
一般論のみ、がどう成立つか・1 投稿者:一草 投稿日:10月 5日(日)18時32分32秒
一般論のみ、がどう成立つか
へちま鼻さん
> 言い換えれば、実際に交換されてはじめて、その言葉(貨幣)が価値を持つ、ということですよね。でこの交換を保障するものは、よく考えてみると何も存在しない、すなわち言葉の交換(コミュニケーション)の可能性は常に無の深淵に直面しているわけでしょう。
論理(観念)が空に浮いてあるなら「常に無の深淵」からは逃れられないでしょう。色即是空空即是色の堂々巡りだろうと思います。
>それを逆から言うなら、一見無意味無価値に見える言葉であっても、ひょんなことからそれが交換の価値を持ち始めることだってあるわけですよ。
純論理的にはその通りだと思います。絶対は無い、のですから。
>つまり、言葉の交換可能性というものは、実は言葉を発する人間の意志によってすらもどうにもならない、すなわち本人の意志とは関係なく、全くの偶然性にさらされていると言うこともできると思います。
ここの所に見解の相違(もしくは錯誤)が見えます。
「無の深淵」なるものも「全くの偶然性」も「言葉=観念」ですね。
「本人の意志とは関係なく、全くの偶然性にさらされている」のは何でしょうか?
それは「人」もしくは世界という「存在そのもの」だとボクは思いますが。
言換えれば僕ら人間には「世界存在そのもの」を知ることは出来ない、と言うことですね。
そこでそれを「知る者」=神などを仮構したりする人も居る訳ですが、しかし、言っていることはただ「人は全てを知り得ない」ということだけだと思います。
また人は「全くの偶然性」において「全くの偶然」を「生きようとしている」のでしょうか?
ボクはそうは思いません。人は世界(偶然)における自己の必然性を獲得しようとしている、とボクは思います。それが「生きる」時に不可欠の「意志」ではないでしょうか?
因みにアイデンティティとはその意志(必然性)の依代なんじゃないでしょうか?
>とすれば、コミュニケーションの最低限の条件は、言葉を発する動機としての「誠意誠実さ」というより、単に「言葉を発することそのもの」なのではないでしょうか。あくまでもそれは本当に「最低限」な条件なわけで、「論理的な議論」「世間話」「連句」等々コミュニケーションの種類に応じて、さらに条件が付加されていくわけです。ただし、
「コミュニケーション」とは一体何でしょうか?
「言葉を発することそのもの」は単に、言葉というものを使用している「人のありさま」を言っているだけですね。飯を食えばウンコが出る、と同じです。そこに「意志」など関係しません。偶然だ必然だとか言う必要もありません。どう言おうと存在そのものは「同じ」だし「変らない」のですから。
つまりへちま鼻さんの言い方だと「コミュニケーションの最低限の条件は、人であること」と言っているだけになります。そりゃ当然の事で、世界は有る、とかと言うのと同じ。その条件だけをもって、生きる上での何らかの行動基準を導くことが果して出来るでしょうか?
(因みにそこからいきなり行動基準にジャンプする為のスプリングボードが「神」なんじゃないかとも・・)
つまり、単に「言葉を発することが出来る」という様態と、「論理的な議論」「世間話」「連句」等々のコミュニケーションと呼び得る様態とは、次元が異なっている、とボクは考えます。
その次元転換を可能にしているものは何か?それは「意志」だとボクは思います。キリスト教的に言えば「愛」でしょうか。
人は一人では生きていない、たとえ言葉を交さなくともモノを交しつつ生きている。身体そのものを交す生殖もそうですね。
そうした在り方(行動)のある姿を「コミュニケーション」と言語的表現している訳ですが、その行動は、例えば高きより低きに水流れ風に木の葉が舞うように「起きている」のでしょうか?そのような様態を「コミュニケーション」と言いますでしょうか?
> 「真情」「虚言」「誠実」と言っても、それを確認する手段は何もありません。権力の裏づけを持つ貨幣とは違って、言葉には真も贋もないわけです。
では、何故「真情」「虚言」「誠実」「真贋」なる「言葉」を人は持ったのでしょうか?全て虚妄であるとお考えですか?まさか。「言葉への懐疑」と「言葉の否定」は違いますでしょ。
> 例えば建築屋さんが「これは贋金だ!」と決め付けたとしても、それに価値を認めて交換に応じる人だっていないとは限らないわけです。
そうです。パナウエーブだってなんだって信じる人はいます。人は人(の言うこと)を信じることで生きようとしている、とボクには見えます。
しかし、全ての人(他者も自己も)を無条件に信じる人はまあ居ません。それぞれに何らかの基準によって取捨選択しているでしょう。つまり意志を働かせているはずです。
> そうした交換の可能性をなるべく拡げておくことは、「風狂」的なコミュニケーションにおいて必要なのではないかと思うのですが。まあ僕の勝手な見方かもしれませんけど。
「全てを偶然に任せる」つまり「意志を放棄する」ことはできません。それをしたらコミュニケーションそのものが意味を失います。
別の言い方をすれば「交換の可能性」とは「意志の可能性」ではないでしょうか?
貨幣を例に出したのも、この事を言いたかったからです。
「無意味」とボクが言うときのそれは、一義的には「意志の放棄」を指しています。事実誤認とかでいうのはその後の話。ある事実に注目する行為そのものに意志が無かったら、意味などない、と考えるからです。
>恐らくここらへんに連句の「精神」があるんじゃないかと思いますよ。で「自分にしか言えない話でそれに応えなさい」というのは、あくまで自分にとっての格律でしょ。
そうです。取合えずは自分に「しか」分らない。他者に分るのは物理的な行動の結果だけです。言語活動においても同じですね。
ですが、そこに於いてボク達はただ単にその行動の物理的結果だけで、己の次ぎの行動を起しているのでしょうか?というより、共働行動は果してそうやって出来上っているでしょうか?政治スローガンは何の為にあるでしょうか?
