= 「議論・対話における最低限の係留点」 =

 

6402   Reply Re:へちま鼻さんへ(Re:5642) なな     2003/04/13 20:11
   
  水原さん、

> あの、「妄想クン」、「デマゴーグ」の著作権者はピーエルさんではなく、ベルナールさんで、ピエールさん「ご注進」の前からです。「どっちもどっち」と主張するには、ご説明では明らかに根拠薄弱です。

ピエールさんご自身の発言に「妄想クン」、「デマゴーグ」があったと考えたのは私の全くの勘違いでした。
(この点についてはピエールさんに別稿にて謝罪いたしました)

という事で、引用元の私の発言、『ピエールさんの「妄想クン」、「デマゴーグ」発言は水原さんの「子飼」、「忠犬」発言を受けて出てきたものだと判断できました。』の中の「妄想クン」、「デマゴーグ」を【バカ】に訂正させていただきます。

> > 「レトリック等を考慮」と言われますが、そんなことをやり出したら逆に「一概に判断できる事柄ではない」という「迷宮」に入り込むと思います。
>
> レトリックであることは何度も明言しております。「書かれたこと」を重視されるのなら、それもまた尊重されるべきでしょう。

発言を咎める指摘を受けた後に「レトリックである」などと釈明するのは、少なくとも「書かれた(書いた)こと」を「尊重」する姿勢からは遠いものでしょう。さらに言えば、元の発言が相手の感情を損ねたものであれば、「レトリック」を重ねていくのは、事態をますます悪化させることになると思います。

> >例えば、「愉快犯」とか「確信犯」などと括弧書きで書いた場合などは、弁解を事前に用意した一種の巧妙なレトリック(もちろん、そうではない括弧書きがしっかりした意味を持つ場合もありますが)ともなりうるわけですね。
>
> それはその通りですし、括弧付きであるんだから本気でとるなとベルナール氏に言われたら、僕はそれ以上は文句は言わないでしょう。ただしピエール氏の【】使用は強調の意味合いが視覚的に濃厚であり、レトリックのつもりなら「」とか・・でもつかえばいいわけで、同じ説明では説得力が欠如します。

私は「愉快犯」、「確信犯」とピエールさんの【バカ】発言をいっしょにするつもりで書いたわけではありません。
そもそも、ピエールさんの【バカ】発言は「弁解を事前に用意した一種の巧妙なレトリック」などではなく、彼のストレートな感情発露から出てきた罵倒語だと私は思っています。

> > したがって、当人が書いた他の発言の中にそれに反する、それを否定する、もしくは訂正したような明らかな言明でもなければ、「書いてしまった」言辞は、まずは字面通り受け取られるのが当然だと思います。
>
> ですからレトリック、自虐的ギャグであることは再三明記しております。
>
> ぜひとも「書かれたこと」をきちんと出発点にして頂きたく存じます。無論そこで「書かれたことすべてを網羅することなど不可能」という現実にぶちあたるわけですが。

「『書かれたこと』をきちんと出発点」にしているつもりです。
「後出しじゃんけん」のように出てきた「自虐的ギャグ」は「それに反する、それを否定する、もしくは訂正したような明らかな言明」とはほとんど思えないですけどね。欺瞞的な「言い訳」と「訂正したような明らかな言明」は違うでしょう。
6174   Reply ポパー・ハンソン・クーン(ななさん遅くなりました) 三月兎   2003/04/12 06:24
   
  ななさん こんばんは。 三月兎です。
ポパーの反証可能性については、以下の事象等において構造的困難に陥ると考えて入るため、科学、非科学間の区分メルクマールとしては歴史的使命を終えていると評価いたしております。
1 ゲーデルの不完全定理およびチューリングの停止問題定理はポパーの枠組み内では如何なる形でも反証可能ではないにも関らず、現時点では科学哲学的議論の基本原理のひとつでとなっています。。
  閉体系を一つ例示すれば良いという、形式論的反論は意味をなしません、 この定理系が成立するならば「反証可能性」を含めた閉体系構造(ヒルベルトの夢)の不全性を示すものであり、その反証にはチューリングマシンやゲーデル数の概念そのものの不全性を証明する事が必要であると考えるからです。
2 量子力学の基本原理であるコペンハーゲン解釈のポパーによる理解は機械的統計論への還元であり、コペンハーゲン解釈そのものはポパーの理論的枠組みを超えていると考えています。
以下極めてラフですがお問い合わせについて。
クーン型のパラダイム論による共約不能については、構成主義的後だしジャンケン。言いかえれば歴史的経緯の説明としては美しいのですが、アノマリの蓄積によるカタストロフィーの発生について考えると、そのエルゴート収束条件を考えるだけで気が遠くなります。 昔、補助仮説の存在を前提(地動説の歴史を考えるとそうならざるを得ません)にした確率過程モデルを考えた事があります。(笑)。 パズル解決も含めたクーンのモデルは大変エレガントなものではありますが。
観測の理論負荷については、小生の中心的関心事の一つでありますので書き始めると長くなりますので更に簡単にコメントいたします。 部分的指摘と考えております。 その理由は特定理論の普遍的卓越の下では、観測のみならず、仮説や観測結果の記述(用語・文法)そのものが卓越仮説のイデオロギー的制約下にあるものであると考えるからです。言いかえれば共約不可能性が根源的なものである可能性があるという考えです。 その意味で新理論は旧理論の説明する所を包摂せねばならぬと言うテーゼにも疑問を抱いております。(小生はクワインの徒でもあります。) ラトカシュやラウダン(特にラウダン)についてはもう少し肯定的な評価をいたしておりますが長くなりますので割愛いたします。

附言しますと最狭義の小生の専門は測定問題であり、その核心にあった真のスコアと独立の測定誤差と言う概念(True Score Theory)からの離別が当問題への関心の端緒です。 その意味で『我心の師匠がアランバーンバウムとポールファイヤーベント』と言う訳です。 なおベイジアン的解釈についてはその可能性について期待してはいるものの、現時点では記述統計への先祖帰りの域を脱してはいないと考えます。 この件も話し始めると長くなりますので本日はこれくらいにいたします。
以上科学哲学に限定した私見です。

伊勢田氏の擬似科学と科学の哲学一読いたしました。 なかなか優れた概説書です。 小生もお奨めいたします。 小生の見た所、クワインとファイヤーベントに対し点が辛すぎ、ラトカシュについて甘すぎ。 まあこれは芸風の相異だけの事です。 
ベイジアンについては読後も見解は変りません。 母集団推定の歴史を軽々と越えられては「なんともはや!」としか言えません。 これは測定論者(Scaler)の愚痴です。 

Anything Goes

P.S.
なおポパー流の反証可能性を論じるにあたって、ご案内の通り、過小問題と同義反復の問題は深刻です。 デュエム・クワインテーゼで有名な過小問題は紙幅がかかりすぎるので別の機会にいたし、所謂同義反復の問題にふれます。
小生は同義反復問題そのものは存在せず、検証命題の内在的脆弱性の問題として整理さるべきと考えております。 論理式を使用すべき場ではないと考えますので曖昧な表現となりますのでお許し下さい。 「AならばB」なる形式の検証命題においてAの根拠がB、Bの根拠がAである場合が同義反復です。 勿論この形式は反証不能ですが、「AならばB」が同義反復でない場合においても、「Aを因としBを果とする」因果関係が内在的・先験的に共有化されている学説集団にたいしては、その命題に限定しては反証不能となります。 一例をあげます。

「太陽は地球の廻りを廻っている」は反証可能ですが。「太陽は東から昇り西に沈んでいるから太陽は地球の廻りを廻っている」は上記の意味で反証不能です。 観測結果についての記述とそれによる因果関係の言明を含む仮説はその命題の枠内では反証不能となると存じます。

いいかえれば観測者によって検証命題を「仮説」とも「同義反復」とも「空文」とも評価出来る事態が生じると言う事です。 科学史上のもっとも顕著な事例の一つとして「適者生存」があげられます。

蛇足ですが、上記の問題及び過小問題は「科学哲学の枠を越えての反証可能性なる概念の適用性」を考えるに当たっては、より慎重に検討さるべき問題と考えております。
6164   Reply Re:へちま鼻さんへ(Re:5642) 水原文人 2003/04/12 01:53
   
  ななさん、一点だけ。

> > > 「妄想クン」や「デマゴーグ」といった言辞も、上述したような倫理的、論理的観点から極力避けるべきものだと思います。
> > > ただ、それらの言辞は「子飼」「忠犬」「狂犬」もしくはそれらを含意するような文章の前に言明されたものだったのでしょうか。
> > > (過去ログが膨大になってちょっと検索し切れません)
> >
> > 「水ベル論争」の発端である「田中荘」の11526投稿以後の過去ログを参照すればわかるように、そこでの論旨を無視して罵倒語だけに注目すれば、どっちもどっちといったところでしょう〈笑〉。
>
> 過去ログを色々読んでみましたが、ピエールさんの「妄想クン」、「デマゴーグ」発言は水原さんの「子飼」、「忠犬」発言を受けて出てきたものだと判断できました。ですから、「『妄想クン』、『デマゴーグ』等々の修辞が飛び交う最中」は正確な時系列規定ではないし、「どっちもどっち」という修辞ではちょっと括れないように思います。

あの、「妄想クン」、「デマゴーグ」の著作権者はピーエルさんではなく、ベルナールさんで、ピエールさん「ご注進」の前からです。「どっちもどっち」と主張するには、ご説明では明らかに根拠薄弱です。


> ただ、水原さんの「子飼い」「忠犬」発言とピエールさんの「妄想クン」、「デマゴーグ」は、

ですから、その発言の責任をピエールさんに負わせることはできません。あくまでベルナールさんが言い出したことですから。
> > > ただし、本人が「愉快犯」を自認する発言をしたのであれば、それを覆すような文意が文章の中に読み取れない限りは、他者が書いたとおりの判断をすることに対して論理的反論はできないだろうと思います。
> >
> > これは、具体的な発言のレトリック等を考慮に入れなければ、一概に判断できる事柄ではないと思いますが。
>
> 「レトリック等を考慮」と言われますが、そんなことをやり出したら逆に「一概に判断できる事柄ではない」という「迷宮」に入り込むと思います。

レトリックであることは何度も明言しております。「書かれたこと」を重視されるのなら、それもまた尊重されるべきでしょう。

>例えば、「愉快犯」とか「確信犯」などと括弧書きで書いた場合などは、弁解を事前に用意した一種の巧妙なレトリック(もちろん、そうではない括弧書きがしっかりした意味を持つ場合もありますが)ともなりうるわけですね。

それはその通りですし、括弧付きであるんだから本気でとるなとベルナール氏に言われたら、僕はそれ以上は文句は言わないでしょう。ただしピエール氏の【】使用は強調の意味合いが視覚的に濃厚であり、レトリックのつもりなら「」とか・・でもつかえばいいわけで、同じ説明では説得力が欠如します。

> したがって、当人が書いた他の発言の中にそれに反する、それを否定する、もしくは訂正したような明らかな言明でもなければ、「書いてしまった」言辞は、まずは字面通り受け取られるのが当然だと思います。

ですからレトリック、自虐的ギャグであることは再三明記しております。

ぜひとも「書かれたこと」をきちんと出発点にして頂きたく存じます。無論そこで「書かれたことすべてを網羅することなど不可能」という現実にぶちあたるわけですが。
6159   Reply へちま鼻さんへ(Re:5642) なな   2003/04/12 00:57
   
  へちま鼻さん、こんばんは。遅くなりましたがへちま鼻さんの5642番投稿に対するレスです。

> > まず「中傷とは何か」ですが、これは広辞苑やその辺の辞書に書いてある字面どおりの、『根拠のない悪口(けなし、ののしり、悪罵、他者を貶める言葉、etc.)』という理解でよろしいんじゃないでしょうか。中傷という語彙そのものをあらためて「考察」する「必要」は特にあるとは思えませんが。それに、厳密性が求められるのは、中傷する言辞を投げた側が提示すべき根拠についてだろうと考えます。
>
> 僕が「中傷」の問題についてベルナールさんと議論を試みたのは、まさにその「厳密な考察も必要」だと考えたからなのです。

へちま鼻さんが「厳密な考察も必要」という際のその“対象”は「中傷という語彙そのもの」なのか、それとも「中傷する言辞を投げた根拠」なのかよく分かりませんでした。(文章からは確定的には読み取れませんでした)
前者であれば、私は先に「中傷という語彙そのものをあらためて『考察』する『必要』は特にあるとは思えない」と書いておりますので、なぜ中傷という語彙の「厳密な考察」が必要なのか、その理由を書いていただきたいのですが・・・。

> > へちま鼻さんは、「非人情に徹する」、「他者の発言について倫理は語らない」という主旨を述べていたと思いますが、倫理的観点からの私の上記意見は個別の発言に対してではなく一般論としてのものです。これに対してへちま鼻さんはどう「語」られますか。
>
> ななさんのお考えに、特に異論はございません。僕自身、だいたい同じような格律を自分に対しては課しているつもりです。そうした格律が掲示板参加者によって守られれば、無益な感情的軋轢の多くは回避することができるでしょう。ただし、一般論として申し上げれば、掲示板の議論において感情的軋轢を排除すべきとは、僕は必ずしも考えておりません。ですから僕は、自分自身に対しては、ななさんがおっしゃるような格律を課しておりますが、他人に対してそれを「倫理」の観点から要請しようとは、思っておりません。それは、僕とベルナールさんとの、「中傷」語をめぐるかみ合わない議論とも関係するのですが、もしそこで僕が、ベルナールさんにあくまで「撤回」を要求したら、収拾のつかない事態になることが目に見えています。特に「倫理」的問題には、論者間の「共約不能」性が存在すると思いますので。

おっしゃっることは基本的に理解いたしました。

> > > なぜこんなまどろっこしいことを僕が言うのかというと、水原さんの「子飼」云々の発言は、「妄想クン」、「デマゴーグ」等々の修辞が飛び交う最中になされたものであるからです。それらの罵倒語についての考察を抜きに、「子飼」だけを取り立ててその発言の是非についての判断を下すことは、公平を失する恐れがあるでしょう。
> >
> > 「妄想クン」や「デマゴーグ」といった言辞も、上述したような倫理的、論理的観点から極力避けるべきものだと思います。
> > ただ、それらの言辞は「子飼」「忠犬」「狂犬」もしくはそれらを含意するような文章の前に言明されたものだったのでしょうか。
> > (過去ログが膨大になってちょっと検索し切れません)
>
> 「水ベル論争」の発端である「田中荘」の11526投稿以後の過去ログを参照すればわかるように、そこでの論旨を無視して罵倒語だけに注目すれば、どっちもどっちといったところでしょう〈笑〉。

