自己 紹介

若き日の私 身障者手帳

二十四歳の私華の美青年
華の美青年そして現在


初恋ストーリー(二度目の方へ)/そして憧れ(三度目の方へ)

病気のこと

見ました?このギャップ・・・・・(T_T)
花のマッチョ系好青年が、お上の認定する身体障害者ってことに なっちゃいましたね。びっくりしましたね。

多発性硬化症という病気は、自己免疫疾患といって、 自分で自分の神経細胞を壊してしまうというあほらしい、いえ、とんでもない病気なんです。 大事な神経部分をやっちゃうと、死に至る病となります。

でもそうでなければ、病気のようには見えない困ったちゃんで自覚症状しか出ません。 曰く、手足の痺れ、反射の亢進(脚気の逆)等が主な症状となって、とりあえず対症療法ということで、皆様おなじみのステロイドの登場というわけです。 これでなんとかなっている内はまだ良いということなんですね。だけど、この症状がひどいと後遺症になっちゃうんです。

その結果が身体障害者手帳って訳で、でも、私のばあいまだ軽い方なんですよ。こんなことしてますしね。

私のこと

えーと、それはそれとして、私の生まれは山梨県甲府市です。夏暑く冬寒い、 甲府盆地の窪みの真ん中で生まれました。

生まれ年が、卯(うさぎ)の年、というと勘のいい人はお気づきでしょうが 生年月日 3月14日、そうです。これが、三月うさぎの由来ですね。

アストロツインなんていうものがあるようですが、人間っていい方にまわりたがるようで 3月14日といえば、かのアインシュタインもこの日に生まれました。女性では、女優の栗原小巻さん、 何と美女・天才がひしめいて、1日違いの3月13日でも、吉永小百合さんの誕生日であるのです。

ま、でもその他もろもろの人も、やっぱり生まれているようなので、皆さんご安心のほどを。

こうして、当時の国鉄甲府駅から歩いて2分の家に生まれ育った私は、周囲の歓楽街の影響も受けず? すくすくと成長していったのです。

山々の上にぽつんと顔を出した富士山に見守られながら、甲府市立春日小学校を優秀な成績で(ほんとか?) 卒業したのでした。甲府市も人口が減り、この学校は、もう存在しないそうです。 (だから、何を書いたって分かりゃしませんよね、そうですよ。)
と書いておきましたら、当時の同級生から連絡がありまして、旧校舎はもうないけど、 学校は立派に存続しているようで、早とちりなことをかきまして、すいませんです。

それから、ある日突然、髪の毛を丸刈りにされた私は、甲府市立西中学校に進学したのでした。 この学校は髪の毛規制がありましたので、仕方なく私も観念した次第です。 ところが転校生は長髪も可だったようで、周囲に溶け込まない雰囲気をかもしだして、 (ここから「やおい」になっていくわけではありません、念のため。)おりました。

この、西中二年の時に、私は、運命の人と出遭う事になるのですが・・・

初恋ストーリー

なにか色っぽい話を、ご想像なさった方もあるのではないかと思います。またそういう繋ぎ方しちゃったんですが、気を持たせてごめんなさい。

忘れもしない、甲府西中2年10組です。今でもまだ、この年齢まで続いている、大事な友達と出会えたのです。まさに私の人生前半の頂点といってもいいくらい。 そして、現在でも、どれだけ彼ら彼女らに支えられているでしょう。展覧会のご報告の中でもふれましたが、三人の友達は、わざわざ甲府から出て来てくれました。 東京にいる友達は、搬送で、力になってくれました。あまり活動範囲の広くない私のために、フォローしてくれて、本当にうれしい限りです。

そしてこの年、私も始めて、人を愛することを知ったのでした。 それまでも、「こんなのが初恋ってやつかな」と思ったことは、無かった訳ではないのですが、それはまったく違ったものだったのです。