>もちろん連句自体は共同作業である以上、捌きによる治定が必要なのですが、それでも「あんたの句は『誠実』の裏づけを持たない贋金だよ」とは言えないのではないですか。
いいえ。誰もが、それを確かめる(問いただす)権利をもっています。でなければコミュニケーションは成立たないでしょう。というか、それが出発点でしょう。
語彙の意味の確認、誤読の可能性への注意、解釈の可能性を述べ合うこと、私にはこう見えるとの応答をすること。つまり、互いの発語意図(意志)の表明ですね。
その発語の一つの形式が「句」である、とボクは思います。
また発語交換の場の一つの形式が「座」であり、それを形式たらしめている(条件つけている)のが「連句」という言語表現形式であり、結果(記録)として成るものが「一巻の連句」です。
「座」という過程(形式)を持たずに、個に発する「言葉」を不特定多数に向けて投出すのが、いわゆる「文学作品」というコミュニケーション形式ですね。
そこでは「テキスト」だけが問題にされます。と言うか、そうするしか手はない、と言うべきでしょう。市場の偶然に任せる、自由市場主義でしょうか。
作品に対する近代的価値観観はそこに立脚していると思いますが、しかし、その方法(価値観)だけしかないのではなく「座」といういわば地域通貨の世界も有り、それぞれの格律は同じではない、と言うことです。(互換性を否定していませんので。念為)
> 「誠実さ」はともかく、連句興行に参加している人のなかで、上のような連句の精神を頭から否定している人は誰もいないでしょ。だいたい、師匠のおっしゃる方法論についての異見など、今のところ出てきてないですし。
いえ、だから、「方法論に対する異見」が「誠実」に提起される事を望んでおります。その為には少なくともボクの「方法論」がどのようなものかを、誠実に提出する必要があるでしょう。勿論、確立されてある方法を述べている訳ではありませんから、こうして述べることによって、自らの確認作業をしている訳ですね。
で、今回の措置も、その一貫です。そうでなければそれこそそうした措置行動は無意味になるでしょう。
> んで今回のゴタゴタは、別に方法論上の争いなんかじゃなくて、どう見たって単なる感情的な軋轢に発しているわけです。
だから、全然違います。感情云々ならばそもそも句に関する問い合せなどしませんよ。
> たとえ重苦しい緊張を孕んだ場であっても、ちょっと言葉をずらすことによって笑いやおかしみが生じ、空気ががらっと変わる。田中荘での、建築屋さんのそうした見事な手腕に、僕は何度も感心させられたわけですよ。ところが今回はそうならなかったのが、なんか残念ですね。
問題が全然違いますって。と言うか、田中荘の話はBBSの話ですね。そこに「連句の座」と同じ形式(方法及び格律)を求めることはできませんでしょ。
その違いを利用したBBS参加方法ではあった訳ですが、議論における表現と虚構であることを前提する文芸表現の、可能の違いであり、そこには本質的な違いがあるとボクは思います。
(つまり芸術論の話なのですが、これはこれで大変・・つうかそれを巡っての風狂でもあるんですけどね)BBSの管理人が絶対権限を持つというのは「座」と同じなのですが、しかし、そこで意図されているものが全く違いますでしょ。
言葉に対する誠実さを要求されるのは同じですけど、しかし、結果としての文字列にどのような意味を持たせて良いか、が異なっています。
BBSの議論では一定の概念を形成しようとするし、解釈のブレは不協和音になりますが、「連句の座」が意図しているものは互いの解釈の差異(可能性)を知ることです。
例えば、まーさんのご意見から
引用**********
『有明の 月の残滓に 虹立ちぬ』についてなのですが、「有明の月」というのも「有明の海に見える月」ってのも
あるでしょう?「虹立ちぬ」はレインボーとしての虹もありますが「虹の掛け橋が掛かったようだ」とも読めますよね。
こちら(私)とあちら(あなた)をつなぐ一筋の掛け橋がかかったような(いつかかけることが出来たら良いなぁというような)気持ちですね。そんな気持ちをあらわすとしたら「虹立ちぬ」がいいかなぁと思っていました。
**************了
と言うような読み替え(もしくは誤読)は全く有りの世界です。但し、その読みと作者の意図との差異に関して無自覚でよい、とは考えません。そうした異なる読みが可能であることをどこまで意識化できるだろうか、が連句の意図でもあるからです。その為にこそ打越や付き筋を言う必要がある、とボクは考えています。
また治定するに当っては、捌きなりの解釈を確定して行います。その解釈が作者や他の読者と同じかどうかは取合えず問題ではありませんで、これもそれぞれの解釈の違いを浮び上がらせる為には、そうする必要があると考えて居るからです。
勿論、何時もそれを明確に言うことなどできません。何となくでしかない方が多いでしょう。つまり一句の解釈は常に恣意的であることから逃れられる話ではありません。ハナからね。
しかし、そこに文脈というものを勘案せよ、というのが連句の教えです。コンテキストなんて今更何言ってるの?というのがtpknさん大好き日本文化の凄いところでしょうきっと(笑)。例えば
有明の月の残滓に虹立ちぬ
魚喰ろうて踊だす猫
とかやると、まあ水俣のことを知らない人には訳わからかもしれませんが、ああ有明海の話だなあって、なるだろでしょう。レインボーブリッジの話だとお台場辺りの有明ってことになったりも。つまり付け句によっては有明は掛詞になるし意味が変化する。そして前句の可能性は拡大されたり限定されたりします。
そうした言葉の運動を味わっていただくというか自覚的であっていただきたく、まず作者の意図が鍋か薬缶かという話をしたりする訳です。
「座」での会話そのものはBBSも一緒ですが、「連句の中の句」である限りにおいては「何でもあり」です。でその可能性に関しての制限(格律)はただひとつ、何を言いたかったか、が他者にも何らかの形で伝わること。正解がある話では勿論ないです。
正しくかどうかとかの評価はそれぞれで判断するしかないですが、どのような解釈が可能だったのか?に関しては、それぞれが誠実に表明しないことには、言葉自体の意味が消えてしまいますからね。「誠実」と書いても「詭弁」って解釈ありってんじゃ訳わから。ちょっとアホらしい例題ですけど。。
で短詩型では言葉を極限まで省略することを要求されるんですが、どこまでの省略が可能か、についての議論も当然発生します。「暗黙の了解」について考えされられる側面でもありますね。また想いが伝わる(想像可能)ならば造語でもなんでもあり、という次第です。
その想像(解釈)の範囲に制限はありません。互いに「なるほど」となるなら何の問題もない。
そのなるほどの範囲の外にある場合、それはそれでまた会話のキッカケになるでしょう。いずれにしろその為にはやはり、誠実に意を言葉にする試みが前提です。そうして初めて「言葉」は貨幣のように価値あるものとして受取られる可能性がでてくると、ボクは思います。
句に対する解釈は表面上取合えず面白いければよしとしたもので、虚言妄言戯言、ダジャレや肩すかしなんでもありですが、しかしもし「それだけ」になったらダメですね。
区別が付くからこその虚言妄言戯言なのですからね。対比するものが無くなればやはり全ての言葉は意味を失うでしょう。
>> ここbbsに現出しているのはなんでしょうか?少なくとも人格そのものではありませんでしょ?研究とは関心を持つこと。サンプルとは私も貴方も互いに一事例としての位置にあること。つまり「格」という固有性は、実体として現出しているのでもなんでもなくて、対象に対する関心(観察)の結果として観察者が、認識のしかたにおいて評価したものだと思いますが。いかがでしょうか?
