瑞雲の法話「仏の教えをわかりやすく、少しずつ」

仏師、瑞雲の法話 第10章

仏像彫刻と法話の世界

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1)法話 (第十章)

瑞雲作不動明王
瑞雲作不動明王

第1巻 第2巻
仏師、瑞雲の法話集第1巻 仏師、瑞雲の法話集第2巻
第1章  法話1〜法話14 (2000) 第1章 法話101〜113
第2章 法話15〜法話21 第2章 法話114〜126
第3章 法話22〜法話29 第3章 法話127〜140
第4章 法話30〜法話39 第4章 法話141〜153
第5章 法話40〜法話48 最終版 法話154〜
(仏師瑞雲の法話最新版)
第6章 法話49〜法話57 (2001) NEW
第7章 法話58〜法話66 2011以降の新法話
第8章 法話67〜法話76 ますます、おもしろくなった
仏師 瑞雲の仏像彫刻と法話
第9章 法話77〜法話87 (2002)
第10章 法話88〜法話100

法話100・100法話達成御礼

ホームページに、最初は日記を載せる予定が法話を初めて2年半近く、やっと
100法話達成です。この法話はインターネット上の説法ですから、わざわざ
交通機関を利用して聴きに来られる必要はありませんし、寄付のお願いとか全く
ない無償の法話です。私の本職は仏師で、仏像が主な題材ですのに、わざわざ
法話を読んで下さる皆様に「有り難うございます」と御礼を申し上げます。

さて、作家の瀬戸内寂聴さんは64才のとき、天台寺という岩手県の僻地にある
荒れ寺の住職になって、「さて、どうしたら徳川時代までは東北で一、二と呼ばれ、
参詣者の多かった昔のような賑わいを戻すことができようか」と考えられた末、
月に一度のあおぞら説法を始められたそうです。それで、毎月ご実家の京都から
忙しい中を岩手の天台寺までわざわざ毎月通い続けておられるということです。

寂聴さんの法話は、わかりやすくて評判が良く、マスコミの話題にもなって、参会者
の数は月を追って増え続けたました。その結果、山寺は復興し、村に橋が架かり、
道路が広くなり民宿が出来、大型バスのための駐車場も出来たといいます。
天台寺のご本尊は霊験あらたかな桂泉観音と十一面観音薬師如来さまで、御利益
をいただいて下山される方が多いとか。

法話は初めは半信半疑に聴いていても「わざわざ」遠くから参詣してくるご苦労
に神仏の功徳が授けられるのでないでしょうか?
私も、わざわざ法話を続けている功徳か知れませんが、たくさんの人に仏像の注文
をいただき有り難いことです。「わざわざ」とは有り難い良い言葉ですね。

(瀬戸内寂聴 あおぞら説法より一部引用)

法話99・甘露の法雨

梅雨の時期の蒸し暑さはたまりませんね、ワールドカップの外人選手には
日本の梅雨はこたえるかも知れません。しかし、この時期の雨は植物を育て
夏の水枯れや冷夏を防ぎます。まさに植物にとっては、甘露の法雨です。

甘露とは天上界のお酒のことで、これを飲むと不老不死になるといわれ、
転じて仏教のことを甘露の法門といいます。

日本画の巨匠で百五才まで生きられた小倉遊亀さんは、死の直前に
「何も持たぬという人も天地の恵みをいただいているのです」と言葉を残されて
いますが、長寿の秘訣は感謝第一の心と「明日のことは
思いわずらわず、今日一日を一生懸命生きるだけ」と言われているように
天地自然に身を任す謙虚さにあったのではないかと思います。

仏典には、---仏の大慈悲はすべての人に我が子のように平等であり、それは
ちょうど雨が大きな木にも小さな草にも同じように降り注ぐようなものである--
と説いてあります。梅雨の時期の雨にも大きな意味と仏法があるものですね。
今回は、その雨を降らせるのがお役目の八大龍王をご紹介いたします。

(法華経 薬草喩品より)

法話98・仏師として一国一城の主

私の師僧は大変著名な行者でありました。政財界や芸能界に信者が多く、
テレビで見慣れた方々がよくご祈祷や人生相談に来ました。坊さんの世界では、
落ちる滝の水を法力によって一時止めたというので知られるくらいですから、
ひとたびも、師の鋭い眼光に背後の霊や前世の姿を見抜かれると、ビックリ
されてガタガタ震える人も多かったのです。