このクラスで出会った小柄な少女に、私の心は完全に掴まえられてしまったのでした。 ちょっと不揃いの白い歯が、その人の口元からこぼれるたびに、私の胸は言いようもなく高鳴ったのです。その人のスカーフが風に揺れ、私の心まで擽って行きました。 あぁ、還らないあのひと時、フォークダンスの輪の中で、私の目はたった一人のその人を追い続け、ただ光だけが、踊っていました。

その人は、女子では学年一・二番を争うくらいの成績をとっていました。私も、彼女には負けまいと思って・・。 でもあまり学校の勉強は好きでなかったので、件の友人たちと遊びまわっていましたが、不思議と私は、今度は本当に成績が良く(冗談ではありません。) トップクラスを維持できていました。 想えば、それも彼女のおかげかとも思っています。

私のその後の人生を振り返ると、その人とのことが切り離し難く・・ 従ってそのことは、自分の人生の中で、まとまった形で何と言うか、総括していかなければいけないと思っています。 ただ、当時は幼い恋の常で、その人の前では自分が自分でなくなってしまう、そんな感じでした。 悪友連には、「その人のことが好きだ」ということは、当然話してしまっていましたから、いろいろと気を使って(冷やかして)くれたりしたもので、はは。(^_^;) あの頃もっと自然に振舞えていたらなあ、なんて、そんな気もしています。

この、初恋ストーリーには、はっきり言ってまだ続きがあります。でもそれは、こんな形で皆様に発表するものではないと思っています。 ホームページで作品を発表することを考えたとき、それこそ恥も外聞も捨てたつもりでいましたが、まだ理性のかけらが邪魔をしているようです。 この続きは、また冷静になってから。(更新に期待していてください。)

そして憧れ

実は、この同じクラスにもう一人、気にかかって仕方がない人がいました。その人はいつも、百合の花のように、凛としていたのでした。

私の心はもう、初恋という魔物にとらわれていましたから、綺麗な人だなと思いつつ、自分とは何か遠い人のような気がしていました。 人は同時に複数の人を愛せるか?古くて、そして新しい問いです。私の場合はだめでした。初恋の少女のことばかり。ちょっと好きかな?なんて人はいましたが、 心はいつも、そして目も一人の少女を追っていたのでした。それで結局、百合の人のことは、心を掠めた想い出になって消えるはずでした。 ところが、3年になってから、その日は来たのです。

中学3年生になって、私の仲間たちは、ほとんど同じクラスになりましたが、初恋の人も、百合の君も、別のクラスになっていました。 別のクラスになっても、初恋の人を私の目は追っていたのですが、幼い恋だったのでしょう、廊下ですれ違っても挨拶さえできずに、俯くだけでした。 初めて電話をしたのはこの頃だったか、それとも高校になってからか良く覚えていません。ただただ、ひたすらな夢でした。
そして、中学最後の文化祭だったと思います、百合の人が私の心に焼きついたのは。その人は演劇部に所属しておりました。 私はそのことさえ知らず、演劇部の主催「ベニスの商人」を見たのでした。その舞台に、百合の人はいました、ポーシャ姫という名で。 その姿はほっそりとして、喩えようもなく華奢で可憐な印象でした。台詞は甘く、蜜のように聞こえたものでした。
あ、この人はきっと将来劇団関係に進むんだと思いました。私も、当時放送劇などやったことがありましたので、ふと空想がひろがりました。 けれど私は、致命的な欠陥が有って・・歌がまったくの苦手、とても演劇関係には進めないとあきらめたのです。 (大学になってから2度も舞台を経験することになろうとは、神ならぬ身の・・です)

それからの日々は、心惑わしつつも、高校受験に向かって突き進んでいきました。


私のこと最初へ





三月うさぎの展覧会



展覧会をやっています。是非どうぞ。



サイトマップ
ホームページ

三月うさぎのMyHome
e-mail: totoro@pg.highway.ne.jp