> いえ、bbs上に現れているのは単なる言葉ですけど、コミュニケーションの主体はあくまで人格同士ですよ。
もう少し厳密に言うと、bbs上に現れている言葉から推測する人格を想定した相手との、ですね。
> というのも、何かおのずからbbs上に文字が現れてそれを観察者が解釈評価することによってはじめて、その背後に「人格」が出現する、といったものではないでしょう。
つまり、人格は出現したりなんかしませんで、観察者の経験的判断による想像において想定しているだけですね。(想定しちゃいかんとか言ってるんじゃないですよ。念為)
> 例えば、コンピュータの自動筆記と「コミュニケーション」することはできないでしょう。
よくプログラムされたコンピューター相手だと間違うかもしれませんね。勿論プログラム作者の人格が表れている、とすることは可能でしょうが・・
相手は機械ではない、と考えるからこその、人格の想定ですね。観察できるものはモニター上の文字列だけです。それらにどのような意味を読みとることが可能か?という話に変りはありませんが、文字列=人格でないことは確かでしょう。
文芸作品の登場人物と実在の人物の違いとか、例えば時実新子さんが最初は夫にも誤解されて困ったという話とも同じですね。表現は確かにある人格によって成されるものですが、表現されたものの解釈は多様にあり得るということは、同時に、それが人格そのものの反映だと捉える訳にはいかないことを意味していることになるでしょう。
> 言葉によるコミュニケーションの可能の前提は、お互いがお互いを人格として扱い、単なる対象(モノ)として扱わない、ということですよ。相手の言葉や応答を単にモノとして分析するだけじゃ、コミュニケーションにならないでしょう。
研究サンプルにする=モノとして扱う、ですか?tpknさんに突っ込まれそうですね(笑)
相手がモノでないと信じているからこその「関心」であることをお忘れなく。
>つまり、相手を自分の関心にとっての単なる「手段」にしてはならないわけです。言葉を換えれば、相手が人格的主体である以上、相手を自分の認識の枠組みの中に閉じ込める(対象化する)試みは、必ず失敗するわけです。
う〜〜む〜(笑)相手はどうやっても「自分の認識の枠組みの中に閉じ込める」ことなどできゃしませんが、相手の人格はカクカク然々だと信じ込むことならできるんでしょう。それって対象化と言いますですか?
なんか良くわかりませんが、ボクがあなたのいう「必ず失敗」した事例を上げてみていただけませんか?いや別に不必要なら結構ですが、ってなイヤミは止めますね。(ってもう書いるやんけ;笑)
互いに自分の認識の枠組みの中に相手を対象化しあうことしかできないでしょう、何言ったところで。それともへちま鼻さんはそうした認識枠組の「外」に立っておられると主張なさっているのですか?
如何に対象化しあっているかをどうやって知ることが出来るだろうか?その方法は如何に、の話をボクはしている積りなんですけど。
>その意味で、人格は決して対象化されえない「実体」として現出すると言えると思います。
↑これ、論理としては相当に意味不明じゃないですか?」人格・対象化・実体・現出」の概念の曖昧さか、もしくは述べている事象が現象する場の条件次第、で違ってきませんか?
