瑞雲の法話「仏の教えをわかりやすく、少しずつ」
仏像彫刻と法話の世界

仏師、瑞雲の法話(第1章)

仏像彫刻と法話の世界

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仏師、瑞雲の法話 (第一章)

第1巻 第2巻
仏師、瑞雲の法話集第1巻 仏師、瑞雲の法話集第2巻
第1章  法話1〜法話14 (2000) 第1章 法話101〜113
第2章 法話15〜法話21 第2章 法話114〜126
第3章 法話22〜法話29 第3章 法話127〜140
第4章 法話30〜法話39 第4章 法話141〜153
第5章 法話40〜法話48 最終版 法話154〜
(仏師瑞雲の法話最新版)
第6章 法話49〜法話57 (2001) NEW
第7章 法話58〜法話66 2011以降の新法話
第8章 法話67〜法話76 ますます、おもしろくなった
仏師 瑞雲の仏像彫刻と法話
第9章 法話77〜法話87 (2002)
第10章 法話88〜法話100

法話14,仏はいつも見ている(その4・第一章完結編)

法華経の「如来寿量品」には、「人々は皆、仏はインドに生まれ出家して悟りを得たと信じているけれども、実は永遠の昔に既に仏となって、その限りなき間、全ての人の性質を知り尽くして、あらゆる手段をもって、いつも救っている。心から仏を信じ、素直に、仏に会いたいと一心に望めばこの世に出現しよう」とあります。
 また、「観世音菩薩普門品」には、「常に願い常に観音を念ずべし。清浄な光で広く世間を照らし、無量の智慧と慈悲で、災いのみならず人が絶対に逃れられない生老病死の苦しみまで救ってやろう、たとえいかなる世界にでも出現しよう。」とあります。
 観音菩薩様との出会いは、私を大きく変えました。寝てもさめても、いつも仏が心の中にいらっしゃるような気がして、観音菩薩様を心に念じると自然に涙が出てくるようになり、他人とはとても思えないのです。それまで、ただ唱えていたお経は、実際に真理であり仏の世界に通じる、この世とあの世の共通語であると思うようになりました。
 仏教では時間空間次元をも含んだ大世界を十界(地獄界から如来)に階層付けています。ちょうど我々の社会の会社に、社長から平社員、さらにパ−ト従業員まで階層が有るように仏の世界も秩序正しく整理されており、それぞれの人々の心の段階に応じて、それぞれ縁のある世界に生を受け、あるいは苦しみ、あるいは喜びの生活をしている。そこで悟りを得たもの(自分の真の姿に納得する)は、一段階くらいがあがって次のステップに進めるという具合で、歴然と「法」という仕組みが出来てるようです。
 私は仏道修行を始めてから、もう三十年近くになりますが、11節、ご来臨で述べたように不思議な経験が数多くあります。自分の心の段階が上がるときには、いつも違う人格で拝んでいるのです。最初は最も早く成仏出来るご先祖でありました。女性の声で観音様に懺悔し成仏を確認しました。(幽霊を見たのもこの時)彼女は大変な女丈夫で有りましたがそのためにかえって信仰をないがしろにしたので長い間成仏できず、この世にさまよっていたようです。11節の人格は大変功徳を積んだにも関わらず恵まれなかったが為に、心に邪見が芽生えてしまっていたのです。邪見がとれて、仏はちゃんと自分の苦労を知っていて下さったと感謝の念が生まれたので、成仏のときが来たわけです。
 お経を頼りとして、「心の修行をせよ」、これが釈迦の最後の言葉です。柔和な心を持って良く堪え忍び、全てのものは「空」と見て執着せず、全ての人に慈悲の心を持って接する生き方をすることが心の修行であります。3000年近い前の釈迦の生まれた時代、ちょうど今と同じように、たくさんの新興宗教がはびこっておりました。不思議な超常現象をみせてはこれが宗教とばかりに難行苦行して人々を魅了していたわけです。「心の修行」こそが信仰であり、宗教の目的とまで説かれた釈迦の本意を、宗教に関係する職業の方、政治に携わる方、世間の人は忘れているのではないでしょうか。理由は、3000年位前?に始まった貨幣社会、資本主義の成長、お金と物質尊重の拝金主義が人々の本来の清い心を洗脳しているがためと第一章では結論づけたいと思います。完。