私は18才で、この師に弟子いりして仏道修行が始まりました。思い起こせば、
初めて師と会ったとき、師は私の顔をじーっと見て、「おまえ、一国一城の
になれるぞ、明日から俺の弟子になれ」と、まるで戦国時代の覇者、織田信長
のようなことを言われました。

次の朝、僧侶をお供に満月のお月様を飲み込むという不思議な霊夢を見ました
ので、これは私の宿命と決めて、この傍若無人であるけれど大変な力を持った
師のもとで修行が始まったのです。師は気性の激しい人で、今、NHK大河ドラマ
にも信長が出ていますね、本当に織田信長の現代版のような人でした。私は田舎
ものの青二才ですから、窮鳥懐にいるではないけれど、弟子としてかわいがって
もらったと同時に大変な心の修行、人格、霊格、また東京の夜、政財界や
マスコミ芸能界の裏も見せていただき、とてつもなく男を磨くことが出来たん
です。このような師匠ですから、私は「自由」という青春の象徴以外のもには
大変に恵まれた修業時代を過ごしました。

あるとき、布団が古くなったので新しいのを買わねばなりませんが寺にはいくら
でもあるので寺のを使っていましたら、観音さまから怒られたことがありました。
「人の布団に寝るようでは運命に傷が付き一国一城の主にはなれないぞ」という
ご神託で、早速観音様にお詫びして新しいのを買ったのでした。

あれから30年以上たちました。今は仏師の仕事に追われる毎日です。あのときの一国一城の主とは仏師として成功することだったのですね。

一国一城の主と言われるよな人は、背後に強い守護神や守護霊を持っていらして、
前世も世のため仏教のため尽くされたという方が多いのです。特にこれが教祖や
著名な僧侶ともなるとなおさらです。宗教団体に入信するような人々は、因縁
があって体と心と布施の修行をさせられるわけですが、実は依頼心が強い人が
多い
のではと思います。この依頼心という弱い心を無くすことが出来たら、
仏道修行は一区切りが卒業ということになるのでしょう。釈迦最後の教えを
自灯明・法灯明の教え」といって、誰にたよるな、仏典の法と自らの良心
を信じて生きよ。邪悪や欲に負けることなく迷いやすい心を修めて、心の主に
なれ
ということですから。


法話97・己を無にして仏像彫刻せよ

初期仏典には、人の心の有様が説かれていて、かたよらない中道の道を
教えています。人は「我」に執着し、ものに執着の心を起こすと、たちまち
迷いの道に入ってしまいます。あらゆるものにとらわれない達観が大事なんです。

仏像彫刻は、私は初めは全くの素人でした。約30年かかって、
ここまで来たわけですが、教えを受けられる決まった師という人もおらず、
すこし上手になっては壁に突き当たる繰り返しでした。

仏像彫刻を初めてから5年目くらいだったでしょうか、彫っても彫っても納得の
いく作品にならないので、相当に自信をなくしていた時期がありました。
そんなおり、毎日拝んでいる観音様から、「己を無にして彫って見よ
開眼させてやるぞ。
」というご神託を師僧を通していただいたのです。

私は、仏像のお顔やお姿を仏像らしく上手に彫ることばかり考えていましたので、
それが良くなかったようです。彫れば彫るほど悪くなっていくのは、細かい
ところにこだわりすぎて全体の調和がとれなかったというわけです。仏の
教えは、うーんと短く二文字に要約すれば「中道」です。仏像を彫るとは
「中道を彫る」ことなのに、細かいところにこだわって彫っていて仏像に
なるわけがありません。

不思議なものですね、「己を無にして彫って見よ」という意味が心から
あの頃、わかったわけではないのに、この観音様のお言葉をいただいてからは、
彫ったものがすべて自分にしてはビックリするような仏像になり出したんです。


法話96・IT時代の無心

昔、禅の修行をしていた僧侶が無の心境になりたいと、いかに無になれるか、
座禅中も、寝てもさめても「無」ばかり考えておりました。

ところがある夜、枕元に雲を突くような大男が現れました。「だれだ!」と
叫ぶと、大男は「無じゃ。おまえが無ばかり考えている想いがわしなのじゃ」
と言って消えたそうです。無にこだわりすぎたために怪物を化生してしまった
のです。

この世に、おそらく悩みや、苦しみ、不安や疑念、妄想のない人はおりません。
お釈迦様ですら、それら人間が本質的に持っているものに気づかれ、いかに
克服し、生きるべきか悟られたわけです。ということは、悩みや、苦しみ、
不安や疑念、妄想といった人生の試練は、「悟り」を生む母でもあります。
しかし、法華経、華厳経、涅槃経が説くように、それは仏の力があってのみ
、成し得ることです。

ITの普及で益々情報が氾濫し、様々な知識や刺激、分別が身に付くことで、
無心になることは今後かなり難しくなることでしょう。
あなたは、どうやって無心になりますか?