過去ログを色々読んでみましたが、ピエールさんの「妄想クン」、「デマゴーグ」発言は水原さんの「子飼」、「忠犬」発言を受けて出てきたものだと判断できました。ですから、「『妄想クン』、『デマゴーグ』等々の修辞が飛び交う最中」は正確な時系列規定ではないし、「どっちもどっち」という修辞ではちょっと括れないように思います。

ただ、水原さんの「子飼い」「忠犬」発言とピエールさんの「妄想クン」、「デマゴーグ」は、その度合いは別としてもどちらも悪口、罵倒の部類に入る言辞と考えますので、管理人のそよかさんが呼びかけられたように、今後はそういった言辞の書き込みは是非ストップして欲しいと思っています。

> > ただし、本人が「愉快犯」を自認する発言をしたのであれば、それを覆すような文意が文章の中に読み取れない限りは、他者が書いたとおりの判断をすることに対して論理的反論はできないだろうと思います。
>
> これは、具体的な発言のレトリック等を考慮に入れなければ、一概に判断できる事柄ではないと思いますが。

「レトリック等を考慮」と言われますが、そんなことをやり出したら逆に「一概に判断できる事柄ではない」という「迷宮」に入り込むと思います。例えば、「愉快犯」とか「確信犯」などと括弧書きで書いた場合などは、弁解を事前に用意した一種の巧妙なレトリック(もちろん、そうではない括弧書きがしっかりした意味を持つ場合もありますが)ともなりうるわけですね。
したがって、当人が書いた他の発言の中にそれに反する、それを否定する、もしくは訂正したような明らかな言明でもなければ、「書いてしまった」言辞は、まずは字面通り受け取られるのが当然だと思います。

> > > ベルナールさんは、「議論における最低限の係留点」を確保するという意図において、水原さんの議論の形式的側面に注視し、それが相手の明示的な言葉を無視した「妄想」に陥っていることを、繰り返し「論理的」に批判していた、と考えます。そこで問われていたのは、「国旗論」や「父権制」といった、水原さんの発言の「内容」に関する問題ではありません。ただ、この「形式的」な批判が数日に渡り繰り返し行われたことによって、水原―野崎バトルの政治的な側面から見れば、ベルナールさんの意図から離れて、水原 vs. 野崎+ベルナール、という対立構図が現れてしまった、ということです。つまり、発言「内容」をめぐる水原―野崎バトルに、政治的観点から見ると、ベルナールさんも巻き込まれていた、というわけです。単なる「形式」をめぐる論理的指摘が、水原―野崎バトルへの実質的介入へと転化した、というのはこのことです。
> >
> > 何をもって「ベルナールさんの意図から離れ」と判断するのか、この書き込みからは私にはよく見えません。また、「政治的な側面」とは具体的にどのようなことを指しているのでしょうか。
>
> ベルナールさんは、水原さんの発言の内容(「国旗」論や「父権制」の問題)には興味がなく、「議論のやり取りを妨害する逸脱行為」に対して「論理的カテゴリー」においてのみ水原さんを批判している旨を何度も表明なさっており、「妄想クン」その他の「語から受ける一般的印象」に拘泥すべきでない、とおっしゃっています。ところが、ベルナールさんの介入で用いられた用語や語調の「一般的印象」が、実は掲示板の議論の進行を混乱させる結果につながり、複数の参加者間における感情的対立(さらには一種の「正義」をめぐる「政治的」敵対関係)までも生み出してしまったことです(具体的な人名等は省略。。)。無論、こうした混乱は、ベルナールさんの意図していたことでは全くないでしょう。

そうでしょうか、実は私は違う見方をしています。

本質的な観点からみて私は、ベルナールさんが用いられた「用語や語調の『一般的印象』」が「複数の参加者間における感情的対立(さらには一種の「正義」をめぐる「政治的」敵対関係)までも生み出してしまった」とは考えていないのです。助長はしたかもしれませんが、生み出したことの根本的原因になったとは考えていません。
「反証可能性」の担保に欠ける水原さんの中傷的言辞に対する批判を始めたベルナールさんの「語調」が、連続するやり取りの中で辛らつになり、「悪口、罵倒」化する前に、お二人の意見に対する評価分岐(へちま鼻さんが「感情的対立」、「政治的」敵対関係という修辞で言われたところの)は既に生じていたと思います。もっと言えば、他者を論難したり揶揄したりする際に乱用された「反証不能」言辞の問題性に気づくよりも、水原さんの「切れ味鋭い人物分析」、つまり「精神分析」的な心理描写やそれに拠った「表現力豊かな」揶揄などに納得してしまった(引き寄せられてしまった)方がおり、その時点で既に「分岐」は生まれていたと私は見ています。
極論すれば、「分岐の基本構図は、ベルナールさんの批判が始まる前に、水原さんの『論』が読まれた段階で既に生じていた」ということです。そしてそれ以降、その構図の変化は基本的に生じなかったとも言えるでしょう。以前に、「反証可能性の担保に乏しい「精神分析」的言及は、へたをすると、単純な事実誤認や虚偽発言より始末に負えないものになる可能性があります。」と書いたのはそういう含意がありました。

> > 書かれた事実命題や意見命題をもとにして、新たな意見命題(その意味では「書かれていない」こと)を推論的に導くことは論理的に可能だと思いますし、そういった方法は議論において頻繁になされていることでしょう。ただし、その推論は「書いたこと」が土台となるべきであり、「書かれていない」ことが「土台」となったような「推測」は決して論理的とは言えないでしょう。
> > 問題とされている論点は、「書かれていない」ことについての「推測」ではなくて、「書かれていない」ことをもとにした「推論」か否かでしょう。
>
> 「『書かれていない』ことについての『推測』ではなくて、『書かれていない』ことをもとにした『推論』か否かでしょう」という文の意味がいまいち明確に掴めませんので、もう少し敷衍してご説明願えないでしょうか。

分かり辛い表現でした。
「『書かれていない』ことをもとにした『推測』」とは、へちま鼻さんへのレスで何度も触れた「精神分析的な人物評価」(心理分析や描写、さらにはそれを援用した揶揄や中傷的言辞)のような『推測』を指しておりました。
「『書かれていない』ことについての『推測』」とは、明示された意見言明や事実情報などから、具体的明示のない新たな推論、推測を論理的に導くことを指しておりました。

> > > 上で大方説明いたしましたが、補足しておけば、ある指摘を一度きり述べることと、同じ指摘ではあってもそれを連日に渡って百度くり返すこととでは、言明の論理内容としては等値であっても、現実に対する介入のあり方としては質的な相違がある、ということです。
> >
> > 分かりやすく言えば、一度や二度くらいの指摘ならよろしいが、しつこく繰り返すのは悪しき「介入」であるとおっしゃっているのでしょうか。
>
> いえ、「良いか悪いか」については僕は一切問題にはしておりません。単に、介入の「質」が前者と後者では異なる、という事実について指摘しただけです。

> > それと、この文章は論理的見地からの言及でしょうか、それとも倫理的見地からのものでしようか。
>
> もちろん、論理的見地からの言及です。
5642   Reply ななさんへ(Re:5443) へちま鼻 Mail
  2003/04/08
02:15
   
  ななさん、


> > 「批判されたり撤回の申し入れがあっても不当とは言えない」のはもちろんです。ただ、批判を受け入れることと、撤回要請を受け入れることとは、同一の次元にはありません。第三者が撤回要請を行う前提として、当の発言の内容が「明らかに他者を中傷する表現、言辞」であるかどうかについての精査が求められるゆえんです。またさらにその前提として、他者に対する「中傷」とは何か、についての厳密な考察も必要でしょう。次にこの問題について、具体例を取り上げつつ考えてみたいと思います。
>
> ◇ 「明らかに他者を中傷する表現、言辞」であるかどうかについての「精査が求められる」というご主張について
>
> 「精査」が求められるというご主張自体には反論しません。ただほとんど場合、「中傷する表現、言辞」を投げかけられた側はその根拠の提示を相手に強く求めるでしょうから、その言辞を投げかけた側がまずしっかりした根拠を示めした上でその根拠性の「精査」を受けるべきではないでしょうか。

もちろん、その通りでしょう。ただ、僕が問題にしているのは、「第三者」が「撤回」要請を行う場合には、単なる「批判」よりも、より慎重な配慮が求められるのではないか、ということです。それについては、また後で触れます。


> ◇ 「他者に対する『中傷』とは何か、についての厳密な考察も必要」というご主張について
>
> まず「中傷とは何か」ですが、これは広辞苑やその辺の辞書に書いてある字面どおりの、『根拠のない悪口(けなし、ののしり、悪罵、他者を貶める言葉、etc.)』という理解でよろしいんじゃないでしょうか。中傷という語彙そのものをあらためて「考察」する「必要」は特にあるとは思えませんが。それに、厳密性が求められるのは、中傷する言辞を投げた側が提示すべき根拠についてだろうと考えます。

僕が「中傷」の問題についてベルナールさんと議論を試みたのは、まさにその「厳密な考察も必要」だと考えたからなのです。



> 中傷であろうが、悪口、悪罵であろうが、それらは掲示板での議論対話においては極力、慎むべきものと私は考えますが、その理由、根拠は以下のようにまとめられます。
>
> 第一に、相手の見えない(ほとんどの場合、会ったこともない)者同士の、それも議論することを趣旨とする掲示板では、よほどの確固たる(普遍性のある)根拠を明らかにできる場合を除いては中傷的言辞は用いるべきではないと考えるからです。そして、仮に投げかけてしまった以上は発言者にその根拠の厳密性が求められるべきであり、しっかりした充分な根拠を提示できなければ謝罪、撤回することも止むなしという立場に私は立っています。もちろんこれは倫理的観点からの意見ですから、価値観抜きに普遍的に真であるなどと大それたことを言うつもりはありませんし、強制力を主張できるものとも考えておりません。しかし、多くの掲示板では「人格攻撃や誹謗中傷は慎むように」といった主旨が「注意書き」などで示されており、「問答有用」板などでもそれは同様に求められていると理解できるでしょう。

異論はありません。


> 第二に、仮にそれなりの中傷「根拠」が何らかの「形」で示されるにしても、直接的で事実命題的な内容提示がなされない限り、充分に説得力ある厳密性を実行するのは、ほとんどの場合、困難であろうという論理的判断からです。
> 言葉を換えて言えばそれは、(既に何度か述べているように)人間の心の働き、心理状態を一から十まで読み切ったかのように書ける「精神分析」的言辞は、それを直接根拠づける事実命題的な内容を充分に提示することはほとんどの場合、現実的、物理的に見て極めて困難であると論理的に考えられ、その意味でそのような言辞は「反証可能性」の担保に欠ける言辞と見なし得るからです。

この「論理的判断」にも同意。


> 第三に、中傷的言辞は、とりあえずその根拠の当否は別として、ほとんどの場合「不毛な感情的軋轢、対立を生じやすく議論遂行の障害となる可能性が大」であり、「根拠と論理を土台とする議論を議論たらしめる上ではマイナスになる可能性は大であっても、ブラスとなることはほとんど期待できない」という経験的、論理的判断からです。よしんば中傷言辞に関して事実命題的な根拠内容をそれなりに提示することができたとしても、例えば『子飼い』や『狂犬』のような、明らかに他者に対する著しい「悪口」(けなし、ののしり、悪罵、他者を貶める言葉、etc.)となる修辞を議論の中に投入、介在させる論理的必然性や必要性は全くと言っていいほどないと考えられるからです。

この「経験的判断」にも異論はありません。


> へちま鼻さんは、「非人情に徹する」、「他者の発言について倫理は語らない」という主旨を述べていたと思いますが、倫理的観点からの私の上記意見は個別の発言に対してではなく一般論としてのものです。これに対してへちま鼻さんはどう「語」られますか。

ななさんのお考えに、特に異論はございません。僕自身、だいたい同じような格律を自分に対しては課しているつもりです。そうした格律が掲示板参加者によって守られれば、無益な感情的軋轢の多くは回避することができるでしょう。ただし、一般論として申し上げれば、掲示板の議論において感情的軋轢を排除すべきとは、僕は必ずしも考えておりません。ですから僕は、自分自身に対しては、ななさんがおっしゃるような格律を課しておりますが、他人に対してそれを「倫理」の観点から要請しようとは、思っておりません。それは、僕とベルナールさんとの、「中傷」語をめぐるかみ合わない議論とも関係するのですが、もしそこで僕が、ベルナールさんにあくまで「撤回」を要求したら、収拾のつかない事態になることが目に見えています。特に「倫理」的問題には、論者間の「共約不能」性が存在すると思いますので。


> まず申し上げたいのですが、「AはBの忠犬である」という言明と「Aの思考と行動は常にBの支配下に置かれている」という言明との間には、中傷言辞かどうかの判断は別として、それぞれ含意している内容には少なからずの質的違いがあります。前者は「媚を売る」、「自ら進んで支配、管理されることをよしとする態度」を含意している修辞と言えるでしょうが、後者の言明にはそのような含意はないでしょう。