法話13,仏はいつも見ている(その3・ご神託)

 私は、わざわざ仏の世界からご来臨された観音様に何度も礼拝し、あまりの感謝と喜びでどうか私を観音様のおそばに置いて下さい、一緒に連れていって下さいとお願いしました。今、現に観音様のいらっしゃる、この世界こそが真実の永遠の世界と思ったのです。
 すると、誰か、観音様でしょうか、御手を私の頭に当てられました。そして、右の肩をポンポンとたたかれました。誰か来たのかなと、礼拝の姿勢から頭を上げますと、もうそこは先ほど拝んでいた観音像の安置してある後宝前でありました。観音様も毘沙門天様もいらっしゃいません。畳の表面と涙を拭いたハンカチは涙でびしょぬれです。当たりを見渡しても誰も来ておりません。私は、初めての体験をもう一度かみしめたくて、しばらくは、頭を畳につけたままでおりました。午後11時でありました。9時頃拝み始めたわけですから2時間がたったわけです。かなりエネルギ−を消耗したのか、フラフラしておりました。35日間の願掛けはこうして終わったわけです。
 次の日の夜、観音像の持ち主であり、影になり日向になりして私を導いて下さる大観先生(師僧の兄に当たられますが、いずれ先生については触れる機会があると思います。)から観音様が今朝の明け方、出てこられてお言葉があったよと言われました。大変、喜んでおられたと言うことで次のご神託を頂きました。
 宝の珠を授けてやったぞ。人生、生きている限り修行であるぞよ。残り少ない下積み時代を大切に、己を無にして修行するように。困ったときはいつでも来るようにと。
 大変な経験でありました。この後、一週間ほどは嬉しい気持ちで満たされいて、外を歩くにも雲の上を歩いてるような気がしました。完全に普通の状態(煩悩の多い私)に戻るには一ヶ月かかりました。仏師、仏像彫刻家として独立したのは五年後、もう十五年間も仏像彫刻の仕事に追いまくられております。この間、何回も観音様を拝み、お姿こそお現しになられませんが、一心に拝んだときには、紫色の光の玉となってご来臨あそばされます。つづく。



法話12,仏はいつも見ている(その2・ご来臨)
天燃色観音様と毘沙門天さまのご降臨

 この法話は私が体験した実話であり、思い出しながら書いております。本からの知識だけでは自分自身もピンとこないし、本当に人々を感動させることは出来ないからです。一般の方々ばかりでなく僧籍のある方、宗教関係のご職業の方も是非読んでいただきたいと思います。
 さて、しばらくすると、また強風が出てきました。パタパタと何かが風にたなびく音がしています。純白の世界は次第にその姿を現し始めました。雲海です。何層にも重なった白い雲の束は遙か向こうまで見渡せます。ますます風は強く吹いてきて、吹き飛ばされるのではないかと思った瞬間、私は何者かに頭を押さえつけられてしまいました。
息が出来ません。苦しさにあえぐように私の口から自然に助けを求める声が飛び出しました。「ああ、すみません、もう悪いことは致しません、仏を父と思い母と思いお仕えしましょう」でも、しきりに懺悔している、この声は私の声ではありません。ますます、苦しくなったのでこれで私も今生の別れの時が来たと思い、ありったけの声と力を振り絞って、「南無観世音菩薩、南無観世音菩薩、南無観世音、観音様、観音様ーーー」と大声で泣きながら拝みました。
 すると、体がだんだんに軽くなり息も出来るようになりました。畳は涙でしめっております。何があったのか頭を起こしてみますと、そこには、パタパタと風にたなびく純白の天衣が手の届くところにあります。もうすこし目を上へ向けますと、等身大で白い衣をまとった観音様が立っていらっしゃいます。その美しさ、荘厳さは言葉で表現出来ませんが、白色を越えた白金色のような金銀の光を放つ白色のおからだと衣です。観音様の後ろ脇には鉾を右手に持って
控えていらっしゃる 天燃色の毘沙門天さまのお姿がありました。仏画や仏像の写真集などでみるお姿と全く同じであります。
 先ほどまでの苦しさは嘘のように消え、胸の奥底から喜びがこみ上げてきます。うれしさのあまり笑みがこぼれ出しました。まるで赤ん坊が母親に抱かれているような気持ちです。幼くして母親と生き別れしなければならなかった子が数十年後に再会したような喜び、私はこれが絶対に夢であってはいけないと自分の頬をつねってみました。やはり痛い。風にたなびいて、時折自分の肩にも触れる天衣と観音様のお衣をさわってみました。指でつまんでこすってみますと、これは絹です。肌ざわりの良い絹のような感触でお衣のどこを見ても全く縫い目がありません。天衣無縫とはよく言ったものだと思いました。しばらくの間、私は会い難い仏に会えた喜びをしっかりかみしめておりました。つづく。



