「ベルリンの壁」構築四十周年

―その時を歴史的録音は物語る―

 

世界の都市の中でベルリンほど二十世紀の悲劇と運命を反映したところはないであろう。ニーダーキルヒナー通りにあるベルリン市議事堂もまた、戦前・戦後と時代の影響をまともに刻印してきた。そこは旧プロイセンの議事堂だった建物で、一九九三年以降は統一ベルリンの議会場として今に至っている。一八九二〜九七年に建築されたもので、若干威圧感はあるが、なかなかの風格である。実はこの通り沿いにはベルリンの壁が二百メートルにわたって残っており、またナチスの秘密警察跡の展示場もあるので、ベルリン観光のスポットのひとつにもなっている。私自身、来客を伴ってはよく訪れる馴染みのところだ。しかし議事堂のほうは専ら通り過ぎるだけで、中に入る機会はなかった。ところが今年はベルリンの壁が建設されてちょうど四十年にあたることから、議事堂前の広場では壁構築一ヶ月の写真によるドキュメントが展示され、それに一階の広間では百年にわたる議会の変遷史が展示されている。

これをチャンスにこの歴史的な建物に足を踏み入れてみた。するとエポックごとのパネルが立ち並ぶ一角に、どういうわけかひとつの電話ボックスが置かれてあるのに気付いた。街中のどこにでもあるごく普通の黄色いボックスで、電話機自体も何ら変わりはない。中に入ってみると「この電話は外にかけることは出来ませんが、番号を選んで歴史的な録音を聞くことが出来ます」とあった。要するにその電話で、一九四六年から九九年まで、ベルリンの議会史上エポックを画した人物の演説や会見を聞けるというわけだ。収録リストにはドイツの政治家だけでなく、米国大統領のJ・F・ケネディーやJ・レーガンを含め十六人の名前があった。さしあたり壁の出来た一九六一年はどうか見てみると、二人の政治家の音声が収録されてあった。一人は東ドイツの国家評議会議長と社会主義統一党(SED)書記長を兼ねたヴァルター・ウルブリヒトで、もう一人はベルリン市長ヴィリー・ブラントである。

一九六一年六月十五日、ウルブリヒト書記長は、東ベルリンでの内外の記者団との会見で、西ドイツの記者の質問にこう答えている。

  • 「私はあなた方の質問をこう理解します。つまり西ドイツにおいては、私たちがドイツ民主共和国(東ドイツ)の首都の建設労働者を動員して、壁を建設することを願っている人々がいると。私はそのような計画があることを知りません。私たちの首都の建設労働者は主として住居建築に携わっているのでありまして‥‥誰一人壁を築こうという目論見は持っていません」。
  •  どうも分かり難い表現だが、当時すでに壁建設の噂が巷に飛び交う中、ウルブリヒトは、とにかく壁を造るつもりなど全くないと明言したのだった。しかしそれから二ヶ月も経たない八月―十二日から十三日に至る真夜中の二時頃―彼はベルリンの壁の建設命令を下したのである。四十年を経て今日、現代史の虚言としてこれほど空しい熱弁はちょっとないだろう。再び聞いてみようとは思わない代物である。

    とにかくこの日の命令一過、東ドイツの人民警察部隊、生産闘争クループ、そして国家人民軍の部隊が「国境における信頼し得る監視と効果的な統制のため」と称して、ソ連占領地域の境界線に沿ってベルリンの東部分を遮断、ポツダム広場に近いところから交通遮断の設備と鉄条網を引き始める。数時間後には早くも占領地帯の全域が封鎖され、指揮にあたった将校たちは、この作戦行動の責任者であるエーリッヒ・ホーネッカーに対し作戦遂行を報じることができたと言う。

    そもそも何故あのような壁を築くに至ったかだが、東ドイツ政府は十数年来、ベルリンの占領区域を越えて行く避難民の大量流出に極度に頭を悩まして来た。一九五二年、ドイツ連邦共和国(西ドイツ)への国境が閉ざされて以来、ベルリンは「鉄のカーテン」を通り抜ける唯一の抜け穴となっていた。なぜならそこでは戦勝四ヶ国が人々に移転の自由を保障していたからである。五二年から六一年の壁構築までに、凡そ二百七十万人がこのチャンスを用いた。こうして東ドイツ政府は労働力流出による衰退に脅かされ続け、SEDはとうとう最後の打開策として東ドイツの人々を閉じ込めようと決断したのである。しかし当然ながらこうした真相の部分は明るみにされず、むしろ壁構築は「西ベルリン・サイドからの恒常的な挑発」に対抗する平和・救済的行動であり、保護措置であるとして、体制に都合よく解釈された。「反ファシズムの防御壁」といったプロパガンダ的スローガンも生れている。

    一方、同じ十三日の晩、ベルリン市長ブラントはベルリン市議事堂の前でこう演説した。「ベルリン市評議会は全世界に対して、ドイツを分裂させ、東ベルリンを抑圧し、西ベルリンを脅かす者たちの違法かつ非人間的な処置を訴える」と。さらに彼は一六日、シェーネベルク市庁舎の前で、今度は東の権力者たちにではなく、彼らの指揮下にあって壁際の監視にあたる人々、つまり東ドイツの人民警察部隊、生産闘争クループ、そして国家人民軍部隊に向けてこう呼びかけた。

  • 「いつでも出来るところでは、人間的な態度を示そう。そしてなによりも、なによりも諸君たちと同じ国の人たちを撃たないように」。
  • あの混乱の最中、射殺命令よりも個々の良心の声に従うようにと直ちに訴えたブラントの見識は、最も大事なポイントを突いており、驚くべきものではないだろうか。そう思いながら、しばし繰り返し聞いてしまった。