この「質的違い」は見落としておりました。確かに、「AはBの忠犬である」という言明には、Aという人物の能動的な態度を含意していますね。


> 『明らかに他者に対する「悪口」となる修辞を議論の中に投入、介在させる論理的必然性や必要性は全くと言っていいほどないと考えられる』という私の意見から判断させていただくと、へちま鼻さんが例示されたような「○○さんの思考と行動は常に△△さんの支配下に置かれているようにみえる」(表現をより具体的にさせていただきました、便宜上これを【意見命題X】とします)という言辞は、「悪口」(けなし、ののしり、悪罵、他者を貶める言葉、etc.)としての修辞的含意が込められたものではないと判断できますし、単に他者の言動に対する自己の印象的な認知を表明した意見と理解できるでしょう。その点では上述した倫理的問題は概ねクリアされるものと私は判断します。
>
> 「反証、反論不可能」な言辞かどうかについて。
> へちま鼻さんは【意見命題X】の○○に「日本政府」、△△に「米国政府」を当てはめて「日本政府の思考と行動は米政府の支配下に置かれているようにみえる」(便宜上、これを【意見命題Y】とします)という比喩対照としての意見命題を例示され、それを「反証、反論は可能」という主張の根拠にされているわけですね。つまり、【意見命題Y】が真であるならば【意見命題X】も真であると。
> たしかに論壇やメディアなどにそのような【意見命題Y】に類似した意見が見られるのは事実だと思います。その上で申し上げれば、私はそれを「原理的に反証、反論不可能」な言辞だとは捉えておりません。
> 比喩として提出された【意見命題Y】と元の【意見命題X】とでは一見、同質・等価の意見命題を述べているように見えますが、それらの命題設定の枠組みをじっくり分析してみれば、「【意見命題Y】が真であるならば【意見命題X】も真である」とは言えないことに気づくでしょう。
> まず第一に「政府」には「心」というものはありません。よしんば「政府心理」(ほとんど聞いたことがありませんが)というような擬人的表現が可能であるとしても、そこで言及、含意されていることは客観的に計量可能なものであり、具体的に言えば、事実としての政府の政策や行動によって判断されるものでしょう。我々個々人は長い年月に渡って政府の言動、政策を知る機会にあずかっており、また直接、間接に日本政府の行動(行政や外交など)と利害影響関係にあるわけです。そのような点では、【意見命題Y】の発言主体は意見命題を直接的に根拠づけるところの事実命題的な内容を充分に提示できる現実的、物理的環境下にある
と言えるわけです。だからこそそういった意見命題には反論、反証も原理的、論理的に可能なわけで、その点こそが、会ったこともない掲示板上の人間に対する、それも読むのに1分とかからないような文章ひとつやふたつを「根拠」にして相手の心の状態、心理を一から十まで読み切ったかのような「精神分析」的言辞を投げかけることとは根本的に違うところだと言えるでしょう。
> それと、「精神分析」や「心理分析」って、人間の「心」を対象にするものでしたよね。
> さらに付言させていただけば、倫理的見地から見て、「○○さんは△△さんの子飼い、忠犬」【意見命題q】と「日本政府は米国政府の子飼い、忠犬」【意見命題r】というふたつの言辞で問題にされる倫理性にも質的な隔たりがあることが指摘できるでしょう。【意見命題q】で言明の対象になっているのは人格をもった特定の個人であり、その言明内容はその個人の人格や人間性に触れる心理、内面性を規定したものであります。また、「△△さんの」と引き合いにだされているのは人格をもった人間です。一方、【意見命題r】の言明対象である「機関、組織」と呼ばれているものは、人格や人間性という観念では括れない対象です。そして、言明の主体が仮に我々日本人であるならば、その発言者は発言対象である日本政府を構成することに直接的もしくは間接的に関与し、利害的にも不可分かつ密接に繋がっている関係にあると言えます。このように主体と客体の質的および構成的な関係性が異なる枠組みをもったふたつの意見命題では、その言明の倫理的判断には大きな隔たりがあると言えるでしょう。

ここまでのご説明に、異論はございません。



> > なぜこんなまどろっこしいことを僕が言うのかというと、水原さんの「子飼」云々の発言は、「妄想クン」、「デマゴーグ」等々の修辞が飛び交う最中になされたものであるからです。それらの罵倒語についての考察を抜きに、「子飼」だけを取り立ててその発言の是非についての判断を下すことは、公平を失する恐れがあるでしょう。
>
> 「妄想クン」や「デマゴーグ」といった言辞も、上述したような倫理的、論理的観点から極力避けるべきものだと思います。
> ただ、それらの言辞は「子飼」「忠犬」「狂犬」もしくはそれらを含意するような文章の前に言明されたものだったのでしょうか。
> (過去ログが膨大になってちょっと検索し切れません)

「水ベル論争」の発端である「田中荘」の11526投稿以後の過去ログを参照すればわかるように、そこでの論旨を無視して罵倒語だけに注目すれば、どっちもどっちといったところでしょう〈笑〉。


> > 「反応を楽しむ愉快犯」的な動機があるかどうかは、正当な「議論方法」であるかどうかとは、直接には関係のない問題だと思います。ある方が「愉快犯」的動機で書き込みを行っているかどうかなど、所詮「推測」を出るものではないでしょう。そもそもそうした推測こそ、「原理的に反証、反論不可能」なものでありましょう(笑)。
>
> え〜と、<「反応を楽しむ愉快犯」的な動機があるかも知れない>という私の「精神分析」発言の意図は、「そうした推測こそ、「原理的に反証、反論不可能」なものでありましょう」ということを自問自答の形で揶揄したものだったのですが、うまく伝わらなかったようですね(笑)。

了解です。。。


> ただし、本人が「愉快犯」を自認する発言をしたのであれば、それを覆すような文意が文章の中に読み取れない限りは、他者が書いたとおりの判断をすることに対して論理的反論はできないだろうと思います。

これは、具体的な発言のレトリック等を考慮に入れなければ、一概に判断できる事柄ではないと思いますが。


> > ベルナールさんは、「議論における最低限の係留点」を確保するという意図において、水原さんの議論の形式的側面に注視し、それが相手の明示的な言葉を無視した「妄想」に陥っていることを、繰り返し「論理的」に批判していた、と考えます。そこで問われていたのは、「国旗論」や「父権制」といった、水原さんの発言の「内容」に関する問題ではありません。ただ、この「形式的」な批判が数日に渡り繰り返し行われたことによって、水原―野崎バトルの政治的な側面から見れば、ベルナールさんの意図から離れて、水原 vs. 野崎+ベルナール、という対立構図が現れてしまった、ということです。つまり、発言「内容」をめぐる水原―野崎バトルに、政治的観点から見ると、ベルナールさんも巻き込まれていた、というわけです。単なる「形式」をめぐる論理的指摘が、水原―野崎バトルへの実質的介入へと転化した、というのはこのことです。
>
> 何をもって「ベルナールさんの意図から離れ」と判断するのか、この書き込みからは私にはよく見えません。また、「政治的な側面」とは具体的にどのようなことを指しているのでしょうか。

ベルナールさんは、水原さんの発言の内容(「国旗」論や「父権制」の問題)には興味がなく、「議論のやり取りを妨害する逸脱行為」に対して「論理的カテゴリー」においてのみ水原さんを批判している旨を何度も表明なさっており、「妄想クン」その他の「語から受ける一般的印象」に拘泥すべきでない、とおっしゃっています。ところが、ベルナールさんの介入で用いられた用語や語調の「一般的印象」が、実は掲示板の議論の進行を混乱させる結果につながり、複数の参加者間における感情的対立(さらには一種の「正義」をめぐる「政治的」敵対関係)までも生み出してしまったことです(具体的な人名等は省略。。)。無論、こうした混乱は、ベルナールさんの意図していたことでは全くないでしょう。



> へちま鼻さんは「水原 vs. 野崎+ベルナール、という対立」のその「構図」が発生すること自体が問題だとされているのでしょうか。それとも、ベルナールの批判の論点が変遷したということをおっしゃりたいのでしょうか。つまり、「ベルナールさんは水原さんの発言の『内容』(国旗論とか、父権制とか)には一切言及しないと言っていたのに、いつの間にかそれに言及し出した」と。

感情的・政治的な対立や混乱が発生したことを問題にしています。



> > それは基本線ではありましょう。ただし、「書かれていない」ことについての「推測」が全て相手に対する「中傷」であるかといえば、そうではないでしょう。
>
> もし、それがベルナールさんに向けられた発言だとしても、「『推測』が全て相手に対する中傷である」というような一般論はベルナールさんはおっしゃっていなかったと思います。
>
> 書かれた事実命題や意見命題をもとにして、新たな意見命題(その意味では「書かれていない」こと)を推論的に導くことは論理的に可能だと思いますし、そういった方法は議論において頻繁になされていることでしょう。ただし、その推論は「書いたこと」が土台となるべきであり、「書かれていない」ことが「土台」となったような「推測」は決して論理的とは言えないでしょう。
> 問題とされている論点は、「書かれていない」ことについての「推測」ではなくて、「書かれていない」ことをもとにした「推論」か否かでしょう。

「『書かれていない』ことについての『推測』ではなくて、『書かれていない』ことをもとにした『推論』か否かでしょう」という文の意味がいまいち明確に掴めませんので、もう少し敷衍してご説明願えないでしょうか。



> > 上で大方説明いたしましたが、補足しておけば、ある指摘を一度きり述べることと、同じ指摘ではあってもそれを連日に渡って百度くり返すこととでは、言明の論理内容としては等値であっても、現実に対する介入のあり方としては質的な相違がある、ということです。
>
> 分かりやすく言えば、一度や二度くらいの指摘ならよろしいが、しつこく繰り返すのは悪しき「介入」であるとおっしゃっているのでしょうか。

いえ、「良いか悪いか」については僕は一切問題にはしておりません。単に、介入の「質」が前者と後者では異なる、という事実について指摘しただけです。


> それと、この文章は論理的見地からの言及でしょうか、それとも倫理的見地からのものでしようか。

もちろん、論理的見地からの言及です。
5443   Reply へちま鼻さんへ(Re:5298) なな   2003/04/04 12:29
   
  へちま鼻さん、こんにちは。5298番投稿へのレスです。

本日から3日間ほど仕事で家を空けますので、レスをいただいてもご返事は少々遅れるかもしれません。ご了承ください。

> 「批判されたり撤回の申し入れがあっても不当とは言えない」のはもちろんです。ただ、批判を受け入れることと、撤回要請を受け入れることとは、同一の次元にはありません。第三者が撤回要請を行う前提として、当の発言の内容が「明らかに他者を中傷する表現、言辞」であるかどうかについての精査が求められるゆえんです。またさらにその前提として、他者に対する「中傷」とは何か、についての厳密な考察も必要でしょう。次にこの問題について、具体例を取り上げつつ考えてみたいと思います。

◇ 「明らかに他者を中傷する表現、言辞」であるかどうかについての「精査が求められる」というご主張について

「精査」が求められるというご主張自体には反論しません。ただほとんど場合、「中傷する表現、言辞」を投げかけられた側はその根拠の提示を相手に強く求めるでしょうから、その言辞を投げかけた側がまずしっかりした根拠を示めした上でその根拠性の「精査」を受けるべきではないでしょうか。

◇ 「他者に対する『中傷』とは何か、についての厳密な考察も必要」というご主張について

まず「中傷とは何か」ですが、これは広辞苑やその辺の辞書に書いてある字面どおりの、『根拠のない悪口(けなし、ののしり、悪罵、他者を貶める言葉、etc.)』という理解でよろしいんじゃないでしょうか。中傷という語彙そのものをあらためて「考察」する「必要」は特にあるとは思えませんが。それに、厳密性が求められるのは、中傷する言辞を投げた側が提示すべき根拠についてだろうと考えます。
中傷であろうが、悪口、悪罵であろうが、それらは掲示板での議論対話においては極力、慎むべきものと私は考えますが、その理由、根拠は以下のようにまとめられます。

第一に、相手の見えない(ほとんどの場合、会ったこともない)者同士の、それも議論することを趣旨とする掲示板では、よほどの確固たる(普遍性のある)根拠を明らかにできる場合を除いては中傷的言辞は用いるべきではないと考えるからです。そして、仮に投げかけてしまった以上は発言者にその根拠の厳密性が求められるべきであり、しっかりした充分な根拠を提示できなければ謝罪、撤回することも止むなしという立場に私は立っています。もちろんこれは倫理的観点からの意見ですから、価値観抜きに普遍的に真であるなどと大それたことを言うつもりはありませんし、強制力を主張できるものとも考えておりません。しかし、多くの掲示板では「人格攻撃や誹謗中傷は慎むように」といった主旨が「注意書き」などで示されており、「問答有用」板などでもそれは同様に求められていると理解できるでしょう。

第二に、仮にそれなりの中傷「根拠」が何らかの「形」で示されるにしても、直接的で事実命題的な内容提示がなされない限り、充分に説得力ある厳密性を実行するのは、ほとんどの場合、困難であろうという論理的判断からです。
言葉を換えて言えばそれは、(既に何度か述べているように)人間の心の働き、心理状態を一から十まで読み切ったかのように書ける「精神分析」的言辞は、それを直接根拠づける事実命題的な内容を充分に提示することはほとんどの場合、現実的、物理的に見て極めて困難であると論理的に考えられ、その意味でそのような言辞は「反証可能性」の担保に欠ける言辞と見なし得るからです。

第三に、中傷的言辞は、とりあえずその根拠の当否は別として、ほとんどの場合「不毛な感情的軋轢、対立を生じやすく議論遂行の障害となる可能性が大」であり、「根拠と論理を土台とする議論を議論たらしめる上ではマイナスになる可能性は大であっても、ブラスとなることはほとんど期待できない」という経験的、論理的判断からです。よしんば中傷言辞に関して事実命題的な根拠内容をそれなりに提示することができたとしても、例えば『子飼い』や『狂犬』のような、明らかに他者に対する著しい「悪口」(けなし、ののしり、悪罵、他者を貶める言葉、etc.)となる修辞を議論の中に投入、介在させる論理的必然性や必要性は全くと言っていいほどないと考えられるからです。

へちま鼻さんは、「非人情に徹する」、「他者の発言について倫理は語らない」という主旨を述べていたと思いますが、倫理的観点からの私の上記意見は個別の発言に対してではなく一般論としてのものです。これに対してへちま鼻さんはどう「語」られますか。

> > 例えば、「ピエールさんはベルナールさんの『子飼い』『忠犬』」云々、はたまた『ファナティックな狂犬』などは、「原理的に反証、反論不可能」な言明であり、明らかに中傷的な修辞でしょう。
>
> まず、「子飼」「忠犬」「狂犬」云々の発言が、「原理的」に反証、反論不可能なものであるかどうか、という問題があります。「AはBの子飼である」、「AはBの忠犬である」という命題は、その中傷的含意を抜きにして考えれば、必ずしも「反証、反論不可能」なものではありません。上の二つの命題は、「Aの思考と行動は常にBの支配下に置かれている」のように置き換えることができるでしょう。AとBに、例えば「日本政府」「米国政府」等の固有名詞を入れた発言は、論壇でもよく見られるわけです。で、上の命題が「反証、反論不可能」であることを、それこそ「反証可能」なやり方で証明するのは、困難であります。

まず申し上げたいのですが、「AはBの忠犬である」という言明と「Aの思考と行動は常にBの支配下に置かれている」という言明との間には、中傷言辞かどうかの判断は別として、それぞれ含意している内容には少なからずの質的違いがあります。前者は「媚を売る」、「自ら進んで支配、管理されることをよしとする態度」を含意している修辞と言えるでしょうが、後者の言明にはそのような含意はないでしょう。『明らかに他者に対する「悪口」となる修辞を議論の中に投入、介在させる論理的必然性や必要性は全くと言っていいほどないと考えられる』という私の意見から判断させていただくと、へちま鼻さんが例示されたような「○○さんの思考と行動は常に△△さんの支配下に置かれているようにみえる」(表現をより具体的にさせていただきました、便宜上これを【意見命題X】とします)という言辞は、「悪口」(けなし、ののしり、悪罵、他者を貶める言葉、etc.)としての修辞的含意が込められたものではないと判断できますし、単に他者の言動に対する自己の印象的な認知を表明した意見と理解できるでしょう。その点では上述した倫理的問題は概ねクリアされるものと私は判断します。