法話11,仏はいつも見ている(その1・清浄な光)
観音菩薩さまとの出会い

 東に太陽が現れると、人々は太陽が昇ったといい、西に隠れると、人々は太陽が沈んだという。月も同じである。しかし、太陽も月も常に存在して出没することがない。仏もそのように常に住して生滅しない。太陽や月の光は全てのものの上にふりそそぐ。町にも村にも山にも川にも人がどんなに逃げても追いかけてこよう。ーーー(大般涅槃経から一部引用)
 仏の本体が悟りであり、過去、現在、未来を被う慈悲と智慧の光であることは既に述べました。この真理がわかれば、苦しみや悩みは消えて、全ては妄想、錯覚であったことに気づきます。そして、いつも仏がそばにいらっしゃるという思いがして幸福感を味わえましょう
 二十数年前、当時お寺で小僧として修行していた私は将来についての悩み、恋愛の悩み等の煩悩で仏師、仏像彫刻家になることも僧侶になることも断念して、好き勝手に暮らそうと思ったことがありました。こんなに努力しているのに、裏目裏目に出て、誰も本当に自分のことを思ってくれていないのではないか、もしかしたら、神も仏も架空のものではないかとまで考えました。一番辛い時期であったような気がします。
 働き口を探してやりなおそうと思いましたが、いくあてなどありません。わざわざ、鹿児島から上京し出家して、この世の真理を得て世のためになるような人生を送りたいと思って6年も修行してきたのだから、最後に日頃拝んでいた観音菩薩様に35日間の願掛けをして去ろうと思ったのです。雨の日も、どんなに忙しい日も、人目に分からぬようにと誓って35日目の夜いつものように観音菩薩像の前で拝んでおりました。1時間が過ぎた頃でしょうか、突然、屋内にいるのに風速30メ−トルくらいの強い風が吹き出したと思った瞬間、天が二つに割れて今までに見たこともないような明るい光が差しました。白色より白い明るさで辺り一面が純白の世界になったのです。そして紫色の光の玉のようなものが目の前に現れて、金銀の光を放射状に放ち出しました。
 なんと神々しく、暖かい、北極の真ん中で凍え死のうとしているとき出会ったたき火よりも有り難く心地良い、胸が喜びでいっぱいにになって幸せすぎて爆発しそうな気持ちのする光でしょう。この情景と感動は文章で書き尽くせるものではありません。ここからが仏との出会いになっていきます。つづく。



