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「金持ち女 前編」

何食わぬ顔で、丸々と太った猫が僕を一瞥した。

熱帯夜。

彼女を送ったあと、越してきたばかりの街をぶらぶら歩く。
「ワトソン動物病院」
ちょっと、近づいてみると、もう閉まってしまってひっそりしている
その病院の入り口に、作り物の犬の隣に横たわる猫がいた。
僕を見た後も、彼はずっと目の前を走る、新目白通りを眺めている。


先日、学校のそばに引っ越した。
前の家の、あまりの遠さと、自分の不精のせいである。
前期にためた金のうち、30万ほどをそれにつぎ込んだ。
はたして、それほどの価値があるのだろうか。
それは今はわかるまい。
そんなに、家にいる時間がなかったせいだろうか、
以前の家に特に愛着も感じない。

7月21日。
もう、夏真っ盛り。
東京には冬がなかった。
そのかわり、夏は暑い。気持ちの悪い暑さだ。
日中家にいたら、クーラーなしではやっていけない。
それでは、電気代がかさむだろうと、仕方なくかった
扇風機を顔に当てる。


実家にはクーラーというものがなかった。
そのため、家には扇風機が5つはあった。

裸になり、扇風機の前に座る。
後ろにいる家族のことなど考えずに。

祖母が、茹でたばかりのトウモロコシをざるいっぱいに持ってくる。
歯にトウモロコシをたくさん挟みながら、かぶりつく。
実に甘い味だった。

祖父は、千切れそうなランニングを着ながら、
甲子園のテレビ中継に口を挟む。
農作業で真っ黒に焼けた肌が夏を強調する。

昼になると、母さんが簡単に作った、冷やし中華を持ってくる。

蝉の声が止み、 ケンケーンと鳴くあの虫の声に
変わり、辺りが夕焼けに包まれる。

そして、夕闇が迫り蛍の幻想的な明かりが、
家の前の川に生えている、柳に見える。
僕の小さいころは、それこそ、たくさんの蛍を見るころができたものだ。
捕まえて、虫かごに入れ家にもって帰る。
翌日には残骸になってしまう。

妹を誘い、花火をすると、
火の始末を心配する父が、口うるさく出て来る。

花火の光に寄ってくるたくさんの虫を焼き殺す。
おかしな匂いが漂う。。。


今晩もまた寝苦しい。
電気を消し、窓を開けてみると、
心地よい、涼しい風が、ワンルームの狭い部屋に入ってきた。

僕のマンションの前には、15階建ての
恐ろしいくらいでかい、マンションが聳え立っている。
これが倒れたら、僕は死んでしまうのだろう。
よくそんなことを考える。

ベランダに出てみると、下で、男と女が口論している。
男が女をぶつ。

幾つもの種類の風鈴の音が、夜にこだましている。
このマンションには沢山の人間が詰め込まれているのだ。

こんな都会でも、コオロギが、鈴虫が鳴く声を聞くことが
できるのを知った。
コンクリートの上で鳴いているのだろうか。
それとも、少しだけしかない土の上で鳴いているのだろうか。


車の走る音さえなかったら、もっと、こいつらの声を
聞いてやれるのに。もっと、風鈴の音が奇麗に聞こえるのに。



愛着がないと言った前の土地で、
最後におかしな出来事に遭遇した。

一ヶ月以上前のことである。
バイトを終えて、東伏見の駅に着き、階段を登っているときだった。

派手な格好で、きたない化粧をした中年の女に声をかけられた。
「あなた、この前荷物持ってくれた、アナウンス学校に通う子よねえ?」
違うといったが、それでもそいつは話し掛けてくる。
バイト先が混んで、苛々していたので、
どうでも良くなっていた僕は、その話に付き合うことにした。

「あなたね、その荷もつもってくれた子に良く似ててさ、
電車乗ってるときから、ずっと見てたのよ。」

変える方向が同じだったので、一緒に歩いた。
聞いてみると、その人は若い頃は女優だったそうで、
映画にも一つ出ていたという。
しかし、マネージャーに、上を目指すならと
体を求められて、辞めてしまったそうだ。

今は、別れた旦那と、一緒の家に暮らしていて、
旦那と、旦那側についたその子供たちが、
家の二階に住んでいるとのことである。

「人間ってそんなに器用ですかねえ」

「もう、別れて15年。感情もまったくないわ」

その太った女の自転車置き場に着いた。

「自転車とってくるまで待ちますよ。」

「あら、優しいのね。うれしいわ」

自転車をとってきたその女に、
それじゃあここで、と伝えるともう少し話したいという。
もう会ってから、30分は経ったと思う。

「あなた、僕が誰かに似てるって嘘じゃありませんか?」

そんな事を言った自分に驚いた。

「おばさんが、嘘をつくような人に見える?」
そう切り替えしてきた。
こいつは何なんだろうと思い。切り上げようとするが、
なかなか帰してくれない。

「一人暮らしならこれをあげるわ」

そういって、買い物袋から、いくつかの食品を取り出して、
僕の手に渡した。返そうと思ったが、それで、帰れるんなら
貰ってもいいだろうと思った。
それに、実際食料なら大歓迎だった。家には何もなかった。

そして、その女は自分の連絡先を教えてきた。
僕もどういう訳か教えてしまった。
電話番号を言う直前まで、違う番号を言うつもりだったが
僕はそうしなかった。
どうして、そうしてしまったのか今でも分からない。。。

女は知り合いであるという、プロダクションの人の
名刺を渡してきた。
「あなたも、自分をしっかり売り込まなくちゃ
だめよ。特徴のある顔してるんだから。」

その後、多少話した後、
ようやく帰れることになった。
勿論、その女は付いてきたが。

家を教えろという。何か作りにいくからとまで言っている。
家の側にきて、それを断固拒否した僕は、さよならを言う。

「もう、あなたのアパート分かったわ」

そう間違えて指差したアパートの方向に、
僕は進み、遠回りして帰った。

ひっそりとした家の、静寂を破ったのは
その女からの電話だった。

「今から、何か作りにいっても良い?」

今日はもう寝るからと断った。
今夜はおかしな夜だと思った。


〈続〉


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