「反証、反論不可能」な言辞かどうかについて。
へちま鼻さんは【意見命題X】の○○に「日本政府」、△△に「米国政府」を当てはめて「日本政府の思考と行動は米政府の支配下に置かれているようにみえる」(便宜上、これを【意見命題Y】とします)という比喩対照としての意見命題を例示され、それを「反証、反論は可能」という主張の根拠にされているわけですね。つまり、【意見命題Y】が真であるならば【意見命題X】も真であると。
たしかに論壇やメディアなどにそのような【意見命題Y】に類似した意見が見られるのは事実だと思います。その上で申し上げれば、私はそれを「原理的に反証、反論不可能」な言辞だとは捉えておりません。
比喩として提出された【意見命題Y】と元の【意見命題X】とでは一見、同質・等価の意見命題を述べているように見えますが、それらの命題設定の枠組みをじっくり分析してみれば、「【意見命題Y】が真であるならば【意見命題X】も真である」とは言えないことに気づくでしょう。
まず第一に「政府」には「心」というものはありません。よしんば「政府心理」(ほとんど聞いたことがありませんが)というような擬人的表現が可能であるとしても、そこで言及、含意されていることは客観的に計量可能なものであり、具体的に言えば、事実としての政府の政策や行動によって判断されるものでしょう。我々個々人は長い年月に渡って政府の言動、政策を知る機会にあずかっており、また直接、間接に日本政府の行動(行政や外交など)と利害影響関係にあるわけです。そのような点では、【意見命題Y】の発言主体は意見命題を直接的に根拠づけるところの事実命題的な内容を充分に提示できる現実的、物理的環境下にあると言えるわけです。だからこそそういった意見命題には反論、反証も原理的、論理的に可能なわけで、その点こそが、会ったこともない掲示板上の人間に対する、それも読むのに1分とかからないような文章ひとつやふたつを「根拠」にして相手の心の状態、心理を一から十まで読み切ったかのような「精神分析」的言辞を投げかけることとは根本的に違うところだと言えるでしょう。
それと、「精神分析」や「心理分析」って、人間の「心」を対象にするものでしたよね。

さらに付言させていただけば、倫理的見地から見て、「○○さんは△△さんの子飼い、忠犬」【意見命題q】と「日本政府は米国政府の子飼い、忠犬」【意見命題r】というふたつの言辞で問題にされる倫理性にも質的な隔たりがあることが指摘できるでしょう。【意見命題q】で言明の対象になっているのは人格をもった特定の個人であり、その言明内容はその個人の人格や人間性に触れる心理、内面性を規定したものであります。また、「△△さんの」と引き合いにだされているのは人格をもった人間です。一方、【意見命題r】の言明対象である「機関、組織」と呼ばれているものは、人格や人間性という観念では括れない対象です。そして、言明の主体が仮に我々日本人であるならば、その発言者は発言対象である日本政府を構成することに直接的もしくは間接的に関与し、利害的にも不可分かつ密接に繋がっている関係にあると言えます。このように主体と客体の質的および構成的な関係性が異なる枠組みをもったふたつの意見命題では、その言明の倫理的判断には大きな隔たりがあると言えるでしょう。

> ただし、あくまでもこれは、当の発言の「中傷的含意を抜きにして」考えた場合です。ですから、当の発言が「原理的に反証、反論不可能」な言明であるか否かは、「中傷的修辞」というものをいかに考えるかに懸かってくるでしょう。つまり、「ある発言は反証不可能な言明であるから、その発言は相手を中傷するものである」のではなく、「ある発言は相手を中傷するものであるから、その発言は反証不可能な言明である」ということになるではないでしょうか。
とすれば、なぜ当該発言は「中傷的な修辞である」といえるのか、そもそも他者を「中傷する」とはどういうことなのか、について考えてみる必要があるでしょう。その考察を抜きにして、「明らか」さを根拠として持ってくることは、それこそ「反証不可能」な推測でありましょう。

↑このご意見についてはこれまで述べてきたことが返答になると思います。

> なぜこんなまどろっこしいことを僕が言うのかというと、水原さんの「子飼」云々の発言は、「妄想クン」、「デマゴーグ」等々の修辞が飛び交う最中になされたものであるからです。それらの罵倒語についての考察を抜きに、「子飼」だけを取り立ててその発言の是非についての判断を下すことは、公平を失する恐れがあるでしょう。

「妄想クン」や「デマゴーグ」といった言辞も、上述したような倫理的、論理的観点から極力避けるべきものだと思います。
ただ、それらの言辞は「子飼」「忠犬」「狂犬」もしくはそれらを含意するような文章の前に言明されたものだったのでしょうか。
(過去ログが膨大になってちょっと検索し切れません)

> > 謝罪や撤回要求などは極力回避すべき事態だと考えますが、発言内容によっては謝罪や撤回を申し入れることを不当としない要件としては、<「原理的に反証、反論不可能」な言明であり、かつ明らかに相手を著しく中傷する修辞>ということを考えています。
> > 「明らかに中傷的な修辞」というのは、客観的に第三者からも認識、判断できるという意味ですが、それはたとえば親しい者同士で交わされる、ジョークやウィットとしての表面的な「中傷」的言辞とは当然に判別されることはいわずもがなです。
>
> 上に述べたように、結局は「中傷的な修辞」とは何か、についての考察へと進まなければならないでしょう。また、上の僕の「私見」を敷衍しておくなら、そうした考察は、「論理」のカテゴリーだけで行えるものではなく、「道義」や「倫理」のカテゴリーを用いざるを得ないのではないか、ということであります。

もちろん、最終的にはそう考えています。ですから今回は、「論理」と「倫理」、両方の観点からの意見をまとめました。
中傷言辞の再定義、「考察」については冒頭に述べた通りです。

> > 敢えて言えば、「感情的反発を呼び込む」ことの中には、この相手とは議論を深めようというより「反応を楽しむ愉快犯」的な動機があるかも知れないという「精神分析」をしています(笑)。ですから、そんなものは「議論方法」ではないのでは、というのが私の意見なんですけどね。
>
> 「反応を楽しむ愉快犯」的な動機があるかどうかは、正当な「議論方法」であるかどうかとは、直接には関係のない問題だと思います。ある方が「愉快犯」的動機で書き込みを行っているかどうかなど、所詮「推測」を出るものではないでしょう。そもそもそうした推測こそ、「原理的に反証、反論不可能」なものでありましょう(笑)。

え〜と、<「反応を楽しむ愉快犯」的な動機があるかも知れない>という私の「精神分析」発言の意図は、「そうした推測こそ、「原理的に反証、反論不可能」なものでありましょう」ということを自問自答の形で揶揄したものだったのですが、うまく伝わらなかったようですね(笑)。

ただし、本人が「愉快犯」を自認する発言をしたのであれば、それを覆すような文意が文章の中に読み取れない限りは、他者が書いたとおりの判断をすることに対して論理的反論はできないだろうと思います。

> > その僅かな「可能性」は私も否定しません。ただそれが成立するのは、相手に対する「精神的分析」的批評が中傷的言辞を伴わない場合か、もしくは受け取った側が中傷を敢えて受け入れてもかまわないと考えるような他の重大な意義をもつ言明に気づいた時などかもしれません。
> > しかし、著しい中傷に対して、それを受けた本人から明らかな不快感を示す言明がなされた後においては、「第三者が、そうした可能性の芽自体を摘むとすれば」ということを想定する意義はなくなると考えます。
> > また一般論として、中傷的言辞が添えられる言辞から「生産的な論点が発見される」とは非常に考えづらいです。
>
> 一般論としては同意いたしますが、その前提として、「中傷」と「論理的批判」との厳密な区別が必要でしょう。

<「中傷」と「論理的批判」との厳密な区別>に関しては、上述の書き込みが返答になります。

> > > いえ、ベルナールさんは、水原さんの発言の「内容」(国旗論とか、父権制とか)には一切言及しない、という立場を基本的に取っていた、と思います。しかし、論理的「形式」の難点を指摘し、発言の「撤回」を繰り返し要求する中で、ベルナールさんの意図から離れたところで、「実質的」な介入へと転化してしまった、というのが真相なのではないか、と僕はみています。
> >
> > この文章でへちま鼻さんが言われている<「実質的」な介入へと転化>の意味がよく分かりません。
> > <「実質的」でない介入>と対照させて具体的にご説明いただけますか。
>
> ベルナールさんは、「議論における最低限の係留点」を確保するという意図において、水原さんの議論の形式的側面に注視し、それが相手の明示的な言葉を無視した「妄想」に陥っていることを、繰り返し「論理的」に批判していた、と考えます。そこで問われていたのは、「国旗論」や「父権制」といった、水原さんの発言の「内容」に関する問題ではありません。ただ、この「形式的」な批判が数日に渡り繰り返し行われたことによって、水原―野崎バトルの政治的な側面から見れば、ベルナールさんの意図から離れて、水原 vs. 野崎+ベルナール、という対立構図が現れてしまった、ということです。つまり、発言「内容」をめぐる水原―野崎バトルに、政治的観点から見ると、ベルナールさんも巻き込まれていた、というわけです。単なる「形式」をめぐる論理的指摘が、水原―野崎バトルへの実質的介入へと転化した、というのはこのことです。

何をもって「ベルナールさんの意図から離れ」と判断するのか、この書き込みからは私にはよく見えません。また、「政治的な側面」とは具体的にどのようなことを指しているのでしょうか。
へちま鼻さんは「水原 vs. 野崎+ベルナール、という対立」のその「構図」が発生すること自体が問題だとされているのでしょうか。それとも、ベルナールの批判の論点が変遷したということをおっしゃりたいのでしょうか。つまり、「ベルナールさんは水原さんの発言の『内容』(国旗論とか、父権制とか)には一切言及しないと言っていたのに、いつの間にかそれに言及し出した」と。

すみません、というわけで、どうも主旨が今ひとつ理解できません。お手数をおかけしますが今一度具体的にご説明いただけますでしょうか。

> > 会ったこともない者同士の掲示板上での議論においては、「告白」にしろ「戦略」にしろ、やはり「書いたことが全てであり、書かなかったことが全てである」ということが基本線ではないでしょうか。
>
> それは基本線ではありましょう。ただし、「書かれていない」ことについての「推測」が全て相手に対する「中傷」であるかといえば、そうではないでしょう。

それは言うまでもないことで、私はそんなことは言っておりません。もし、それがベルナールさんに向けられた発言だとしても、「『推測』が全て相手に対する中傷である」というような一般論はベルナールさんはおっしゃっていなかったと思います。

書かれた事実命題や意見命題をもとにして、新たな意見命題(その意味では「書かれていない」こと)を推論的に導くことは論理的に可能だと思いますし、そういった方法は議論において頻繁になされていることでしょう。ただし、その推論は「書いたこと」が土台となるべきであり、「書かれていない」ことが「土台」となったような「推測」は決して論理的とは言えないでしょう。
問題とされている論点は、「書かれていない」ことについての「推測」ではなくて、「書かれていない」ことをもとにした「推論」か否かでしょう。

> 例えば、田中荘における、朝鮮学校をめぐるおっちゃんの発言、あの背後にSONGさんは、「おちゅむの悪いおこちゃま達」が喜びそうな意図を読み取ったわけですが、それは実に正当なことだと思います。

これについては私は前後の発言をよく読んでおらず、また「おちゅむの悪いおこちゃま達」がどういったものを指すのか不案内ですので、発言を差し控えさせていただきます。

> > > ベルナールさんの本来のお考えは、おそらくおっしゃる通りなのでしょう。ただし、議論が「白熱」する中で、やはりやや逸脱があったと思いますし、さらに、「量」の積み重ねは「質」へと転化する、ということや、ある発言を公の場にさらすという行為は、「本来の意図」と離れた現実的介入へと転化する、ということも考慮に入れる必要があると思います。
> >
> > 率直に言って「やはりやや逸脱があった」という認識は私にもあります。ただ、その逸脱の方向に対する評価には少しばかりへちま鼻さんとは齟齬があるかと思います。
> > <「量」の積み重ねは「質」へと転化する>、それと上で書かれていた<「実質的」な介入>や、ここで言われた<現実的介入へと転化>をもう少し具体的に説明いただけませんか。
>
> 上で大方説明いたしましたが、補足しておけば、ある指摘を一度きり述べることと、同じ指摘ではあってもそれを連日に渡って百度くり返すこととでは、言明の論理内容としては等値であっても、現実に対する介入のあり方としては質的な相違がある、ということです。

分かりやすく言えば、一度や二度くらいの指摘ならよろしいが、しつこく繰り返すのは悪しき「介入」であるとおっしゃっているのでしょうか。
それと、この文章は論理的見地からの言及でしょうか、それとも倫理的見地からのものでしようか。
5298   Reply Re:へちま鼻さんへ(Re:4943) へちま鼻 Ma 2003/04/02 17:57
 
  ななさん、


> 私が申し上げた「反証可能性」とは、「科学的」厳密性を要求する意味で提示したものではありません。「科学的」厳密性を要求すると言った場合にはそれは、科学的見解、言明だけが許されるという解釈になるでしょう。議論することを趣旨とする掲示板では全ての言明に「科学的」厳密性が求められる、とはさらさら主張するつもりはありません。「反証可能性」と「科学的」厳密性の概念を混同されておられるようです。
> 少なくとも出会い系や趣味同好会的な会話を目的とするような掲示板ではなく「議論する掲示板」なのですから、そこでの発言には論理性が求められるということが私が一貫して提示している論点です。そのことと「科学的」厳密性をもった意見、すなわち科学的意見だけが有意義だとする科学主義的な考えは本質的に異なります。また、「論理的な言明は全て科学というカテゴリーで括れる」ということでもないでしょう。

ななさんのおっしゃる「反証可能性」の要求は、「科学的」厳密性の要請なのではなく、「論理性」の要請であるということ、了解いたしました。「反証可能性」に関わる問題については、5271でご紹介いただいた本を読んだ上で考えてみたいと思います。


> 確認しておきますが、先の投稿では「精神分析」的手法の「手法」そのものを撤回せよとは申しておりません。個々の言明、発言が「反証可能性」を担保しないもので、かつそれが明らかに他者を中傷する表現、言辞であるなら、批判されたり撤回の申し入れがあっても不当とは言えないというのが私の意見です。

「批判されたり撤回の申し入れがあっても不当とは言えない」のはもちろんです。ただ、批判を受け入れることと、撤回要請を受け入れることとは、同一の次元にはありません。第三者が撤回要請を行う前提として、当の発言の内容が「明らかに他者を中傷する表現、言辞」であるかどうかについての精査が求められるゆえんです。またさらにその前提として、他者に対する「中傷」とは何か、についての厳密な考察も必要でしょう。次にこの問題について、具体例を取り上げつつ考えてみたいと思います。


> 例えば、「ピエールさんはベルナールさんの『子飼い』『忠犬』」云々、はたまた『ファナティックな狂犬』などは、「原理的に反証、反論不可能」な言明であり、明らかに中傷的な修辞でしょう。

まず、「子飼」「忠犬」「狂犬」云々の発言が、「原理的」に反証、反論不可能なものであるかどうか、という問題があります。「AはBの子飼である」、「AはBの忠犬である」という命題は、その中傷的含意を抜きにして考えれば、必ずしも「反証、反論不可能」なものではありません。上の二つの命題は、「Aの思考と行動は常にBの支配下に置かれている」のように置き換えることができるでしょう。AとBに、例えば「日本政府」「米国政府」等の固有名詞を入れた発言は、論壇でもよく見られるわけです。で、上の命題が「反証、反論不可能」であることを、それこそ「反証可能」なやり方で証明するのは、困難であります。

ただし、あくまでもこれは、当の発言の「中傷的含意を抜きにして」考えた場合です。ですから、当の発言が「原理的に反証、反論不可能」な言明であるか否かは、「中傷的修辞」というものをいかに考えるかに懸かってくるでしょう。つまり、「ある発言は反証不可能な言明であるから、その発言は相手を中傷するものである」のではなく、「ある発言は相手を中傷するものであるから、その発言は反証不可能な言明である」ということになるではないでしょうか。とすれば、なぜ当該発言は「中傷的な修辞である」といえるのか、そもそも他者を「中傷する」とはどういうことなのか、について考えてみる必要があるでしょう。その考察を抜きにして、「明らか」さを根拠として持ってくることは、それこそ「反証不可能」な推測でありましょう。
なぜこんなまどろっこしいことを僕が言うのかというと、水原さんの「子飼」云々の発言は、「妄想クン」、「デマゴーグ」等々の修辞が飛び交う最中になされたものであるからです。それらの罵倒語についての考察を抜きに、「子飼」だけを取り立ててその発言の是非についての判断を下すことは、公平を失する恐れがあるでしょう。


> 「それについての説得的な説明がない限り」、「掲示板に無用な紛糾を呼び起してしまう危険」があるのは、どちらでしょう?