法話10,彼岸のお話

 今から千二百数十年前、仏教に信仰の厚かった聖武天皇が、僧の珍海にたずねました。「受けがたき人間に生を受け、仏法を信ずることが出来たのは何よりも幸いである。願わくは天下万民にも仏縁を結ばせてやりたい。しかし民百姓は仕事が忙しくて信仰をする暇もないがどうしたらよいだろう」
 珍海が答えて言うには、「春の三月と秋の九月は気候もよく、百姓の忙しくないときであります。その時を選んで一週間ずつ仏道修行をさせたら、功徳は甚大でございます。」
 天皇はお喜びになり、「春秋の二期必ず仏道修行をせねばならぬ」と万民に勧められたのが彼岸の始めといわれております。---(異説も有り)
 今年は3月17日から23日までの一週間が春のお彼岸にあたります。お墓参りや、お仏壇にお供え物をしてご先祖に成仏を願い、報恩感謝する事は最高の善徳です。今日、我々があるのはご先祖様のおかげ、偶然にこの世に、自分だけの力で生まれてきているのではありません。
 彼岸とは彼の岸、この輪廻転生の世界の向こう岸、即ち「極楽浄土」・「仏の世界」のこと。仏の教えの要、因果の法則(結果には原因が有り、それぞれ関わり合って、単体で存在しないということ)に気づいて、良い行いをすることが仏道修行で有ります。そういう人が多くなれば現実のこの世界も寂光土、即ち極楽になるわけです。哲学的な話し、難しいでしょうか?



法話9,四人の妻のお話

 四人の妻を持った男の人が、長旅をすることになりました。そこで、妻たちに同行を求めました。第一夫人はきっぱり同行の依頼を断りました。彼が片時も離さず、どこに行くにも一緒で、最も愛していたにもかかわらず。
 そこで、第二夫人に同行をいらいしましたが、同じように冷たく断られてしまいました。彼が最も信頼し、また、美貌の持ち主で、人生の努力の大半を彼女のために費やし、悪いことまでしてかわいがったもかかわらず。
 それではと、第三夫人に依頼しました。第三夫人は、たまに気が向いたときだけ愛する夫人でしたが、「村はずれまではお供しましょう」という返事でした。
 最後に残っている第四夫人、彼女は、いつも影から夫に使えてきた夫人でしたが、いつも見向きもされず、愛されたこともなかったような夫人でありました。ところがこの第四夫人が、「喜んでお供しましょう」と言ってくれたのです。彼は、ここで始めて、自分がもっと愛すべきであった夫人は第四夫人であったと心から悟ったと言うことです。
 「雑阿含経」に出ているこの話し、彼は死出の旅に出ようとしていたのです。第一夫人は彼の身体、第二夫人は、金銭と財産、第三夫人は家族や兄弟、友人など。そして最後の第四夫人こそ彼の心であります。
 人は「心」だけを道連れに、生まれ変わり死に変わりして、輪廻転生を繰り返します。ある時は長者として生まれ、人もうらやむ人生を送りますが、また、ある時は貧乏、病弱な身としてつらさに耐える人生を送ることになります。この輪廻転生の世界を飛び出すことが出来た者を、仏、悟った人、あるいは神というのです。



法話8,信仰とは理想を持つこと

 ウオルト・ディズニ−の言葉に"If you can dream of it,you can do it"という有名な格言があります。夢を持っていればこそ、物事を実現できるということです。
 オリンピックで優勝するような選手は競技前に自分が一位になって表彰されている姿を頭に思い描くと聞きます。永遠の名バッタ−現巨人軍監督は、打席で、自分がホ−ムランを打ってベ−スを一周している姿を想像していたということを聞いたことがあります。
 お釈迦様は「華厳経」で、この世のすべてのものは、心から起こるものであり、清らかな心でこの世界をみると悟りの世界が現れるが、この世の人々は、常に恐れ悲しみ悩んでいる迷いの心で見るから、迷いの世界が現れると説かれました。日蓮聖人はこのことを、「すべての業障界(苦しみ悩む世界)は、皆、妄想(無知・疑念・偏見)より起こると仰せられております。
 前にもふれましたが、この世は、想念の世界です。ただ、肉体がそれに従ってるだけのこと。一方、あの世、つまり死後の世界は、肉体のない想念だけの世界です。肉体があってこそ、人は勉学もできれば人生の体験から様々なことを悟れるわけですからまさにこの世界はもってこいの修行の場でもあります。
 では、なぜ人は迷うのでしょう。それは、下記{清らかな国」で述べましたように本来持っている仏から頂いた清らかな心、仏性が過去世の因縁、不成仏の霊、此の世で取り込んだ煩悩などで汚れてしまっているからです。
 だれでも、向上したいという夢を持っているのに、実現出来ないのは上記の汚れが原因です。理想を持つと、その反動として必ず試練が来ます。心を鏡のようにきれいに磨くことで、悪因を反射し、悟りの世界(理想)を写すのです。



