の第七回移動美術展に出品した。
 当時の批評は、するどく否定するものから、ひどく賞めるもの迄色々だった。スターソフはその否定組みの一人で、レーピンには歴史画は本来向かないと考えたようだ。或批評家は、「これ迄の歴史画は我々の所では単なる本の挿絵以上のものでなかった…構想の力によっても表現によってもレーピンの「ソフィア」は…唯一の作品である。」と激賞した。
 しかしレーピンが描いた不屈の、鉄の意志をもつソフィアの悲劇的な形象も、スリコフの「モロゾワ大貴族婦人」(1881−87)が示したような人民大衆に結ばれた深い社会的背景の上に立っていないために、何かしら一人芝居のような印象を与えているのは否定できない。しかしこの致命的な欠陥にも拘らず、レーピンが「ソフィア」によって不屈な意志をもつたくましいロシヤ婦人の典型−国民的民族的な典型を描こうとした意図を認めねばならぬ。
 だが「ソフィア」の構想の動機は一体何に基いたのであろうか?当時ロシヤの社会は1876年6月に始まったバルカンのスラヴ人とトルコとの間の戦争と、77年4月に始った露土戦争のために沸きかえっていた。アレクサンドルU世と地主と資本家達には、戦争でひともうけしようとする欲望が隠されいてたが、ロシヤ人民はこの戦いをバルカンで抑圧されたスラヴ民族の解放のための戦いと見て、熱烈に支持した。それを積極的に鼓舞したのはアクサーコフを先頭とするスラヴ人協会だったが、大多数のインテリゲンチャ、作家、美術家もこの解放戦争を支持した。美術家ではヴェレシチャーギンが、先頭に立って従軍した。この様な国民的統一へ向かう社会的気分がモスクワに移り住んだレーピンに民族的歴史的な主題「ソフィヤ」に向かわせたと考えるのは十分根拠があるといえよう。
 レーピンは従軍したヴェレシチャーギンのことを頗るうらやみ、自分が従軍出来ないのを残念がった。だがレーピンにも、露土戦争に関係する優れた作品がいくつかある。
 1877年かれがまだチュグエフにいた頃、「還った」という非常に内容的に深い、しかも、愛すべき習作を創った。それは頭と手に包帯をして戦線から農家である自分の家に帰還した若者が、寝台に腰かけて、明るい笑顔で語るのを両親や友人達が感動を持って聞きいっている場面である。これは小さな習作だが、8人の人物の構成の自然さと単純さ、個々の人物の生き生きした心理描写の適確さ、室内に溢れる農民的な気分とにおい−生活と真実に満たされた驚くべき作品で、パリから帰って間もないチュグエフでのレーピンの仕事がどんなに値打ちがあるものかを語るものである。レーピンはこの作品をどういう分けか、1883年になって、初めて第11回移動展に大作「クールスク県の十字架行進」と一緒に出品し、小品ながらも一般の注目と賞賛の声を浴びた。現在はタリン芸術博物館にある。
 77年の秋チュグエフからモスクワに着いてからの最初の仕事の一つにやはりこの戦争に関係した習作がある。それは、−「戦場へ。エヌ・イ・ピロゴフの送別」で、有名な外科医=愛国者が、野戦病院の監督のための旅行に関するものだが、現在どこにこの作品があるか不明となっている。
 「過ぎし戦争の英雄」(1878)も帰還を扱ったもので、如何にも農民らしい、至極単純なツラ構えの、兵隊外套を着、袋を背負い、杖をついて立っている男の全身像を描いている。この作品にも、スラヴ人の解放のために戦った人民の側の線が反映している。
 1878年6月にベルリンで結ばれた講和条約はイギリスの圧迫によって「屈辱的」なものとなり、ツァーリ政府にたいする国民の反感が高まり、戦争の間下火になっていたナロードニキの運動がテロリズムの形で盛り上がってゆく。こんな情勢の中でレーピンは79年に「新兵の告別」を描いた。徴兵された兵隊が妻と別れる所を描いたものだが、狭い風俗画的な枠に閉じこめられ、感傷的な臭いもして、レーピン的創作の基本的な線から少しズレる作品となった。

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   十字架行進

 77年にチュグエフで得た「十字架行進」の構想は、78年に描かれた「樫の森の中の十字架行進」の下絵(エスキース)に迄成長した。それはずって後になって完成される「奇蹟によってあらわれた聖像」の絵の最初の企てとなった。この絵でレーピンは、かれの補祭長を行列の前面に大きく置いた。補祭長はデレデレと歩きながら、香炉を振り回し農民の群れを兇暴に見回している。
 80年の4月から8月迄レーピンは若いセローフと一緒にウクライナを旅行し、ザポロージェを訪ねて、作品「ザポロージェツィ」のための資料を集めると共に7月にはキエフ市のムラシコを訪ね、かれと一緒にその他の十字架行進を観察した。
 81年3月1日のアレクサンドルU世の暗殺事件の後の暗い反動の時代に入ってもレーピンの創作の焔は少しも衰えぬばかりか一層盛んに燃え上った。この年かれは有名な「ムソルグスキイの像」を移動展に出品し、6月には「十字架行進」のためにクールスク県へ旅立った。この年からこの作品の緊密な仕事が始った。
 81年の初めにレーピンは、モスクワからペテルブルグへ引越そうと決心した。かれはその意図をスターソフへ書き送った。「あゝ、生活、生活!それを忘れている美術家とは一体何か?畜生、私は全ゆるこのような死人の歴史の復活を、全ゆるこの様な民族的=人種誌学的な場面を投げ棄てよう。ペテルブルグへ引越して、前から思い付いている絵、−我々を全ゆる過ぎ去った事件よりももっと感動させる、回りの分り易い、もっとも生命に満ちた現実からのえを描きます。」
 翌82年の秋、レーピンはペテルブルグへ引越した。
 82年に小品「懺悔の拒否」が描かれた。「十字架行進」で農民の素朴な信仰と、僧侶の反動的な支配を摘発する主題を掘り下げながら、他方では聴悔僧の要求と衝突する独房の革命家の静かなしかし、断乎とした態度の表現を要求したのである。この小品は、二つの世界の内面的、心理的な対立を、光と影の対照の手段で深めている点で、あきらかにレンブラントの伝統の線に立っている。
 1883年39才のレーピンは、かれの生涯最大の力作であり傑作である「クールスク県の十字架行進」を完成させた。
 3年前、キエフでレーピンが観察した時のささやかな行列は、ここでは、なだらかな丘陵に挾まれた広い砂地を進んで来る祭りの群集の大行進となった。
 青空の下、暑い真昼の太陽の光を浴びて、まぎれもないロシヤの大地の上を進んで来る群集の運動の中に祭日をモメントとする18七〇−80年代の地方のロシヤの生活が、その全ゆる細部の真実な物質性と、もっとも複雑な緊張した社会的階級的人間性との統一の中に最大の広さをもって把握されている。
 画面の左奥から右端へ進む、行列の中ほど(全画面のほゞ中央)に金地に赤の法衣を着た補祭が汗ばんだ額に手をやり、のろのろと無関心に香炉を振り回して歩き、その後ろに庄屋の護衛の下に、着飾った地方の貴族夫人が誇らし気に、陽に映える聖像画を両手で捧げ、庄屋は「奇蹟を現わす」聖像画に触ろうと寄って来る百姓達を杖でおどかしている。前の方を子供をつれた商人らしい男や、カラの聖像龕を持った女が小刻みに歩き一番前を日本のおみこしに似た金の丸屋根をいただいて紅や緑のリボンをひらひらさせて、中にローソクをとぼした堤燈を富農達が担いで来る。(かれなどはそれを担ぐ資格があった。)
 これらの「資格」を備えた連中の行進と対照的なのは画面の左側を歩いて来る巡礼達であり、かれなどと「聖なる」行列とを隔てるために手を絡いで立っている中農もしくは貧農らしい男達である。
 馬に乗った警官と名主達の行列を挾んで進む二つの列は、群集の頭上に際立って、まるでツァーリのロシヤの象徴のようだ。憲兵の容赦のない鞭打ち迄描かれている。突然、左側の先頭に、松葉杖をついたセムシの少年が、制止の杖をくぐって跳び出す。…まるでかれ一人が、専制のクビキに締めつけられたロシヤの貧農の従順と沈滞とをブチ破ろうとするかのようだ。…おや、これは、「舟曳人夫」の「英雄的なカニン」を想わせるではないか。
 レーピンはこの絵の中で、人間の大きな固まりとその運動を、当時の農村の階級対立の中で、しかもその階級の複雑な分化の体系の中で、どんな社会学者の分析にも劣らぬ具体性を以って暴いた。ナロードニキは農民を一般化し、理想化して眺め、ついに農民の本当の姿を見ることが出来なかった。ところがレーピンは、美術家=リアリストの鋭い観察の眼で以って80年代の農村に於る何一つ不足のない富農と、打ちひしがれた貧農とへの農民の分解の過程を、絵画の形象をもって力強く語ったのである。
 純粋な絵画的造型の課題においても、レーピンはこの作品ですばらしく大きな前進を示した。かれのそれ迄の作品にあらわれたことのなかった大群集とその運動を大地との関係において見事に構図した。客観世界の物質性を質量感と運動感によって把えることに、これ迄にない大きな力を示した。雪解けの水あとと、荷馬車の輪だちの跡の残った乾いた大地が、たくましい筆で造型されている。かれがフランスで獲得した印象主義の外光と空気の課題は、この作品にもっとも多産的に反映し、物体の無味乾燥さと孤立性をはぎとりながら、全体として統一された視覚的形象を与えている。絵の奥の旗のあたりからはじまる、紅ばんだ、砂ぼこりの層は、空気の遠近感を生んでいる。青空の冷たさと、大地の色の暖さとに包まれた、群集の黒ずんだ、褐色及青灰色の基調の中に、補祭や貴族夫人などの着物や、旗やリボンや丸屋根の響きのいい強くて明るい色班が点綴されて、全体として微妙でしかも力強い色彩構成を与えている。
 しかしこれらのすばらしい造形的な成果も絵画の内容から離れた自己充足的な役割を演ずるものではなく、レーピンの人間的体験に基く、思想的生活的な現実主義の表現にことごとく役立てられている。