いやお気持は見当付いてる訳ですが…
と言うあたりで、今回は終りにします。なんか浄土板でやった方が良いような話になりそうですので、また折りを見てお願いします。ではでは
とりあえず一般論のみ1 投稿者:へちま鼻 投稿日:10月 2日(木)01時28分09秒
一草師匠、
> 因みに、偽金は幾らでも発行できます。それが言葉でしょう。そしてそういうのもあってヨシ、というか、言葉においては真贋を区別する絶対的基準など本質的にないだろうと考えています。
同感です。言い換えれば、実際に交換されてはじめて、その言葉(貨幣)が価値を持つ、ということですよね。でこの交換を保障するものは、よく考えてみると何も存在しない、すなわち言葉の交換(コミュニケーション)の可能性は常に無の深淵に直面しているわけでしょう。それを逆から言うなら、一見無意味無価値に見える言葉であっても、ひょんなことからそれが交換の価値を持ち始めることだってあるわけですよ。つまり、言葉の交換可能性というものは、実は言葉を発する人間の意志によってすらもどうにもならない、すなわち本人の意志とは関係なく、全くの偶然性にさらされていると言うこともできると思います。
とすれば、コミュニケーションの最低限の条件は、言葉を発する動機としての「誠意誠実さ」というより、単に「言葉を発することそのもの」なのではないでしょうか。あくまでもそれは本当に「最低限」な条件なわけで、「論理的な議論」「世間話」「連句」等々コミュニケーションの種類に応じて、さらに条件が付加されていくわけです。ただし、
> その時の最低限の条件として、各人に過誤錯誤思い込み色々ありますけど少なくとも、各人の真情においては虚言を弄しない事(自覚がある場合は戯言もありです)と考える訳です。
そうでなければ、相互の感性や解釈の違いは浮び上がってきません。
> それ故「それぞれの言葉を発する時の態度(言葉と他者に対する誠実さ)」を「一座する最低限の条件」と考えるのです。
「真情」「虚言」「誠実」と言っても、それを確認する手段は何もありません。権力の裏づけを持つ貨幣とは違って、言葉には真も贋もないわけです。
例えば建築屋さんが「これは贋金だ!」と決め付けたとしても、それに価値を認めて交換に応じる人だっていないとは限らないわけです。そうした交換の可能性をなるべく拡げておくことは、「風狂」的なコミュニケーションにおいて必要なのではないかと思うのですが。まあ僕の勝手な見方かもしれませんけど。
> しかし、前句に付けよう(意を汲もう)とすればするほど、打越と同じ話ばっか頭に浮んで来てしまうものなんですね。前句のキッカケが打越句なんでしょうがないっちゃしょうがないんですが。
> それはしかし囚われの状態、前句の世界に引きずられてしまっていると言えそうなのですね。
意を汲む、付ける、と言うのは同化することではないのですね。> 対象化することで、今度は自分にしか言えない話でそれに応えなさい、と言うこと。一期一会なんじゃないかと愚考するのですが、芭蕉さんは「根を切れ」とか言った。
恐らくここらへんに連句の「精神」があるんじゃないかと思いますよ。で「自分にしか言えない話でそれに応えなさい」というのは、あくまで自分にとっての格律でしょ。もちろん連句自体は共同作業である以上、捌きによる治定が必要なのですが、それでも「あんたの句は『誠実』の裏づけを持たない贋金だよ」とは言えないのではないですか。
> この場合は連句と言う方法論の共有です。念為)において前進進行するにはどう言う方法が可能だろうか?と考えた場合の、最低限の「付合い」の係留点として「言葉と他者への誠実さ」を表明した次第です。
> その方法論を無意味とお感じになる方には降りて頂くしか今の所方法はないように思います。
「誠実さ」はともかく、連句興行に参加している人のなかで、上のような連句の精神を頭から否定している人は誰もいないでしょ。だいたい、師匠のおっしゃる方法論についての異見など、今のところ出てきてないですし。
んで今回のゴタゴタは、別に方法論上の争いなんかじゃなくて、どう見たって単なる感情的な軋轢に発しているわけです。
たとえ重苦しい緊張を孕んだ場であっても、ちょっと言葉をずらすことによって笑いやおかしみが生じ、空気ががらっと変わる。田中荘での、建築屋さんのそうした見事な手腕に、僕は何度も感心させられたわけですよ。ところが今回はそうならなかったのが、なんか残念ですね。
> ここbbsに現出しているのはなんでしょうか?少なくとも人格そのものではありませんでしょ?研究とは関心を持つこと。サンプルとは私も貴方も互いに一事例としての位置にあること。つまり「格」という固有性は、実体として現出しているのでもなんでもなくて、対象に対する関心(観察)の結果として観察者が、認識のしかたにおいて評価したものだと思いますが。いかがでしょうか?
いえ、bbs上に現れているのは単なる言葉ですけど、コミュニケーションの主体はあくまで人格同士ですよ。というのも、何かおのずからbbs上に文字が現れてそれを観察者が解釈評価することによってはじめて、その背後に「人格」が出現する、といったものではないでしょう。例えば、コンピュータの自動筆記と「コミュニケーション」することはできないでしょう。言葉によるコミュニケーションの可能の前提は、お互いがお互いを人格として扱い、単なる対象(モノ)として扱わない、ということですよ。相手の言葉や応答を単にモノとして分析するだけじゃ、コミュニケーションにならないでしょう。つまり、相手を自分の関心にとっての単なる「手段」にしてはならないわけです。言葉を換えれば、相手が人格的主体である以上、相手を自分の認識の枠組みの中に閉じ込める(対象化する)試みは、必ず失敗するわけです。その意味で、人格は決して対象化されえない「実体」として現出すると言えると思います。
へちま鼻さんへの書き忘れ 投稿者:一草@風狂堂店主 投稿日: 9月30日(火)23時25分55秒
船長である限り、同船者に対して無視や放置プレイはできません。同船し船出した意味を失うでしょう。
>いくらなんでも「研究サンプル」はないでしょう。それでは人格を「手段」として扱っていたことになってしまいますよ。
ここbbsに現出しているのはなんでしょうか?少なくとも人格そのものではありませんでしょ?
研究とは関心を持つこと。サンプルとは私も貴方も互いに一事例としての位置にあること。つまり「格」という固有性は、実体として現出しているのでもなんでもなくて、対象に対する関心(観察)の結果として観察者が、認識のしかたにおいて評価したものだと思いますが。いかがでしょうか?
風狂の係留点 投稿者:一草@風狂堂 投稿日: 9月30日(火)23時00分31秒
連句は、行方定めぬ闇夜の船出です。
何処へ向うのか?どんな目的を持つのか?何処へ帰り付くのか?
そのような事は何も分らないままの旅路です。が、しかし
何望むなく願うなく、ってことではありません。ともかく帆を上げよ、
出立しようとパトスが促している。
船出は一人ぽっちではできません。世捨人への旅立つのではないし、
小舟では遠くには行けない。
出来れば、生きとし生けるものらの乗込む船でありたし、箱船。
海図は古く役立たず。お手製転鏡儀の精度は不明。しかたなし。。
天を仰ぎ水面を覗き鳥の羽ばたきに驚き風を読みつつ行方を探るしかなく、
船長はといえば風狂風情の成らず者。誰が為に鐘鳴らす。
王は誰やら神は何処や知るよしもなし。
はて?さて?そんな航海果して可能か?と誰しも訝る。
しかし、訝ってどうする?怪しげだからと止めてどうなる?
