村上龍作品と時代に見つめるもの



さて、ここでは村上龍氏の作家活動を巡る様々な言説に触れる事で、感じ考えさせられた事柄について、
特にその小説と現実世界とのパラレルな時代性への視線を軸に少しづつ、言及していきたいと思います。

まずは本HP「境界茶論」での村上龍氏に関する書き込みからそのままに掲載いたします。

「共生虫」という「他者」と「私」 2000/05/28
インターネット検索と「共生虫」の交差に 2000/06/11
生きのびることだけを(「五分後の世界」をめぐって) 2000/06/28
「いま」からの脱却のために 2000/07/04
コミュニケーションへのプロローグとして 2000/07/05



「共生虫」という「他者」と「私」
 
【投稿者】 NASCI 【投稿日】2000/05/28/(日) 午後07:52:39


村上龍 新刊「共生虫」を読みました。

最初の2章までで下記のような感想を持ちました。

「今という時代の空気感が
 クールに伝わってきます。
 自分の中にいる他者への責任転嫁と
 閉じられた世界に生きるからこそ
 開かれる現代の空間の歪みと可能性を
 村上ならではの冷めた暴力性によって
 淡々と綴る世界は面白く力強いものに感じています。」
(Kさんへの書き込みよりNASCI / 2000/05/21/(日) 午後02:30:23) 

読み終わった今
思う事は
過去のシュールリアリズムは
今という時代においては極めて現実的なものとして
表顕化しているということ。

そして読後のこの後味の悪さは
不可視の他者や見えない暴力が
主体性を脅かし、いつのまにか
侵入している事のリアリズムである。
ざらざらした空気、ぬめぬめした感触
不可視であるべきはずのものが可視に、
可視であるはずのものが不可視に
現実は非現実に、非現実は現実に
お互いを補完ではなくいわば強姦しあうように
世界は膨張して、その一方で「個」は失われつつあるか
あるいは閉じ込められようとしているというリアリズム。
そして小説ではそのリアリズムの中に「共生虫」という
責任転嫁としての他者を捏造する。
確かに人間の営みは都合の悪い事を他者とし、
隠蔽するか、虐待する事を繰り返しながら安定を保ってきたとも言えるでしょう。
小説の中でネット管理者であった花田氏の手記に

「自意識の増殖にネットでのコミュニケーションは耐えることができませんから
病気の芽を持っている人間はすぐに病気になります。」

という言葉は示唆的だ。
ネットは世界を相手に自己を確認する手段であると同時に
自我を流通させてしまう事も覚悟しなくてはならない。
その時「私」という境界膜がアイデンティティの見出すことなく、
流通の場に晒されたなら、永遠に「私」は自分のものにならずに
さまよう事を余儀なくされるかもしれない。

他者との共有意識が社会への扉の必然であるならば、
今の若年層社会は既に「自我の何か」に怯える事も無く
社会の流通する欲望に回収されつづけ、
その波にいかに乗る事ができるかで
ようやく他者との同一化を見、自己を保とうとしているかのようだ。

インターネットという媒体社会は
これからも世界を加速度的に広げながら
その距離を縮めていくであろう事は承知の事実でしょう。
しかしその時
同時に「私」自身がその波に流通されている事も忘れてはならないでしょう。
つまりその波に乗っているつもりが、乗せられている事を
そしてその方が楽でありコンビニエンスである時代が
「私」を希薄化している事を自覚しなくてはならないと思うのです。
そして「私」である事を示す手段が追い込まれて行く危険を
如実にこの小説は示していると…。
 
村上 龍は「あとがき」で次のように記しています。

「現代の日本の社会が希望を必要としていないように見える理由としては、
 社会全体が現実を正確に把握していないという点に尽きる。
 現実を正確に把握していないと、未来の事を考える事はできない。
 あるいは、社会的な希望がどうしても必要な時代は終わっているのかもしれない。
 〜中略〜
 すでに希望は、社会が用意するものではなく、個人が発見するものになっている
 のかも知れないが、そういったことは巧妙に隠蔽されている。
 つまり、古くて使いものにならない希望や、偽の社会的希望があふれているのだ。
 