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   二度目の外遊−「コミューン戦士の壁にて」−

 1883年、「十字架行進」を完成させレーピンは、スターソフと一緒に、西ヨーロッパを旅行した。かれが訪ねたのは、ベルリン、ドレスデン、カッセル、アムステルダム、ハルレム、ハーグ、アントワープ、ブリュッセル、パリ、マドリッド、トレド、コルドヴァ、セヴィリア、グラナダ、バルセロナ、ゲヌア、ミラノ、ヴェネチア、ヴェロナ、ミュンヘンであった。旅行はレーピンが永い年月記憶していた程大きな印象に満たされたばかりでなく、いくつかの秀れた作品の創作をも伴った。かれなどは4月26日に出発した。
 ドレスデンで描いた「スターソフ像」はこの旅行中に創った作品のうちの最初の貴重なものとなった。かれはそれを二日間で描いた。ポーズは至極単純に観者の方を見、胸から上だけだった。スターソフはこれが非常に気に入った。(かれは当時六〇才になっていた)。二人のおよそ40年に渡るつき合いの間にレーピンによって描かれた全部で7つの油絵肖像のうちでスターソフにはこの有名な「ドレスデンのスターソフ」が一番気に入っていた。レーピンへの手紙の中で未来のロシヤ美術の国民博物館について語りながら、スターソフは書いた。「私は自分の肖像画(あなたの手になる)をそこへ送ろう。それは生命をもって息づき、火となって燃え上っているではないか。」
 スターソフが死んで友人達が弔辞を述べに集まった時、シャリャーピンはスターソフの「ドレスデン」の肖像画に近づいてそれに接吻した。
 オランダへ行ってアムステルダムの美術館でレンブラントの有名な大作「夜警」の前でスターソフは畏敬の念で激賞したが、レーピンは余り誉めなかったので、二人の間に論争が起こった。スターソフによるとそれは「程ん度罵り合わんばかり」のものとなり、二人の旅行にかぶさった「最初の暗い雲」となった。
 レーピンは友人への手紙で何故アムステルダムのレンブラントが気に入らなかったかについて説明している。「(オランダの)レンブラントは、気に入らなかった、私はもっと期待していたのだ、我国のエルミタージュ美術館ではかれはもっといい。」又かれはトレチャコフに書いている。「我国のレンブラントはもっといい原型です。けれどかれのあれ程有名な大作は、私の気に入りませんでした。その中には既に強制と、観る人を効果で驚かそうとする志向が見えます。あのレンブラントがそんなことを心配しなければならないとは…。」(トレチャコフ宛)
 ハルレムとハーグではフランツ・ハルスがレーピンに大きな印象を与えた。かれはポレーノフに書いた。「オランダの美術では誰よりもフランツ・ハルスが私を驚かした、ハルレムやその他かれの作品がある場所で。非色彩性と所々粗略さがあるにも係らず、自由な生き生きした美術家だ…それは生活と表現のこのような魅力だ!」又トレチャコフに書いた。「かれ(フランツ・ハルス)の才能ある写生に出会う至る所で、私は眼を引き離すことが出来なかった。どんなに生活があることか!」後になってレーピンの思い出は当時フランツ・ハルスにたいしてスターソフと意見が食い違ったことを認めている。
 5月8日に二人パリに着いた。
 1873年10年前にアカデミーの給費生としてパリで暮らした時もレーピンは、パリとパリ人が非常に好きだった。今又パリに着いてそれが、「一層快活に生き生きと美しくなった」のを見、「街の生活の静まることのない鈍い音」を感動を以って聞いた。スターソフも前からパリを崇拝していた。「かれ(スターソフ)は只共和国だけを信じていた。只共和主義者達の所でのみ、権力の気儘から解放された民衆の要求から自然に流れ出る自由な美術が可能であることを、そして、この権力は、君主制度の絶対主義と、尊僧主義の荘厳を支える美術の傾向のみ奨励していることを信じていた。…」(レーピン「思い出」)
 当時パリには、ツアーリズムの迫害を逃れて、貧しいけれど始終人が訪ねて来た広い下宿に革命的政論家ラブロフが住んでいた。スターソフとレーピンはラブロフの住居を訪ね、そこで革命的な出版物をもらった。ラブロフは当時人民の意志派の外国機関誌の編集をやっていた。二人はパリで開かれた全ゆる社会主義者の集会を逃さなかった。かれなどは革命家、ア・エ・オルロフにも会い、又夫人の集会に出て、若くして有能な夫人革命家ユベルティン・オークレールの講演に夢中になった。レーピンはこの集会でオークレール其他を素描した。この素描は現在どこにあるかあきらかでない。
 5月15日はちょうどコミューン戦士の銃殺された壁で毎年行われる記念集会に当っていて、レーピンはこの日の朝から写生帖を持ってペール=ダシェーズ墓場へ行き、夕方の6時迄そこで過ごした。
 集まる人々は、コミューン革命を経験した人や、殺された戦士の父母や兄弟や子供たちだった。人々は別々の集団をなして、それぞれの集団は真赤な大きな花束と赤旗を持って続々つめかけて来た。高い石の壁に大きな赤旗が飾られ、花束が次々と掛けられていった。
 レーピンは時を移さずこの光景を写生していった。群集がかれを押しのけて一時描けなくなったが、2、3の労働者が、かれの前に適当な空間をあけてやった。隣りの人達はかれに気がつき、ロシヤ人であることを知った時、兄弟の挨拶を送った。その間に弁士が次々に大声で演説をやった。青服を着た労働者に混って、白いラック塗りのシルクハットに御者仕立ての白いフロックコートを着た馭者もいた。かれもまた顔を真赤にして熱情的な演説をぶった。
 次の日レーピンはホテルで、この素描から小さな油絵(36×59p)でコンミューン記念のデモを朝早くから描きはじめ、3日間で筆を終えた。それはレーピンの秀れた作品の一つとなると同時にこの主題に捧げられた、殆ど世界で唯一つの油絵作品となった。
 しかしここで、レーピンとスターソフが、「共和国のフランス」に驚喜したことの中にかれなどの政治的見解の誤謬が横たわっていることに注意せねばならない。コミューン敗北後の第三共和国のフランスは、ロシヤの諷刺作家サリティコフ・シチェドリンが言ったように最早「共和主義者のいない共和国」であり、パリは最早「世界の炬火であることを止めた」のであり、「頭にも背後にも側面にも満腹したブルジョアのいる」「彫刻のように丸裸の女達と、淫猥文学と、沢山の食料と宝石と、無数の特別室−そこでは大食と姦通が君臨している」フランスであった。ツアーリズムの反人民的な本質を激しい憎悪でもって理解していたレーピンとスターソフが、パリにおける社会主義者の会合に好んで出席し、またはコンミューンの壁の嵐のような革命的集会を見、そして描くことが出来ても、第三共和国のニセの民主主義の本質を見ることが出来ずに本物と思い込んでこれに魅惑されたのである。
 マドリッドではレーピンにはスペイン人の「善良さ、素朴さ、親切さ」に非常に感動した。しかしもっとレーピンを驚ろかしたのは、スペインの古美術中でもヴェラスケスの絵画だった。
 マドリッドのプラド美術館には、最良のヴェラスケスの作品が凡そ五十も並んで、圧倒的な感銘をレーピンに与えた。かれはマドリッドに着いてすぐにプラドを訪ね、その次の日にはもうヴェラスケスの「道化」の模写にとりかかった。レーピンらしい素早さと正確さを以って、「道化」を二日で、「メニッパ」の頭と上半身を一日で模写した。同じ美術館で、模写の仕事をやっていた他の若い画家達は筆を止めて、レーピンの後ろに集まり、驚きを以って見ていた。
 レーピンはヴェラスケスにすっかり夢中になってしまった。世界中にヴェラスケス以上に高い画家はレンブラントを勘定に入れてもいない!と考えるようになった。そこで又ヴェラスケスを巡ってスターソフと議論が始った。
 スターソフの考えを要約するとこうだ。ヴェラスケスは偉大な才能だがかれには想像が全く欠けていて、詩的なもの、創造的なものに達したことがない。只、肖像画はいい、だが、誰の肖像か?大部分は王や王子や、側近や、王の道化だけではないか!これがかれの致命的な限界性であり、奴隷性である…そしてスターソフはその結論をレーピンに向けてゆくのだ。「レーピンがこんなにも高くヴェラスケスを置くことが出来るのは、かれ自身が詩的な創造の全ゆる才能を失っているからだ…かれは現実主義者だ、卓越したリアリストだ−そしてそれだけだ。全ての若々しさ、壮大さ、優しいものと美しいもの−それはかれの素描と筆には全く近づき難いものである。
 スターソフの美術批評が、18六〇−七〇年代のロシヤ美術の発展のために果した進歩的、指導的な役割は非常に大きなものだった。然しレーピンとのこの旅行の間に起こった論争、ことにヴェラスケスの評価に表われたかれの頑固な偏向、一つの極端な−ピーサレフ的な狭い政治的功利主義は、ついに成熟したレーピンの幅広い現実主義的見解と実践とに衝突しないわけにはいかなくなった。
 だがもうこれ以上この問題に立ち入ることも其後の二人の旅行の成りゆきについて述べることも、本書の紙数が許さないが、ただ次のことだけ付け加えて置きたい。旅行が終りに近くなる程、二人の争論が、殆ど毎日のようにほんの日常のつまらないことからも始ったが、結局レーピンは博学多識の老学者の頑固さに「観念的」に同化される他なかった。だが旅行の後で間もなくスターソフは少なくともヴェラスケスにたいする正しい現実主義的な評価を承認するようになり、レーピンは其後の外遊を通じて、「レンブラントとヴェラスケス−それは私の神様だ」という信条を深めていった。
 スターソフとレーピンはイタリー旅行を早々に切り上げて1883年6月5日にペテルブルグに帰った。