自由平等博愛の虚妄の海に浮かんだ民主主義の破れ船。あれま?
気付いてみれば何故かもうみんな乗込んじゃってるじゃないですかあ〜。
一体どっちに進めば良いものか?誰に訊いても皆言うことが違うじゃないですかあ〜。
一体何処で降りれるのかも誰も知らない。まったくしょうがないじゃないですかあ〜。
とにもかくにも進むしかないらしい。前後左右もあらばこそ。
留まってたんじゃ何処にも行けやしないのだけは確かな事だもんね。
ま、しかしやね、焦っちゃあかんのやね。海に潜れば鯨も魚もわんさかだし〜
ってなもんで・・やれやれじゃと顔見合わせて、はて??なんか話違ってないかい?
そうそう連句の話ですよ。んやま、同じようなもんなんで・・・(そうか?)
がじ切り・・??じゃないちゃうちゃう。舵切りはしないと難破しそうな荒波来たり〜
氷山あったり〜大タコ出たり〜、いやいや中には反乱だってあったり〜
それでも進む為には漕がなきゃなんない。皆んなで方向揃えてね。ヨ〜ソロ〜
んで、進む方向は?
もしかして噂に聞く怖ろしい海の墓場でぐるぐる回りをしているんじゃなかろうか?
と不安になったりするけど、じゃそれってどんな所?何処にあるの?ここなの?
誰も知らない。
けどともかく、皆に必要な事は進む事。合言葉は、前進(某セクトとは勿論無関係ネ)。なんで「前進」かって?
そりゃその内どっかに行けるからでしょ?きっと・・・・ホントか?
嘘だってなんだって、んじゃ他に方法あるんならおせえて〜
一日一歩三日で三歩、散歩すんだら二度ねする。ちゃう。あのね
そんな時は前進してるんだか後退してるんだかだけ分りゃええんじゃないかい?
と、芭蕉さんは考えた!のかどうかはともかく、言われてみりゃなるほど!そやね。
と、言う訳で古来(?)、連句は打越という概念を確立したのであった。
(あまりマジで信じないやうに。秘密カイギの結果だから;笑)と言う所で
打越とは
句A→句B→句C→句D→ ・・・と付け進む時に
付句は前句の意を受けての挨拶とか論評とかだから、当然前句に述べてあることに関連したことを言うことになる。前句と何らかの繋がりが濃い。
一見無関係に見えてもね。
その時に「ちょっと待て」と警告を発するのが「打越」。
今、句Bに句Cを付けようとしているとすると、
句B(前句)のキッカケになっている句A(打越句)が述べている事柄・話題に
「戻るな」と言うのが打越禁。「障り」と言います。
前進するために、繰返しや堂々巡りを嫌うのです。「一歩もさがることなし」と翁は言ったそうなんですが、まあそんな昔の人のことなんか知ったこっちゃない風狂堂本舗では、
日和によっちゃちょっとばか後戻りして遊んでも、前進の仕方を十分に分かってれば大丈夫じゃない?と反抗してみたりしてるのが風狂堂の風絮(と名付た連句スタイル)なんですけどね。でも基本は常に、打越禁。
しかし、前句に付けよう(意を汲もう)とすればするほど、打越と同じ話ばっか頭に浮んで来てしまうものなんですね。前句のキッカケが打越句なんでしょうがないっちゃしょうがないんですが。
それはしかし囚われの状態、前句の世界に引きずられてしまっていると言えそうなのですね。
意を汲む、付ける、と言うのは同化することではないのですね。対象化することで、今度は自分にしか言えない話でそれに応えなさい、と言うこと。
一期一会なんじゃないかと愚考するのですが、芭蕉さんは「根を切れ」とか言った。
これ、時として、前句と付句に一体どんな繋がりがあんねん?と見える現象をもたらすんですが、ま、解釈様々、そういう所の距離感に普遍性などとというのが有るわけではなく、それこそ恣意的としか言いようがない現象ですね。
分る人には分る、当然、分らない人には分らない、の世界。というような次第で、捌きは、
付筋付具合=前進展開状況を評価判断し、治定(付句の決定)します。
打越句→前句→付句、を惨苦?じゃない三句の渡りと言い、
前進具合の計測を仕事としております。
またその為に、個々の句の輝きかたにも気を配ることになります。
一句の輝きかた、意の鮮明度は相対的なものです。それ単独でという評価もありますが、飽くまでも三句の渡りという「文脈」において判断することになります。
また、当然の事なのですが、付句の可能性は無限にあります。
前句に付けるに、タイプAタイプB・・・様々な方向性が広がっています。
しかしながら、実現しえるのは常に、ただ一つの付句だけです。
あるものを取ることで、それ以外の無限の可能性を捨去ることになります。
さよならだけが治定さ、ってな具合ですが人生と同じなんだから悔いて留まってはいられませんから、しょうがないのですね。
で、その投企の果てはどこに行くのか?・・・さああ???分りません。キッパ〜リ。
でも…ひとつ言えそうなことがあります。
予定調和と永劫回帰の回避が可能かもしれない。
(や、ま、「かもしれない」で申訳ないのだけれど…言切るには怖ろしいじゃん…汗)
そういう次第で、へちま鼻さんの疑問への答えになっているかどうか分りませんが、少なくとも船もまたあちこちに無限にあるのですね。この場合。
で、今のところ海戦が勃発してる訳でも反乱が起きた訳でもなんでもなく、また権力維持の為でなんかでは勿論なく、乗り合せた者皆が同じ志(感性や思想が同じとかではありません。この場合は連句と言う方法論の共有です。念為)において前進進行するにはどう言う方法が可能だろうか?と考えた場合の、最低限の「付合い」の係留点として「言葉と他者への誠実さ」を表明した次第です。
その方法論を無意味とお感じになる方には降りて頂くしか今の所方法はないように思います。
ここは義務の世界ではありませんのでね。パトス(意志)を持たずにロゴス(言葉)を弄んでいては、前後左右今昔上下、全ての方向感覚を失うだろう、と考える次第です。
また何がどうだかはその場その場で判断(議論)してゆくしか手はないとも。
