村上春樹と境界文学



たとえば、村上春樹の主人公たちはいつも内省的で、
境界を巡り悩んだりさまよったりして
ぼくたちに向こう側の世界を考えさせてくれる。
それは非日常的他者を単に示すのではなく、
そうした存在と常にすでに付き合っていかなくては
ならないことを示しているように思う。

ここでは本HPのメインテーマでもある
そんな「境界」を村上春樹を中心とした文学作品を通じて
それぞれの境界の描かれ方やあり方を紐解きながら
境界をめぐって思索を巡らせていく場としたいと思います



カフェ・アフターダーク(アフターダーク掲示板) カフェ・アフターダーク
オープン
040908
サロン・ド・カフカ 海辺のカフカをめぐって 021003
「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」をめぐって 000829
根管治療と神経とこころの行方に 「世界の終わり」から 000527
「神の子どもたちはみな踊る」をめぐって 000318
「文体注射」と「モルヒネ」に健全さを 991015
「スプートニクの恋人」は読みましたか? 990708





海辺のカフカ』皆さん読了されたでしょうか?皆さんは何を感じ取られたでしょう?
宜しければ
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二つのMLをめぐって(村上龍村上春樹) 村上龍作品と時代に見つめるもの




境界茶論

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「神の子どもたちはみな踊る」をめぐって

NASCI / 000318


村上春樹の2000年2月25日発行の新作
「神の子どもたちはみな踊る」を読んだ。

連作『地震のあとで』としての6つの短編がおさめられている
この本はそれぞれの物語にいくつかのキーワードを散りばめながら、
どの短編も読者に疑問形と境界線のない夢を呈示し締めくくっている。

村上春樹の作品は一貫してリアリズムを求めながら、光と闇の闘いを描いてきている。
そのスタンスは
「目に見えるものが本当のものとは限らない」
であり
誰もが抱くであろう「僕とは何か」、
僕は自分がここにある事の意味は?
その繋がりは?
という問いをめぐって
同一軌道上を常にグルグルと廻ってきているように思われる。

今回の作品群はそのそれぞれに距離を保ちながらも、
重なりや繋がりのなかで点を線にしてそれぞれに垂線を立てながら
中心像を結んでいっているようである。
その核に明らかに存在するものとは、不確定な心であり
深くに沈んでいるところの闇である。
そして彼にはデビューから一貫した一つの信仰を感じる。


それは

「僕たちは必ず繋がっている」

 という事。

そしてこの事に僕も同意しているし
むしろ、それは願いに近いものだ。



彼が地下鉄サリン事件を「アンダーグラウンド」として
纏めたのも、今回の神戸震災を取り上げたのも
必然的到達であり経緯にあるように思われる。
それらはあまりにも大きな心の傷を社会的に痕したものであるし
誰もが認めうる悲しみや無情感の象徴だから。
それは現実であると同時に
大きな乗り超える事のできないほどの山であり闇であるから。
そしてメタファーを超えたリアリズムという物語だから。


彼は「アンダーグラウンド」をめぐるインタビューで

「だから僕はとにかく相手の語る話を徹底的に聞いて、できる限り
それを忠実にまとめようと努力したんです。
とにかく「語られざるもの」みたいなものを一滴でも多くすくい取ろうと。
だれかがそれをやる必要があったんだと思う。
〜中略〜
僕としてはむしろ個人的物語の採集のように感じています。
個々の人々にとっての切実な真実のようなものを受けとってもらえればと
思っています。僕は個々の物語を通過させる存在なんです。」

「人の話をただ聞くというのと、人の話を真剣に聴くというのは、
ぜんぜん違うことだと思うんです。僕は全身全霊をかけて話を聴いたから、
けっこう消耗はしたけれど、それなりにずいぶん残るものはありました。
それはやはり物語りの力じゃないかと。人が生きていくということそのものが、
ある意味では神話形成みたいな部分があると僕は思うんです。
それは聴こうと集中すれば聞こえてくるものです。力はいりますけどね。」

(広告批評1999.10月号より)

と答えている。

今回の「神の子どもたちはみな踊る」では

「アンダーグラウンド」の時とは異なり、その中心に入る事も
直接被害者の心の傷に触れることもなく
あくまでもフィクションとして「神戸」は影や闇のメタファーとして扱われている。
そのため現実を体験する 人から見ればきっとものたりなく
軽く思われてしまうかもしれない。
それは物語を繋ぎ止める単なるキーワードにすぎないと
みなされるかもしれない。
確かにここでは震災という事実が物語の為に流用されているし
軽く読みとばされてしまうかもしれない。
しかし、この「震災」そのものは誰もが一番深くに閉じ込めてしまっている
心の負について、心の核について、つまりその人間が一番大切にしなければならず
しかし意識化にない痛まれたこころたちの代償として震災が表徴されているし、
絶対的強度をもつ闇の「キーワード」であるように思うのです。


初稿の「UFOが釧路に降りる」では預けられた『箱』に

「アイロンのある風景」では
焚き火の『火のかたち』に

「神の子どもたちはみな踊る」では
『お方』であり「かえるくん」の『踊り』であり『ペニス』
であってこころの『石』や『神』が語られている。

「タイランド」では
捨て去るべき堅い『石』に

「かえるくん、東京を救う」では
闇の幻影としての『みみずくん』に
「かえるくん」と片桐が命がけで共闘する対象として描かれ
「かえるくん」はその身を蛆虫に蝕まれながらも「光」をもたらしていく。