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   思いがけなく

 外遊から帰ったレーピンは、その前から着手していた「思いがけなく」(1883−4)という作品にとりかかった。
 既に1882年の秋、モスクワからペテルブルグに移ると、レーピンは流刑から家に帰った婦人革命家を表現する仕事にとりかかった。83年の初めには、「帰る婦人革命家」の素描を作り、これを土台として、今はトレチャコフ美術館のレーピンの間を飾っている秀れた油絵小品を描いた。ところが七〇年代の終りころから、「火夫」や「囚人」や、「リトフ城」を描いて非常な大衆的名声を博していたヤロシェンコが83年のペテルブルグの移動展に「講習所女学生」(クルシーツカ)という作品を出して、又々非常な評判となった。
 「クルシーツカ」というのはその数年前初めて首都ペテルブルグで開設された婦人医学講習と高など婦人講座の女学生達を呼んだ名前で、女学生ばかりでなく、一般に進歩的な婦人活動家のこともクルシーツカと呼んでいた。
 この頃、進歩的婦人に関する主題は、美術においても極めて先駆的なものとなっていた。「193人」の訴訟事件に40名の婦人革命家が連座していた事実が、大きな感銘を当時の美術家達に与えたことは、否定出来ないであろう。今は所在不明だが、80年代のレーピンの作品に「死刑の前の婦人革命家」と題された、独房の燭台のそばに腰かけた婦人革命家を描いたものがあるが、この作品の構想はあきらかに「193人」の中の婦人革命家から生まれたものであろう。82年の「懺悔の拒否」と共に、レンブラント的明暗法によるレーピンの「革命家もの」の一つである。又81年にレーピンは、左手に標本図を持ち、右手を死体の心臓部に入れているクルシーツカを描いた「標本製作室にて」を描いている。
 ところでヤローシェンコの「クルシーツカ」が余りにも評判となってしまったのでレーピンは自分の「思いがけなく」の主人公になる筈だった婦人革命家を男に変えてしまった。
 「思いがけなく」は流刑地から帰った革命家が自分の妻や、子供達の前に突然あらわれた激動的な場面である。そこでは瞬間の心理が非常な力と鋭さで伝えられている。ツと立ち上がった妻の左手は極めて表現的で、次の瞬間の動作−夫をその手で固く抱くであろう動きを予想させる。一番年下の女の子は驚きに眼を見開き、上の男の子は驚喜して声を上げる、グランド・ピアノの側の一番上の娘の顔は割合冷静だ。恐らくこの家に近頃になって来たと思われる女中が、ドアを開けたまま、この「見なれぬ客」の後ろ姿を怒ったような顔付きで見ており、その向うからは、近所のおばさんが懐し気にのぞいている。室内は如何にも小ブルジョアらしい質素な調度品で飾られている。
 そこには一定の時間の経過と、事態の階級的特質が、個々の登場人物の心理的な関係の中で、極めて鮮かに浮彫にされている。ことにこの絵の中心となる革命家の画像は一番重要である。かれの姿は長い流刑による、疲労と苦悩と無力の印象に満たされている。あの「懺悔の拒否」の独居囚の力と確固さとは最早ここでは見られない。ジェラーヴレフによれば、「この画像(思いがけなく)は興味ある物語を持っている。1884年にこの絵が第12回移動展にあらわれた時に、スターソフはそれについて次のように書いた。「主役人物を見て見たまえ、かれの顔と全ての形象の中にはエネルギーと、どんな不幸によっても破り難い力とが表現されている」と。然し、1887年にレーピンが新しく流刑囚の顔を描き直した時は、それは自分の以前の表現を失った。トレチャコフはレーピンのやり直しにすこぶる不満だった。そして画家は一年たって三度その顔を描き変えた。」(ジュラーヴレフ「レーピンの創作」)。レーピンにこの描きかえを促したものは何だろうか?それは、1884年のナロードニキ運動の状態と、80年代のインテリゲンチャの陥った絶望的気分との歴史的な反映ではなかったか?
 「思いがけなく」はその絵画的技術によって、レーピンのもっとも成熟したもっとも完成された作品に属する。物体を包む柔らかい光と空気が部屋を満たしている。外光の課題はその前に描かれたかれのどの作品よりももっとデリケートな解決を見出している。恐らくそこには、スペインで発見したばかりのヴェラスケスの現実主義的技術が正しく汲みとられていると思われる。

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   血まみれのツァーリ

 1885年の移動展にレーピンの「イヴァン雷帝とその息子イヴァン」があらわれた時の同時代人の受けた感銘は、ひどく強烈なものだった。それは1581年11月16日の息子を殺した血醒れのイヴァン雷帝を描いたものだった。
 この作品の最初の思いつきについてレーピンは次のように語っている。「1881年の何日だったか、或晩、私はリムスキイ・コルサコフの新しい作品「復讐」を聴いた。それは私に避け難い印象を引き起こした。その音響は私を占領した、そして私は考えた、この音楽の作用によって私に生まれた気分を絵の中に形象化することは出来ないものかと。私は皇帝イヴァンのことを思い出した。それは1881年のことだった。3月1日の血まみれの事件は、全ての人を興奮させた。こんな血まみれの連続がその年を通じて起こった…。」
 レーピンがスターソフと西欧を旅行した時も、西欧の大家の作品の中で、血を描いたものに自然と注意が向った。
 1883年に友人の画家ミャソエードフが顔に表情を作って、イヴァン雷帝のためのモデルとなった。
 この作品はロシヤの独裁政治にたいするレーピンの最後の恐るべき摘発となった。
 ポベドノースツェフはこの絵を見てすぐにその「危険性」を感じた。かれはアレクサンドルV世に書いた。「…今日私はその絵(イヴァン雷帝)を見てまともに見つめることが出来ませんでした…近頃、驚くべき美術です。最小の理想もなく、ただ裸の現実主義の感情と、批評と暴露の志向とがあるばかりです。これまでこのレーピンという画家の絵はこの傾向で際立っており、いやらしいものでした。あらゆる現実性の中で、特にこの様なモメントを物語りながら、どんな目論見に身を入れているかを理解するのが困難であります。そしてこの「イヴァン雷帝」は何のためでしょう?或種の志向を除いては他の動機を取りそろえることがお出来にならないでしょう。」
 この絵は当時のツァーリズムの反動にたいして恐ろしい警鐘を打ち鳴した。この作品の形式に於る現実主義の強烈さ、すさまじさは、世界美術史にその例を見ない程のものであると同時に、この作品は当時の最大のロシヤ的、民族的な歴史画の一つとなった。

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   「宣伝家の逮捕」の探求

 「イヴァン雷帝」の後の「イヴァン雷帝とその息子イヴァン」は、878年に着手した、2番目の「宣伝家の逮捕」の仕事を続けていた。それは最初の習作のようには急いでやらず、自分の構想と観察が成熟するに従って筆を加えていった。
 79年には宣伝家のための油絵習作をやっている。それは一枚の画布の上に同じ男のモデルの立像を二つ並べて描いたもので、このモデルを務めたのは、当時24才になる、大学出の青年、ヴンツェリだった。かれがどの程度、この時代の革命的実践に参加したかはあきらかではないが、そのポーズは確かに「七〇年代人」を思わせるものがある。最後の仕上げでは、この習作の顔もポーズも変っている。この習作は現在数える程しか残っていないこの絵の習作や、素描の中でもっとも重要なものである。
 その後の10年間にレーピンは尚も宣伝家のためのモデル探求を続けている。
 主題は同じであっても、第二の「逮捕」の変形(ヴァリアント)は最初のものとすっかり趣が変ってしまった。初めのには20人以上の人間が室内につめかけていたが、官憲はたった一人隅の方にいた。そのために一体誰が宣伝家を捕えて、柱に縛りつけたのかすぐには分らなかった。後のものでは、詰めかけた農民はずっと少くなり、官憲の数が増えた。ツァーリズムの下僕達−警察官とその協力者達の描写は、他の全ゆるロシヤ絵画の中にも見られぬ程素晴しいものだ。右すみの椅子に腰かけて、旅行カバンから引き出した文書を熱心に読んでいる郡警察副署長、その椅子の背に左手の二本の伸した指を立てて、体を屈げて副所長の耳に何か囁いているヘラヘラした私腹の書記、−前景に描かれたこの二人の組み合せは特に素晴らしい。絵の中心では、村巡査に協力して、革命家の後ろから押えているのは、百人長で左手の窓の側には立会人達の影絵(シルエット)が浮んでいる。その中の一人、−一番左手の暗がりの中に見えるのは、革命家を泊めていたこの家の主人−富農(クラーク)である。宣伝家の味方らしい者は、右手の仕切壁の向うで、百姓前かけをして立ってこちらをのぞいている若い女だけで、左の窓の側近く杖をついて顔をこちらへ向けている老人にやゝ温かい表情がある。
 この絵の内容が持つもっとも重要な意義は、この作品が、農民の社会的本質とその中に置かれたナロードニキ革命家の位置を絵画の形象で見事に暴いていることにある。ナロードニキは農民を革命に立ち上らせようとして大衆の中へ進んではいつた。しかしかれなどは農民の本質も、大衆の具体的な生活もその気分も本当に理解していなかった。当然かれなどは大衆から浮き上り、つまづいてしまった。
 レーピンはナロードニキの反専制主義の闘争を支持した。事実当時においては、かれなどが反ツァーリズムの立場に立った限り、かれなどは革命家であった。ところがレーピンは、その「宣伝家の逮捕」によって、農民の現実の生活にたいする理解において、ナロードニキの主観主義的限界をはるかに越えていることを示したのである。
 この作品(宣伝家の逮捕)の創作の過程で、スターソフはそれが「現代性の頁」であることを強調しながら、全ゆる助言を惜しまなかった。この作品が未だ完成しないうちに、スターソフはそれが「懺悔の拒否」と「宣伝家の逮捕」と並んで現在と未来にかけて持ち通すであろう歴史的な意義を予言した。そして1889年12月12日にレーピンに書いた。「見たまえ、私がこれら三つの君の絵に偉大な歴史的な意義を与えたことが如何に正しかったか、そして今も尚正しいかを。「思いがけなく」という言葉の外にはその絵にはどんな説明も付けられていないが、皆な一ぺんで理解して、あるものは喜び、或者は憎んだ!外の絵も正にそのとおりだ、「懺悔」は、何の説明も無しにすぐに皆なは如何に、何が、何処で、何時を理解した。いつか(私は希う)「逮捕」も又きっとそうなるだろう。如何な説明もないのに、一度にすっかり分るだろう。」スターソフは続ける。「あなたは『逮捕』!それは新しい時代の、真に我々の歴史画である。それは例えばスリコフの「モロゾワ」その他の様な、古い時代の真の歴史画に値している。むしろ貴方の功績はもっと大きい、貴方は実際の自然から現代の風貌を与えているのであって、想像によってスリコフに暗示されたものだけに留っていないのだ。」そして、スターソフはレーピンの三つの作品への讃辞で手紙を終っている。「これこそ−歴史である。これこそ−現代性である、これこそ−真の現在の美術である。これらにたいして貴方はやがて特別に高く認められるであろう」。
 レーピンはこの作品に1889年の日付を書き入れた、−完成したと思ったのだろう、しかしその後で又新しくモデルから主人公の「革命家」を描いたり、その他の部分を描き直している。
 レーピンの創作活動の20周年に際会して、1891年11月26日ペテルブルグでレーピンの最初の個人展が開かれた。レーピンは「逮捕」のほか、「ザポローシツィ」など凡そ300点の自分の作品を集めた。
 政府の検閲を顧慮した結果、「宣伝家の逮捕」は出品目録には印刷されなかったが、会場にはあらわれた。検閲を通り抜けようとして主催者達は、アレクサンドルV世が開会の前の日に調べにやって来た時、かれにこの作品を示した。アレクサンドルV世はすっかり吟味して歩き、「逮捕」がかれの前に引き出された時、それをよく見て、そして完成を賞賛した。−「仮令へかれには(アレクサンドルV世)、何故私がそれをこんなに細かに熱心に描いたのか、奇妙に見えたにしても」(レーピン1892年1月の手紙)ともかく誉めない訳にはいかなかったのである。革命的作品の検閲に皇帝が一役買っていたことは、日本の天皇制の場合とかなり違った趣を感ずるが、ともかくも、レーピン展の主催者が何とかしてこの作品を展示する可能性を得ようとして、アレクサンドルV世の暗愚な性質を逆用しようと試みたことは全くあきらかだ。
 「宣伝家の逮捕」は目録にこそ名前が出なかったが、作品は会場で大きな注意を集めた。ペテルブルグの右翼系新聞でさえも、この絵を認めた。或新聞の批評は、この作品が、開会の当日だけ展示され、後は何故か撤去されたことそしてそれが卓越した極めて鋭く描かれた作品であることを述べている。何故1日だけで外したのか、又後でこの展覧会に並ベることになったかどうかは今はあきらかではない。
 だがモスクワでは、ペテルブルグの後で、ずっと作品を少くして歴史博物館でレーピン展を開いた時は、「逮捕」が並ベられて広に反響を呼んだ。この個展は1892年2月12日に開かれた。
 レーピンはその模ようについてモスクワからスターソフ宛に書いている。「私の展覧会はここで大変な活気を与えています。沢山の観衆がやって来ます。大広間は明るく高く、天気は素晴らしく快晴です。沢山の学生や、女学生達が、そして職人さえもが二つの大広間に群がり、広い階段にこぼれています。「村の囚われ人」が立っています。そしてこの絵から、私の監督ヴァリシーの表現によれば『逃がれられない』のです」。
 これより先、ペテルブルグのレーピン展が開かれた時、モスクワからトレチャコフが観に来て、「逮捕」やその他の作品を買った。この作品が、ペテルブルグで有名となり、又もうトレチャコフの所有となったにも拘らず、「ザポローシツィ」はこれをもっと良くしようという希望を捨てなかった。ペテルブルグ展が1月2日に終った時、レーピンはアトリエで、画中の一人物を削り落として、これを全く新しい人物に描き変えた。以前の人物は、画面の奥の壁に寄りかかって、坐りながら眠っている老人だったが、今度は、「居酒屋のおやじか、または職工」(レーピンの説明による)が、両手の拳骨を膝について、革命家の方をにらんでいる。この薄気味の悪い男は、農村の支配権力に協力する、熱心な観察者の居酒屋かもしれないし、或は屡々「職工」か「職人」の風をして、農村のプロパガンヂストの後をつけた、政治警察のスパイかも知れない。多分後者の方らしい。ともかく裏切者の富農(これも1891年に描き込まれた)に更にこの男が加ったことは、全体として作品の内容を一層充実させる結果となった。

