オールマンズ来日インタビュー ′92


僕らをサザンロックと呼ぶのは時代錯誤。
僕たちはプログレッシブロックバンドなんだ。

私はI975年に、ジョージア州のメイコン(彼らの本拠地であり、キャプリコーン・レコードがあった)で、第2期のオールマン・ブラザーズ・パンドと会っている。その時、撮影した私とディッキー・ベッツが一緒の写真を持参したら、ディッキーは懐かしそうにながめてこう言った。「オレの髪がまだふさふさしていた頃だ」、彼も今年で48歳になる。
同席したのは、べーシストのアレン・ウッディ。いかにもサザン・マンらしい貫禄のミュージシャンだ。彼はオールマン・ブラザーズ・バンドに参加するまでは、ブッチ・トラックスやレーナード・スキナードとは知り合いだったが、プロとしての目立った活助はなく、酒場で演奏しているところをスカウトされた。

ピル・グラハムは心から僕らの
音楽を愛してくれる恩人だった

彼らのコンサートの東京初目(1月19日)を見たが、音楽とは別に、サイケデリックの全盛時代を思いおこさせるバック・ドロップ(ゼラチン・ライトによる照明)が印象に残った。ディッキーはこう語る。「気がついてくれたかい。あれが僕らのステージの原点なんだ。僕らがフィルモア・イーストに出演していた頃(60年代末〜70年代初頭)、優秀なライティング・マンがそろっていて、すばらしい効果を演出してくれた。音楽とシンクロして、それは強烈に観客にアピールしたものだ。ところが、ある時期からサイケデリックは時代遅れになり、誰もあのようなバック・ドロップを使わなくなった。それを僕らが復活させたんだ。あの頃ほどの華やかさはないが、今回のステージングはとても気にいっているよ」

フィルモア・イーストのことが出たら、どうしても「あの人」の話に触れなけれぱならないだろう。「亡くなったピル・グラハムについて、思い出などがあれぱ、話してください」「ああ、いいけど、このインタピューが彼の話で終わってしまうよ(笑)。彼ほど惜しまれて亡くなった音楽業界の人間はいないだろう。特にオールマン・ブラザーズ・パンドにとっては、恩人と言ってもいい。ピジネスだけではなく、心から僕らの音楽を愛してくれた。無名時代の僕らに手をさしのべてくれて、フィルモア・イーストに何度も出演させてくれ、ライブ・アルバムまで発売できた。インタビューなどでは、必ず僕らのパンドをほめてくれ、それでオールマン・ブラザーズ・バンドを聴いたファンも多い。彼が亡くなる1ヵ月ほど前も、こうやって今キミとインタピューしているように親しく語り合ったばかりだ。彼はビジネスとしてコンサート・プロモーターをやっていたけれど、基本的にはとてもアーティスティックな人間だった。ロック・バンドを見る目もあった。そして、サンタナやグレートフル・デッドなどのバンドを自ら育てた。ニューヨークで「ビル・クラハム・メモリアル」という、彼を偲ぶつどいがあって僕も参加したんだけど、大のミュージシャンたちが涙を浮かべて彼の思い出を調るんだ。最後はアコースティック・ギターを弾いて歌い、彼の魂と別れを告げた。僕ら自身、今後、どんなプロモーターと仕事をしようかと悩んでいる」

今回のコンサートを見ていて印象に残ったシーンは、ギタリスト(べーシストやグレッグも含む)の4人がアコースティック・ギターを持ち、イスに腰掛けてロバート・ジョンソンやウディ・ガスリーの古いブルース、あるいはホーボー・ソングと呼ぱれる音楽を演奏した一方、エレキ・ギターを弾くディッキー・ベッツはどんどん、フュージョン音楽に近づいているのだ。この質問にディッキーは待ってましたとばかり答えてくれた。「そうなんだ。アコースティック・ギターで演奏した曲はいわぱロックの「ハート(心)」で、僕たちロック・ミュージシャンが決しておろそかにしてはいけない音楽なんだよ。キミは僕のギターがフュージョンのようだと言ったけれど、あれも実は音楽のルーツなんだ。僕はチャーリー・パーカー、マイルス・デイヴィスなんかも好きで、特にチャーリー・パーカーのビー・バップ調の曲が好きなんだ。だが、僕はジャズ・ミュージシャンではないので僕なりに彼らの奏法を自分のものにしようとしているんだ。フュージョン・ミュージシャンだって、本当はジャズの先輩たちを聞き込んでいるからこそ。いい演奏ができるのであって、いきなりフュージョンを演奏するミュージシャンというのは、底が見えてしまうね」