 引きこもりの人々は、偽の社会的希望を拒否しているのかも知れない。」

インターネット検索と「共生虫」の交差に

 【投稿者】 NASCI 【投稿日】2000/06/11/(日) 午後03:38:38


「共生虫」を読んだ人なら
たぶん誰でも「防空壕」について検索してみたくなるだろう
小説では検索で278件の「防空壕」がヒットしている
そしてそこで紹介されたものの内容に
興味を覚えて検索をしてみた

Yahoo!では1324件が
インフォシークでは2278件がヒットした
文中でも
「検索エンジンはHP中に1ヶ所でも防空壕という語があるものすべてに反応する。」
と書かれているように
防空壕についてほとんど書かれていないHPまでが検索にひっかかってしまう
そのため思わぬ偶然の発見もあった。

一つは小説の舞台にもなる狭山丘陵について
小説とは微妙に名前を変えてその具体的整備計画が
野山北・六道山公園に進められている事や防空壕跡が今に遺されていることに。
もう一つは
私にとっても個人的な想い出深い地でもある
ICU(国際基督教大学)キャンパスやその一帯の
大沢地区に多くの兵隊用防空壕があったという事実や歴史的背景に。
そしてまた驚いたのは
高校時代の友人のHPに出会った事である。
そのHPではある著名人との少年時代の思い出話しを
綴っていてその中に「防空壕?で遊んだ」という
たった一言が記されていた為に、その頁に行き当たったわけです。

インターネットでは無責任な言葉や
個人的快楽に浸るだけのものに遭遇する事も多くありますが
やはり不思議な出会いや、偶然にはまり込んでしまう予期せぬ世界が
横断的に拓けていくので、
同じ語彙の検索でもその時の気分一つで
重層的組合せやコンテクストで同じ道を二度とたどる事のできなかったりします。
そうした未知性や不可視性も魅力的なのでしょう。
村上 龍はインターネットを通じて自らのオフィシャル頁
(JMM: http://jmm.cogen.co.jp/index.html )で
現日本社会における経済をはじめとする様々な疑問を読者に問いかけを行い
情報の収集を行っています。
また坂本龍一とパートナーを組み、(tokyoDECADENCE: http://www.t-decadence.com/ )では
新たなソフトメディアの可能性を模索し、提供配信もしているようです。

サイバースペースには全く関係の無い項がヒエラルキーも無く並列して存在する為
それらのいわばコラージュをいつでも楽しむ事ができますし、
効率的情報の収集ももちろん可能です。
村上龍の「共生虫」では、そんなインターネットサイバーコラージュによる
独り歩きする新しい物語の可能性が示されているようでもあります。

そしてファンサイトの掲示板など危ない魅力にあふれています。
ただそこに表面的「カッコ良さ」や妖しいセクシャリティ
だけに惹かれている読者も多く感じられます。

しかしそれを表面性といって片付ける事もできないのでしょう
いよいよ時代は表面自体に一層の深まりを見せ始めているのだから。



生きのびることだけを

 【投稿者】 NASCI 【投稿日】2000/06/28/(水) 午後08:51:04


smokyさん 

こんにちはそしてお帰りなさい
「五分後の世界」読了しました。
ご紹介ありがとうございました。

「五分後の世界」における「五分前の世界」では単純な原則と
絶対的な対象(他者)を創り出す事で、境界を明確にし、
生きるということの共有する目的意識を明確に示しています。
それは作者によって感じ取られた、
いわば「いま」に対しての背反する願いにも通底しているようです。

今、僕らが感じている「いま」とは何でしょう?
世界は様々な「いま」を提供してくれます。
そしてそれは、時空を超えて全く異なる世界があるとすれば
我々の「いま」がもし、「五分前の世界」であるのなら、
一つの偶然が必然的に様々なる変容を遂げて、
確かに別世界が展開されているのかも知れません。
そうした世界観はしかし、常に「私達」という
共有意識によって支えられた世界であり、提供された世界です。
しかし、「私」という個を中心に見据えたなら
私達はそれぞれに全く異なる世界を生きていることになるでしょう。
私の世界と貴方の世界はそれぞれに確実に違います。
それを独我論的認識世界と呼ぶのは容易いでしょう。