「蜂蜜パイ」では
「地震男」がふたを開けて待っている『箱』だ。


これらの物語はいわば「アンダーグラウンド」における
地下鉄サリン事件の被害者達個々の物語とその中心との関係に
等質であると言ってもいいのかもしれない。

そしてその夢を未完結にする事で、何が夢で何が現実なのか、
その境界線を見定めることが決してできないことを、
そしてそれでも闇との闘いが求められているし、
そんな心を支援しなければならないことを示しているようだ。

物語は確実に繋がって
「闇」や「心」を中心に確かに廻っている。



From√ + ∞ − = NASCI



「文体注射」と「モルヒネ」に健全さを

NASCI / date: 10/15 13:26
montmartre cafeへの書込みより

 

広告批評読みました
ご紹介ありがとうございました。

個人的なことでもあるんだけれど
突き放して渡り歩いていくタイプと
その地点で掘り下げていくタイプに
分けると自分は後者にあたるだろうし、
次にわたるための今の地点にこだわってしまう。

作家でも同じ村上でよく対比されているし、
それぞれのファンが
全くあい入れなかったりもしているのだけれど、
龍と春樹に同様な対比を感じてしまうのです。

もちろん僕は春樹の「文体注射」が
肌に馴染んでいる。(けっして龍が嫌いというわけではないのだけど)
で、話はちょっと飛ぶけれど

椎名林檎は、僕には肌に合わない、
もしくは耳障りな、引っ掛かりがあるんです。

基本的に僕の嗜好が「甘え」に由来していて
心の襞をやさしくコーティングしてくれるものに弱く
心地よさと、謙虚でありながらも強さと深さを感じるものに
そしてもちろんエロティックなものに
強く惹かれてしまうのです。

比べてヒッキィ(ヒカル)の創り出す
メロウでグルーブなメロディラインは自然に
受け入れることができます。
その詩にしても奔放な自分を謳いながらも
世界との間に割り切りと制御が感じられます。

たとえば『Automatic』が、
センチメンタリズムでないのは明らかです。
そして、それでも自然な欲望を率直にお披露目して
それを客体化しようとしている「はにかみ」も
感じられます。
「First Love」には全体を通して
すうっと、入り込んでしまう魅力と気持ち良さを
感じてしまうのです。

対して、林檎に戻りますが、
まず、うるさく感じられてしまうのです。
その中にあって「茜さす帰路照らされど…」
「ここでキスして。」、「同じ夜」、「モルヒネ」は聴けますが
「無罪モラトリアム」を通して聴こうとすると
たとえば疲れているときのBGMには
なりそうもないのです。

そのメッセージ性には
豊かなものを感じられるのですが
同時に「はにかみ」をも捨て去る
強さと防備を感じてしまうのです。

しかし春樹の言うところの「文体注射」は
十分に読み取ることができますし、
その構成力は劇作家や舞台設計等に憧れただけあって
知っているその歳ごろの他のどの歌手よりも強く感じられます。
(せいぜい川本真琴ぐらいかな(自然派だけど))

「自意識系」の中にあってモルヒネによる
「常習性自己陶酔」のようなものが、
妙に気にはなるのですが…。

両者のHPを比べて感じるのは
林檎の「孤独」に対し
ヒカルは他者の「愛情」を感じます。
林檎はアンダーグラウンドをスタイルとして楽しみ
ヒカルはメジャーであることを受け入れてしまう天性を感じます。
ヒカルは母親との関係がとかく話題にされているし、
僕も注目していたところではあるのですが
むしろ父親の強力なサポートと防御があって
その自然さが守られていることも強く感じられます。

そしてヒカル自身

「個人が組織に対して自己主張を許されない、もし本当にそんな社会だとしたら、
私達が日々「自分」だと思ってやってきていることはいったいなんなの?って思っちゃうから。」(HPより)

なんていいながらも、大人たちを掻き回しているヒカルを痛快に思うのです。

今月からJ・WAVEでヒカルの番組が始まりましたが、
これから林檎とのトークもありそうですし、
そのアホッポイ、素っ頓狂なテンションの中で
繰り広げられる世界はもしかしたらって…
暇があれば覗いてみたいものです。

だいぶ、春樹からはずれちゃいましたけど
近いうちにもう少し個人的な思いも含めて
春樹ワールドを整理しながら、僕のHPで掲載していくつもりです。

またのご来店お待ちしています。

「ごつごつ」より「ふんわか」のNASCIでした。


 林檎の林語に(椎名林檎雑感)



「スプートニクの恋人」は読みましたか? 

NASCI / 990708


村上春樹の主人公たちはいつも内省的で、境界を巡り悩んだりさまよったりしてぼくたちに向こう側の世界を考えさせてくれる。

「すみれ」や「ぼく」そして「ミュウ」や猫たちもその境界の扉で、こちら側からあちら側へ吸い込まれてしまったり、その世界へのそして境界そのものへの意識によって、自らを別の存在に変えてしまうあるいは変えられてしまう。

そしてその扉そのものは不確かなものとして描かれている。

村上春樹が示しているものは、向こう側の世界つまりそれが夢であったり闇であったりそして死であったりしてそうした非日常的他者を単に示すのではなく、実はそうした存在と常にすでにぼくたちは共時的に付き合っていかなくてはならない存在であることを示しているし、じつは意識の深層ではそれなくしてはぼくらの存在そのものの意味すら失われてしまうことを暗示している。

地球の引力を唯一の絆として天空を通過しつづけているスプートニクの末裔たちは・・・・しかしいつか流れ星として互いの存在を確認し大地で結びつくことになるだろう。




村上春樹ワールドなどあなたが境界文学であると思う作品などの投稿をお願いいたします。 

020924より


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