彼らのニュー・アルパム「シェイズ・オブ・トゥ・ワールズ』(EPlCソニー)には「デザート・ブルース」という曲が含まれており、これは明らかに湾岸戦争をテーマにしており、例の「砂漠の嵐作戦」にヒントを得たタイトルだ。彼らは政治にどの程度、関心があるのだろうか?答えは意外だった。「僕らは出来る限り、政治とはかかわりたくないんだ。二の曲を作曲した動機は、戦争で湾岸に行っている友人のことを思い浮かぺたからだ。恋人と切り離されて、ピールさえ飲めないような厳しい毎日をおくっている兵士がいるってことを、知ってもらいたかったが、決して戦争賛美の歌ではない、ということも理解してほしい」

インディアンの言語を教える学校
の設立に基金協力しているんだ

かつて、「風と共に去りぬ」の舞台としてしか知られていなかったアトランタは、今やCNNの本拠地として、またアメリカのニュー・ピジネスの都市としてトレンディな町に変身した。オールマン・ブラザーズ・バンドが誕生したメイコンはアトランタからさらに小型飛行機で30分ほど飛んだ所にある小さな町だ。「今は数人のローディを
除いては、メンパーの誰もメイコンに往んでいないよ。僕は別荘を持っていて時々、休暇にいくけど、あとはマイ
アミやテネシーの家にいる」そう言えぱ、オールマン・ブラザーズ・パンドの初期のキャッチ・フレーズであった『サザン・ロック』とか「レイド・バック』とかいう表現はまだ生きているのだろうか?ディッキーが、ホラ来た、みたいな表情をした。「その質問が一番、イヤなんだ。もうとっくに死語になってるよ。あれは20年も前のことだぜ。たとえぱ、ニューヨークのロックをノーザン・ロックと呼ばないのと同じように、僕らのロックをサザン・ロックと呼ぶのはのは時代錯誤だと思うんだ。僕たちはある意味でブログレッシブ・ロック・パンドなんだ。たとえぱブラック・クロウズはアトランタ出身で僕らの親友なんだけど、サザン・ロックと呼ばれることを恐れ
て、僕らとツアーするのを拒否したほどなんだ。それだけ、サザン・ロックという言葉のインバクトが強かったっ
てことだろう」

べーシストのアレンにも何か質間しなけれぱと考え、「ビリー・シーンのようなリード・ぺーシスト・タイプは好
きか?」と尋ねてみた。ステージでアレンがビリー・シーンぱりのリード・べースを弾く場面もあったからだ。
「ピリー・シーン、奴はすごいべーシストだ。僕も本当は彼みたいにリード・べースを弾くんだけど、今のバンド
では遠慮しているよ。ウン、彼はべーシストの鑑だね」

最後に遠慮がちに質問したこと。「ディッキー、あなたにはインディアンの血が流れていますか?」彼は快く答え
てくれた曲「4分の1」。「ケヴィン・コスナーと同じですね。何かインディアンに関する運動をしているか」。「そんなに積極的にやっているわけではないけど、インディアンの言葉を復活させて、それを教える学校の設立に基金協力したりしている。インディアンの文化を踏襲するための学校だ」

話は音楽に戻って、次のアルパムはどうやらライブ・アルバムになりそうだ。すでにボストンやニューヨークでのコンサートをライブ録音し、先月は古巣のメイコンでのコンサートも録音した。早ければ3月には発売できるかも知れないと言う。ディッキーもアレンも終始機嫌よく答えてくれた、気持ちのいいインタピューだった。

(取材・文/水上はるこ、写真/佐志素子)