しかし、もしかすると共有意識として感じる「いま」「ここ」にある世界も
全く違う世界を、それぞれが生きているものとしたら
どうでしょうか?
個の生き方が世界を創り出し更新している。
あるいはそれぞれは個の為に緻密に演出された物語の中で
生かされているとしたら。

このような世界観による問題提起は文学のなかでも様々に描かれてきています。

そして前者の「私達」が共有する異なる世界は、
村上龍の「五分後の世界」で
後者の個にしか存在しない「私」だけの異なる世界は、
村上春樹の「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」に
読み取る事ができます。

しかしそれが「仮想」ではなく実感としてわが身に感じられる
あるいは強く願う時は誰にでもあるのではないでしょうか?

そしてたとえ個々の世界が異なるものであったとしても、
おそらく「死」は我々の共通アイテムなのでしょう。

日常の我々は
「生きても、死んでもいない」状態で 暮らしてるのではないかと、
それは逆説的に何処かで「生」など確認したくない
意識がさせているのかもしれません。
感覚的に生きていることを確認する事はいつだってできるでしょうが、
その確認は生の意味や目的を問う事には繋がらないでしょう。
誰でも限定された生を終わりから直視するのは怖いはずです。
だから「今」を永遠の時の流れの中の微分化された一点に閉じ込めて
客観的な「私」を創り出す事で、
限られた「生」を忘れようとしているように思うのです。

たとえば今僕がパソコンに向ってこの書きこみのためにキーボードを叩いている。
この瞬間僕にとって絶対的な自己は客観的存在であろうとしています。
「死ぬ気で生きる」あるいは「真剣に生きる」

とはどのような事をさすのでしょう?
自己を客体化して差別化の中で恥ずかしくない生き方を目指すのでは
結局、時を無限に引き延ばしている事に過ぎないように感じられます。
日常の中で限られた生を意識する事がまず前提となるのでしょう。
その限定された時や生に意識を向け、あるいは向けさせる行為が
芸術や文学におけるメッセージの本質のように感じています。
そしてその表現は本質的に暴くものであって、
隠蔽するものであってはならないでしょうし、
「生きる」事の実感には、
そうした「表現」をいかにできるかが肝要なのだと思うのです。

「いまこの瞬間を生きる」とは

>ひとつひとつの出来事を
>どれだけ自分の「今」に生かしていけるか

という事に確かにつながっているでしょうし、
ロマンへの努力とその積分が
充実感に通じているのでしょう。
そして
その裏側に、確かに共有されうる
「死」が支えてくれていると考えています。

しかし、その「いま」を生きる「思い」とは不死なのかもしれません。
前述した村上春樹の「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」での
博士は「思念」というものには時間というものがないと言っています。
「飛ぶ矢はとどまっている」というように時間を何処までも「思念」は分解してしまうから。
それは「いま」「ここ」「私」というものの永遠性への願いにも似て。

「五分後の世界」における
「生きのびることだけを考える〜それがゲリラの本質だ」
というヤマグチ司令官の単純化された言葉は
様々なものの境界を見据えた上、意志を表そうとする
「精神」の純粋なる抽象力と強い思念のもたらすものを再認識させてくれた。


※ このログはsmoky氏のご紹介を受けて読了した村上龍著による「五分後の世界」をめぐる感想を中心に書き表したものです。
smoky氏へのレスという形式をとっている事から、一部smoky氏の発言の引用(>右側)が含まれております。
ご了解の程お願いいたします。


さて、上記書き込みに対してのご意見を smokyさんより投稿頂きましたので以下、その対話を続けて掲載させていただきます。



「いま」からの脱却のために

【投稿者】 smokyさん 【投稿日】2000/07/04/(火) 午前02:09:39



「いま」からの脱却のために

「境界認識とまちづくり」〜プロローグ〜を意識しながら 

>「世界」はぼくのために演技を演じつづけていてくれて、
>もし僕がいなくなっちゃうと、世界はその対象を失うことで
>その役割を終えることとなるんじゃないかって・・・
>そんなふうに感じてられたことはありませんか?

