暗闇の中の信頼
―ベルリンのシンドラー=
オットー・ヴァイト―

 ベルリンの旧東の地区を歩くと、東西統一後すぐに投資がなされたところと、そうでないところとの対比が明らかなのに気づく。そんな中でミッテ地区のハッケッシャー・ホーフ(建物に囲まれた中庭)は、復興の一番手と言えようか。そこにはなかなかおしゃれなカフェー、ブティック、レストラン、映画館、骨董品店などが軒を並べ、夜遅くまで賑わう名所に変身した。ところがそのすぐ隣のホーフに足を踏み入れてみると、全く違った光景が広がっている。小さなカフェーは僅かに人を集めているものの、四階建ての家屋の外壁は修復されず放置されたままで、さびれた雰囲気を露わにしたホーフが、細長くずっと奥まで伸びている。
 決して多くの人が行き交うとは思えないホーフ。その入り口の足元に視線を落とすと、石地に銘板が埋め込まれているのが分かる。ガラスでコーティングされた銘文にはこうあった。「この家にはオットー・ヴァイトによる視覚障碍者たちの職工所があった。ここで一九四〇年から四五年にかけて、主として視覚や聴覚に障碍を持つユダヤ人たちが働いていた。ヴァイトは自らの命を賭して彼らを保護し、避け難い死から彼らを救うためにあらゆることを行なった。多くの人々が彼のお陰で生き延びている」。
 ヴァイトの事跡が知られ、注目され始めたのは大分後になってからで、右にあげた銘板自体、ようやく九三年に設置が実現した。また九八年からは、博物館学の学生たちのアイディアが実って、かつての職場跡にはヴァイトの記念展示場がオープンしている。展示場のある一階(日本の二階)まではギシギシと鳴る階段を一歩一歩登って行くわけだが、もうその瞬間から一挙に何十年もタイムスリップしたような感じに陥る。だがやはり当時をさながらに物語るのは、展示用に確保された三部屋の床や壁や天井の様であろう。というのは、普通ならとっくに修復されて、かつての現状など止めないところだが、幸いと言うべきであろうか、建物の所有権が不明であったことから今に至るまで手付かずにきたのである。
 オットー・ヴァイトは一八八三年、壁及び椅子張り職人の息子として、バルト海沿岸の都市ロストックに生まれた。一家は後にベルリンに移り住むが、その貧しい家庭環境ゆえに、国民学校の教育までしか受けられなかった。彼は父の手職をマスターし、一九一二年に結婚。二人の息子を得たが、二一年には離婚している。第一次大戦の勃発に際して、彼は確信した平和主義者として、兵士には決してならないと決意していたと言う。兵役のほうは耳の病を理由に免れることができ、大戦の最後には衛生兵として召集を受けた。ヴァイトはその後の歳月、自らの手職を営むのであるが、決して仕事の世界に止まるタイプではなく、むしろ当時のベルリンに典型的な、芸術家や文学者が集うカフェーに通うことを好んだ。またその頃、若い日に情熱を傾けたという詩作も再び始めている。要するに、単にロストック出身の壁張り職人としてだけでなく、平和主義・社会主義・無政府主義が混在し、しかもロマン的な向こう見ずさや英雄的な狡猾さをも備えた人物像が伝えられている。
 四十年代の初めになると、小さな企業家ヴァイトは、ローゼンタール通り三十九番で箒とブラシ製造を手がけるようになる。彼はそれらの製品を国防軍に売ったため、そこは「戦争遂行上重要」な企業と認められたのだった。こうしてヴァイトは、ユダヤ人市民が強制労働を義務付けられるようになったとき、彼らを自分の職場に雇用しようと尽力、約三十名の従業員を雇う。彼らの殆どは視覚か聴覚に障碍を持つユダヤ人であった。ところでヴァイト自身もまた半ば光を失っていたそうで、それは写真のうつろな眼差しからも窺い知ることができる。
 ナチスの暴力支配下にあって、ユダヤ人従業員を保護し、養うためには想像を越えた手立てと才覚を要したことだろう。ヴァイトは収益のために箒やブラシを、軍需ルート以外に闇市場でも売りさばき始めた。またユダヤ人たちの強制収容所への送還が始まるや否や、自分の従業員たちが戦時下においていかに重要・不可欠な労働力であることを擁護すべく、ナチスに対して働きかける。その際、労働管理局やゲシュタポの官吏をはじめ、はては密偵を買収することも恐れなかった。迫害の手が迫る人達のために、証明書や就業書を調達するなどして、新しい身元を作り出すことをした。他方隠れ家の提供にも手を貸し、例えば従業員のホルン一家四人は、半年以上工場の一番奥の部屋に潜み、死の移送を回避しようとした。
私たちは今、当時は窓ひとつ無かった、その一〇uの空間に入ることができる。彼らにとって全ては闇のような恐怖の世界が支配している中で、彼らはヴァイトの職場にいる限りは命があることを信じ、頼みとしつつ毎日を繋いできたのだろう。だが四三年十月、思い掛けない同僚の密告によってゲシュタポによって逮捕。アウシュヴィッツに移送された。五十回を越える捜索を凌いできたヴァイト自身も逮捕。展示場にはヴァイトを含め、職場の集合写真が掲げてあるが、そこに写っている三十六人のうち戦後まで生き延びたのはわずか四人ということだ。
 戦後ヴァイトは強制収容所の犠牲者のために、ユダヤ人孤児院と老人ホーム建設事業を支援するが、四七年に亡くなった。エルサレムのヤド・ヴァシェムでは一人の「諸国民の中の義人」として名誉を与えられている。またベルリン市からは栄誉墓碑の宣告を受けるが、何よりもあのホーフにおいて、ヴァイトの市民的勇気が若い世代に語り継がれて行って欲しい。

(「ベルリン便りNr.26」『福音と世界』5/2002号掲載)