祖母から聞いた昔話と思う事あれこれ

以前のサイトからの棒引きにもってきました。



☆彡 富士見高原療養所で、堀辰雄氏が婚約者の矢野綾子さんと過ごされた日々は名作「風立ちぬ」で描かれていますが、祖母は、同じ時に、療養して、堀さんやその取り巻きの方々の姿をまじかに見ていただけに、八ケ岳高原に憧れ、「風立ちぬ」が座右の銘になっていたわけです。しかし、婚約者との愛をあんなに美しく描きながら、結婚したなんて、と婚約者なきあとの、堀辰雄氏の行動に対する不信が、長い間あったようなのです。しかし、今春、堀さんの未亡人の書かれた「山ぼうしの咲く庭で」を読んで、矢野綾子さんの父上が、堀氏を心配して、結婚を勧めた、という事実をしって、驚いた様子。なが〜い誤解が解けて、ますます「風立ちぬ」が好きになったようであります。


☆彡 大泉高原が今のような観光スポットとなる以前、農林省の高官だった方が、留学先のスイスより素晴らしい、と官位を捨てて、牧場を開かれたところが、日野水牧場。現在、祖母の大のお気に入りスポットです。お客様がくる度に、そこにお連れしている(といっても、連れていってもらってるのですが。)模様。祖母が八ケ岳移住を決める頃に、その話を聞いていたのに、長らくご縁がなかったのですが、この夏、私もいっしょに行って、すばらしい眺望と、自家製の乳製品の素朴なおいしさがとっても気に入りました。


☆彡 日露戦争で軍医だった曽祖父の話です。祖母が子どもの頃、シーツのような大き目の布類の両端を持ってバサッと音を立てて広げると、曽祖父はとてもいやがったそうです。その理由が…日本刀で首を切る音と同じだからだそうです。軍医だったので、直接手を下すことはなかったのでしょうが、戦場では捕虜に穴をほらさせて、その前にかがみ込ませては、首を切る、という後々まで非難の的となった非人道的な処刑が行われていた、というのは事実のようです。のっけから不気味な話でごめんなさい。


☆彡 もう一つ不気味な話です。祖母の祖父、雪峰さんが子どもの頃の肝だめし。試胆会(したんかい)といったらしいですが、町外れでさらしものになっている罪人の生首の口に加えさせた刃物を外したり、また入れたり、というのをやらされたそうです。ちゃんと監視役もいるので、もし逃げると「それでも男か。」というようなことを言って笑い者にされるので、とても恐ろしいながらやり遂げざるを得なかったとか。江戸末期、今のように電気などない時代だし、お化け屋敷なんていうもんじゃない怖さだったでしょうね。


☆彡 祖母は何回も命拾いしているそうです。最初が少女時代の腸チフス。次いで、関東大震災の時は宿題ができていなかったので、お約束の三越に連れて行ってもらえず、ふてくされていたら、がたがたっと来たそうで、座敷から縁側を越えて庭にたたき出されたほどのゆれだったと言います。三越にいけていたら…多分私はいないでしょう。次いでまたまた生死の境をさまようような大病から戻ってきました。さらに都心爆撃のときは、地下鉄銀座駅で列車に乗ったとたんに、後ろで陥没が起こったとか。1本遅れていたら、家には戻れなかっただろう、と言います。また、最近では、地下鉄半蔵門線のとっても長い永田町駅のエスカレーターにはさまれておきながら、額に傷が残る程度で済んだり、と本当に運の強い人であります。



 もうそろそろ時効でしょう。書いておかないと忘れてしまいそうなので、書いておきます。祖母は女学校から日本女子大の付属に入りまして、大学部は中退しておりますが、当時の同級生の中には、そうそうたる有名人の子女も多かったとか。お友達として終生親しくさせていただいた方は、良家の子女という程度だったようですが、例えば、幕末の忠臣、会津中将松平容保公のお孫さん、郵便の父前島密さんの娘さん(だったかと思うが、もしかしてお孫さんか?)、専売公社(今のJTの前進ですね)にタバコ販売が独占される以前、タバコ戦争で有名だった岩屋天狗のお嬢さん、細川公の子女(元総理の細川さんとはご親戚になる訳ですね)などなどいらしたそうです。 