実は僕も子供の頃、ずっとこのようなことを考えていました。
自分の知覚の中にしか「世界」はなく、
後ろを振り向いた瞬間そこに「世界」は現れ、
いままで見ていた目の前の「世界」は後ろを振り向いたその瞬間には
消えて無くなっている、のではないかと。

長い間、この仮定は「どうやら一般的ではないらしい」という認識から
あえて考えないように、発言しないようにしてきました。
世間から孤立するのが恐かったのです。

近年になってようやくそんな世間を気にすることなく
自由にいろいろな考えを巡らすことが出来るようになったのですが
このような僕にとってNASCIさん(のサイト)に巡り会ったことは
もちろん今の僕とは異なった見解も多く見受けられますが
それはもう大変嬉しいものでした。

自分の認識を(つまり自分自身を)自分の中でまとめ上げ
心地よい緊張感を保ちながら
確認し合い、また捨て去っていく。

自分とは何か、自分の存在理由はなんなのか、
この世界はなんのためにあるのか、
自分にとってのこの世界とは何か、
またこの世界にとっての自分とはなんなのか、
死んだらどうなるのか、
生きるとはどういうことなのか、

等に考えを巡らせ、一応の答えを導き出すことは
僕にとって本当にエキサイティングなことなのです。
「生きている」ということの意味を実感できる
数少ない一場面なのです。

「世界」は「僕」のためにあるのでは
ということを考える人って、あまり多くはないようだけれどたまにいますよね。

それは僕がある程度成長して、多くの人に巡り会いながら
ようやく分かったことなんだけれど
それでもNASCIさんのように

「僕」と「世界」の境界線を意識し、その境界線からの視点で
僕を愛するように、世界に存在するもの全てを(つまり世界そのものを)
平等に愛していきたい

という姿勢を明確にあらわした人に出会ったのは初めてでした。
貴方にこのような態度変更をさせたものは何か
ということにはとても興味があるところですが

ともすれば唯我独尊(一般的に使われている意味で)
になってしまいかねないこの仮定を
境界線上に立とうとすることでその境界線を
ガーゼのように自由に内部と外部をコミュニケートさせていく

という新しいコミュニケーションの形に昇華させ提案されたことに対して、
僕は感動し、貴方に対する尊敬の念を押さえることが出来ません。

「人間の名のもとにおいて行われる救済は
双方向においてのみ成立する」

という村上龍(メランコリア)のことばを思い出しました。


実は僕も「世界は僕のため」を発展させたオリジナルの世界観
(きっと誰かによってすでに表現されているでしょうから
目新しいものではないかもしれませんが
誰かの考え方を真似たわけではなく
自分で組み合わせ探し出したのでオリジナルと言わせてもらいます)

『多次元的世界観と法則の総体』

を持っているので、今度また別の機会に発表しますね。

さて、「五分後の世界」をご覧いただきましてありがとうございました。

ところで

>我々の「いま」がもし、「五分前の世界」であるのなら、
>一つの偶然が必然的に様々なる変容を遂げて、
>確かに別世界が展開されているのかも知れません。
>そうした世界観はしかし、常に「私達」という
>共有意識によって支えられた世界であり、提供された世界です。

>そして前者の「私達」が共有する異なる世界は、
>村上龍の「五分後の世界」で
>後者の個にしか存在しない「私」だけの異なる世界は、
>村上春樹の「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」に
>読み取る事ができます。

とのことですが
私はこのようには読みませんでした。

逆に村上龍は

共有認識に支配された現代の日本社会と
「私達」「日本人」という対称性の殻に閉じこもった個人を
「五分後の世界」というパラレルワールドを作り出すことによって
痛烈に批判しているように思われます。