私の場合は、仏像を彫っているときは無心ですが、本当に大無心になれるのは
観音様の前で拝んでいるときかな。自分が誰なのかわからなくなるくらい
体の奥底から一心に拝みます。


法話95・正・五・九

正・五・九とは一年の内、正月と五月、九月のことで神様の月のことです。
この奇数月には各地の神社仏閣で神様のお祭りがあります。神霊界では神様の
働きが最も強い時期です。

私にとっては神様からご霊気(英語ではreikiで去年英国で新語になりました。)を
もらえる大切な時期で、正月は春の運気を呼び込み、今月の五月は夏から秋へ
今年の本番のチャンスをものにしていく力をもらえます。九月は秋から冬へ
実りと貯蓄のための時期ということになります。

世間では、神社仏閣に一年に一回初詣という方が多いことと思いますが、
神仏も、「遠くの親戚より近くの他人」で、ちょこちょこご機嫌を伺ってくれる
人の方がかわいいのは人情ならぬ神情ではないでしょうか?

江戸時代の有名な思想家である平田篤胤(ひらたあつたね)は、我が国古来の
敬神崇祖(けいしんすうそ)思想を著書に残しております。「先祖に仕え、神を
敬うと先祖と子孫を守っている神様の神徳と神威を増し、先祖と子孫が共に
功徳を受けられるため、禍は消え、家は安泰である」

日本は今や政治も経済も文化も凋落ぶりが目立ってきました。GDP国内総生産の
伸び率鈍化、倒産件数の増加、株価地価の下落、学力の低下と犯罪の増加等。
経済再生ばかりが叫ばれていますが空回りになっていますね。もう、昔のような
経済大国、エコノミックアニマルの時代は終わったのではないでしょうか?
情報や知識、文化芸術宗教大国を目指す新時代になっていると私は考えています。

(平田篤胤「玉だすき」・堺屋氏経済漂流インタビュー新聞記事より一部引用)

法話94・歯医者

奥歯がとうとう虫歯になったみたいで、熱いものも冷たいものもしみるので歯医者
先生へ電話、飛び入りで歯の神経を抜いてもらって、治療をはじめました。

もし、私が歯の痛いのを我慢していたら、いつまでも痛さをこらえなくてはなりません。
歯医者の先生は、「痛かったら、すぐ来てみるものですね」と喜んで下さいました。

仏典には、仏の心とは大慈悲であると説かれております。ちょうど子を思う母親の
ように「おまえの楽しみは私の楽しみ、おまえの悩みは私の悩み」と、かたときも
見捨てることなく、守り、育てる大慈と大悲の心であります。

ちょうど子が母親の心に触れて心が安らかであるように、人は仏の大慈悲に触れて、
信仰が芽生え、信仰によって悟りを得る
ことが出来ます。それは、歯医者の先生に
治療してもらって痛みが取れ、歯が治るのと同じですから、自ら求めて仏の慈悲を
願うべきです。

(観無量寿経、法華経等より)

法話93・ロードオブザリング

ゴールデンウイークに、話題の超大作映画「The Lord of the Rings」を見ました。
原作「指輪物語」の作者はイギリスの学者、トールキンで1936年に書き出し、1954
に今回見た三部作のうちの第一部「旅の仲間」は刊行されています。超自然物、
魔法が出てくる成人のためのファンタジー(空想物語)は米英で大ヒットしました。

世界を支配しうる暗黒の力を持つ指輪をめぐって、人間とエルフ(妖精)を仲間と
した「善軍」とサウロンが率いる魔物、「悪軍」の戦いはキリスト教からみれば
「異教的」と評価されていますが、実は仏教からみれば仏典に説かれる、そのままで
あります。

釈迦最後の教え「遺教経」では、お釈迦様は弟子らに「煩悩の賊は常に君らのすき
をうかがって倒そうとしている、煩悩の賊は追い払わなければならない。もし、
煩悩の毒蛇が心の中に住んでいたら、追い出さなくてはならない。」と遺言して
います。心に貪り(権力やお金など欲しい欲しいと思うこころ)があると、それは
煩悩の毒蛇で、やがて悪いことをするようになります。煩悩の虜になって悪の手下
になります。