「どちらでしょう?」と、比較あるいは二者択一的な問題にしてしまうことには、さほど意味があるとは思われません。



> > 単に「方法」や「手法」が「科学的」でないからといって発言を撤回せねばならないような、そんな厳密さを掲示板の議論に要求することは疑問であります。
>
> 上述したように、また先の投稿でも述べたように、「方法」や「手法」が「科学的」でないからというアプリオリな判断理由で、発言を「批判したり撤回を求めることが不当だとは言えない」と書いたわけではないのです。結論的に言えば「方法」や「手法」は問題ではないのです。「科学的」については上述のとおりです。

了解いたしました。


> > また、第三者が「謝罪」を要求することについては、別な問題があるでしょう。「謝罪」要求は、発言者の道義的な不当性について指弾することですが、「精神分析」的手法を用いること自体が道義的に不当であるとは、ちょっと考えにくい。
> > ですから、ななさんも触れられているように、第三者がある人の発言の「撤回」や「謝罪」を要求するには、単に議論の「手法」に対する批判だけではなく、発言の「内容」についての精査が必要であります。私見を述べれば、事実に関する誤謬についての撤回要求でない限り、そうした発言内容の精査というのは、結局は「道義」や「倫理」の観点からのものにならざるを得ないのでは、と思うのですが・・・
>
> 先の投稿でも述べましたように、「手法」に対する批判は自由な言論の範疇にあると思いますが、その「手法」自体の撤回を要求することは不当なことだと考えていることはご確認ください。
> 謝罪や撤回要求などは極力回避すべき事態だと考えますが、発言内容によっては謝罪や撤回を申し入れることを不当としない要件としては、<「原理的に反証、反論不可能」な言明であり、かつ明らかに相手を著しく中傷する修辞>ということを考えています。
> 「明らかに中傷的な修辞」というのは、客観的に第三者からも認識、判断できるという意味ですが、それはたとえば親しい者同士で交わされる、ジョークやウィットとしての表面的な「中傷」的言辞とは当然に判別されることはいわずもがなです。

上に述べたように、結局は「中傷的な修辞」とは何か、についての考察へと進まなければならないでしょう。また、上の僕の「私見」を敷衍しておくなら、そうした考察は、「論理」のカテゴリーだけで行えるものではなく、「道義」や「倫理」のカテゴリーを用いざるを得ないのではないか、ということであります。


> 敢えて言えば、「感情的反発を呼び込む」ことの中には、この相手とは議論を深めようというより「反応を楽しむ愉快犯」的な動機があるかも知れないという「精神分析」をしています(笑)。ですから、そんなものは「議論方法」ではないのでは、というのが私の意見なんですけどね。

「反応を楽しむ愉快犯」的な動機があるかどうかは、正当な「議論方法」であるかどうかとは、直接には関係のない問題だと思います。ある方が「愉快犯」的動機で書き込みを行っているかどうかなど、所詮「推測」を出るものではないでしょう。そもそもそうした推測こそ、「原理的に反証、反論不可能」なものでありましょう(笑)。


> その僅かな「可能性」は私も否定しません。ただそれが成立するのは、相手に対する「精神的分析」的批評が中傷的言辞を伴わない場合か、もしくは受け取った側が中傷を敢えて受け入れてもかまわないと考えるような他の重大な意義をもつ言明に気づいた時などかもしれません。
> しかし、著しい中傷に対して、それを受けた本人から明らかな不快感を示す言明がなされた後においては、「第三者が、そうした可能性の芽自体を摘むとすれば」ということを想定する意義はなくなると考えます。
> また一般論として、中傷的言辞が添えられる言辞から「生産的な論点が発見される」とは非常に考えづらいです。

一般論としては同意いたしますが、その前提として、「中傷」と「論理的批判」との厳密な区別が必要でしょう。


> > いえ、ベルナールさんは、水原さんの発言の「内容」(国旗論とか、父権制とか)には一切言及しない、という立場を基本的に取っていた、と思います。しかし、論理的「形式」の難点を指摘し、発言の「撤回」を繰り返し要求する中で、ベルナールさんの意図から離れたところで、「実質的」な介入へと転化してしまった、というのが真相なのではないか、と僕はみています。
>
> この文章でへちま鼻さんが言われている<「実質的」な介入へと転化>の意味がよく分かりません。
> <「実質的」でない介入>と対照させて具体的にご説明いただけますか。

ベルナールさんは、「議論における最低限の係留点」を確保するという意図において、水原さんの議論の形式的側面に注視し、それが相手の明示的な言葉を無視した「妄想」に陥っていることを、繰り返し「論理的」に批判していた、と考えます。そこで問われていたのは、「国旗論」や「父権制」といった、水原さんの発言の「内容」に関する問題ではありません。ただ、この「形式的」な批判が数日に渡り繰り返し行われたことによって、水原―野崎バトルの政治的な側面から見れば、ベルナールさんの意図から離れて、水原 vs. 野崎+ベルナール、という対立構図が現れてしまった、ということです。つまり、発言「内容」をめぐる水原―野崎バトルに、政治的観点から見ると、ベルナールさんも巻き込まれていた、というわけです。単なる「形式」をめぐる論理的指摘が、水原―野崎バトルへの実質的介入へと転化した、というのはこのことです。


> > 水原さんの発言の「動機」については、第三者がいくら「推測」してみても、あまり意味のないことではないでしょうか。ご本人による「動機の告白」にしても、それが「真の」動機なのかどうかは恐らくご本人にもわからないでしょう。また、そうした「告白」自体にすら、水原さん一流の議論戦略が込められているのかもしれない(笑)。
>
> へちま鼻さんは水原さんの「議論戦略」を買っているのか冷笑しているのかよく分からないのですが(まあ、これはどうでもいいことなのでしょうけど(笑))、

「心理分析」という方法についてのななさんの批判に、僕が同意しているということは、何度も申し上げている通りです。


> 会ったこともない者同士の掲示板上での議論においては、「告白」にしろ「戦略」にしろ、やはり「書いたことが全てであり、書かなかったことが全てである」ということが基本線ではないでしょうか。

それは基本線ではありましょう。ただし、「書かれていない」ことについての「推測」が全て相手に対する「中傷」であるかといえば、そうではないでしょう。例えば、田中荘における、朝鮮学校をめぐるおっちゃんの発言、あの背後にSONGさんは、「おちゅむの悪いおこちゃま達」が喜びそうな意図を読み取ったわけですが、それは実に正当なことだと思います。


> > ベルナールさんの本来のお考えは、おそらくおっしゃる通りなのでしょう。ただし、議論が「白熱」する中で、やはりやや逸脱があったと思いますし、さらに、「量」の積み重ねは「質」へと転化する、ということや、ある発言を公の場にさらすという行為は、「本来の意図」と離れた現実的介入へと転化する、ということも考慮に入れる必要があると思います。
>
> 率直に言って「やはりやや逸脱があった」という認識は私にもあります。ただ、その逸脱の方向に対する評価には少しばかりへちま鼻さんとは齟齬があるかと思います。
> <「量」の積み重ねは「質」へと転化する>、それと上で書かれていた<「実質的」な介入>や、ここで言われた<現実的介入へと転化>をもう少し具体的に説明いただけませんか。

上で大方説明いたしましたが、補足しておけば、ある指摘を一度きり述べることと、同じ指摘ではあってもそれを連日に渡って百度くり返すこととでは、言明の論理内容としては等値であっても、現実に対する介入のあり方としては質的な相違がある、ということです。
5274   Reply Re:へちま鼻さんへ(Re:4943) なな     2003/04/02 09:31

へちま鼻さん、おはようございます。5257番投稿に対するレスです。

> 「精神分析」的手法を用いた発言に対して、その手法がはらむ難点自体を第三者が「批判」するのは、もちろん自由でしょう。
> ただ、第三者が発言の「撤回」を求めるのはどうでしょうか。なぜ発言の「批判」に止まらず、あえて「撤回」までも要求するのか、それについての説得的な説明がない限り、掲示板に無用な紛糾を呼び起してしまう危険があります。「反証可能性」を担保しないような発言のすべてが、常に「撤回」を要求されるに足るほどの不当さを持つ、ということはできないでしょう。「科学的」厳密性を持たない発言など、掲示板の至るところにあふれております(ポパーとか「反証可能性」や「科学的」命題についてのややこしい議論はさしあたりパス。ここらへんは三月兎さんのご説明をお聞きしたいところ。「偏見」(?)歓迎です<笑>)。

ポパーの「反証主義」と、私がへちま鼻さんとの議論で言及した「反証可能性」については、三月兎さんへのレス(#5271)の中で触れましたのでご参照いただければと思います。

私が申し上げた「反証可能性」とは、「科学的」厳密性を要求する意味で提示したものではありません。「科学的」厳密性を要求すると言った場合にはそれは、科学的見解、言明だけが許されるという解釈になるでしょう。議論することを趣旨とする掲示板では全ての言明に「科学的」厳密性が求められる、とはさらさら主張するつもりはありません。「反証可能性」と「科学的」厳密性の概念を混同されておられるようです。
少なくとも出会い系や趣味同好会的な会話を目的とするような掲示板ではなく「議論する掲示板」なのですから、そこでの発言には論理性が求められるということが私が一貫して提示している論点です。そのことと「科学的」厳密性をもった意見、すなわち科学的意見だけが有意義だとする
科学主義的な考えは本質的に異なります。また、「論理的な言明は全て科学というカテゴリーで括れる」ということでもないでしょう。

確認しておきますが、先の投稿では「精神分析」的手法の「手法」そのものを撤回せよとは申しておりません。個々の言明、発言が「反証可能性」を担保しないもので、かつそれが明らかに他者を中傷する表現、言辞であるなら、批判されたり撤回の申し入れがあっても不当とは言えないというのが私の意見です。
例えば、「ピエールさんはベルナールさんの『子飼い』『忠犬』」云々、はたまた『ファナティックな狂犬』などは、「原理的に反証、反論不可能」な言明であり、明らかに中傷的な修辞でしょう。
「それについての説得的な説明がない限り」、「掲示板に無用な紛糾を呼び起してしまう危険」があるのは、どちらでしょう?

> 単に「方法」や「手法」が「科学的」でないからといって発言を撤回せねばならないような、そんな厳密さを掲示板の議論に要求することは疑問であります。

上述したように、また先の投稿でも述べたように、「方法」や「手法」が「科学的」でないからというアプリオリな判断理由で、発言を「批判したり撤回を求めることが不当だとは言えない」と書いたわけではないのです。結論的に言えば「方法」や「手法」は問題ではないのです。「科学的」については上述のとおりです。

> ネット掲示板の存在意義の一つは、様々な背景を持つ多様な人々が、それぞれの考えを自由に持ち合って討議することができる、ということにあります。ネット掲示板は学術雑誌でもないし、学生のレポートでもありません。発言に過度の厳密さを求めることは、ネット掲示板の本来の存在意義と齟齬することになる、と思います。また、議論の厳密な方法論は、一般にアカデミシャンが独占しているわけですから、厳密な議論を要求すること自体が、場合によっては、アカデミシャンが自分の気に入らない特定の「素人」の意見を抑圧するための口実として用いられてしまう危険すらあります。

> また、第三者が「謝罪」を要求することについては、別な問題があるでしょう。「謝罪」要求は、発言者の道義的な不当性について指弾することですが、「精神分析」的手法を用いること自体が道義的に不当であるとは、ちょっと考えにくい。
> ですから、ななさんも触れられているように、第三者がある人の発言の「撤回」や「謝罪」を要求するには、単に議論の「手法」に対する批判だけではなく、発言の「内容」についての精査が必要であります。私見を述べれば、事実に関する誤謬についての撤回要求でない限り、そうした発言内容の精査というのは、結局は「道義」や「倫理」の観点からのものにならざるを得ないのでは、と思うのですが・・・

先の投稿でも述べましたように、「手法」に対する批判は自由な言論の範疇にあると思いますが、その「手法」自体の撤回を要求することは不当なことだと考えていることはご確認ください。
謝罪や撤回要求などは極力回避すべき事態だと考えますが、発言内容によっては謝罪や撤回を申し入れることを不当としない要件としては、<「原理的に反証、反論不可能」な言明であり、かつ明らかに相手を著しく中傷する修辞>ということを考えています。
「明らかに中傷的な修辞」というのは、客観的に第三者からも認識、判断できるという意味ですが、それはたとえば親しい者同士で交わされる、ジョークやウィットとしての表面的な「中傷」的言辞とは当然に判別されることはいわずもがなです。

> > そのような場面で、精神的分析と心理描写を加えられた側が行い得ることは、それを単に無視するか、または「それは不当だ」と言い返すことだけでしょうし、多くの場合には感情的な反発を呼び込むことになるのだろうと思います。
> > (反証不可能な「精神分析」でやり返すという手もありますが(笑))
>
> おそらくおっしゃる通りでしょう。ただし、水原さんの議論方法は、相手の「感情的反発を呼び込む」ことまで織り込み済みなのです(笑)。