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   笑うカザック

 レーピンの「ザポロージュ・カザック達(ザポローシッイ)」程、観衆と批評家ばかりでなくレーピン自身によっても高く評価された作品は他に余りない。
 「ザポロージュ・カザック達」がかれの作品のうちでもっとも大衆的なものの一つであることはレーピンも知っていた。それは数多くの複製となってロシヤの国内ばかりでなく、国外にも頒布され、又かれの生存中にも何回となく複写された。
 この絵の創作の歴史はざっとこうだ。1878年にレーピンはこの絵の物語の内容−1676年にザポローシェのカザック達が、トルコの皇帝(サルタン)に送ったおかしな、からかった返事の内容を聞き知って最初の鉛筆の下絵を素描した。1880年の春には15才のセローフを伴ってザポロージェを旅行して、大作のための資料を集め、昔のカザックのタイプを民衆の中に探求した。1880年の10月にトルストイがモスクワのレーピンのアトリエを訪ねた時、かれが仕事していた重要な作品の一つが、「ザポローシツィ」だった。それから12年間立って、1891年にこれを完成させたのである。
 この12年間にかれは多くの他の大作、−「夕べの集会」「クールスク県の十字架行進」「思いがけなく」「イヴァン雷帝」「アレクサンドルV世村の古老に語る」「ニコライ・ミルスキイ三人の無実の罪人を死から救う」(1888)この作品の二つの繰り返し、(1890)など、−の方が先に出来た。これは沢山の歴史的、考古学的資料を必要としたに拘らず、レーピンに必要な助力者は初めのうちは見つからなかったからだ。かれのいつもの有力な助言者スターソフも、ザポロージェの歴史については余り知らなかった上にこの仕事に余り高い評価を与えなかった。
 ただ1887年頃になってレーピンは、とくにザポロージェ・カザックの歴史の研究者、エヴァルニツキー教授(1857−1940)と近付きとなった。かれはかねてからウクライナ出身の美術家達にウクライナ人民の生活を描くことを進め、特に郷土の歴史に注意を向けるよう主張していた。「ニコライ・ミルスキイ三人の無実の罪人を死から救う」はかれの教えを乞いかれから非常に多くの貴重な示唆を得た。かれ自身、中央の人物、手紙を書いている書記のモデルとなったし、レーピンのために同時代のウクライナ人の間から生きたモデルを選び出した。かれの古代ウクライナのこまごました蒐集品が大作の中に再現されていった。例えば書記の前のテーブルの上に置かれた柄のついたガラスビンもその一つである。
 88年と90年には南ロシヤを旅行し、その土地と住民から大量の習作と素描をつくった。これらは皆大作の中に生かされていった。
 しかし全てのモデル習作が、そのまゝ大画布にひき移されたのではなかった。全体の構想に従ってそれらは改造された。全く完成したと思われた部分が、突如としてぶち壊され、線と空間の単純化が表われ、大きな改造に到達する。そしてついに「今はこの作品に一筆でも付け加えたり取り去ったりする必要はないと深く信じている」(1891年10月1日スボーリン宛)
 だが一体何がこの古いザポロージェの主題にレーピンを導いたのか?勿論、主要なザポロージェ・カザックの一人−カザック軍営の隊長イヴァン・シルコとかれの班長達の名によってマホメッドW世へ送る無礼極まる手紙を綴っているカザック人の群だ。−「人間の笑いの交響楽(シンフォニイ)」を伝えようとした画家にとっては真に有難い題材である。しかし、この絵の主題を単に「笑いの生理の暴露」や「生理学的分析の試み」として片付けることは間違いだ。
 この年々のレーピンが、記念碑的な大作品を偶然の動機によって思いついたり、純粋に自然主義的な課題を立てたりしたことは、あきらかに一度もない。すでにザポロージェの歴史家エヴァルニツキーはその最初の著作で自由なザポロージェ・カザックは16世紀から18世紀の間の民衆運動−トルコと貴族(パン)のポーランドの襲撃から、ウクライナの宗教的、民族的及び社会的経済的利害を守るための運動の、力強い支柱であったことをあきらかにしている。ロシヤ史上に有名なボグダン・フメルニツキイを首領とするカザック民兵がウクライナの圧迫者ポーランドの政府軍をさんざんに破ったのは1648年のことだった。ウクライナに生まれ、勇敢なフメルニツキイーやシルコ熨斗孫たち野中で育ったレーピンが、トルコ皇帝に反撃の回答を綴るザポロージェの題材を選んだのは、偶然な思いつきでも純粋な自然主義的、生理学的興味からでもなく、人民の「騎士」達をほめたたえようとする、自由を愛するレーピンの魂の衝動であったのだ。
 だがスターソフを初め、レーピンに親しい人達でさえ、初めは「ザポローシツィ」をレーピンの第一級の作品とは考えなかった。この作品では、あきらかに第一番の場所を、精神でなく、肉体が占めている(つまり、自然主義だというのだ)と非難した。
 1889年初めアトリエでこの作品(ザポローシツィ)を見たレスコフはこれを余り高い思想性を持たぬものと考えた。インテリゲンチャの無思想性をなげいてレスコフはレーピンに書いた。「私にとっても、トルストイにとっても、貴方にとっても、−それ(思想)が核心です。けれど皆なにとって今はイデーは存在しません…」そして遠回しな言い方で「ザポローシツィ」は気に入ったが、「聖ニコライ・ミルスキイ三人の無実の罪人を死から救う」の方が好きなこと、もう一度こんな作品を描いてもらいたいと述べた。美術の思想性についてのこんな表面的で然も感傷的な見かたに対し、レーピンは急ぐ返事を送って、美術における思想的根源にたいする自分の態度を述べたばかりでなく、どんな思想を「ザポローシツィ」の基礎に置いたかをあきらかにした。
 「貴方に告白しなければならないが、私が、「ザポローシツィ」の中でもイデーを持っているのをご存知ですか?人民の歴史においても、又美術の記念碑においても、特に都市や建築の構成に置いて、いつも私を引き付けたのは、市民や団体の普遍的な生活が表われるモメントでした。より多く共和主義体制においてであることは勿論です。それらの時代から遺っている様々な些事の中に、精神とエネルギーの非常な高まりが感じられます。全ては天才的に、精力的になされ、共通の広い市民的な意義を持っているのです。どれ程多くの資料をイタリーは与えていることか!そして今でもその伝統は力強く又生命力を持っています。…そして我々のザポロージェは、その自由、その騎士精神の高まりによって、私を魅惑するのです。ロシヤ人民の向こう見ずの力は、人生の幸福を捨てて、正教の信仰の最上の諸原則と人間の個性との防衛の上に同権の兄弟関係を打ち立てた、今では其は古ぼけた言葉に思われる、だが強大な回教徒によって幾千のスラブ人が奴隷として連れ去られた時、宗教、名誉、及び自由が辱かしめられた時、−それは恐ろしく生命に満ちたイデーだったのです。そしてこの少数の果敢な人々こそは、勿論その時代のもっとも天賦ある人々の少数ですが、その理性的精神のおかげで(かれなどは其時代のインテリゲンチャです、かれなどは大部分教育を受けていた)全ヨーロッパを東方の掠奪者から守るだけでなく、かれらの当時強大だった文明をおどかして、かれなどの東方の傲慢を心から笑う程に強化しているのです。」(傍点・大月)
 1891年の末、作品が展覧会に並べられた時、レーピンは再び鋭い非難を聞いた。トルストイの教義の説教家画家ゲーは自分の思想的立場から作品を激しく非難した。…(レーピンはこの断定に憤激し、スターソフ宛の手紙の中でキリスト教徒一般にたいする、それと一緒にトルストイ主義にたいする決定的な返答を与えたのである。
 そうです、貴方はゲーやまして、トルストイなどの説教に比べられません−正にかれなどは奴隷性を説教しているではありませんか。それは悪への無抵抗です。そうです、−一般にキリスト教は−奴隷主義です。それは人間における全ての最良、最善、最高のものの従順な自殺です。−それは去勢です。」
 ゲーが笑うザポロージェ人達をレストラン・パルキンの放蕩者に敢えて比べたことに、レーピンはひどく憤慨した。同じ手紙に書いている。「かれは(ゲー)ザポロージェ人を理解も信頼もしていない、かれはロシヤ史をすっかり忘れたか、或は何にも知らないのです。あの騎士的な人民の教団が創設される迄には、幾万の我々の兄弟が奴隷に追いやられ、タルペゾンやスタムブールその他のトルコの都市の市場に家畜のように売られていたことをかれは忘れたのです。このようにして事はずっと永びきました、スラヴ人や、ドイツ人にたいする公定値段さえあったのです。(ドイツ人の方が高かった)そして基督教徒のこの押し込められた、灰色の、おきまりの従順な、暗い環境から、−剛毅と英雄主義と道徳的な力に満ちた大胆な奴など、英雄達が抜きん出ているのです。かれなどはトルコ人に言いました。「沢山だ、我々は今後もドネープルの境界に根付いている。多分我々の死骸を越えて我々の兄弟姉妹を得ようとなさるがいいでしょうよ」…ところで何故に我々はこれらの英雄達を拒んでかれなどに泥を投げつけ、そしてかれなどをパルキンの放蕩ものと比べるのか!おお、ほらふきめ」
 激烈な調子で綴られたこの手紙の中に鳴り響く真の愛国精神と平和思想、そして、「隣人と弱い人々の擁護、自分の祖国の全ゆる貴重な利害、−信仰、自由、平安の擁護のために自分を運命付けた、力強い、健康な、自由な人々」(レーピン)の古いザポロージェにたいする深い民族的愛情は我々にとっても全く理解出来る。しかし同時にこれなどの言葉の中に歴史的事実の見落としがあることも見逃せない。ザポロージェ・コザックの初めの頃は、モスクワのロマノフ王朝の搾取と、ポーランドの圧迫にたいする有力な革命的勢力であったのだが、レーピンが題材にしたシスコの時代には既に、ロマノフ王朝に抱き込まれたカザック隊長の仲間の間に小貴族が発生していた。ザポロージェの指揮者達は自由な草原を占有しはじめ、それを脱走農奴で植民し、様々な年貢でかれなどを自分に縛りつけていた。これらの事実についてレーピンは一言も触れていない。これはレーピン見解の中に秘む一つの自由主義的限界を示すものと思われるが、この限界性に係らず、「自由なザポロージェの政治的本質についてのレーピンの是認の基本的な意義は疑いもなく正しい」(ジリベルシテイン)
 「トルコ皇帝に手紙を綴るザポロージェ・カザック達」がレーピンの最初の個展(1891)にあらわれた時、新聞に雑誌に讃美の文が雲のようにあらわれたのはいう迄もない。かってはこの作品に否定的な態度を持っていたスターソフもその見解を改めた。展覧会に際して讃辞と共にあらわれた非難にたいしてスターソフはレーピン擁護の筆をとった。「『ザポロージェ』はロシヤ美術派の偉大な作品である」又レーピン宛の手紙に書いた。「ロシヤ(絵画)派は何かに値している…それは多くの場合ロシヤ文学の最良の作品に少しも劣っていません…「ザポローシツィ」は「タラス・ブリーバ」の最良の歴史的な頁に…一分のひけもとりません。」本当にゴーゴリの小説「タラス・ブーリバ」と、レーピンの油絵「ザポロージェ・カザック」は共に今に至る迄、歴史的ウクライナの描写における最高峰となっている。