法話7,清らかな国

 今日のお話は少し難しいかもしれません。心から理解出来る方は清らかなお方でしょう。新約聖書、「マルコの福音書」第10章13節から15節に
 さて、イエスにさわっていただこうとして、人々が子供たちを、みもとに連れてきた。ところが、弟子たちは彼らをしかった。イエスはそれをご覧になり、憤って、彼らに言われた。「子供たちを私の所に来させなさい。止めてはいけません。神の国は、このような者たちのものです。まことに、あなたがたに告げます。子供のように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに、入ることは出来ません。」そしてイエスは子供たちを抱き彼らの上に手を置いて祝福された。
 お釈迦様のお弟子の中にに智慧第一と言われたシャリホツと何を教えても覚えられない全弟子のなかで知能が一番劣ったグドンという人がおりました。お釈迦様は、グドンに庭を掃き掃除することと誰にでも笑顔で挨拶することを教えました。シャリホツは皆の尊敬を受けましたが、グドンはばかにされっぱなしでした。それでも、もくもくと掃除だけ笑顔で挨拶だけで人生を終わりました。死後、グドンは即成仏しお釈迦様から如来の地位を約束され、今でも信仰の手本、愚鈍菩薩として崇められております。一方、シャリホツはなかなか、如来の約束を頂けず、シャリホツ尊者という称号のままです。
 「無量寿経」に、「信を得て、遠い昔に仏が与えられた深い因縁を喜び、厚い仏の慈悲を喜ぶ者は、この世の生活そのままに、仏の国に生まれることが出来る。まことに、仏の教えを聞くことは難しく、信を得ることはさらに難しい。」とあります。
 キリストのお話にしてもお釈迦様の教えにしても、智恵が少々あるためにかえって疑念や慢心の心が沸きがちな大人は、その罪で天国や極楽に生まれにくいということを教えています。本来、人々は誰でも極楽浄土や天国の住人になれる、水晶玉のような「清らかな心」を持っております。ところが、現代社会のスモッグや有毒ガスのような、欲望の心を沸き立たせる情報が多いため真っ黒に汚れているわけです。 3月3日は雛祭りです。この世の貪り、怒り、様々の煩悩の渦巻く中に、心の中をお掃除してお釈迦様の教えをお祭りされてはいかがでしょう。



法話6,仏の教えは五千余巻

 仏が此の世に出現されることはまれであり、こうして皆様に少しでも仏陀の真実の教訓を全ての利害を超えて、伝えることは肝要と思われます。仏がインドのブッダガヤで悟りを開かれてから今年で2950年目(日蓮教学による)、身をもって説かれた教えは五千と余巻にのぼります。我々が読破しようとすれば10年を要する膨大なものですので、肝心な部分を、しかも、サンスクリット語(最初の仏典)から英語に翻訳されたものを更に日本語でわかりやすく解説された仏教聖典から引用して、自分の未熟な人生経験と照らし合わせながら書いております。
 仏の悟りとは、この世の真の姿(法)と生き方(道)であり、仏の本質は大慈悲と言う心ラウンジでもふれていますこの三界(人間が生まれ変わり死に変わりしている輪廻の法則の世界)を覆う慈悲と智慧の光であります。
 ここに子を抱いて乳を飲ませる母子がいるとしましょう。付きっきりで世話をする母の心は大慈悲であり、全ての人に備わる仏の智慧です。学校で習ったものではありません。乳を飲む子は母の心にふれて、安らかで、この乳は自分にとって有害かどうかというようなことは少しも考えておりません。子の心には、母にふれることで本能的に信ずる心が出来ているわけです。この母子の姿こそ法という悟りの世界であります。
 ところが、人々は言葉を持ち、とらわれの心、執着心が育ったために、心の煩悩の欲するまま、好き勝手なことをして自ら迷いの中であえぎ苦しんでおります。
 仏の教えは因果の道理に気付いて、執着心の虜になるなという教えです。全てのものには必ずその原因が存在します。現に今苦しんでいらっしゃる方にしても過去世か今世で行ってきた事の報いの現れであり、この法則に心から気づけば自然に苦しみは消え失せるでしょう。
 子供がリンゴを食べようと慣れないナイフで指を切って怪我をしたとします。当然のこと痛みを感じます。この痛みという苦しみはナイフが原因です。ナイフの使い方を知っていれば怪我はしなかったはずです。この人は今後ナイフの使い方を学ぶことで苦しみはなくなるでしょう。もし、怪我をして良い気持ちのするものなら、益々怪我をするようになるかもしれませんが、痛みという苦しみのお陰で幸福を手に入れることが出来ましょう。
 人生、苦しみ有れば喜びもある、仏像彫刻の世界もそうです、苦しみも喜びも越えたところが悟りの世界です。リンゴを食べられる喜び、怪我をした苦しみ、これらの体験から学んだことが悟りでありこの事件が法(この世の真実の姿)です。痛い思いも仏の慈悲であります。何事もこのように考えて今ご自分が直面する問題に取り組まれたらいかがでしょうか?