これは私も同意。
敢えて言えば、「感情的反発を呼び込む」ことの中には、この相手とは議論を深めようというより「反応を楽しむ愉快犯」的な動機があるかも知れないという「精神分析」をしています(笑)。ですから、そんなものは「議論方法」ではないのでは、というのが私の意見なんですけどね。

> で、議論の相手の気分を害したからといって、それは水原さんの方法自体を第三者が否定する根拠にならない、と思います。場合によっては、感情的なやり取りの中から、生産的な論点が発見される可能性も否定できないでしょう。それはあくまで可能性であり、実際は難しいのでしょうが・・・しかし、第三者が、そうした可能性の芽自体を摘むとすれば、それに足るだけの根拠が必要ではないかと思います。

その僅かな「可能性」は私も否定しません。ただそれが成立するのは、相手に対する「精神的分析」的批評が中傷的言辞を伴わない場合か、もしくは受け取った側が中傷を敢えて受け入れてもかまわないと考えるような他の重大な意義をもつ言明に気づいた時などかもしれません。
しかし、著しい中傷に対して、それを受けた本人から明らかな不快感を示す言明がなされた後においては、「第三者が、そうした可能性の芽自体を摘むとすれば」ということを想定する意義はなくなると考えます。
また一般論として、中傷的言辞が添えられる言辞から「生産的な論点が発見される」とは非常に考えづらいです。

> > それと、へちま鼻さんがおっしゃっている「妄想的な議論方法」についてですが、「議論方法」自体を問題にしていたのではないと思います。ベルナールさんの「妄想的議論」という表現の意味も、議論における水原さんの発言全てを指しているのではなく、「妄想的な」「個々の発言内容」を指していたと私は解釈しています。
>
> いえ、ベルナールさんは、水原さんの発言の「内容」(国旗論とか、父権制とか)には一切言及しない、という立場を基本的に取っていた、と思います。しかし、論理的「形式」の難点を指摘し、発言の「撤回」を繰り返し要求する中で、ベルナールさんの意図から離れたところで、「実質的」な介入へと転化してしまった、というのが真相なのではないか、と僕はみています。

この文章でへちま鼻さんが言われている<「実質的」な介入へと転化>の意味がよく分かりません。
<「実質的」でない介入>と対照させて具体的にご説明いただけますか。

> > 付け加えておけば、今回の件に限らずそのような「精神分析的」な揣摩臆測は感情的な動機からなされている場合が少なくないという私見も持っております。
>
> 僕もそのように「推測」しております(笑)。

仮にそのような「感情的な動機」があったとして、そこからどのような言動を形成していくかにその人なりの個性が表れるのでしょうね。

> 水原さんの発言の「動機」については、第三者がいくら「推測」してみても、あまり意味のないことではないでしょうか。ご本人による「動機の告白」にしても、それが「真の」動機なのかどうかは恐らくご本人にもわからないでしょう。また、そうした「告白」自体にすら、水原さん一流の議論戦略が込められているのかもしれない(笑)。

へちま鼻さんは水原さんの「議論戦略」を買っているのか冷笑しているのかよく分からないのですが(まあ、これはどうでもいいことなのでしょうけど(笑))、会ったこともない者同士の掲示板上での議論においては、「告白」にしろ「戦略」にしろ、やはり「書いたことが全てであり、書かなかったことが全てである」ということが基本線ではないでしょうか。

> > へちま鼻さんとの意見交換では私が、<「妄想的推測」と「理性的推論」との境界>について説明を試みていることになっているかと思いますが(笑)、それは「発言の依拠する方法自体」を対象としているのではなく、結果としての個々の言動があくまでも対象となっていることを再度申し上げておきたいと思います。ベルナールさんのお考えも恐らくその点にあるだろうと推察します。
>
> ベルナールさんの本来のお考えは、おそらくおっしゃる通りなのでしょう。ただし、議論が「白熱」する中で、やはりやや逸脱があったと思いますし、さらに、「量」の積み重ねは「質」へと転化する、ということや、ある発言を公の場にさらすという行為は、「本来の意図」と離れた現実的介入へと転化する、ということも考慮に入れる必要があると思います。

率直に言って「やはりやや逸脱があった」という認識は私にもあります。ただ、その逸脱の方向に対する評価には少しばかりへちま鼻さんとは齟齬があるかと思います。
<「量」の積み重ねは「質」へと転化する>、それと上で書かれていた<「実質的」な介入>や、ここで言われた<現実的介入へと転化>をもう少し具体的に説明いただけませんか。

 

5271   Reply Re:カール・ポパーと反証可能性 なな   2003/04/02 09:20
 
  みなさん、おはようございます。

ベルナールさん、

> 「反証可能性」(falsifiability) とは、科学と非科学を区別する「境界設定」(demarcation) において、カール・ポパー (Karl Raimund Popper, 1902-1994) が提示した概念で、反証とは、「ある仮説が真であるならば、真であるはずのテスト命題が偽であることが示されたなら、仮説が偽であったことも示される」ということです。

へちま鼻さんとの議論の中で言い出した「反証可能性」についてですが、私はその概念を科学哲学論争史を飾ったポパーの反証主義そのものを厳密な意味で念頭に描いていたわけではありません。アカデミックな科学哲学論としてポパーが提唱した反証主義は、ベルナールさんがおっしゃるとおり、科学と非科学を区別する「境界設定」に関する概念かと思いますが、私がこの掲示板で申し上げたところの「反証可能性」は、対象となる言明について、それが科学か否かを分別する「リトマス紙」というより、論理的言明か否かを分別する概念に近いものです。
ポパーの反証主義についての科学哲学論的な個人的考えを言わせていただけば、疑似科学の中にも反証可能な主張を行っているものがある、という見方に立っております。と言っても、疑似科学を科学のカテゴリーで括る考えには与しておりませんが。

> 俗流フロイト主義による心理分析は、反証可能性を欠くが故に、しばしばドグマティズムに陥りやすく、その主張の妥当性をはかる目安がないので、信念対立を止揚する契機を模索することができず、いたずらに感情的軋轢を招来してしまいます。ここに「俗流フロイト主義」と呼んだのは、日頃からフロイトの著作やスタンダード・エディション等に親しんでいる者は、この偉大な学究には、とりわけ言語と精神の問題に関する徹底した思索が存在し、表層の裏の深層を言い当てるといった恣意性とは無縁の、厳密な思惟があることを熟知しているからです。

ご意見に基本的に同意します。
フロイト精神分析の社会的功罪を考えるとき、その理論を引き継いだサイコセラピスト(特に欧米の)たちの中には「ドグマティズムに陥り」、精神科医療において否定的な影響を与えた歴史が少なからずあると思います。

この辺の経緯については、心理学や精神医学などの研究者の論文や文献を豊富に引用、紹介しながらフロイト精神分析、心理療法に批判の刃をふるった著書があります。
ご存知かもしれませんが、ドイツ人科学ジャーナリストが書いた

『フロイト先生のウソ』

という本です。
販促的な意図があってかセンセーショナルな邦題がつけらてしまいましたが、原題名は「LEXIKON DER PSYCHO-IRRTUMER」です。
この本、ドイツの心理療法“業界”からは目の敵にされているとのことですが、著者のロルフ・デーゲン氏はドイツ心理学会から科学出版賞を受賞しています。また、評論家の宮崎哲弥氏が複数のメディアでこの本を肯定的に書評しておりました。

(刃を研ぎ過ぎて何でも切りまくりの感がある『フロイト先生のウソ』ですが、著者の主張や意見の典拠となっている学術論文やWeb記事などが豊富に巻末に纏められており、また文庫本で安価ですので、買って損はない本だと皆さんに推奨いたします)

三月兎さん、

> それからポパーの紹介はどなたかお願いします。 小生がポパーやクーンを紹介するとなると偏見(笑)のテンコ盛になりますので。

アカデミックな科学哲学論における反証主義など、ポパーの言説を科学哲学史を概観する中で批判的な検証を試みた最近の著作として、私は
伊勢田哲治さんの『疑似科学と科学の哲学』を推薦したいですね。

同氏がWeb上で公開されている
科学哲学における線引き問題の展開でも同書の一端を知ることができますが、演繹的推論と帰納的推論の話から、「斉一性原理」、ポパーの反証主義と反証主義の問題点(いわゆるデュエム・クワインのテーゼ)を進化論と創造論に絡めながら考察している第1章に始まり、クーンやファイヤーベントらの「観察の理論負荷性」や「共約不可能性」の問題、さらにラカトシュの「リサーチプログラム」、そして確率統計をベースとしたベイズ主義に関する論説(5章)など、科学哲学(論争)史の概説と著者の新味ある主張や意見が分かりやすい平易な文章で語られています。
内容に全面的に賛同するかどうかは別にして、科学哲学ではどのようなことが論題となり議論されてきたのか、ということが専門外の一般読者にも理解できるような馴染みやすい形で書かれた良書だと思います。

ベルナールさんお話によれば、三月兎さんは「ファイヤーベントの弟子」だそうですね。「観察の理論負荷性」や「共約不可能性」などは科学の根本問題を考える上での重要な視点だと考えていますが、機会がありましたら是非、色々とご教示ください。

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5257 Reply 

Re:へちま鼻さんへ(Re:4943) へちま鼻 Mail   2003/04/02 01:12

ななさん、

議論の相手に対して「心理分析」を適用することについて、4924番でななさんがご指摘された点については、大方同意することを前提とした上で、気づいたことについて意見を述べさせていただきます。


> 「精神分析」的な手法を議論相手に対する批判の「道具」もしくは「武器」とすること自体は、掲示板参加者個人の自由に属することであり、「はなから排除すべき」などとは考えておりません。ただし、そのような手法、議論方法から書かれた具体的内容に対して「根拠に乏しい、反証可能性を担保しない不当な意見だ」と批判したり、内容によっては撤回や謝罪を求める意見を書く自由(それが第三者からの横レスの形であっても)もまた否定されないと思います。もちろんそれは、発言自体の削除を掲示板管理者に求める行為とは異なるものです。

「精神分析」的手法を用いた発言に対して、その手法がはらむ難点自体を第三者が「批判」するのは、もちろん自由でしょう。
ただ、第三者が発言の「撤回」を求めるのはどうでしょうか。なぜ発言の「批判」に止まらず、あえて「撤回」までも要求するのか、それについての説得的な説明がない限り、掲示板に無用な紛糾を呼び起してしまう危険があります。「反証可能性」を担保しないような発言のすべてが、常に「撤回」を要求されるに足るほどの不当さを持つ、ということはできないでしょう。「科学的」厳密性を持たない発言など、掲示板の至るところにあふれております(ポパーとか「反証可能性」や「科学的」命題についてのややこしい議論はさしあたりパス。ここらへんは三月兎さんのご説明をお聞きしたいところ。「偏見」(?)歓迎です<笑>)。
単に「方法」や「手法」が「科学的」でないからといって発言を撤回せねばならないような、そんな厳密さを掲示板の議論に要求することは疑問であります。ネット掲示板の存在意義の一つは、様々な背景を持つ多様な人々が、それぞれの考えを自由に持ち合って討議することができる、ということにあります。ネット掲示板は学術雑誌でもないし、学生のレポートでもありません。発言に過度の厳密さを求めることは、ネット掲示板の本来の存在意義と齟齬することになる、と思います。また、議論の厳密な方法論は、一般にアカデミシャンが独占しているわけですから、厳密な議論を要求すること自体が、場合によっては、アカデミシャンが自分の気に入らない特定の「素人」の意見を抑圧するための口実として用いられてしまう危険すらあります。
また、第三者が「謝罪」を要求することについては、別な問題があるでしょう。「謝罪」要求は、発言者の道義的な不当性について指弾することですが、「精神分析」的手法を用いること自体が道義的に不当であるとは、ちょっと考えにくい。
ですから、ななさんも触れられているように、第三者がある人の発言の「撤回」や「謝罪」を要求するには、単に議論の「手法」に対する批判だけではなく、発言の「内容」についての精査が必要であります。私見を述べれば、事実に関する誤謬についての撤回要求でない限り、そうした発言内容の精査というのは、結局は「道義」や「倫理」の観点からのものにならざるを得ないのでは、と思うのですが・・・



> 反証可能性の担保に乏しい「精神分析」的言及は、へたをすると、単純な事実誤認や虚偽発言より始末に負えないものになる可能性があります。原理的に反証可能である事実誤認や虚偽に対する反論や撤回要求は「反論する機会と能力」によって可能でしょう。しかし、フロイト流精神分析やそれに依拠した心理分析などは「人間の心のあらゆることを解釈し説明する」という特質を原理的に内包していると言え、反証可能性の担保に極めて乏しい言説になってしまう傾向を強くもっていると思います。したがって、そのような「精神分析」や「心理分析」に対する論理的な反証や反論の試みは、「反論する機会と能力」の存在にかかわらず、原理的な不可能性を背負わされている点に目を向けなければならないでしょう。

これは同意。


> そのような場面で、精神的分析と心理描写を加えられた側が行い得ることは、それを単に無視するか、または「それは不当だ」と言い返すことだけでしょうし、多くの場合には感情的な反発を呼び込むことになるのだろうと思います。
> (反証不可能な「精神分析」でやり返すという手もありますが(笑))

おそらくおっしゃる通りでしょう。ただし、水原さんの議論方法は、相手の「感情的反発を呼び込む」ことまで織り込み済みなのです(笑)。で、議論の相手の気分を害したからといって、それは水原さんの方法自体を第三者が否定する根拠にならない、と思います。場合によっては、感情的なやり取りの中から、生産的な論点が発見される可能性も否定できないでしょう。それはあくまで可能性であり、実際は難しいのでしょうが・・・しかし、第三者が、そうした可能性の芽自体を摘むとすれば、それに足るだけの根拠が必要ではないかと思います。


> それと、へちま鼻さんがおっしゃっている「妄想的な議論方法」についてですが、「議論方法」自体を問題にしていたのではないと思います。ベルナールさんの「妄想的議論」という表現の意味も、議論における水原さんの発言全てを指しているのではなく、「妄想的な」「個々の発言内容」を指していたと私は解釈しています。

いえ、ベルナールさんは、水原さんの発言の「内容」(国旗論とか、父権制とか)には一切言及しない、という立場を基本的に取っていた、と思います。しかし、論理的「形式」の難点を指摘し、発言の「撤回」を繰り返し要求する中で、ベルナールさんの意図から離れたところで、「実質的」な介入へと転化してしまった、というのが真相なのではないか、と僕はみています。