長くなっちゃいました。次回から、風絮の進行に戻ります。
風狂堂店主敬白
2125 返信 土竜の砂場 cyan 2003/09/30 14:34 {問答野暮用板より}
>「論理」(言説)上の問題は「論理」でカタをつければいいのですよ(byへちま鼻さん)
そうなんです。
けれど、カテゴリーもなにもゴチャゴチャですので、話にならないのです。もう少し、冷静になっていただかないことには。。。
>
http://www.geocities.co.jp/Hollywood-Kouen/8264/mid/fuga007.mid
>
> 遁走曲007非常
・フーガしかありません。
一言だけ 投稿者:そよか 投稿日: 9月30日(火)08時05分05秒
へちま鼻さん、おはようございます。
あなたの優しさ(といっていいのかな?)には同意とし、私の気持ちとしては↓で
不十分ながら申し上げた通りです。
が、「破門」が「全人格の否定」ではないのはお師匠さまの説明にある通りだと思います。
単に(一門の人や)言葉に誠意を望むゆえ「風狂亭門下生としては認められない」ということではないでしょうか。
お師匠さま 投稿者:そよか 投稿日: 9月30日(火)01時25分36秒
こんばんは。
私の書き方というか、言葉(気持ち)の表し方がへたでごめんなさい。
決して勘違いはしていません。「破門」は一草@風狂堂としてのことのみというのは
↓「破門」時のお師匠様の説明で充分わかります。お疲れ様です。
そよかさんへちま鼻さん取合えず一点 投稿者:一草@風狂堂 投稿日: 9月29日(月)21時53分07秒
「風狂の座」と言っても要するに「私が捌く連句の座」です。
そこからの破門であって、それ以外、私以外の方の捌きの座などになんら関与するものではありませんし、ましてやBBSへのアク禁投稿禁止などとは全く違いますよ。
ですから例えばがじさんがここで宗匠しながらの連句興行なさっても構わないし、ボクがしていることに関して端で何か言っても構わない、そりゃ自由ってもんですからね。
またボクもそれに関してなんか言ったりするでしょう。その点は今までとなんも変りはないですよ。勘違いなさらないでくだされ。
知らず姫様こんにちは。 投稿者:一草@風狂堂 投稿日: 9月29日(月)21時01分06秒
>一草宗匠、おひさしぶりです。地震対策なんかでご多忙かもしれないと思ったりしてましたが、少し仕事は落ち着かれたのでしょうか?
ご免なさい、以前は何時何処でだったか失念しています。一度ご出句いただきましたでしょうか?
地震対策は仕事としてではなく我が事務所がものすごいボロ家なんでなんとかせねばと去年から思うばかりの紺屋の白袴です。それに今ほんとはこんなことしてちゃいけない仕事状況なんですが、いやはやなんとも・・・
>そんなに甘いものじゃなさそうですね。ちょっと反省。
父君、会の主宰となるとここなんかの比でなく大変なんじゃないかと推測します。だって生身の方々が迫ってこられるんですからね…(笑)
>「言葉に対する徹底的な拘り」や「あくまでもおのれの言葉の感性に忠実であろうとする欲求」は非常に利己的なものであり、「言葉を受取ろうとする他者に対する誠意」とは対立要因になりうるのではないかと思ったりします。
「言葉」が「個に発するもの」ならそうでしょうね。しかしそうでしょうか?言葉は人間=人と人の間に有る(発生する)ものではないですか?赤子に語りかける親が居なければ話せるようになりませんよね。
ちょと飛躍しますけど、お金(貨幣)ととても似ていると思うのです。相互に信頼関係がないと貨幣は唯の紙屑(もしくは金属のカケラ)でしょう?意味を持てないですよ。
>妥協のない言葉と言葉の真剣勝負の世界となれば、激しい感情的軋轢が生じるでしょうから。ですから、「捌き」をする人を必要とするのではないでしょうか?
互いに、相手が「言葉に対し誠実である」と信じていなかったら、言葉と言葉の真剣勝負になりますか?真剣になりますか?
真剣にならずして、感情の対立が起きますでしょうか?
捌きの必要性は感情軋轢の解消にあるのではないです。無理ですそんなこと。だって例えば裁判判決で感情は解消されますでしょうか?
絶対的力に対しての「諦め」はあるかもしれませんが、それは単に「争議の停止」ですよね。感情はただ抑圧されるだけに思いますけど。感情のエネルギーは解放されないのでは?
>風狂を「言葉への感性を磨く場」と考えるか、「句を通じての交流の場」と考えるかによって、「言葉」と「言葉を受取ろうとする他者」のどちらにより誠実でなければならないか、変わってくるように思います。
そこにさらに「感情解放の場」と加えてもよいと思いますが、それら全てを含んでなければならないのが風狂の座だと思ってます。
ですから互いの言葉に対する感性や解釈に「相違があること」を問題にしているのではありません。そうした相違があることを前提するが故に、では言葉とどう付合うのか?相違を越えて共感や受容を可能にすることができるとしたらどのような条件(場面)でか?なのです。
その時の最低限の条件として、各人に過誤錯誤思い込み色々ありますけど少なくとも、各人の真情においては虚言を弄しない事(自覚がある場合は戯言もありです)と考える訳です。
そうでなければ、相互の感性や解釈の違いは浮び上がってきません。
それ故「それぞれの言葉を発する時の態度(言葉と他者に対する誠実さ)」を「一座する最低限の条件」と考えるのです。
因みに、偽金は幾らでも発行できます。それが言葉でしょう。そしてそういうのもあってヨシ、というか、言葉においては真贋を区別する絶対的基準など本質的にないだろうと考えています。(貨幣においても同じだろうと思うのですがどうなんだろう?帽子屋さん)
人間関係において互いに了承しあう世界なんじゃないでしょうか?