それはたとえば

皆が髪の毛を金髪に染め、アメリカ人のような格好をし、
アメリカ人が見る映画を見て、アメリカ人が聴く音楽を聴き、
街には英語が反乱しているのに、ほとんどの人間が英語を話すことが出来ない
そして最も異常なことは、
こういう異常なことを異常だと誰も気付いていないことだ

という、アンダーグランドにおいてなされた
「シュミレーションの八番」に見て取れますし、

このような日本人が次元の壁を越えて「五分後の世界」に迷い込んできたときには
すぐに射殺した、

という山口司令官の発言にも
「生きる」ということは、ただ生命活動を継続することではないという 
作者の悲痛な叫びが込められているような気がします。
また先日NHKで放送された

村上龍インターネットエッセー「失われた10年を問う」

のなかでも彼は、徹底的に個人であることの必要性を訴え
(ここからは、放送の中ではあえて明言していませんでしたが)
『日本社会の中で(人間社会の中で)起こっているほとんどの問題は
個人としてのプライドを持って生きていいないことに起因する』という
彼のデビュー以来の一貫した主張を繰り返していました。

この意見に対して僕は大いに賛同するものであり
確かに人が「個人としてのプライドを持って」生きていけば
あらゆる差別、いじめ、自殺などといった
人間が起こし続ける様々な問題は起こらないでしょうし、
あらゆる技術、芸術は今とは比べものにならないくらい発展するでしょう。
また、今では大いに偽善に満ちているように思われる「助け合い」も
外側から強制されるのではなく、自分から、内側からあふれ出る何かによって
自然に、当たり前になされるのではないかと思います。

アンダーグランドという仮想社会は、
「個人が個人として個人の世界を生きる」
という非対称な他者性が結実した一つの理想社会を
象徴しているような気がします。
また、NASCIさんの

> 日常の我々は
>「生きても、死んでもいない」状態で 暮らしてるのではないかと、
>それは逆説的に何処かで「生」など確認したくない
>意識がさせているのかもしれません。
>感覚的に生きていることを確認する事はいつだってできるでしょうが、
>その確認は生の意味や目的を問う事には繋がらないでしょう。
>誰でも限定された生を終わりから直視するのは怖いはずです。
>だから「今」を永遠の時の流れの中の微分化された一点に閉じ込めて
>客観的な「私」を創り出す事で、
>限られた「生」を忘れようとしているように思うのです。

と言うご意見は
本当におっしゃる通りだと思います。

「死」というものがこれから起こることではなく
すでに起こってしまっていることだとしたら、
「生」の裏側に「死」がぺたりと張り付いているのであり
「生」を実感しようとすれば、その裏側にある「死」が透けて見えるものです。

しかし「生」または「死」から目を背けて生きていくことは
高利貸しから金を借りて自転車操業して生きていくようなもので
いつかそのツケを払わなければならないときがやってくるものです。

また、人は自分が高利貸しから金を借りながら生きていることを
無意識の中で意識していますので
その強迫観念がありとあらゆるプライドのない行為に駆り立てることもあるでしょう。
突き詰めていきますと、
人間が(この私が)抱えるさまざまな問題は
この、「どれだけ自分の死(あるいは生)を見つめることが出来るか」
という一つのテーマに絞られるような気がします。

そして大切なのは、自分一人だけではなく
どうやったら他人にも「自己の死」を見つめさせることが出来るか
という一般化は、社会の中で生きていく自分という個人にとって
無関心ではいられないことだと思います。

この、自分と他人の目を「死」に向けさせるという、
まるで、このゲームを終わらせるための最終関門のような大問題について
僕はこれからも考えを巡らせ続けるでしょうし、
出来ればこの文章を読まれた方々にご意見をお伺いしたいのです。

僕個人としては、「五分後の世界」における
音楽家ワカマツの台詞の中にある
ジャン・リュック・ゴダールの「組み合わせ」の理論の中に
その答えの片鱗があるような気がします。


