林檎の林語に


林檎の「本能」

NASCI / date: 10/27 15:12

はよい。(と思う。 追記11/2)  

同じ拡声器の「幸福論」に比較しても
はるかに聴きやすく
「ひっかかり」さえも心地よい
「幸福論」から「茜さす帰路照らされど…」への展開を
主張をしっかりと表現しようとする恣意的落差として受け取ることもできるのだけれど

しかし「ひっかかり」を林檎ゆえの感触として捉えるのであれば
今回のマキシシングル「本能」はものたりないかもしれない。

「本能」から「あおぞら」への展開と比較すれば
その類似性故に違いは明らかであろう

それにしても林檎ほどスタイルとしての「言葉」への
フェティシズムを感じる歌手はいまの邦楽状況の中では秀逸であろう。

その中にあって「本能」では、その「言葉」にたいし、
「もう十分だった筈」の「言葉」への執着を振り払おうと
「とうせ」「果たされない」「約束」より
「繋がれて 居たいわ」
「もっと中まで入って」
と「劣等感 カテゴライズ」を
わすれさせる
欲望としての衝動を
あなたに、
そして裏側の世界にめちゃめちゃに
突き動かされたいと
自らを得体の知れない暴力によって姦されるまでの
衝動ををつよく感じさせる
そして心地よいというよりも
また「あおぞら」の息遣いにまで
ド−パミンを誘発されるようなエロティシズムを
そして快感としての気持ち良さに浸らせてくれるようだ。

そのビデオクリップが駄作に思われたとしても

それでも林檎ナースに「血」を抜いてもらいたくなるのは。。。

 

スタイルとしての「言葉」へのフェティシズム

NASCI / date: 10/28 18:02 追記 10/30

林檎の林語である「言葉」は
全体を表現する道具であって、
作品のコラージュの一要素でしかない。

それでも、その配列やスタイルによる
伴示性に意図的でないにしても楽しんでいる
様子を十分に感じることが出来る。

つまり

あくまでスタイルッシュに
変形された言葉を呈示して見せて
意味深なものがあるかのように「感じ」させる
事を楽しんでいる。

こうしたやり方は
過去の文学をふくむ芸術における
常套手段でもあったわけですが
むしろ、そうした過去の時代の遊び心
や非日常性への表面的なアヴァンギャルドなるものへの
そしてその時代の気分みたいなものを
キャッチィにとりいれちゃうこと
そして自分の感性の領域としての
世界の雰囲気を創り出すことに長けている様に感じられる。

ことば自体のこだわりでは無く
むしろ言葉からその力や重さを、意図的ではなく
風船から空気を抜くようにいとも気楽にやってみせ
「虚構」なる「物語性」を演じているようだ。

で本人はこの「虚構」性や「演劇」性に対しては
十分に意識して言葉遊びをしているのでしょうし、
林檎からそうした「言葉」を抜いてしまっては
多くのファンを引寄せるその魅力は、
無くなってしまうに違いない。

それは林檎の芯を形成する
無くてはならない「虚」構なのであろう。

そして彼女が言葉の重さを
メッセージで伝えようとしたとき

きっと大きな変化や迷いが訪れ
音楽の質そのものにも
影響を及ぼすことになるかもしれない。

いまの勢いのままの彼女に十分な魅力を感じながらも。

 



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