そよかさん・へちま鼻さん 投稿者:一草@風狂堂 投稿日: 9月29日(月)20時09分12秒
こんばんは
ご心配くださりありがとうごさいます。
ただ、昔(田中荘)の話はもう持出さなくてもよいとボクは思います。無関係にお考えいただきたいですね。ボクは後悔してる訳でもないし、腹を立てている訳でもないですから。ボクが勝手に期待したぶん勝手にガッカ〜リしてるだけですんで。
破門の件はへちま鼻さんへのレスで説明します。ではでは
へちま鼻さん
昔話をほっくり返してもしょうがないですよ。や、まあボクとちがってちゃんと歴史研究なさるんは大変結構なんですがね(なはは^^)
釣られてそよかさんまで昔の思いが蘇ったりなさるやもしれませんでしょ。ダメ。
う〜ん。 投稿者:そよか 投稿日: 9月29日(月)20時00分06秒
こんばんは。
へちま鼻さん、お久しぶりです。あなたのご意見に異存はございません。
それを前提に「土竜板一草風狂堂」末席に位置する者として今回の出来事に対し感想を述べさせて頂きます。
建築屋さんは「田中荘」において実にgajiさんを慮り優しく、私からは常にgajiさんの気持ちを感じ取ろうとされていたように見えます。
gajiさんとベルナールさんとの激しすぎる応酬に誰もが固唾を飲んでみていたとき(と私には思えた)、建築屋さんお一人がgajiさんに声をかけ慰めていらっしゃいました。
ここ土竜板でベルナールさんがgajiさんを批判された時の建築屋さんの「身体(言葉)をはったタンカ」には当時gajiさんの虚言を批判していた私さえ感動したものです。
「田中荘」gajiさんとベルナールさんが罵倒応酬で gajiさんの投稿だけが管理人削除された時(「罵るだけで内容の意味不明さ」で管理人削除は当然)も、
http://bbs2.otd.co.jp/16490/bbs_plain?base=13610&range=1
=引用開始=
> 消されたの ありゃりゃん こりゃりゃん
>
> でも こにいるよ、
=引用終わり=
その後gajiさんが「田中荘」を去ると意思表示した時も、土竜板へと手を指しのべたのは建築屋さんでした。
http://bbs2.otd.co.jp/16490/bbs_reply?reply=14292
=引用開始=
> がじさん、ではみんな忘れて参ろうか・・何処へ??えっと〜取り合えずジスカバー侘寂、風狂の旅(営業営業^^)
=引用終わり=
そんな建築屋さんがどうしてgajiさんを「破門」するようになってしまったか?
「飛翔」での建築屋さんのご投稿です。
☆ http://bbs10.otd.co.jp/1008792/bbs_plain?range=1&base=11010
=引用開始=
11010 Reply Re:水原さん Re:大きい? 小さい?? 建築屋
> >現段階では、これは相手にしてもしょうがない状態なんじゃないかと。真剣に相手になればなるほど、結果としてGajiさん自身が自分をますますどこか奇妙なところに追い込んで行くだけの結果になるんじゃないか、と。
>
>「 ん〜〜・・どうもねえ・・そじゃないみたいなんで・・・<建築屋さん」
>
> > なにがあったのか、分かりませんけど、ご本人も「摂食障害が」云々と漏していたこともあり…。医者に相談したらしばらくネットに接続しないようにアドバイスされるんじゃないか、とか。少なくとも掲示板上に出ていることを見る限り、僕がgajiさんの友達か家族でしたら、ネットに接続させないようにするんじゃないか、と(“診断”を下すにはあまりに情報量が少ないので、断定はできませんが)。
>
> 「ん〜〜・・どうもねえ・・やっぱそじゃないみたいなんで・・・
> ん〜〜〜ま、ボクの判断もあくまで個人的体験からのものですんで、なんとも、アヤフヤ、ナム南無、ではありますが。。。ネット上の仁義だけは通して上げないと、わりいいだろなあって。。。<建築屋さん 」
=引用終わり=
★ http://bbs10.otd.co.jp/1008792/bbs_plain?range=1&base=11023
=引用開始=
11023 Reply Re:カラバさん Re:水原さん 建築屋
ちょいと違ってて、風狂だろうとなんだろうと、の仁義です。矜持の方が近いかもですが、一応ネット上の、ということで仁義なんですけどね。
だから、面倒がどうとかとも違うのです。袖摺り合うも他生の縁ですかね。それに、何事からも得るものはあり、とした方が良いでせう?お互いに。
暗くて底が見えない井戸に小石をぽとん、でチャポンだと水あり、何秒後くらいかで深さが分る、とかってのと同じですよね、こうしてお話して、何方においても。
その時、小石ぽとんでやるのと爆弾とか毒薬とか投込むんでは、話がちがちゃいますから(小石でわかんない時はだんだん大きな石にしたりってあるんですけどねえ、松明なげこんで見るとかね。だいたいとぷくんは最初に大きめの石もってくるんだね;笑)やっぱ自分がしてることを自分成りに分る努力と注意を払うってのは互いの(袖摺り合う時の)第一の仁義なんじゃなかろかと。その先のことはそれぞれで構わないと思ってます。
ハイあんた死刑!アク禁よ!オホホホ♪とかね^^;
=引用終わり=
”袖摺り合うも他生の縁ですかね。それに、何事からも得るものはあり、とした方が良いでせう”
とみなしながら、
”やっぱ自分がしてることを自分成りに分る努力と注意を払うってのは互いの(袖摺り合う時の)第一の仁義なんじゃなかろかと。その先のことはそれぞれで構わないと思ってます。
ハイあんた死刑!アク禁よ!オホホホ♪とかね^^;”と、その先として「破門」を選択されたのだと思います。