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   白鳥のうた

 レーピンの一生を火山にたとえるなら、七〇年代の最初の爆発で、火山レーピンの存在をあきらかにし、80年代は目もくらむ様な噴火の連続であった。90年代初頭の「ザポローシツィ」「宣伝家の逮捕」その他は、「ザポローシツィ」火山の高さと大きさを決定した最大の歴史的大噴火であった。この噴煙が次第に納まると共に、レーピンの威容がはっきりと輪郭づけられた。と同時にそれは休火山への兆候でもあった。勿論人間の一生を単に自然現象にだけ例えるのは完全とは言えないであろう。政治的反動の80年代を同時代の美術家の誰よりも勇敢に戦って来たレーピンが、完全な反動の勝利と、モダニズム美術の台頭の90年代に戦いの筆を納めるわけに行かなくなったことの、社会的時代的要因を忘れることは出来ない。しかし、エス・ヴェ・イヴァノフのように、人民主義(ナロードニチェストヴォ)の限界を越えて、労働者運動の側に接近した画家もあることや、老年に至る迄若さを失わない芸術家の存在が史上にまれでないことを考えると、人間としてのレーピンの主体的な諸条件の特性を考察することの重要さを否定は出来ない。
 80年代の末、レーピンの創作が絶頂に達しつつあった頃、かれの妻、ヴェーラ・アレクセーエヴナとの間に不和が起った。それは一つにはヴェーラ・アレクセーエヴナが19才のヴェ・ヴェ・セローフ(有名な画家の息子)に夢中になった背もあった。1887年の秋にレーピンは妻と別居した。ヴェーラは10才になる男の子ユリーと7才の子ターニャを連れて外の下宿に移り、ペテルブルグのレーピンの下には15才の長女ヴェーラと、13才の次女ナーディヤが残った。それからは、たまに4人の子供達が一緒になれた時を心から楽しむレーピンだった。
 しかしレーピンが妻と別居していた時期とかれが3人の女性と親密な交際のやりとりをやっていた時期とは一致していた。その一人はトルスタヤであり、もう一人はスタホーヴィヤ3人目は画家ズヴァンツェヴァであった。その中でソフィヤ・アレクサンドロヴナ・スターホヴィチとは、レーピンが妻と別れた年(1878)に初めて知り合った。スターホヴィチの一家、一族は、芸術に理解を持っていた。ソフィヤの叔父ミハイル・アレクサンドロヴィチ・スタホーヴィチは詩人であり、父アレクセイ・アレクサンドロヴィチは当時、パリナ(オルロフ県)の自分の土地に住み、有名な種馬所を経営していた自由主義的地主で、演劇と音楽を好み、有名な俳優スタニスラフスキイやその芸術家−レーピンもその一人−がよくパリナを訪ねていった。レーピンはかれを巡る3人の女性のうち、ソフィヤが一番好きだった。初めて2人が会った時、ソフィヤは25才、レーピンは43才だった。1891年の初めには、2人はもう非常に屡々会っていた。いちがつのすえごろ゜れはソフィヤ・アレクサンドロヴナの像を木炭で描いた。それは2、3ヶ月の後にエレオノラ・ドゥーゼの像を描いた時と同じ技法だった。それは準備的なものでなく、木炭画として独立した意味を持つもので、批評家グラバリによれば「これらの肖像画は一般にレーピンの美術の最高の達成の一つ」である。この肖像に描かれたソフィヤから我々が、受けとる感じは理性的でもの静かで、上品な、しかししっかりした活動的な女性である。この夏レーピンは、スターホヴィチ家の招きに応じてパリナを訪ねている、そのあとで2人の文通は一層繁くなった。しかし1892年になってから、2人の間に何か変化が生じた。恐らくレーピンの持前の有頂点な率直さから、何か手紙で余りに甘い告白をやったため、かれ女を用心深くさせ、2人の関係は純粋に友情的であってそれ以上でないことをかれ女に強調させてしまった。
 92年のはるレーピンは、「ザポローシツィ」をトレチャコフに売った金で、西ドヴィナの岸のズドラーヴネヴォに土地を買い、娘のヴェーラとナーディヤと一緒に移り住んだ。かれは家事に追われてその夏中にやっと娘の肖像を2つ描いただけだった。この2つの肖像画は1893年の第21回移動展に「猟人」と「秋の花束」という題で出された。
 グラバリは「猟人」を「秋の花束」よりは成功していないが、モデルから力強く描かれた習作であると批評し、又、「2つの肖像は、絵画的な勇気と極度の客観性との混和された感覚を以って描かれている…美しく、力強い、だがこの成功に際して或一定量の冷たさが害を与えている。この冷たさはこの時代から大部分のレーピンの肖像画に固有のものとなった。」(傍点大月)
 1893年10月にレーピンは、息子のユリーをつれて外国へ向った。父はこの息子が学校で語学に苦しみ、そのため病気にさえなったので、転地療養の意味で連れ出したのであって、息子はそのあとで健康になった、とレーピンは語っている。この旅行は半年以上も続き、これ迄のレーピンの旅行のうちでももっとも長いものとなった。ウィーン、ミュンヘンに立ち寄り、イタリーへ行って、ヴェネチア、ナポリ、パレルモ、アッシジ、フロレンツェ、ローマなどを訪ね、パリとベルリンを通って帰った。ナポリでは一番長く、−3ヶ月位滞在した。レーピンはナポリから、ア・ベ・ジールケヴィチに書いた。「私がここから何か独自な意味を持つ作品を持ち帰るだろうと、あなたは空しく考えています。だが私は其のために行ったのではありません。休息すること、あらゆる下心なしに眺めることなのです。」(傍点大月)しかしかれはナポリではこの旅行中で一番多くの制作をやった。その中には、ジャケツを着て頭を短く刈り込んだ自画像、若いナポリ女(レーピンのイタリア語の教師)の像、ユリーの立像などがある。ユリーの像はナポリ湾を背景にホテルのバルコンに立っている。技術的には完全なものだが、やはり或種の冷たさが横たわっている。
 1894年11月に開かれたアカデミー展にレーピンはこの肖像と一緒にヴェ・エヌ・ゲラルド、テ・エル・トルスターヤ及びエ・ヴェ・パーヴロフ教授の像を展示した。ユリーの像は少し未完成だったので、批評は控えめだった。レーピンは尚これに筆を加えて、再び1901年の第29回移動展に出品している。今はこの作品はアメリカにある。
 レーピンが息子を連れて旅行したことは、レーピンが妻のところに戻ったことに、幾らかの役割を演じている。かれは1894年6月25日にズドラーヴネヴォからズヴァンツォヴァヤに書いている。「私が外国旅行期間中に馴れたユリーと私は別れたくありませんでした。かれとターニャと一緒にいたいために私はかれなどを通して妻に、ここに、ズドラーヴネヴォに移ってこないかと申し出ました。かれ女は移って来ました。これは大変いいことになりました。ここではこのように主婦が必要なのです。」このようにして、レーピン一家は7年の別離のあとで又一緒に暮らすことになった。このことに満足したのは、誰よりもレーピン自身であったに違いない。
 この年にレーピンはアカデミーに復帰して、教授の職についた。もうこの頃には、移動派は昔の進歩的な面影を失いアカデミーはその力を復活させていた。スターソフはレーピンのアカデミー入りを非難し、そのために2人の間に4、5年も交情が絶たれた。「…決裂に導いた不和の2つの点−レーピンのアカデミー入りとかれの廃頽派への共鳴…急進的な移動派主義のこの後退は何を意味したか?それは芸術における伝統の拒否、傾向の拒否、チェルヌィシェフスキイーの遺訓の拒否を示したのだ。それは或意味においてアカデミーの針路−形式の完全性、自己充足の芸術、芸術のための芸術の針路の採用を示したのである。」(グラバリ「レーピン」)レーピンはアントコリースキイに書いている。「…悪い酒が入っているなら美しい器も何だ、という文句は私に気に入らない。それを云えるのは、只学生と、居酒屋の呑んだくれだけだ。画家にとってこそ美しい器はどんな酒よりも値打ちがあれ、空の器が悦楽の対象となる…」(1895.1.13)
 1900年の夏、レーピンは世界博覧会のためにパリへ行き、そこでナターリヤ・ボリソブナ・ノルドマンと近づきになった。ノルドマンは一目でレーピンを心から魅きつけた。かれの熱中は真剣なものとなり、ついに六〇才近いレーピンの、生涯の重大な転機をもたらした。この年のレーピンは最終的に妻と別れ、ノルドマンと一緒にかれ女の家、−フィンランドのクオッカラ(ペテルブルグの近くの別荘地)のかれ女の家に移り、ペナトゥイで残りの30年の生涯を暮らした。
 レーピンはクオッカラからペテルブルグのアカデミーに週2回通っていた。この頃、かれの生涯の最後を飾る大作「帝国参議院会議」の仕事が始った。
 1901年は帝国参議院がアレクサンドルT世の命令によって1801年3月30日に創設されてから100周年に当っていた。それで5月7日に100年記念祝典の記念会議が催されることになった。これにはニコライU世も臨席する筈だった。
 誰の思い付きかはあきらかにされていないが、この会議の模様を絵画に残すこと、その仕事をレーピンに頼むことが決まった。
 レーピンにこの仕事が回り、かれがそれを喜んで承諾したこと全く自然な成りゆきではある。当時、レーピンの画家としての名声は国の内外に赫々たるものがあり、かれの油絵の技術は最高の完成に達していた。それにかれは少し前に2度も皇帝をモデルとして−1895年と96年に−描いているのだ。
 記念日迄に幾らも日がなかった。レーピンは先ず予定された会議場の全景の習作をやり、これに祝祭会議の当日になって主要な印象を描き込む用意をやり、又その日迄の全ゆる会議に出て個々の議員の外貌や、癖を観察し、素描した。作品の大きさは長い研究のあと、幅12アルシン(1アルシンは0.711メートル弱)ということに決められた。仕事の量的な巨大さから、アカデミーのかれの生徒、ベ・エム・クストーディエフとイ・エス・クリコフが助手となった。円形の会議場に全部で六〇人の人間を配置することになったのだが、この広い構図の困難さを救うためにただ一つの視点だけでなく、古典絵画が屡々やったように、数個の視点を採り入れた。仕事は会議場の隣の広間でやられた。
 宮内省との契約のうちには、全ての議員が自分の議席で2、3度は坐ってモデルになるという条件をレーピンは含めて置いた。写真を利用することが、提案された時、レーピンはきっぱり断った。毎日のようにレーピンは高位高官をつかまえては坐らせた。少なくて1回、多くて3、4回坐らせて素描し、油で習作した。素早い写生が要求されるので、かれは次第に「ひと坐りの描写」の独特な手法を作り上げた。しかしそれは単なる早とり写真ではなく、それ迄毎日観察したモデルの綜合的な習作であった。グラバリは「全世界の絵画の中で、筆の力と魅力とにおいてこれらに並ぶものがない。エドアール・マネーの最良の頭部ですら、まちがいの無い真実さと、眼の繊細さで、このレーピンのものに及ばない」とこれらの習作について評価している。作品は1903年に完成した。
 グラバリは又かれの論文「レーピンの国外時代」に書いている。「レーピンは六〇才になる迄は本質的に殆ど衰えなかった−2、3の例外を除いて。六〇才の前夜にかれは「帝国参議院会議」のための一連のすさまじい肖像習作をやりとげた。それは真にかれの白鳥の唄であった。この比べるもののない肖像シリーズで、かれは単に以前の芸術的及び技術的高さ、80年代の水準に到達したばかりでなく、それを被い越している。だがそれは天才の最後の爆発であった。その後でかれは最早決してなど価のものを創造しなかった。時々稀な場合に未だ幾らかの成功があった。だが本当に感動的な作品はもうかれのアトリエから出て来なかった。」
 作家の一生の創造力を全体的に考察する時、これがレーピンの白鳥の唄であるとするグラバリの解釈は正しい。しかしかれの意見には少しばかり、技術主義的偏向の臭いが感じられる。これらのレーピンの肖像習作では、画家の人間観察か客観主義的なうわすべりと冷たさによって制限され、七〇年代のレーピンの「補祭長」に示されたような鋭い摘発的な社会的階級的要素には余りにも遠い。例えばここに描かれた高官の一人ポベドノースツェフは、かってトルストイの「闇の力」の上演禁止に重要な役を買った男であり、レーピンの「イヴァン雷帝」の「危険性」についてツァーに耳うちした男であった。その他この時代に、1905年の革命の前夜にレーニンによって指導されたボルシェヴィキが鋭いたたかいのほこ先を向けていた。自由主義ブルジョアジーの代表者達も数多く描かれたに違いない。レーピンのこれらの階級性を抜きにした客観主義的な、芸術至上主義的な対象把握の態度についてグラバリは何も触れていない。なるほど肖像習作の技の練達ぶりと精力とは、それこそマネーすらもかなわないであろう。しかし、…これが「補祭長」をすら「芸術的」に凌ぐものだというなら余りにも技術主義的な味方であると言わない訳にいかない。
 「帝国参議院会議」は休止に向かいつつあった火山レーピンの突然の、最後の大爆発であった。それは革命的ナロードニキの完全名没落と、905年の革命の前夜の労働運動の異常な高揚と時期を同じくしていた。レーピンはこの作品によって思想的には自由主義の、だがその最良の部分に転化したことをはっきり示したと同時に、驚くべき練達の技による偉大な創作力を殆ど使い果したのである。

