阪神・淡路大震災

この文章は、1995年1月17日午前5時46分に兵庫県南部地方を襲ったあの阪神・淡路大震災の直後、学校で書かされ、数日後にはどういうわけか学校の文集に載せられていた作文です。
当時中学2年生でしたが、高校生の今読んでも我ながらほれぼれしてしまう文章です。(^-^;)ase
どこがいいという訳でもないですが・・なんだか、勢いに圧倒されてしまいませんか?実際、居残りして(^^;)一気に書いたことを記憶していますが・・先生も、その勢いに載せられてこの作文を学校全体の文集に載せて下さったんでしょうね。
中学2年生のわたしが見た大震災とは、どんなものだったのでしょうか・・。


その日は何も変わりなく始まるはずだったのに、一瞬にして風景が変わってしまった、この兵庫県南部地震。私は、その時、布団の中で空を飛ぶとかいうわけのわからない夢を見ながら、ごろりと海に頭を向けて寝ていた。AM5時46分、突然下か隣にドリルでもあるのかと思うような上下に大きい揺れを感じた。いくらぐうたらな私といえど、震度6とくれば普通は目が覚めるに決まっている。振動がひとしきりおさまった後、父が隣の部屋からすっ飛んできて、まだ布団の中でガクガクふるえている私と妹に、「服着ろ、服!」と叫んだ。そういえば、我が家は一番下(まだ下に駐車場はあるが)で、上には7つも階があるのだ。上から落ちてきたらひとたまりもない。あわてて真っ暗な中で着替えて外に出たのだが、やはり真っ暗には変わりがなかった。車のラジオにも情報は入ってこない。しかたなくウォークマンのラジオを受信するが、やはりパニックであることにあちらも変わりはないようだ。
10時半ごろに電気はついたが、なんと寂しい4時間45分だったんだろう。しかもおどろいたことに、テレビが伝えてきたことによると、震源地は淡路島というではないか。私は一瞬、我が耳を疑った・・。しかし、さらにおどろくべきことに、震源地に近いはずの明石より神戸の方が被害は大きいではないか。神戸の親せきや友達は無事だったそうだが、長田区や兵庫区の火災、灘区のガス、そして、中央区のビルが横たわっていたり、阪神高速が横にねじれていたり。本当にこれが神戸なんだろうか・・。まる一日経っても、二日経っても、状況は変わっておらず、いや、変わったといえば、あの神戸の街だ。
信じられない一週間だった。学校が休みの間、私はテレビやラジオで被害状況をチェックしていった。恐ろしいことに、一日で千人も死者が出る日があった。だれがこれほどの被害を予想しただろうか?
何日化して、被害がおさまってきて、私はテレビを見ながら、何か救援物資を送られないだろうか・・とあれこれ考えるがムダだった。
また、国会の様子に非常に腹が立った。避難所のどこかのおばちゃんも言っていた。「『頑張って下さい』なんか誰でも言えるんや。」と。
村山首相は何をしているのだ。国民の命が惜しくないのだろうか。世界各国からも避難を受けている。
・・しかし、なんやかんや言いながらも、結局、私も、文句を飛ばすだけで何もしていない。毎晩一回はくる余震に体を凍らせるだけだった。
今回の地震で、私は自然の恐ろしさと共に、無防備であった自分に気がついた。自分ながら、少ない反省ではあるが、これからは、いつ何が起きてもいいように、きちんと準備しておくと共に、被災により亡くなられた五千人以上の方も、心よりご冥福をお祈りしたい。そして、残った人々には、早く前の街を頑張って取り戻してほしいと思う。