私は10代の終わり頃、夢に自分の前世物語をみたことがありますが、時代は戦国時代
で、ある大名に仕える忍者でありました。悪を倒す金の太刀を持っていて、頭が
三つある黒龍と闘っておりました。頭が三つある黒龍とは人間が持っている、
「欲望、怒り、愚かさ、邪見、恨み、ねたみ、おごり」、といった煩悩の大将のこと
です。

政治家もカリスマ宗教の教祖も、一般の人々も落ちていく人は、この魔界の大将や
魔物、魔性にやられて人生をダメにしてしまいます。「生きる」とは「修行」、
「修行」とは煩悩に負けない強い心を育てることなんです。煩悩に負けない強い心
は、天文学的時間と空間、次元をも越えた宝です。

遺教経より

法話92・不惜身命

不惜身命」とは、菩薩は人々を救うために命を惜しまず努力されると言う意味です。
今からちょうど750年前の今日、建長5年4月28日、日蓮聖人は 千葉の清澄
旭が森で登る朝日に向かって「南無妙法蓮華経」とお題目を唱えられ、実に迫害の多い
「不惜身命」の法華経流布をスタートなさいました。

この日蓮聖人のご苦労の功徳によって、新興宗教を含めて何千万の人々がお題目を唱
えるようにはなりましたが、日蓮聖人のお言葉
行学の二道を励み候うべし、行学絶えなば仏法はあるべからず」には、まだまだ
ほど遠いと言えます。既成仏教は葬式屋に甘んじて、一般の人々、若い人々との距離は
離れるばかりです。また、明治から寺の経営が世襲制度になったこと、相次ぐカリスマ
宗教の引き起こす事件で、規制が厳しくなり、新しく宗教活動を始めるのは非常に困難
になっています。

アメリカでは、国民の8割以上が基督教徒で、自分の宗教に対して非常にプライドを
持っており、牧師や伝道師の社会的地位高く、教会の活動が人々の生活と密着して
おります。教会の牧師は住民の審査と投票によって選ばれるほど民主的ですから、
すぐれた宗教家が生まれるわけで、テレビやインターネットを使った伝道は、日本と
アメリカでは雲泥の差になっております。

観音様は、「今の日本に日蓮聖人や弘法大師空海のように不惜身命で世の中を良くしようと
頑張っている宗教家がいったい何人いることか」と嘆いておられるとのことです。
私は僧侶ですが、彫刻に才能があるので、オンライン仏像彫刻教室で多くの
人に仏像を彫ってもらって、釈迦の教えの伝道としたいと考えます。

諸法実相抄(日蓮聖人)より

法話91・継続は力なり

先週、インターネットで知り合った米国人と東京でお会いしました。この人は禅を
修行しておられ、日本の仏像や文化、宗教に大変明るい知識をお持ちでした。
西洋の人々は、今、東洋とりわけ日本の仏像に大いに感心を持ち出してきている
らしいです。何故って? 満足に紹介されてないからです。

私は、6年以上前から英会話教室に通ってはいますが、この2年はパソコンの勉強に
時間をとられ英語の勉強がおろそかになっていました。しかし、2時間の間、英語で
会話が出来、発音がいいと褒めてもらいました。

継続は力なり」とはよく言ったものです。いざというとき口から英語は出てくるもの
ですね。仏典には「弓を学ぶのに、最初から当たるものではない。学び続けていれば
ついには当たるようになる。」と説かれております。小さな小川が、流れ流れてついに
大海に入るように、道を修め修めてやめることがなければ、必ずや大願を成就出きる
ということでしょうか。

初期仏典より

法話90・嫁のタイプ

私の住まいの近くには大型の店舗が2,3あります。
買い物をしようと、そのうちの一つの店に行きましたら、駐車場が混んで
いました。客が多かったので、家内に尋ねたら、今日はピンクレシートの
日で5%引きで商品がかえるとのこと、各店舗がサービスデーを毎週1回
設けているので、その日を買い物日にすると月に5000円浮くとのこと。
ほほう、女性はやりくり上手でなくてはいけないなと思った次第です。