> 私の判断では、田中荘での水原さんとベルナールさんとの「熱いやり取り」がまだ“議論”としての体裁を呈していた頃(後半では殆どその体を成しておらず罵詈雑言の投げ合いになっていたと思いますが)に書かれていたベルナールさんの意見は、そのような「妄想的な発言」を批判し、その撤回や謝罪を求めることにあっただろうと思います。その点では私も、根拠と論理に依拠してなされるべき掲示板の議論において、相手の意見に対する反論や批判の中に反証可能性の担保に欠けるような「心理分析」的な憶測発言を織り込むようなことは、悪意があるにせよ、ないにせよ、また論理的な観点においてだけでなく、議論自体を不毛なものにしてしまうという危惧からも、そのような(ヘルナールさんが「妄想的」と修辞されるところの)発言を批判したり、場合によってはその撤回や謝罪を求めること(たとえそれが第三者からのものであっても)は、論理的にも倫理的にも不当ではないと考えます。

すでに表明しているように、「倫理的」当否についての判断は、僕はいたしません。
で、「論理的」な疑問については、すでにたびたびベルナールさんと議論してきたとおりです。



> 付け加えておけば、今回の件に限らずそのような「精神分析的」な揣摩臆測は感情的な動機からなされている場合が少なくないという私見も持っております。

僕のそのように「推測」しております(笑)。


> 野崎さんの「国旗」投稿に向けられた水原さんの「心理分析、描写」投稿も、その投稿の動機、意図が野崎さんの「心理」を暴露し、それを指弾することにあったという旨を本人自身が「田中荘」で告白されていたわけですから、「議論の内容が深められる」とか「批判と対話が相互に行われる」というような契機からは懸け離れたものだったと言えるでしょう。

水原さんの発言の「動機」については、第三者がいくら「推測」してみても、あまり意味のないことではないでしょうか。ご本人による「動機の告白」にしても、それが「真の」動機なのかどうかは恐らくご本人にもわからないでしょう。また、そうした「告白」自体にすら、水原さん一流の議論戦略が込められているのかもしれない(笑)。


> へちま鼻さんとの意見交換では私が、<「妄想的推測」と「理性的推論」との境界>について説明を試みていることになっているかと思いますが(笑)、それは「発言の依拠する方法自体」を対象としているのではなく、結果としての個々の言動があくまでも対象となっていることを再度申し上げておきたいと思います。ベルナールさんのお考えも恐らくその点にあるだろうと推察します。

ベルナールさんの本来のお考えは、おそらくおっしゃる通りなのでしょう。ただし、議論が「白熱」する中で、やはりやや逸脱があったと思いますし、さらに、「量」の積み重ねは「質」へと転化する、ということや、ある発言を公の場にさらすという行為は、「本来の意図」と離れた現実的介入へと転化する、ということも考慮に入れる必要があると思います。

 

5250   Reply Re:カール・ポパーと反証可能性 三月兎 Ma 2003/04/01 21:12
   
  みなさん こんばんは 三月兎@韜晦山人です。

 ベルナールさんがご紹介の
> 【日本ポパー哲学研究会】
> http://www.law.keio.ac.jp/~popper/popperindex-j.html
がまず入り口として宜しいかと存じます。 翻訳も多く出ていますので、興味の在る方は手に取って見られるのも一つの手です。
 必ずしも意見は同じではないのですが、手軽に雰囲気が味わえるのは
 http://homepage1.nifty.com/kurubushi/
 です。 ついでにフレーゲ、ラッセル、ヴィットゲンシュタイン、クーン、クワイン、ゲーデル、ヒルベルトあたりも楽しめます。(但し、副作用あり。)
 そしてもう一つご紹介、ヴィットゲンシュタインの弟子であるヴリグトの概説書「論理分析哲学」が講談社学術文庫から出ています。 訳語(特に用語)が若干不安定ですが広範な領域をカバーしています。(ポパーは対象とはいませんが、廻りの知識を得る為には良いかと存じます)
 理系の方なら高木貞治著の「近代数学史談」(岩波文庫)もゲーデル前後の雰囲気を味わうのに良いかと存じます。(本編は本編でスリリングな19世紀数学小史です)

 小生自体はAnything Goes(それでいいのだ)の徒ですので、オーソドックスなポパーの紹介はふさわしくございません。 論議が深まったたら、反歌を差し上げる事といたします。

 

5232   Reply カール・ポパーと反証可能性 ベルナール     2003/04/01 15:14

「反証可能性」(falsifiability) とは、科学と非科学を区別する「境界設定」(demarcation) において、カール・ポパー (Karl Raimund Popper, 1902-1994) が提示した概念で、反証とは、「ある仮説が真であるならば、真であるはずのテスト命題が偽であることが示されたなら、仮説が偽であったことも示される」ということです。

俗流フロイト主義による心理分析は、反証可能性を欠くが故に、しばしばドグマティズムに陥りやすく、その主張の妥当性をはかる目安がないので、信念対立を止揚する契機を模索することができず、いたずらに感情的軋轢を招来してしまいます。ここに「俗流フロイト主義」と呼んだのは、日頃からフロイトの著作やスタンダード・エディション等に親しんでいる者は、この偉大な学究には、とりわけ言語と精神の問題に関する徹底した思索が存在し、表層の裏の深層を言い当てるといった恣意性とは無縁の、厳密な思惟があることを熟知しているからです。

さて、幸いなことに、そよか板やクマ板の常連投稿者には、ポール・ファイアーベント (Paul K. Feyerabend, 1942-) の弟子である三月兎さんを初め、ななさん、へちま鼻さん、Gaou さん、にょろさん、渡辺さん等々、科学哲学、論理学、あるいは広く思想・哲学に通じている論者が多くいますので、さまざまなテーマに関連する有意義な議論のふくらみが期待できるでしょう。

(大学生や高校生など若年者も閲覧しることを念頭に、) あまり難解過ぎない語彙で、しかも現代日本の諸問題と切り結ぶ議論ができる論者に恵まれたことは、われわれ投稿者にとっても、またROM者にとっても、僥倖でありましょう。こうした好機を見逃さないことが、そよか板、あるいは投稿者が重複するクマ板、ホンカツ板等の議論の質を向上させる機会にもなると思います。このテーマは、政治や歴史認識にも無関係なテーマでしないでしょう。

そよかさんの問題提起に賛同する所以です。

【日本ポパー哲学研究会】
http://www.law.keio.ac.jp/~popper/popperindex-j.html

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5126 Reply Re:へちま鼻さんへ(Re:4943) なな 2003/03/31 02:34

帽子屋さん、はじめまして。

> > また、「田中荘」において、「ハタから見ている人には、ピエールがベルナールさんの子飼であると見えちゃう」と「投票ゲーム」などで「精神分析」支持発言した方には、それがピエールさんに「原理的に反証、反論不可能な中傷」を浴びせているという不当性に気づいてほしいものです。
>
> 「子飼」「忠犬」かどうかはともかく、「影響度」の客観的計測をするとすれば、異なる主体AとBにおいて、どちらがどちらに影響を及ぼしているか、「相関」度を調べてみれば良いとおもわれます。
> たとえば投稿への言及回数などは、客観的指標になると思いますし、現実認識を構造化するイデオロギーをどちらが提供しているかなども判断基準になるのではないでしょうか。

公開され他者が自由に閲覧できる掲示板の中でのベルナールさんとピエールさんとの会話において、ベルナールさんが教示されピエールさんが教えを受けているやり取りが多いという「客観的計測」がなされるのなら、「ビエールさんはベルナールさんから色々なことで教わる機会が多いようだ。」(この言辞を便宜的にAとしましょう)という閲覧者の観測は論理的に可能でしょう。しかし、そのことから即、「影響を及ぼしている」(同じくB)という判断は一概には下せないでしょう。
(ただし、ピエールさんご自身が「ベルナールさんからは教わることが多く尊敬している」という旨の言明をされているので、その点から(B)という判断は可能かも知れませんが)

私の意見のポイントは、「子飼、忠犬」(同じくC)などと相手の心理を深く解読したかのような、そして明らかに相手を中傷している「精神分析」的言説は、「原理的に反証、反論不可能な中傷」としか言いようがないものであるということです。

帽子屋さんから今回いただいたレスの意図がよく分かりませんが、(A)もしくは(B)から(C)が類推可能ということをおっしゃりたいのでしょうか。

> むろん、帽子屋もベルナール様に強い影響をうけていますから、なんとも言えませんけど。

これは字面を読んだ限り、何を言わんとされているのか私には意味不明なのですが。
(「憶測」では何とでも解釈できますけどね(笑))

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5121 Reply Re:へちま鼻さんへ(Re:4943) 帽子屋 2003/03/31 00:10

帽子屋です♪
なな様には初めてレスをつけさせてもらいます。

> また、「田中荘」において、「ハタから見ている人には、ピエールがベルナールさんの子飼であると見えちゃう」と「投票ゲーム」などで「精神分析」支持発言した方には、それがピエールさんに「原理的に反証、反論不可能な中傷」を浴びせているという不当性に気づいてほしいものです。

「子飼」「忠犬」かどうかはともかく、「影響度」の客観的計測をするとすれば、異なる主体AとBにおいて、どちらがどちらに影響を及ぼしているか、「相関」度を調べてみれば良いとおもわれます。

たとえば投稿への言及回数などは、客観的指標になると思いますし、現実認識を構造化するイデオロギーをどちらが提供しているかなども判断基準になるのではないでしょうか。

むろん、帽子屋もベルナール様に強い影響をうけていますから、なんとも言えませんけど。

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5115 Reply へちま鼻さんへ(Re:4943) なな

今回の「紛糾」については私の前回の投稿以降、ここでも田中荘でも色々な方がそれぞれの視点から意見を書かれておりますが、貴方が提示されている「議論・対話における最低限の係留点」という論点について、もう少し私の意見を述べてみたいと思います。

> ただですね、「心理構造」の分析という方法自体を、はなから「妄想的議論」として排除すべきかどうか、そこが問題だと思うのです。水原さんが野崎さんに対して行った「心理分析」の内容については、僕は水原さんに同意できない部分が多いのですが、さしあたりそれは問いません。僕が問いたいのは、そうした分析の方法自体を、議論・対話における最低限の係留点を破壊する「妄想的議論」として、発言自体の撤回を第三者が要求すべきかどうか、ということです。

> 野崎さんが立腹したのはある意味もっともなことです。だったら彼女は反論すればよいし、それが誹謗だと思えば撤回や謝罪を要求すればよい。そうした批判と対話が相互に行われるなかで、議論の内容が深められる可能性もあります。それはあくまで、野崎さんと水原さんの問題です。第三者が容喙する問題ではないでしょう。

「精神分析」的な手法を議論相手に対する批判の「道具」もしくは「武器」とすること自体は、掲示板参加者個人の自由に属することであり、「はなから排除すべき」などとは考えておりません。ただし、そのような手法、議論方法から書かれた具体的内容に対して「根拠に乏しい、反証可能性を担保しない不当な意見だ」と批判したり、内容によっては撤回や謝罪を求める意見を書く自由(それが第三者からの横レスの形であっても)もまた否定されないと思います。もちろんそれは、発言自体の削除を掲示板管理者に求める行為とは異なるものです。

> 事実認定についての端的な誤り、虚偽の発言については、発言の撤回が要求されるのは当然でしょう。しかし、水原さんの「分析」は、ある事実について言及してるのではなく、野崎さんの諸発言の「背後」にある心理構造を推測したものでしょう。そうした分析の内容は、批判に対して開かれたものです。ましてや分析を向けられた野崎さんには、反論する機会も能力も十分にあるわけです。水原さんが提出した「国旗論」や「家父長制」の問題は、その内容について、あるいはその分析方法についても(ななさんが行ったような)、さまざまな反論や批判がなされるべきでしょう。そうした反論の応酬の中から、水原さんは先に提出した心理構造の分析の内容を改めるかもしれないし、自発的に撤回するかもしれない、あるいはしないかもしれない。しかしですね、第三者が、水原さんの議論の内容を検討することなく、その方法自体を頭から「妄想的議論」と断じ、議論の場から追放しようとするのは、どうかと思うのです。

「反論する機会と能力」が担保されているので、「精神分析」「心理分析」的な観点からの言及は「批判に対して開かれたもの」であるというご判断には少々異論があります。
「事実認定についての端的な誤り、虚偽の発言」に対する撤回を要求することさえ、「反論する機会と能力」がなければ実質的には成立し得ないものでしょうから、「事実認定に対する過誤や虚偽発言」に対する撤回要求と「他者に下した精神分析や心理描写」に対する撤回要求というふたつの撤回要求の原理的可能性を「反論する機会と能力」があるかどうかで腑分けすることは、本質的な意味はあまりないと思います。
反証可能性の担保に乏しい「精神分析」的言及は、へたをすると、単純な事実誤認や虚偽発言より始末に負えないものになる可能性があります。原理的に反証可能である事実誤認や虚偽に対する反論や撤回要求は「反論する機会と能力」によって可能でしょう。しかし、フロイト流精神分析やそれに依拠した心理分析などは「人間の心のあらゆることを解釈し説明する」という特質を原理的に内包していると言え、反証可能性の担保に極めて乏しい言説になってしまう傾向を強くもっていると思います。したがって、そのような「精神分析」や「心理分析」に対する論理的な反証や反論の試みは、「反論する機会と能力」の存在にかかわらず、原理的な不可能性を背負わされている点に目を向けなければならないでしょう。そのような場面で、精神的分析と心理描写を加えられた側が行い得ることは、それを単に無視するか、または「それは不当だ」と言い返すことだけでしょうし、多くの場合には感情的な反発を呼び込むことになるのだろうと思います。
(反証不可能な「精神分析」でやり返すという手もありますが(笑))

それと、へちま鼻さんがおっしゃっている「妄想的な議論方法」についてですが、「議論方法」自体を問題にしていたのではないと思います。ベルナールさんの「妄想的議論」という表現の意味も、議論における水原さんの発言全てを指しているのではなく、「妄想的な」「個々の発言内容」を指していたと私は解釈しています。
私の判断では、田中荘での水原さんとベルナールさんとの「熱いやり取り」がまだ“議論”としての体裁を呈していた頃(後半では殆どその体を成しておらず罵詈雑言の投げ合いになっていたと思いますが)に書かれていたベルナールさんの意見は、そのような「妄想的な発言」を批判し、その撤回や謝罪を求めることにあっただろうと思います。その点では私も、根拠と論理に依拠してなされるべき掲示板の議論において、相手の意見に対する反論や批判の中に反証可能性の担保に欠けるような「心理分析」的な憶測発言を織り込むようなことは、悪意があるにせよ、ないにせよ、また論理的な観点においてだけでなく、議論自体を不毛なものにしてしまうという危惧からも、そのような(ヘルナールさんが「妄想的」と修辞されるところの)発言を批判したり、場合によってはその撤回や謝罪を求めること(たとえそれが第三者からのものであっても)は、論理的にも倫理的にも不当ではないと考えます。

付け加えておけば、今回の件に限らずそのような「精神分析的」な揣摩臆測は感情的な動機からなされている場合が少なくないという私見も持っております。
野崎さんの「国旗」投稿に向けられた水原さんの「心理分析、描写」投稿も、その投稿の動機、意図が野崎さんの「心理」を暴露し、それを指弾することにあったという旨を本人自身が「田中荘」で告白されていたわけですから、「議論の内容が深められる」とか「批判と対話が相互に行われる」というような契機からは懸け離れたものだったと言えるでしょう。