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   凋落の谷間に

 「帝国参議院会議」の後のレーピンの生涯について書くのは、本当は私にとって少しく心が痛む思いがする。というのは、それは最早レーピンの凋落の谷間であったからだ。しかしその後レーピンの祖国で起った2つの革命に関連して考える時、又別な興味が湧いて来る。しかしここではもうこれらについて詳しく書く余裕はない。
 レーピン自身が自分の「功績」と呼んだ「参議院」の仕事をやりながら、ペナトゥイの美しい自然の環境で新しい愛人ノルドマンと自由な休息が出来た老画家は、張り切った幸福感を持っていたに違いない。この時期に1901年に「悪魔よ、吾後に来れ!」1903年に「何という広さ」という象徴的な主題の作品を描いている。ノルドマンは頽廃派(デカダント)の文学愛好婦人で、レーピンは非常に数多くのかれ女の肖像をかれ女が1914年に死ぬ迄の間に描き、ノルドマンの小説の出版に際してはそのさし絵を描いている。
 1905年に始まった革命は老画家のナロードニキ的精神を呼び醒した。かれは油絵「10月17日」を描き、又、「赤色革命」「デモの弾圧」「ツァリの絞首台」又レオニード・アンドレーエフの「七人の絞首刑囚人の話」への挿絵を描いた。そのうち「10月17日」は一番重要な作品だが、七〇年代のかれの「コンミューン戦士の壁にて」に比べても、観念的象徴的で、リアリズムの力の減退がうかがえる。その後「黒海の脱走農奴」(1808)「息子殺し」(1909)、「世を捨てたトルストイ」(1912)を発表し、第一次大戦にたいしては「セストラ攻撃へ」という戦争画を発表したが、普通の観衆にさえ不満を呼んだ。この一般的な下降線の中で、ただ1921年から22年にかけて創られた「復活の朝」と「ゴルゴダ」の2点は、レーピンの創作の中でも重要な場所を占めるものとなった。
 ペナトゥイ時代には、数多くの肖像画が描かれたが、時々秀れたものを作っている。1904年の「レオニード・アンドレーエフ像」1905年の「メンデレーエフィ像」其他。
 1911年にレーピンは「ストルイピン反動」として歴史に有名なそのストルイピンの肖像を描いた。これにはちょっとした挿話がある。ペナトゥイのレーピンのところで、その少し前に客達は冗談を言い合っていた。レーピンの肖像画には不吉な力があってかれが描いた人は間もなく死んでいる…ムソルグスキイを描いたらかれはすぐ死んでしまった。ピーセムスキイーも、ピロゴーフも死んだ…すると諷刺家のオ・エル・ドルがレーピンに向って「イリヤ・エフィモヴィチ、お願いだから、どうかストルィピンを描いてやって下さい。」と言った。皆なは大笑いをした。ところが実際に数ヶ月たつと、レーピンはサラトフ議会の注文でストルィピンを描くことになった。かれはストルィピンを内務省で描いたが、第一回の写生の後、帰ってから言った。「奇妙だよ、かれの部屋のとばりが血みたいに火事みたいに赤いんだよ、わしはかれをその血まみれの火の様な背景に描いた。だがかれは分らないんだ、それが革命の背景だってことが」(チュコーフスキイによる話)
 肖像が完成するや否や、ストルイピンはキエフへ行き、そこで射殺されてしまった。
 レーピンの客人達は笑いながら言った。「ありがとう、イリヤ・エフィーモヴィチ!」
 右は、当時クオッカルに住んでレーピンと行き来していたチュコーフスキイの話によるものである。この時期にレーピンを訪ねた有名な文人、芸術家の主な名を拾うと、ゴーリキー、マコーフスキイー、シャリャーピン、ブローク、アンドレーエフ、アレクセイ・トルストイ、クープリン、ベヌア、グラズーノフなどである。
 しかし次第にレーピンを訪ねる人も少くなって行った。1917年の革命の頃には、クオッカルも荒廃し、近所のフィンランド人はレーピンのことを忘れてしまった。かれは憂欝症(ヒポコンデリィ)の娘ナーディヤと2人のフィン人の下男と住んでいた(ノルドマンはもう死んだ)。隣にはこれも少し頭の変な長男のユリーがその妻と二人の子供と住んでいて、かなり立派な絵を描いていた。レーピンはこのユリーの行動には始終悩まされていた。
 レーピンの妻ももう死んでいて、娘のヴェーラと結婚したタチャナはソヴィエト同盟に住んでいた。
 レーピンの手が、1914年の夏頃から痛み出して、絵筆を握る手も思うように力は入らないでいた。貧乏と餓えが迫っていたが、老いの痛む手で牝牛を養ってその乳で飢えをしのいでいた。
 1918年にヴェ・エフ・レヴィがソヴィエト同盟からレーピン近くに移り住みレーピンに画を指導された。かれはプラーグでレーピンの絵を売ってやり、レーピンの生活を楽にしてやったが、結局家族はかれの大きな負担となった。そのうち姉娘のヴェーラもペナトゥイにやって来た。
 ソヴエトの画家、イ・イ・ブロードスキイ(ブロッツキイ?)は時々クオッカラへ行って、レーピンの教えを受けたり、その作品を蒐集したりしている。
 1926年の夏、ソヴィエトの画家カーツマン、ブロードスキイー、ラーディモフ、グリゴリエフの4人がレーピンを訪ねた。この時はヴェーラ・レーピナから、レーピンの病気が重く、皆なひどく困っているから助けて欲しいという手紙がブロードスキイーに届いたので、ブロードスキイーはこれをウォロシーロフ陸海軍人民委員に見せた。特に芸術に関心を持つウォロシーロフは、ルナチャルスキイーと打合せ、4人の画家を慰問の使節として派遣することにしたのであった。かれなどがレーピン家についた時には、あきらかに白系と思われる2人の男と女の客と出会った。反動の側の反ソ宣伝しか耳にしていなかったレーピンは初めは半信半疑の顔つきだったが、しまいにはすっかり打ちとけた。カーツマン達はレーピンにソヴェート同盟に来るよう、そうしたら国民は尊敬を以って迎えるだろうと話した時、レーピンはひどく謙遜して、いや、いや、私はそんな値打が無い、どうか尊敬から解放してほしい、もしも行った時は、何にも騒がないで欲しい、と笑いながら言った。カーツマンなどは幾日かをレーピンの家で過した後で、レーピンに1五十0ドル、ユリーに五十0ドルの金を差し出した。そしてソ同盟の蒐集のために作品を選んでくれるよう申し出た。かれは「ツァーリズム」のシリーズの中から頗る興味のある下絵(エスキース)を選び出し、その他に、「ケレンスキイ像」と「ツァーリズム」の2つのエスキースをソ同盟の博物館のために寄贈した。4人は重ねて、レーピンとユリーにソ同盟に来るよう懇請して帰った。しかしついにそれは実現されないでしまった。
 かれが死んだ時、かれの家には、沢山の油絵と、更におびただしい数の素描と水彩が残された。子供達はこれを分け合ったが、一番多く一番良い作品をとったのはヴェーラで、ユリーの分け前は少し悪く、ナーディヤはもっと悪かった。
 1939年ソヴィエトの軍隊がクオッカルに到着する前に、ヴェーラは自分の分け前を持って逃げるのに成功した。ユリー・レーピンは皆捨てて逃げた。「ペナトゥイに保存されていた全作品のうちのこのもっとも価値の少ない部分こそ、我々の手に落ち、レニングラードのソ同盟芸術アカデミー博物館にあって政府の決定によって復興されたペナトゥイがその壁に返納される日を待っている。」(グラバリ「レーピン国外時代」1948)

