公田 連太郎 研究

 

1.ひととなり

2.年譜

3.主要著述解題

 

平成15年2月1日(土)開設、8月8日(金)改訂、16年1月22日(木)再訂、829日三訂、18年4月15日四訂、21年7月4日五訂

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1.ひととなり

 

(辻 雙明「解説」(公田連太郎編著『至道無難禅師集』春秋社、昭和31年、所収)より)

 

公田先生は、明治七年島根県に出生され、当年八十三歳。二十一歳の時から十年間、南隠老師に師事され、またそれより稍々長く根本通明先生について儒学を学ばれた由であります。南隠老師は、明治時代の大居士である山岡鐵舟居士が高く評価し、自ら創建した全生庵の住職に拝請した程の禅師でありますから、余程偉い方であったと思われます。

公田先生は、南隠老師の他、滴水、峨山、廣州、毒湛、禾山等の傑れた禅師方の講筵にも、しばしば列せられた由であり、青年時代から禅道に深く心を寄せられて来たのであります。

先生の世間的な仕事としては、『国訳漢文大成』(八十八巻)の三分の一以上の訳註をされ、『全訳・荘子』(「内編」のみにて出版中止)を著され、また、鈴木大拙先生と一しょに、敦煌出土本の『荷澤~會禅師語録』と『六祖壇経』の校訂をしておられます。(「これはいい仕事だったと思います」と、ある時、先生は言って居られました。)

昨年は中国明末の大儒・呂新吾の著『呻吟語』の訳註書を著わされました。これは儒書中の白眉であると言う人もある程のものであります。また曾て「老荘会」(小杉放庵氏、石井鶴三氏、酒井杏之助氏、出光佐三氏、中川一政氏その他の方々にて作られたもの)でいろいろな経書を講ぜられ、現在三十余巻にわたる『易経講話』の限定出版が継続されつつあります。また先生を慕う少数の学者のために『詩経』や『春秋左氏伝』を講じて居られます。

世に出ることを好まれぬ先生のお仕事は、綿々密々極めて慎重になされたもので、現在でも自ら「もう老衰で」とか、「この頃は≪老苦≫ということが分りました」などと言われて居りますが、それでいて、いつ、お邪魔しても、机上または座右には、書物が数多く開かれてあり、現在の講義にも、なお多くの時間をその準備に費やして居られるのです。

先生の博覧強記はまことに驚嘆の他ないのでありますが、「本読みにはなりたくない」と若い頃から言いつつ、而も烈しい勉学をして来られたのでありまして、常に「実践を」と心がけられ、したがって禅の道に深く心を寄せて来られたようであります。床の間には、代わるがわる立派な禅僧の墨蹟がかけられてありますが、その中には虚堂智愚禅師のもの(複製)もありました。

このような碩学の先生でありますが、しかも極めて謙虚であられて、若い者の話もよく聞かれ、「脚が丈夫なら私の方から出向くのですが」とよく言われ、講義の時でも、非常に丁寧な言葉を使われるのですが、それが極めて自然に聞えるのであります。

およそ、お説教的なことを言われない先生ではありますが、私はお邪魔する毎に、先生の生活の実際に触れて、何か強く肝に銘じて帰るのが常であります。私は幸にして西田幾多郎先生を初め、いくたりかの傑れた先輩の方々に接し、私淑してきたのでありますが、近年、公田先生にお会いして、「つつみ蔵された優れた珠玉」にまた、めぐり遭えた限りない喜びに満たされているものであります。

                                                (昭和三十一年六月)

 

 

2.年譜(工事中)

 

l    明治7年(1874)10月3日 島根県出雲市古志町に生まれる(辻雙明氏は明治7年とされているが、明徳出版社刊の「呻吟語」帯は明治9年としている)
    数え年6歳で小学校に入学する。
    数え年9歳で漢文の素読を始める。論語、孟子、古今史談(大槻磐渓)を読む。
    中学校を2年生で退学する。当時の志望は「物理学か天文学か数学か」
    数え年17または18歳で遺教経、梵網経、維摩経、禅宗四部録などを読む。新約聖書を通読する。