〜 いつか辿り着く想像を超えた至高の世界を夢見て Antonin Dvorak 交響曲 第9番 「新世界より」を聴きながら 〜

2000.7.3 9:39PM smoky


コミュニケーションへのプロローグとして

【投稿者】 NASCI 【投稿日】2000/07/05/(水) 午前01:44:43


Smokyさん

真摯なる書きこみありがとうございます。
そして「世界」が「僕」のためだけにあるのではないことを
あらためて教えていただいた事を感謝いたします。
(もしかしたらSmokyさんの登場も仕組まれた演出?!(^^))
そして少なからず共感を得られた事、そして
エキサイティングな「会話」が今後できるであろう予感で
胸膨らませる思いです。

ところで当然の事ながら

>今の僕とは異なった見解も多く見受けられます

でしょうし、そうした見解の相違が多いにありうることを十分に承知し、
或いは修正しながらも互いの考えを理解しようとする意志のもとで、
本質的な対論が今後展開できることを期待いたします。

村上龍の「インザ・ミソスープ」の中で主人公ケンジは

「人間が壊れている、というとき、それはその人のコミュニケーションが壊れているのだ。
その人間とのコミュニケーションを信じることができないときに、そいつを信じられないやつだと思う。」

と、またお見合いバブでの殺戮シーンでは

「イヤだ、と二度、おれはフランクに言った。この外人に意志を伝えなくてはならない、
と思った。何か言うのと、伝えるというのは違うのだと初めてわかった。」
と語っている。
そして
「あのお見合いパブのような場所は子供には見せられない。
汚れているからではなくて、そこにいる連中が真剣に生きていないからだ。
どうでもいいことのために、みんなあそこにいた。これがなければ死んでしまう、
というような目的を持ってあの店にいた人間は一人もいない。」
と、
惨殺された者達に対するフレーズを村上はケンジに語らせている。

このような極限状態における会話は日常的には考えられないでしょう。
しかし日々の日常の中で省みることなく「ぬるま湯」に浸かっていることを
忘れた時、その会話も知らず知らず
空気のように「何か言う」だけの会話になってはいないでしょうか?
勿論、例えば日常におけるストレスからの逃避のため
或いはズレを解消するためだけの発散の場として、
単にその場の悦楽や快感を求める場も当然必要でしょうし、
「何か言う」という事が会話の緒言をなすのは言うまでもないでしょう。
しかし、伝えるべき「意志」は忘れさろうとするものであってはいけないし、
ましてや社会や制度を傘に隠蔽してしまうなどあってはならないと考えています。
そして

>「人間の名のもとにおいて行われる救済は、双方向においてのみ成立する」

という共通理解をともにする「私達」の構築と
単独者としてのそれぞれの「私」どうしの
意志の会話が為されうる繋がりの広がる事を求めていきたいものです。
そして仰るような

>自分と他人の目を「死」に向けさせるという、

ということにはその紐解きと、理解への気遣いがまず肝要なのでしょう。

さて「五分後の世界」についてのコメントへのレスですが、
この後で掲載いたしたいと思いますが
まず

>共有認識に支配された現代の日本社会と
>「私達」「日本人」という対称性の殻に閉じこもった個人を
>「五分後の世界」というパラレルワールドを作り出すことによって
>痛烈に批判しているように思われます。

というSmokyさんのご意見には全く同感するものであり
個にしか存在しない「私」だけの異なる世界としての
村上春樹の「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」との
対比において述べさせていただいていることを
あらかじめ御了解いただきたいと思います。

それでは今日はこのへんで。

以下、この対話の展開についてはコミュニケーションに対する意見交換が主たるものとなった事から、
当HP「境界をめぐって」の中「境界のかたち」「人と人との境界をめぐって」で掲載いたしました。
また、全体の流れを理解されたい方は、ご面倒でも「境界茶論」の過去のログを追ってご覧下さい。





EDIT & PHOTO
by
NASCI/000810

BACK