法話5,慈悲喜捨と守護神の話し

 大般涅槃経に「慈」とは人々に幸福と喜びを与えること、「悲」とは人々の苦しみ悲しみを除くこと、「喜」は、喜びの心で人に接すること、「捨」は分け隔てしないこと、この四つの大きな心(四無量心)をもって人々に接し、道を修めよと有ります。
 他人を厚くもてなして、己を軽くすることはたやすいことではありませんが、実はこれが仏の教えの根本であり、成功と幸福への近道であります。 厚くもてなされて悪い気がする人はいません。やがて、良い友人となり、その友人も同じように人に接し、清らかな関係は社会へと広がって、それこそ仏陀の理想である娑婆即寂光の極楽が誕生するでしょう。
 清らかな心の持ち主には清らかな守護神がついているものです。人から好かれることは人の守護神から好かれることになり、結局多くの守護神を持つことになります。大事業をなす人には、何百の守護神がついて、この人を守っているということです。反対に人を軽んじ、中傷したりすることは守護神を侮ることになり、どの守護神からも見放されて孤独な境遇をもたらしましょう。守護神の話しは仏像彫刻ワ−ルドのラウンジを参照してください。
 小中、高生のいじめの問題、学級崩壊と今や日本だけに限らずアメリカ、フランスなどでも国会に取り上げられるほど社会問題になっております。経済重視の物質文化は結局、心をを軽んずることになり、良い守護神を遠ざけ、煩悩の悪神達を招くことになります。
 小生、ネットサ−フィンをはじめてそろそろ三ヶ月になり、気がついてみたらいっぱいのリンクが出来て、嬉しいやら、たまには挨拶に行かなければと思ったりしています。目上の人は正しい道へ導いてくれる良き守護神、たとへ、目下の人でも心の垢や迷いを取り除いてやれば仏、いみじき者。


法話4,想念がそれぞれの世界を生み出す

 昨日の新聞に、最近の生活の満足度に関する世論調査の結果が掲載されていました。それによると、20歳代から70歳代まで生活が苦しくなったという回答が寄せられており、莫大な税金を投入した景気対策が功を奏していない現実が浮かび上がっています。 国民に還元されない仕組みがいつまで経っても悪循環をもたらしているようにも思えます。
 仏典には、社会とは教えを中心として和合する団体であり、すぐれた考え方を一つの心として、人々がそれぞれ功徳を積んで、喜び、満足、幸福、平和が生まれると教えています。人々が友のために、町のために、更には国のために、我を忘れて勤め励めば国は栄え、生活も楽になるということで、これが国家繁栄の理想でありましょう。
 しかし、バブル期に一般国民、政治家、経済人に至るまで、ただ目先の金のために、自分さえよければという想念が日本を支配したために現在の状況をもたらしてしまいました。
 仏典を引用すれば、欲に支配された領土で、これが地獄というものであります。今、必要なのは、人々が心から社会とは何かということに目覚めること、政治屋でなく政治家マネ−ゲ−ムの経済屋でなく経済家、宗教屋でなく宗教家でありましょう。 清らかな想念(イデオロギ−)は清らかな国を作り、欲で支配された場合は国家の破滅をもたらします。