l    21歳で上京し、根本通明(秋田県出身の周易の大家)に約10年師事。易経講義の所々に「私の習った先生はこういう説をとっておられた」という述懐が出てくるが、根本通明のことであろう。中川一政「公田先生を思う」には、「先生の先生は易学の大家、根本通明で、通明先生の講義は音吐朗々として実に立派であったとよく云われた。」とある。南隠禅師(山岡鉄舟の師)にも師事。

l    大正2年(1913) 1月、北原白秋が三浦市三崎の真福寺に寄寓中の公田を訪れ、「日だまりに光ゆらめく黄バラゆりうごかして友呼びけり」ほか一首を作ったという

l    大正5年(1916)11月〜7年(1918)秋の前後数ヶ月の間、小石川茗荷谷町の至道庵に寄寓し、同庵の古記録、古文書の類を一覧、「至道庵縁起」を脱稿

l    大正10年(1921)〜12年(1923) 箭内亙と『史記』全四巻の訳を国訳漢文大成(国民文庫刊行会)の一部として刊行(国訳漢文大成全88巻中31巻は公田の訳註という)。

l    昭和2年(1927) 数え年54歳 結婚 夫人は当時40歳で未亡人

l    昭和2年(1927)9月〜昭和9年(1934)12月 毎月1〜3回、友人たちに荘子を講読(中川一政「公田先生を思う」は、次のように述べている。「(小杉)放庵は折角、先生がいられるのに学ばないのはもったいないといって「老荘会」が始まった。公田先生の結婚されたのは五十四歳とあるから、その直後のことであろう。先生の長い髯はまだ黒かったのであろう。当時、先生の講義に頭を並べた田中半七翁も鹿島竜蔵、外狩素心庵、岡本一平夫妻、木村壮八、よく幹事をつとめてくれた岸浪百艸居も今は亡い。わずかに石井鶴三、酒井杏之助、出光佐三、箱崎正吉、われわれが残っている。・・・「荘子」一冊に講義は四年かかったと思う。それから「詩経」、「文選」、「易経」と移っていった。・・・公田先生は端座して淡々と講義され、およそ譎というものがなかった。声がゆるんだということもなかった。どんな時にも原稿を作ってこられた。」)

l    昭和10年(1935) 小杉放庵と『芥子園画伝』の訳を刊行

l    昭和10〜11年 大場弥平と中央公論社から兵法全集全7巻を刊行(1.『孫子の兵法』(10年7月) 2.『呉子の兵法』(9月)、3.『尉繚子』(11月)、4.『司馬法』(11年1月)、5.『李衛公問対』(4月)、6.『六韜』(5月)、7.『三略』(7月))。公田の「訳」と大場将軍の「解」が交互に掲載されている。

l    昭和12年 アトリエ社から『荘子内篇講話』を刊行

l    昭和15年9月 『至道無難禅師集』第1版(嵯峨山茂雄の厚意により1千部刊行)

l    昭和20年1月 呂新吾『呻吟語』訳註の起稿

l    昭和21年9月 『呻吟語』脱稿

l    昭和24年3月 『呻吟語』を校了するも刊行を得ず

l    昭和30年 呂新吾『呻吟語』訳註(明徳出版社)

l    昭和31年11月 『至道無難禅師集』再刊(春秋社)

l    昭和33年7月 『易経講話 一』(易経講話刊行普及会)

l    10月 『易経講話 二』(易経講話刊行普及会)

l    12月 『易経講話 三』(易経講話刊行普及会)

l    昭和34年3月 『易経講話 四』(易経講話刊行普及会)

l    12月 『易経講話 五』(完結)(易経講話刊行普及会)

l    昭和35年7月 『荘子内篇講話』(明徳出版社)

l    昭和36年6月『荘子外篇講話 上』(明徳出版社)

l    昭和37年 朝日文化賞を受賞

l    昭和38年(1963年)7月27日午前零時22分 没。法名碩学院明徳法勝居士 享年88  

 

 

3.主要著述解題(工事中)

 

   (1) 『易経講話』全5巻 A5判計三千頁 昭和33年7月〜34年12月、易経講話刊行普及会発行、明徳出版社取扱

 