昔、インドに長者の息子に嫁いだスジャーターという嫁がいました。驕慢で
金遣いがあらく、いつも父母や夫を悩ませていました。

ある日、長者の家に来られたお釈迦さまは、スジャーターに「スジャーターよ、
世には七種のタイプの嫁がいる。
1,人殺しのような嫁で、夫を敬わず、不倫もする嫁
2,盗人のような嫁で、虚栄心のため金遣いが荒い嫁
3,主人のような嫁で、自分は怠惰で、夫を叱咤する嫁
4,母のような嫁で、夫を我が子のように守り、夫の収入を大事につかう嫁
5,妹のような嫁で、夫を敬愛し良く仕える嫁
6,友人のような嫁で、いつも久しぶりに会ったように夫に接する嫁
7,女中のような嫁で、夫に対して怒らず、何でもしてくれる嫁
スジャーターよ、おまえはこのうちの、どのタイプになりたいのかね?」

これに諭されたスジャーターは、心から我が身を恥じて反省し、その後は
女中のような嫁になって夫を助け、仏教を信仰するようになったということです。

初期仏典「玉耶経」より

法話89・七面さま

先週、兵庫県から千葉の果てまで、わざわざ車で尼僧さんご一家が見えました。
仏像をお願いするのに電話では何だからと、制作してもらいたい七面天女像の
写真も持ってこられました。

尼僧さんは長年 七面さま(七面大菩薩ともいう)を信仰しておられて、新しい
お堂にお祀りされるそうです。昨年の暮れ、七面さまが出てこられて「そろそろ、
私のお像をお祀りしなさい。日出る国に僧侶で仏師の方がおられるから、その
方にお願いしなさい」とご神託されたとのことで、方々知人に尋ねて、私に
彫刻の依頼が来たわけです。

私は今月は、奈良長谷寺式十一面観音像を彫っていましたので、彫りかけのお像
を作業机の上に置いてありました。尼僧さんは、「あら!何という仏縁か、
実は、今日お供したこの子は奈良の長谷寺十一面観音を信仰していて、孫は観音様に
授かったんですよ」とのこと、私の守護第一仏は聖観音さまなので、不思議な霊験話
に花が咲いたことでした。

この法話は実話です。不思議なこともあるものですね。

法話88・毘沙門天と命の長さ

アメリカのアイオワ州立大学デイットマーという生物学者が、実験をしました。
広さ30センチ四方、深さが56センチの砂の入った木箱に、1本の麦の
苗を植えました。そして4ヶ月の間、水だけやって育てたところ、弱々しいが
育ちました。

そして、箱を壊し、どれほど麦の根が伸び広がったか、肉眼では見えないような
小さな根までも詳しく測りました。その結果、なんと根の長さは1万1千2百キロ
メートルに達していたそうです。

決められた広さの升の中で、ろくな養分も与えられず良く育ったものだと感心し
ませんか?この升こそ、麦に与えられた厳しい宿命であります。なのに、なんと
、 いじらしい生命力の持ち主でしょう。もし、十二分な化学肥料や養分を与えていたら
結果はどうなっていたでしょうか?博士に、その実験もしてもらいたいものです。
この実験から、私達の人生にも共通するものがあると感じられずにはいられません。

私が、僧侶の修行をしていた20歳代後半のころ、観音様は「人の宿命には与えら
れた器(升)がある。どんなに努力したところで、これを変えてやることは、神霊
界では違反になる。しかし、もし、観音を信仰し続けるならば、与えられた升から
、いつも水がこぼれるくらいの功徳を与えよう」とご神託なさいました。

だから、人はこの麦を見習って、いかなる逆境にあっても与えられた宿命を受け
入れて懸命に生きなければなりません。そうすれば、人生の根は、しっかりと
大地に広がり、功徳をもらえる時期がくれば、ついに立派な「悟りの実」を結ぶ
ことでしょう。

毘沙門天は天上界の須弥山の中腹に住み吉祥天を妃として仏法を護っておられます。天上界でも途方もなく寿命の長い世界の城主です。戦国時代、織田信長は、幸若舞の「敦盛」を舞いながら「人間五十年、下天の内をくらぶれば、夢幻のごとくなり、一度生を受け、めっせぬ者のあるべきか」と謡ったといいます。 「下天」とは十界の天上界の一番下の世界のことで、ここの一日の長さは人間界の五十年にあたり、この世界の人々の寿命は人間界の900万年位にあたるのです。だから、人は人に与えられた寿命を賢明に人間らしく生きないといけません。毘沙門天さまのように、生まれ変わり死に変わりして心の修行に励めば、いつかは寿命の長い天上界に生を受けられるかも知れませんね。
この法話は私の小学校時代の恩師である、M先生(校長職を今年退職)の回顧録の一節を引用
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