法話3,川の流れに身を任せて2/16

 仏の教えは中道の教えです。一本の材木が大きな川に流れ出ました。この材木が両岸に近づかず、沈むことなく、人にも取られず、渦に巻き込まれないなら、ついに海に流れ入ります。
 このたとえの材木のように、全てのものに、全てのものの見方にとらわれず、人生の流れに身を任せて生きるならば、苦しみや迷いのない清らかな中道の生活を送ることになり、遂に彼岸の地極楽浄土に到達しましょう。とらわれないとは執着しないこと、握りしめないことです。執着心を起こすと初めの内は楽しいようでも、たちまち迷いの生活となり様々の苦しみをもたらします。
 しかし、此の世の人々は身分や富の多少にかかわらず、すべてみな金銭のことばかりにこだわり、なければないで苦しみ、あればあるで苦しみ、心が安らかなときがありません。そのために自殺する人もおります。自殺しなくとも、生きるとは死への旅なのです。ただ年数がちょこっと有るだけの話し。
人生はレンタル、皆仏様から無料で預かっているだけ、体も心も、生きている時間さへ身も心も清らかにして仏様にお返しましょう。 とらわれない心は、仏の教えを信じることにより授けられます。悲しみが有れば喜びが有り、喜びが有れば悲しみがある。悲しみも喜びも越えたところが、とらわれのない世界です。人生はとらわれない生き方の良い修行場。喜びと悲しみがある。


法話2、Job

 旧約聖書の人物で、忍耐と信仰の典型として崇められています。英会話の先生(米国人宣教師)のもとへアメリカからお客様がありました。わずか5,6年の間に父母、夫(病死)、子供二人(交通事故)と次々に無くされたご婦人です。彼女は大変に信仰心が厚く、それでも主への献身的信仰は変わらなかったと言います。
 普通、人は不幸が続くと、此の世に神も仏も有るものかと神仏さへも呪うようになります。信仰生活というものは簡単なものではありません。とくに彼女は全てを失って天涯孤独の身となったのです。
 この度は、その後に子供が11人有る医師と再婚され、今は幸せな境遇となって日本に旅行のため立ち寄られたそうです。
 仏典(法句経)に、堪え忍ぶことは、なしがたい修行の一つである。しかしよく忍ぶ者にだけ最後の勝利の花が飾られるとあります。人生は修行です。人は好むと好まざるによらず、ある時は地獄の苦しみを味わされ、またある時は地位、金、全てに恵まれた境遇をも味わうことになります。
 人生、悲しみがあれば喜びあり、喜びが有れば悲しみがある。悲しみも喜びも越えたところに仏はお住まいなのですよ。少しくらい思うようにいかないからと言って動揺するようではいつまで経っても喜びと悲しみのイタチごっこ。彼女はまさにアメリカのJob.仏像彫刻も喜びと悲しみを超えた世界を表現しているんです。

法話1、Valentine's Dayについて

 2月14日はバレンタインです。男の子にチョコレ−トをプレゼントする日ではありません。三世紀頃、ロ−マにいらした僧侶であり医師であります。皇帝Claudius 2世は若者が戦争に行きやすくするため、若者の結婚を禁止しましたがバレンタインはこれを破り、秘密に結婚させたので処刑されました。
 アメリカでは1629年、John Winthrop,Massachusetts Bay Colony知事が彼のwifeに”Thou must be my Valentine.”とカ−ドを送ったのが始まりで、1847年女性実業家がカ−ドを売り出しています。現在では米国で毎年10億枚位のカ−ドが売れてるようです。
 皆さんはプレゼントの交換していらっしゃいますか。以上、英語雑誌を翻訳してご紹介しましたので多少間違ってるところ有るかもしれません。どなたか追加コメントをBBSにお願いいたします。


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 手作り仏像で好評の仏師 瑞雲作品を展示しています。最近は機械彫りの仏像が出回っていますが、崇高で味のある作品はやっぱり手作りにはかないません。瑞雲先生がこれまで彫られた手作り仏像作品をご高覧ください。

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