> ベルナールさんが問題にしているのは、水原さんの発言内容ではなく、「推測」に基づく発言の依拠する方法自体が、「相手の文言に基づいて議論を行う」という対話の最低限の前提を破壊する、ということだと思います。しかしそれなら、ベルナールさんは、「妄想的推測」と「理性的推論」との境界についてのお考えを、説得的な形で水原さんおよび掲示板の参加者全員に対して提示する必要があるでしょう。発言内容における事実誤認とは異なるレベルで、水原さんの発言の「撤回」を要求することは、水原さん的分析方法を議論の場から追放することを要求すること(単なる批判ではない)にほかならないのですから、それにはかなり厳密な根拠が必要であります。ベルナールさんは「倫理」を問題にしているのではなく(つまり「謝罪」要求ではなく)、「論理」を問題にしている(つまり「撤回」要求)のですから、水原さんという特定の個人に対してのみではなく、あらゆる参加者に対して適用されるような、「妄想的推測」と「理性的推論」の区別についての普遍的基準を提示する必要があるわけです。それなしには、水原さんは決して「撤回要求」に応じることはありえないだろうし(水原さんのいう「ダブスタ」とはそういうこと)、掲示板の他の幾人かの参加者から出された疑念を払拭することはできないでしょう。説得なくして強引に「正義」を回復しようとすることは、きっと後に禍根を残すことになるでしょう。

へちま鼻さんとの意見交換では私が、<「妄想的推測」と「理性的推論」との境界>について説明を試みていることになっているかと思いますが(笑)、それは「発言の依拠する方法自体」を対象としているのではなく、結果としての個々の言動があくまでも対象となっていることを再度申し上げておきたいと思います。ベルナールさんのお考えも恐らくその点にあるだろうと推察します。
水原さんのピエールさんに対する「子飼い」発言も、上述したような「精神分析」「心理分析」の典型例でしょうね。
また、「田中荘」において、「ハタから見ている人には、ピエールがベルナールさんの子飼であると見えちゃう」と「投票ゲーム」などで「精神分析」支持発言した方には、それがピエールさんに「原理的に反証、反論不可能な中傷」を浴びせているという不当性に気づいてほしいものです。

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4943 Reply Re:水原氏の誤算 へちま鼻 Mail 2003/03/26 16:16
ななさん、はじめまして。

> しかし、他者に対する「心理分析」などというものは、ましてや文面を通してしか知りえないネット上においては、充分な事実と合理的な根拠の積み上げのもとに慎重に言及されるべきものだと思います。人間の複雑な心の動きや傾向を、相手のひとつやふたつの投稿から簡単かつ一方向的に論定をしてしまうこと(特に、水原さんの投稿にまま見られる「フロイト流精神分析」の適用にはその傾向を強く感じますね)は大きな問題を孕んでいると思います。相手の心理や心性に対する不用意で主観的といってもいい論定は、文面、字面だけに依拠して合理的に推考していく論理とは質的に異なるものだと私は捉えますし、それは相手の人格まで直接的に触れるが故に、論理的な議論の遂行においては有害な感情的軋轢、衝突さえ引き起こすことを充分に覚悟しなければならないものだと思います。まして、それらの言及が論理という名のもとに語られるのならばなおさらでしょう。「精神分析」や「心理描写」というものは、「能弁な論者」の手にかかってしまえば、都合のいい便利な「道具」になってしまうでしょう。

ほぼ完全に同意します。議論の相手の「心理分析」を公の掲示板上で行う場合には、おっしゃるような危険を自覚した上でなさねばならないでしょう。

ただですね、「心理構造」の分析という方法自体を、はなから「妄想的議論」として排除すべきかどうか、そこが問題だと思うのです。水原さんが野崎さんに対して行った「心理分析」の内容については、僕は水原さんに同意できない部分が多いのですが、さしあたりそれは問いません。僕が問いたいのは、そうした分析の方法自体を、議論・対話における最低限の係留点を破壊する「妄想的議論」として、発言自体の撤回を第三者が要求すべきかどうか、ということです。

事実認定についての端的な誤り、虚偽の発言については、発言の撤回が要求されるのは当然でしょう。しかし、水原さんの「分析」は、ある事実について言及してるのではなく、野崎さんの諸発言の「背後」にある心理構造を推測したものでしょう。そうした分析の内容は、批判に対して開かれたものです。ましてや分析を向けられた野崎さんには、反論する機会も能力も十分にあるわけです。水原さんが提出した「国旗論」や「家父長制」の問題は、その内容について、あるいはその分析方法についても(ななさんが行ったような)、さまざまな反論や批判がなされるべきでしょう。そうした反論の応酬の中から、水原さんは先に提出した心理構造の分析の内容を改めるかもしれないし、自発的に撤回するかもしれない、あるいはしないかもしれない。しかしですね、第三者が、水原さんの議論の内容を検討することなく、その方法自体を頭から「妄想的議論」と断じ、議論の場から追放しようとするのは、どうかと思うのです。

野崎さんが立腹したのはある意味もっともなことです。だったら彼女は反論すればよいし、それが誹謗だと思えば撤回や謝罪を要求すればよい。そうした批判と対話が相互に行われるなかで、議論の内容が深められる可能性もあります。それはあくまで、野崎さんと水原さんの問題です。第三者が容喙する問題ではないでしょう。

ベルナールさんが問題にしているのは、水原さんの発言内容ではなく、「推測」に基づく発言の依拠する方法自体が、「相手の文言に基づいて議論を行う」という対話の最低限の前提を破壊する、ということだと思います。しかしそれなら、ベルナールさんは、「妄想的推測」と「理性的推論」との境界についてのお考えを、説得的な形で水原さんおよび掲示板の参加者全員に対して提示する必要があるでしょう。発言内容における事実誤認とは異なるレベルで、水原さんの発言の「撤回」を要求することは、水原さん的分析方法を議論の場から追放することを要求すること(単なる批判ではない)にほかならないのですから、それにはかなり厳密な根拠が必要であります。ベルナールさんは「倫理」を問題にしているのではなく(つまり「謝罪」要求ではなく)、「論理」を問題にしている(つまり「撤回」要求)のですから、水原さんという特定の個人に対してのみではなく、あらゆる参加者に対して適用されるような、「妄想的推測」と「理性的推論」の区別についての普遍的基準を提示する必要があるわけです。それなしには、水原さんは決して「撤回要求」に応じることはありえないだろうし(水原さんのいう「ダブスタ」とはそういうこと)、掲示板の他の幾人かの参加者から出された疑念を払拭することはできないでしょう。説得なくして強引に「正義」を回復しようとすることは、きっと後に禍根を残すことになるでしょう。

僕が4840で

> で、件の「解決法」が、議論の係留点を確保するという観点からのものであるならば、早急に水原さんに対して「撤回」を要請する前に、議論における推論の手続きについてのお二人の認識の食い違いについて、冷静に詰めて行くほうが、議論として生産的ではないかと思うのですが・・・

と述べたのはそういうわけです。

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4924 Reply Re:水原氏の誤算 なな 2003/03/26 03:13

へちま鼻さん、こんばんは。(たしか直接レスは初めてですね?)

紛糾している議論をさらに混乱させてしまう懸念も感じるのですが、議論というものを考える上で大切な論点が提示されていると思えましたので、敢えて発言します。

> 「善意」の押し付けは、水原さんが最も嫌っていたことだったのでは?
>
> 議論の相手を論難するのはまだいいとしても、善意の押し売りだけはいかんです。論難に対しては反論することが可能であっても、善意の押し売りに対してはそもそも反論することが不可能だからです。
>
> 水原さんの野崎さんに対する論難の動機が、善なるものか悪なるものかなんて、どうでもいいことです。動機を詮索するなんて無意味。表層の言葉だけで勝負すべきです。それに、相手を論難するなら、常に相手からの再批判にさらされうる場に身を置くべきだと思います。善なる動機の押し売りは、そうした批判の相互性を破壊してしまいます。
>
>
> 繰り返しときます。「道徳を毀ちて以て仁義を為るは,聖人の過ちなり」。

へちま鼻さんのこのご意見は的を射たものだと殆ど全面的に同意します。

ところで、へちま鼻さんは#4840で以下のようにも書かれておりました。

> 僕の見るところ、議論の手順、方法についての認識に関して、ベルナールさんと水原さんとの間で、大きな隔たりがあると思います。議論・対話におけるベルナールさんの要請は、「想像」や「推測」に拠らない理性的な推論をなさねばならない、ということでしょう。他方、水原さんの議論の方法は、相手のいくつかの文言からそれらが拠っている論理構造を大胆な形で推測し、それを挑発的に提示することによって相手から反応を引き出し、先に提示した「構造」の妥当性を確認していく、というやり方だろうと思います。大雑把に言えば、演繹的推論と帰納的推論という方法の違い、といったところでしょうか。
> 水原さんの方法は、議論の手順として「間違って」いると一概には言えないのではないでしょうか。そこに難点があるとすれば、推測的に提示した「構造」が、議論の相手からの反証可能性を担保しているかどうかということですね。また、挑発(これはたぶん水原さんの議論の方法の重要な要素)が相手を激昂させてしまい、議論が成立不可能になってしまうという危険もあります。ここらへんは、水原さんにもご再考願いたいところです。

へちま鼻さんが論じられた水原さんの議論の方法、「相手のいくつかの文言からそれらが拠っている論理構造を大胆な形で推測し、それを挑発的に提示することによって相手から反応を引き出し、先に提示した「構造」の妥当性を確認していく、というやり方」は、たしかに彼のこれまでの投稿の中に見られるという意味では肯定できるのですが、議論における彼の発言すべてが常に「論理構造を推測し」たものばかりではないと思います。彼の議論や意見をこれまで読んできたところでは、相手の書いた内容に対する「論理構造」というよりも発言の背景となった「心理的な構造」を憶測したような、反証可能性の担保に乏しい形での言及も少なくない、むしろそういった手法が彼の投稿の中ではしばしば好んで使われている傾向があるのではないかと思います。

「心理構造の推測」とは、私見をいえば、「揣摩臆測、深読み」と批判される場合も少なくないものであり、その点では主観をいかようにでも投入できる議論方式ともいえるでしょう。そしてそれは、今回の「紛糾」の元々の発端となった野崎さんの「国旗」投稿に対する水原さんの「批判」投稿の中にもかなり顕著に表れていたと私は見ます。
理性的で合理的なレベルでの相手の意見に対する「論理構造の推測」であれば、演繹的、帰納的にかかわらず、そして多少大胆なものであっても、もっといえば挑発的、策略的に構成された論であっても(論理的な)議論としては成立し、最低限としての反証可能性も担保されるものだと考えます。また、相手の「心理構造の推測」、言い換えれば心理分析の中にも反証可能性がそれなりに担保され論理的な議論として成立する意見もあるかと思います。しかし、他者に対する「心理分析」などというものは、ましてや文面を通してしか知りえないネット上においては、充分な事実と合理的な根拠の積み上げのもとに慎重に言及されるべきものだと思います。人間の複雑な心の動きや傾向を、相手のひとつやふたつの投稿から簡単かつ一方向的に論定をしてしまうこと(特に、水原さんの投稿にまま見られる「フロイト流精神分析」の適用にはその傾向を強く感じますね)は大きな問題を孕んでいると思います。相手の心理や心性に対する不用意で主観的といってもいい論定は、文面、字面だけに依拠して合理的に推考していく論理とは質的に異なるものだと私は捉えますし、それは相手の人格まで直接的に触れるが故に、論理的な議論の遂行においては有害な感情的軋轢、衝突さえ引き起こすことを充分に覚悟しなければならないものだと思います。まして、それらの言及が論理という名のもとに語られるのならばなおさらでしょう。「精神分析」や「心理描写」というものは、「能弁な論者」の手にかかってしまえば、都合のいい便利な「道具」になってしまうでしょう。

ですから、へちま鼻さんの水原さんの議論の方法に対する「論理構造を大胆な形で推測」という評価には私は疑問を持ちますし、たとえば野崎さんの「国旗」投稿への批判投稿に関していえば、それは当たっていないと私は考えますね。

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 =田中荘にて=

11806 返信 私の意見、感想 なな 2003/02/02 04:26

田中荘でのベルナールさんと水原さんを「主役」とする論争はいつの間にか揚げ足取りの様相も帯びてきているようなので、この件に関してはどちらが正論か云々については意見を述べる気はありません。

野崎さんの田中荘での最後の投稿は、確かに批判を受けてやむなしのところがあると考えます。ただ、「事の発端」は表板の野崎さんの「国旗」に関する投稿に水原さんが批判の投稿を書かれたところに始まっていると思いますので、その辺の経緯に関してのみ私の意見と感想を書きます。

「紛糾」の発端となった表板での野崎さんの「国旗」投稿に対する水原さんの批判投稿における論展開は、それは切れ味するどいもので一般論としてはなるほどと思えるものでした。水原さんにとっては持論展開の格好のネタ投稿が出たのでそれなりの意気込みをもって臨んだのだろうと想像しますが、批判を覚悟で言わせてもらえば、野崎さんの投稿に対して「そこまではちょっと言いすぎでは」と思うほどの修辞が投げられているのではないかとも思いました。
何故そのような印象を抱いたのかとふり返れば、野崎さんの投稿の中の悪意や錯誤とは思えない論述の「甘さ」までを初回から「深読み」して必要以上に揶揄した批判を全体のトーンから受けたからです。

確かに野崎さんの「国旗」投稿には、推敲不足で熱い思いが先走りしたような粗雑なところが少なくないと感じましたし、批判を甘んじなければならない点も少なくないように思いました。しかしそれでも私は、水原さんのご批判は野崎さんの「脇の甘さ」を見透かして必要以上に先走りした(深読みした)辛らつな修辞が投げかけられていたように思います。

批判を受けての野崎さんのレスに感情的な部分が見受けられたのは、水原さんの投稿を見て実は懸念していたことでもありました。
議論における論理的な判断は脇に置くとして、正直言いますと、野崎さんのこの反応には一定、共感を覚える部分も私の中にはありました。

野崎さんへの批判投稿で述べられた「国旗」に関する水原さんの論述は一般論としては充分頷けます。しかし、それは野崎さんの投稿文に当てはめるものとしては充分に的確なものと言えたでしょうか。たしか「行動原理」を大切にするとおっしゃっていましたが、批判記事を寄せるという姿勢、態度そのものにもそれはついてまわるかと思います。「女性解放のためのささやかなアジテーション」としての書き込みであったならば、表板での一連レスは本当にそれに適ったものであったのかどうかという点には、私は疑問を残しています。

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