
ナポレオン三世の第二帝政時代(1852〜70)
1848年2月.二月革命が勃発し、ルイ.フィリップは退位してイギリスに亡命する。変ってナポレオンの甥のナポレオン三世の時代になる。
この時代は、クリノリンスタイルの時代でもある。クリノリンとは、スカートを支え、それを膨らますためのアンダースカートである。が、鋼鉄製の10本くらいの輪で構成された籠のようなものでこれを使用することによって、鉄枠を平均40〜50メートルの布地でカバーしたクリノリンドレスは、豪華ではあるが重くて歩くのも大変だった事だろう。一方で膨らんだクリノリンドレスは、高貴な女性の妊娠を隠すために採用したという風説もある。
1860年代に流行った髪型 ナポレオン一世の姪でナポレオン三世の従姉妹マチルド公女
ナポレオン三世がスペイン貴族の娘ウージェニーと結婚したのを期に、フランスでは、スペイン風ショールや櫛が流行した。ウージェニー皇后は、ファッション.リーダーとして「クリノリンの女王」と呼ばれた。
その頃オートクチュールの創始者ワースがパリにメゾンを開設し、王室や上流階級の支持を得るようになった。1860年、ワースはウージェニー皇后のクチュリエになった。
ヴィンターハルター画「ウ−ジェニ−皇后と女官たち」



*美人皇后ウージェニーとエリザベート
19世紀の肖像画家、ヴィンター.ハルターは1865年ウィーンから戻り、ウージェニーに、オーストラリア皇妃エリザベートの事を夢中で話した。このときエリザベート皇妃は26歳。美しさの絶頂にあった。
ウージェニーは、かねてからエリザベートと知り合いになりたく思っていた。
1867年、フランス皇帝夫妻は「調停訪問」としてザルツブルグを訪れた。エリザベートはウージェニーを、あまり気にかけていなかったのに対し、ウージェニーの方では、身分の低い出なのを気にやんでいた。だが、ふたりは共に美容に関心が高かったので、意見を交換したりしながら親しくつきあった。
オーストリア皇妃エリザベート(ヴィンターハルター画)

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第三共和制の時代(1871〜1900)
1870年〜71年普仏戦争の敗北とともにフランスは19世紀の終わるまでの30年間、二派に分かれた王党派、ボナパルト派、共和主義者、急進派など多様な思想傾向を持つ党派の中で葛藤しながらもブルジョア支配の共和政治の基礎を固める。
文学、思想、美術界は、19世紀を特徴づけた機械文明への不安と懐疑の風潮を深め、80年代終わり頃からファン.ド.シェクル(世紀末)と呼ばれるデカダンスの時代へ入る。退廃的思想は、市民生活にも浸透し、享楽主義の「ベルエポック」(よき時代)の始まりであった。
1860年末から、クリノリンに代わって、腰だけをふくらませたバスル.スタイルが流行する。バスルスタイルの時代の髪型は、つけ毛が上部に加えられて髪型は高くなり、ドレスにつりあうように、後頭部にポイントがあるヘアスタイルになった。小型の帽子も流行した。
1872年に、こてによるマーセル.ウェーブが発明されるや、自然なウェーブの髪が新鮮にうつり、急速に広まっていった。






1890年代になると、バスルスタイルはなくなり、ベル型の裾広がりになっていく。袖山は、ぴったりしたものから大きくふくらんだジゴ袖が復活する。ウエストを細くし、肩と裾が広がる形なので、アワーグラス(砂時計).シルエットと呼ばれた。
1900年になると、デザイナーのポール.ポワレがコルセットを使用しないドレスを発表。近代モード史をスタートさせた。
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