 それで、お名前は書きませんが、こういった有名人子女の中には忘れがたい印象を残した方もおられるようで。

その1:某名家に嫁いだかつてのおひいさま、と〜ってもおきれいな方だったそうですが、授業中はぽ〜っとしていて、祖母いわく「出来が悪かった。だから私がノートを見せてあげた」そうです。勿論、いまや証人はいないのが、辛いところですね。

その2:某富豪のお嬢様。何でもきょうだいが何十人もいたとか。勿論、今は言語道断の「男の甲斐性」の結果でした。お嬢様は本妻さんから生まれたれっきとしたお嬢様。しかし、時代の流れで戦後は零落されていたようです。戦後、母も嫁いで自由時間が持てるようになった祖母は、敬愛してやまない曽祖父と一緒にある企業の寮に泊まりに行ったそうです。その時、いやになれなれしく話し掛けてくる仲居がいる。「目白の学校のご出身ですか?」ってな事を聞いてくる随分失礼な仲居だと思っていたら、な、なんとその人が、かつて絢爛豪華な、学校へちりめんの振袖を着てくるような富豪令嬢だったのです。

 祖母の頬には目立つ大きなほくろがあって、それを見て分ったのでは?とは本人の弁。 かつての栄華を知る曽祖父が不憫がって、この仲居さんと祖母にこづかいを渡して散策を勧めたそうですが、そうしたら、彼女は、それはそれは思い切りよくパッパカとお金を使いまくったそうでして、乏しい暮らしに慣れていた祖母は、「ああ、やっぱりかつての暮らしが身から抜けないのね、この方は」と思ったそうです。なお、祖母は祖父と一緒になって以降、いろいろと経済的苦労もあったようですが、当時の女性のたしなみとして、どんなに苦労しても実家の経済力(曽祖父は最晩年はともかくとして、老齢になってもかなり経済力があったようです)にすがろうとしなかったのであります。だからこそ、たしない暮らしをしてる我が身と、落ちぶれても浪費癖が抜けない旧友と、つらつらと比べてしまったのでしょう。

他にも日本史の教科書に載るような著名人の令嬢たちの戦後の零落の話には事欠かないようです。あとは学者のお嬢様で大変頭のいい方がいらしたなどの話はよく聞きますが、時代が変わると、そういう学者の方々のお名前は聞いても私には分らないのです。多分、専門に勉強されている方にはお分かりの名前なのでしょうが、数学(だったと思う)の三宅博士とかお聞きになった事はありますか?
                                   (2002年1月20日)


曽祖父のエピソードで日露戦争の話に戻ります。明治から随分遠ざかった今でも、時々耳にする二百三高地の戦い、ロシアと日本が激戦を戦った場所ですが、その時、曽祖父も現場にいたのだそうです。あたりは戦死者の山。軍医なので、直接戦うことがなかったと思われる曽祖父が戦場で必死になってした事は・・・・な、なんと自分のポケットに入れていた命のツナの鰹節がどっかへ落ちてしまった、と死体の山をかきわけ、かきわけ探したそうです。^_^; まあ、後日談という事で、いくぶんかおもしろおかしく脚色をしてるには違いありませんが(曽祖父は語りの上手な人だったそうです)見つけた時は、そりゃあ、涙が出るほど嬉しかったとか。
 
  第2次大戦の時のソ連軍は随分無法な事をしたというエピソードは未だ恨みをもって語られる事が多いようですが、当時のロシア軍は、随分紳士。同様に日本軍も非戦闘員までを大量虐殺するような事もなく・・・だからこそ曽祖父はなくしものを探し続けられたわけです。戦争は憎むべきものではありますが、第1次大戦の前位までは、非戦闘員にはさほどの被害もなく、騎士道や武士道で戦っていたのだ、と思わされる話です。


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