    謄写版ずりの講話録三十余冊に八十五歳の著者が手を入れ整理して刊行したもの。第三巻には次回以降の刊行延期の案内が付されており、「本書の完成に心魂を傾けておられる公田先生には、この夏胃病を患われまして、ご高齢のため恢復が思うにまかせません。しかしこの易経講話だけは自分の責任において完成させたいと申され、ご病気中も草稿を更に推敲を加えられ、まさに倦むことを知らない御日常ででありますが、」云々とある。また、第四巻に付された案内にも、「公田連太郎先生には、昨年より胃病を患われて、食事がおとりになれず、殊の外の御衰弱で、思うように御原稿の整理が進みません。」と記してある。しかし、実際には遅れは余り大きくなく、結局計三千頁に亙る大著が一年半で完結を見た。

    冒頭、易経の成立と研究を巡る歴史が簡潔に通観され、易の基本的な事項が解説された後、序卦伝の説明の形で全64卦の一通りを、その上で一つひとつの卦の懇切丁寧な説明に入る。第四巻の巻末に「一つ一つの卦は各々個性を持っており、其卦の六爻が各々個性を持って活動して居ることが見えるようにお読みなさることを希望する。・・・六十四卦を作って居る三百八十四爻が一つ一つ個性を持って居り、ぴちぴちと活動して居るのである。」とある通り、それぞれの卦や爻について鮮明なイメージが展開されている。

    平成9年に明徳出版社から再刊された。再刊本は新字新かな。       



(2) 『至道無難禅師集』 355頁、昭和31年11月10日、春秋社

 

     江戸初期の禅僧、至道無難禅師の主著『即心記』、『自性記』に、各所から蒐集した法語、道歌、書簡等を併せ、公田氏の編んだ「至道庵縁起」を付した一巻本全集。至道無難禅師は正受老人の師、正受老人は白隠禅師の師にあたる。辻雙明氏の解説によれば、「公田連太郎先生は、・・・ある日、『その方々の偉さということはとにかくとして、私が好きな人という意味では、徳川時代の仏者では慈雲尊者、禅僧では至道無難禅師であります』という意味のことを言っておられました。」とのこと。公田氏自身は「緒言」で次のように述べている。

 

    「私が初めて即心記と自性記とを読んだのは、四十五六年前でありますが、当時、其中の若干の語句に大に驚き、大いに感激したのであります。其後、何十回繰り返して読んだか、数を知らぬのであります。・・・私は此法語によって、大なる影響を受け、大なる御利益を蒙ったのであります。此度も八九回繰り返して読んだことになりますが、これまで軽々しく看過していた所に、深甚の妙趣あることを始めて知って、今更新たに驚いたことも幾度かあります。此法語は、飯を嚼んで嬰児を?うの老婆心切の中に、耕夫の牛を駆り飢人の食を奪うの大機大用を具えて居るのであります。願わくは読者諸君、これ等の法語の、意余り有りて言足らずともいうべき、一見たどたどしき語句の中に含蓄されたる、無限の滋味を玩味せられんことを。古人曰く、細嚼は飢え難しと。」     



(3) 『呻吟語』 938頁、昭和31年6月10日(改訂初版)、明徳出版社

 

 明末の人、呂新吾の語録『呻吟語』の各節毎に原文、読み下し文、註釈を載せたもの。公田氏は東京大空襲の一ヶ月前である昭和20年2月に稿を起こし、終戦を挾んで昭和21年に脱稿、24年に校了したが、出版できず、出版社から貰い受けた紙型を5年間筐底に秘し、昭和30年に友人の協力ではじめて刊行した。平成6年に、明徳出版社創業40周年記念に正字正かなのままで復刊された。

呂新吾は科挙官僚で、40代で法務次官相当の職にまで昇ったが、讒訴に陥れられそうになり、自ら病と称して引退、後半生40年を門弟に儒学を講じて過ごしたという。83歳で逝去し、死後に法務大臣相当の官を贈られた。

『呻吟語』について、呂新吾自身は、「30年間、様々な苦難に遭うたびに、今後同じ苦しみに遭わないように慎むべき点を自ら呻きながら記した記録で、自分用の薬だ」と述べているとのこと。公田氏は、「世の多くの学者の、未だ嘗て体験すること無く、徒に空想をめぐらして、大言壮語放談高論する者とは、類を異にして居る」と述べている。

本書は完訳本としては唯一のもの。