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   レーピン芸術の地位と意義

 日本ではロシヤ美術一般についてばかりでなく、ロシヤ美術の最大の巨匠の一人である、レーピンについても殆ど知られていない。
 かつて日本でただ一点のレーピンの原作が公開されたことがある。それは確か大正年間の末頃での東京の或展覧会に婦人の胸像をパステルで描いた極めて美しい小品が、並べられたことを私は記憶している。しかし、この作品も少しも広くは知られていない。大部分の日本の美術史家及び美術批評家達の見解の基調となっている西欧中心主義は、不当にも、ロシヤ美術の地位と美術史的意義を過小評価し、レーピンについても極めて僅かな紹介の頁しか与えていない。ただ今度の戦争の後になってやっと民主主義的なジャーナリズムによって時々とり上げられるようになった。ソヴィエト同盟の美術界においても今から20年前1932年にスターリンの提唱によって、社会主義リアリズムのスローガンが確認された頃から、レーピン、スーリコフ其他の革命前のロシヤ国民美術の遺産の意義が積極的に評価されるようになった。それ迄は1917年の社会主義革命の後で、組織されたロシヤ革命美術協会(アフルル)に属した現実主義美術家の間に国民美術の伝統として僅かに取上げられていたに過ぎない。多くのロシヤのモダニスト美術家は、立体派や、構成派や未来派の形式こそ、プロレタリアートの「革命的」美術形式だと、誤って思い込んでいたのである。
 しかしロシヤの人民は、レーピンの生存中からも、「舟曳人夫」のレーピン、「思いがけなく」のレーピン、「宣伝家の逮捕」のレーピン、「ザポローシツィ」のレーピンを限りなく愛し、自己の革命的民族的感情と思想を励まされていたし、文化が全ゆる意味で全人民のものとなったソヴェートの現在では、国立トレチャコフ美術館その他の博物館のレーピンの部屋は、全ソヴィエトの労働者や、農民、インテリゲンチャや学生にとっての良き憩いの場所、明るい明日の生活と闘争を呼びかける魂の教育の場所となっている。
 人民の魂に触れ、この魂に全ゆる良き感情と意欲と思想を吹き込むことが出来る芸術こそ、人民と共に不滅である。レーピン芸術は共産主義建設の基礎条件を成功的にかちとりつつあるソヴィエト社会の民衆ばかりでなく、全世界の人民民主主義諸国の人民、及、帝国主義に圧迫されつつある国々の人民大衆の間にも、次第に共感と尊敬の念を集めつつある。
 何によってレーピン芸術は人民の魂をこれ程迄に把えることが出来るのか?それは生涯の最良の時期におけるレーピンの作品がツァーリズムに圧迫され、むごたらしく搾取されたロシヤ人民の生活の奥底迄食い下り、これを比べるもののない優れた現実主義的な美術形象と熱烈な反ツァーリズム、反封建主義の思想を以って表現したからに他ならない。しかもこれらのもっとも精力的でもっとも美術的に実り多いレーピンの創作の時期が、1880年代の暗黒な、政治的反動の時期に一致したことは、反ツァーリズムの美術家=市民としてのレーピンを一層大きく価値づけている。
 レーピン芸術の特徴の第一は、世界の物質性の鋭い把握である。この世界を物質とその運動として把握する傾向は、レーピンの本来の性格ではあるが、かれは一つ一つの困難な労作の課題の解決を積み重ねることによって、物質の全ゆる属性、−容量(ヴォリューム)、質、重さ、光、色彩、など々、とその運動の統一的な全体を、絵画的形象をもって深く、鋭く、表現する技に到達した。美術の課題のこの側面に全力を以ってぶつかったのは、先ずヴォルガの岸においてであった。かれは炎天のヴォルガの自然と、暑い砂の上を動いて来る舟曳人夫を観察し、習作しながら、絵画的手段による、光と空気の伝達と、物体の運動の表現へ近づき、かれのうちにあった、アカデミズムの残り滓に決定的な打撃を与えた。1873年から76年までと、1883年のレーピンの西ヨーロッパへの旅行は、フランスの印象主義の方法と古匠ヴェラスケスの遺産の摂取に役立ち、レンブラントの方法の摂取と共に、レーピンの物質把握の技術を一層高めた。それは「補祭長」「懺悔の拒否」、「十字架行進」の仕事を通じ、「思いがけなく」に至って最高のレーピン的完成を形造った。ことに「十字架行進」における運動の課題の解決は、世界の美術でも最高の部類に入るであろう。この様な感性的経験的な基盤に立つ絵画的形象の血の気の多い具体性こそは、レーピン的方法の著しい独自性となっている。かれは思い出の中に書いている。「絵画における私の重要な法則は物体、其自体である。顔料や、筆触や筆の妙技は私に無関係だ。私は常に本質を追求した、即ち、物自体を。様々な絵画愛好家がいる。そして多くの人はこれらのマンネリズムにまでなる程の虚飾的な筆触を溺愛している。告白するが、私は決してそれなどを愛したことがなかった。それなどは私が対象の本質を見ることと、一般の調和を楽しむことを妨げた。」この様な唯物論者の眼こそ、全ての西欧的近代主義者(モダニスト)からいち早く脱落してしまったものである。
 しかし、もしもレーピンが美術の課題を「世界の物質性の把握」にだけ置いていたとするなら、或はかれはフランス19世紀の現実主義者、クールベーにも、又18世紀のシャルダンにも打ち勝つことが出来なかったかも知れない。ところがレーピン的創作のこの側面に深く関連しながら、より一層重要な特徴をなしているのは、かれの人間生活への熱愛と深い洞察である。舟曳人夫の額の汗、補祭長の油ぎった顔と手、イヴァンの血、カザックの笑い、−もしもこれなどの生理的現象がそれだけに留ったなら、所謂悪名高い「レーピンの生理学主義」に帰せられても文句は言えなかったであろう。ところがこれなどの生理的現象は、人間の生活的及心理的現象に結合され、更に人間の社会的階級的本質に迄高められ統一されているのだ。だがレーピンの持つ生活への洞察は、決して十分な理論的理解を経たものではなかった。かれはヴォルガの舟曳人夫を巡る社会的経済的諸条件について理論的に知っている訳でも、又かれが告白したようにそんなことに余に興味を持たなかった。しかしかれは家畜の代わりにつながれたボロ服の舟曳人夫にたいする感動と愛情とによってかれなどの姿の全ゆる細部と正確な本質を美術家の鋭い直感を以って把えたのだ。「クールスク県の十字架行進」「宣伝家の逮捕」においても、もしも社会科学者や、歴史家であったら、沢山のページを費さねばならないところをただひと目で、18七〇−80年代のロシヤの農村の本質を又、農村におけるナロードニキ革命家と農民の典型をその全ゆる細部の真実と共に、人々に解らせるのだ。ことに「十字架行進」は生活の洞察と、把握の広さによって奇智と、細部の真実を失わぬ全体のしっかりした把握の技術によって我々に19世紀のロシヤ文学の傑作、ゴーゴリの「死せる魂」を想いおこさせる。しかもレーピンの生活にたいする深い情熱は、物そのものの冷たい客観性を人間のための物、生活のための自然に転化させていることに注意されねばならない。そこで舟曳人夫のわらじや兵隊靴が、焼きつく砂が、又十字架行進の地方貴族夫人の衣服や堤燈のきらびやかな色彩が、深い生活的な意味を以って観る者に迫って来る。レーピンの人間的な舟曳人夫に比べると、クールベーの石割りの男は、ずっと冷たい客観性の中に釘づけになっている。
 レーピン芸術の特質の第三は、その高い思想性にある。芸術の究極のそして最高の役割は人間の感覚や感情ばかりでなく、人間の思想に働きかけ、これを高めることにある。−これは18六〇年代の移動派の思想的現実主義(イデイヌイ、レアリズム)において強調されたところだ。レーピンはその諸作品で、一層完成された、成熟した姿でこの思想性を示した。グラバリはレーピン絵画の思想性を非常に高く買い将にレーピンこそは思想的現実主義の父であると云っている。
 どのようにして作家は、芸術に思想を与えることが出来るのか?それは同時代の人民の思想でもある作家の思想を、作品の内容とすることによってである。しかし、それは、理論的な説明として外部から作品にさしはさむものではなく、描かれた対象の物質性と生活性の徹底的な追求の中にのみ、作者の基礎的な思想を、観る人の意識と感覚に迄運びこむ志向において与えられる。「思いがけなく」帰った革命家、「思いがけなく」これを迎える人々、その場所、その空気の全ての外面的な真実を伝えながら、個々の人物の内面的な真実、その心理と性格、時間的な経過などの全てを統一的に描き出すことによって、観る者の魂を感動させ、その思想の高みに迄誘うのである。
 レーピンは既に学生時代に死刑囚カラコーゾフの印象による素描において、反ツァーリズムの思想を作品に定着させる非凡な能力を示し、更にその後の作品において、反ツァーリズムの熱烈な市民的、民主主義的思想と感情を、生活の内面的な真実さによって見事に形象化した。1900年代のレーピンの凋落の年々においてさえも、この市民的思想は変らなかった。だがそれは、時代の思想の発展に添う積極的なものではなく、ブルジョア民主主義的思想の継続でしかなかった。時代を動かす新しい思想は、プロレタリアートの側に、マルクス=レーニン主義の旗の下に移り、結集していたのだが、老いたるレーピンは、一時1905年の革命に敏感に答えたきりで、後はただ自由主義的な思想のうちに生きのびただけだった。我々はここにレーピンの限界性を見ると共に、作家の進歩的な思想性が、その創作の真の発展のためにどんなに重要なものであるかという教訓を汲みとるのである。
 以上の、世界の物質性の把握、生活への愛と洞察、思想性の高揚の3つの特徴を通して、もう一つのレーピン絵画の大きな特徴、かれの作品の分り易さに到達する。古来のもっとも偉大な作品につきものの分り易さ、近付き易さは、レーピンの作品に固有な本姓ともいえる。スターソフがレーピンの「思いがけなく」や「懺悔の拒否」についてそれらが何の説明もなしに、一目で理解出来ることを強調したのも、この分り易さからだ。しかしこの分り易さはレーピンに固有なものであるとはいえ、何の努力もなしに得たものでは決してない。それは事物の客観性の把握とその単純化のための高度の、困難な技術的鍛練のたまものであった。初めて、「イヴァン雷帝とその息子イヴァン」を見たトルストイはレーピンに書いた。「巧みさが見えない程、巧みに描かれている。」
 ソヴエト国民、及、ソヴエトの批評家がレーピンを非常に高く評価していることは言う迄もないが、一つの令としてグラバリの文を引用しよう。「ロシヤ絵画史におけるレーピンの意義は特別に大きい、もしもレーピンがいなかったら、ロシヤ絵画の発達がどうなったかを考えることすら不可能だ。レーピンの美術−それは、かれの同時代人にとってと同じように次の世代にとっても又導きの星である。そして尚も長くロシヤの美術家達は、この尽きることのない、思想と形式の源泉から、力と霊感とを汲みとるであろう」又かれは言う「レーピンは−ロシヤの国民美術の天才である。だが過去の全ての偉大な巨匠のようにかれは全人類のものである」(グラバリ「ロシヤ及世界美術に於るレーピンの地位」)
 実際にレーピンを同時代の美術家達−マネーやモネーや、ドガ、ロートレック、セザンヌやゴッホに比べて、どちらが高いか低いかを争うことが出来ても、その現実主義の力と深さ、民族的国民的な相貌においてレーピンに肩を並ベるものはないと言っていい。
 このようにしてレーピンはロシヤ国民美術の偉大な巨匠である許りでなく、美術における生活的思想的リアリズムの確乎たる基礎を創造した。その達成は、ソビエト的諸条件の下における新しい現実主義、社会主義的リアリズムへと導いた。ソビエトの美術家達は、かれなどの間の形式主義及自然主義的偏向にたいするたたかいにおいて、レーピンの築いた現実主義の道から常に多くの教訓を学びとっているし、かれなどの作品が、レーピン的な生活への深い認識と技術にまだまだ及ばないことも知っているのである。既に沢山の若い有能な美術家を生みつつあるソビエトの美術界にとっては、共産主義社会への経済的な基礎条件をたたかいとりつつある現在において、更に大きな成長をとげるためにレーピンの歴史的遺産は増々貴重なものとなるであろう。
 一方では反動化し硬直したアカデミズムが他方では頽廃化した西欧的が国際帝国主義及日本反動の美術的支柱として巷に氾濫している時、深く日本民族の生活に根ざした新しい国民美術を創造することは、日本の進歩的美術家の焦眉の課題である。この時に当って人民の生活の奥底を愛と洞察の眼を以って把みとり、反ツァーリズムのたたかいにおいてその創造の力を鍛え上げた美術家=ヒューマニスト−レーピンの創作の道を深く研究し学びとることは、あきらかに我々にとって特に必要なことだと言えよう。

[目次]

   あとがき

 かつて日本のプロレタリア美術運動はレーピンや、スーリコフなど、ロシヤ移動派絵画の貴重な遺産には殆ど関心を払わずに過ぎてしまった。運動が壊滅した後の長い反動と戦争の間に、私はレーピンを発見し、その現実主義の力に打たれ、資料を集め、貧しいロシヤ語の力に鞭打って研究を続け、戦後もその努力を続けた。この間にただ一度、戦前の「唯物論研究」誌に「レーピンに関する断片」を発表しただけだった。
 戦後色々な民主的な雑誌にレーピンや移動派の紹介が断片的になされて、非常にうれしく思った。しかし系統的なレーピン研究を公けにすることは、我国の民主的国民的な美術の創造のためにどうしても必要だと考えていた。それがこうやって小型ながらも日本で最初のまとまった「レーピン」が出ることになったことにたいする私の喜びは大きい。−仮令私達がレーピンの本物を見ていないためにそのことから受けるマイナスが我々が考えるよりも大きいとしても。
 貴重な複製を貸与して下さった須山計一、新海覚雄…
 ただ86年の偉大な生涯を送ったレーピンについて語ることが多すぎ、この小冊子では多くの興味ある部分を割愛しなければならなかったのが残念だ。いつか機会があったら、何などかの形でこれを補いたい。
 尚本当の主要な参考文献は、1928年版のフリーチェ編の「19世紀ロシヤ美術」1937年の雑誌「美術」及「創作」、1948年版の「美術遺産−レーピン」などに載った諸論文である。
                              1953年3月28日

[目次]



[解説]


 本書は、戦争後の極めて資料の乏しい時期に、日本で初めて出版されたレーピンの本格的な研究書であり、現在入手困難となっています(国会図書館所蔵―相互貸借制限資料)。著者の大月氏は戦前、日本プロレタリア芸術家連盟で活躍し、第二回プロレタリア美術展に出品された労働運動同志の葬送の場面を描いた『告別』という作品で知られています。戦後まもなく『北海道生活派美術家集団』を創設し、『草炎会』などに参加、写実主義によって人々の生活や風景を描き、主に北海道で活躍しました。1978年には市立小樽美術館で回顧展が開かれています。
[ホームページ]