ご自分の捌きを、異議ではなく”(詭弁として)藁い遁走”した相手を「座の秩序の為に”破門”」されたのは理由としてまったく私は納得出来ます。
が、「破門」に賛成か反対かと問われれば、私も「反対」です。
比べさせて頂くのは非常に僭越なのですが、時間はかかりましたが「飛翔」管理人も彼女をアク禁解除する気持ちになれました。
勝手ながら、少しでも早い「破門」取り消しをしていただけたらなと願っています。
身の程知らずな生意気なことを申し上げすみません。
あの、師匠・・・(1)(2) 投稿者:へちま鼻 投稿日: 9月28日(日)22時09分50秒
お久しぶりです。
どうもマジギレモードですね・・・
> 無意味に揶揄中傷の言葉を並べ、無意味に「詩のような」言葉を並べ、無意味に言訳し、無意味にコピペで他人を不快にさせ、無意味に嫉妬し、無意味にはしゃぎ回り、無意味に同情してみせ、無意味に同情を引いてみせる。
> 2年くらいの経験ですが、bbsにおいて貴方ほど無意味に言葉を弄ぶ人は居ませんでしたね。最悪です。
> その荒情を蔑み「無意味の人」の称号を贈ります。蔑まれてとても嬉しいでしょう。存分に喜んでくださいね。
うーん、数ヶ月前の↓こういうやり取りをお忘れなのでしょうか・・・
**********************
12151 返信 Re:横から失礼しなくてよい! 建築屋@小姑モード 2003/02/05 23:41
ベルナールさん、横から失礼いたします。
> もうあなたを信じる者など誰もいませんよ。
居ります。ここに一人は(キッパリ^^)
幸か不幸か判りませんが。(笑)
ネット上のおかしな書き込みだけで「人間性」を全否定される謂れはありません。
**********************
「田中荘」より
> 今年の三月に田中荘からここ土竜の砂場へと風狂の場を移した頃からです。
> そうした関心から、彼女との両吟連句を試みたりしております。また連句についてのあれこれを解説してみたりしております。勿論それらは、ただ単に彼女の為にした訳ではありません。
> というより、ホンキートンクな振舞いしかしない彼女の言葉はどういう具合に発せられるのだろうか?ということでの研究サンプルに、私が勝手に彼女を選んだ、と言ってもよいからです。
こと風狂に関することではそういう事でした。
いくらなんでも「研究サンプル」はないでしょう。それでは人格を「手段」として扱っていたことになってしまいますよ。
> また風狂以外のテーマでの議論相手としてはもう以前に、ドミニョンでのやり取り以来、彼女を見限っていたのですが、今回は議論ではなく、句に対する問い合せ、つまり、どちらが正しいか?ではなく互いにどのように考えどのように言葉を発しているのか?の会話においても、結局彼女とは会話が成立しないことを確認したのでした。
> どこかに互いに信頼するものがなければ、言葉を交すことはできません。信頼は、勿論予め確固としてあるものではないですね。互いに疑心暗鬼暗中模索の状態のはずです。そうした中から会話が立上がる為には、互いに、相手と言葉に対する誠実さや誠意を持つ努力だけは不可欠だと私は考えます。
ここしばらく建築屋さんとgajiさんとの「会話が成立しない」のは、あるやりとりをきっかけに感情的軋轢が生じたことによって、今なお「互いに信頼するもの」が失われているからでしょう。今現在そういう信頼が失われていることはわかりきっているのに、当の相手に対して「誠実さや誠意を持つ努力」などを要求すること自体、無理があります。
あえて踏み込んで言えば、感情的な軋轢が発生した原因の一つは、掲示板上の会話におけるお二人の「距離」が近すぎたことだと思いますよ。その場合、ちょっとした議論上の齟齬が、たちまち感情上の不信へと転化してしまうのですね。今回の紛争の発端になったドミニョン板でのゴタゴタの過程など、その典型。要は、「論理」上の対立と「人格」上の対立との境界が不分明になっていたわけです。二つのカテゴリーがごっちゃになったままで、なおも一方的な追及を続けようとすれば、泥沼に陥るほかありません。
「論理」(言説)上の問題は「論理」でカタをつければいいのですよ。一方、「破門」というのは「人格」上の断絶を意味するわけです。でも風狂の世界は、少なくとも現実の「人格」(人情)上のゴタゴタから抜け出たところに成り立つのと違いますか?――――――――――――
芭蕉と云う男は枕元へ馬が尿するのをさえ雅な事と見立てて発句にした。余もこれから逢う人物を――百姓も、町人も、村役場の書記も、爺さんも婆さんも――ことごとく大自然の点景として描き出されたものと仮定して取こなして見よう。もっとも画中の人物と違って、彼らはおのがじし勝手な真似をするだろう。しかし普通の小説家のようにその勝手な真似の根本を探ぐって、心理作用に立ち入ったり、人事葛藤の詮議立てをしては俗になる。動いても構わない。画中の人間が動くと見れば差し支ない。画中の人物はどう動いても平面以外に出られるものではない。平面以外に飛び出して、立方的に働くと思えばこそ、こっちと衝突したり、利害の交渉が起ったりして面倒になる。面倒になればなるほど美的に見ている訳に行かなくなる。これから逢う人間には超然と遠き上から見物する気で、人情の電気がむやみに双方で起らないようにする。そうすれば相手がいくら働いても、こちらの懐には容易に飛び込めない訳だから、つまりは画の前へ立って、画中の人物が画面の中をあちらこちらと騒ぎ廻るのを見るのと同じ訳になる。間三尺も隔てていれば落ちついて見られる。あぶな気なしに見られる。言を換えて云えば、利害に気を奪われないから、全力を挙げて彼らの動作を芸術の方面から観察する事が出来る。余念もなく美か美でないかと鑒識する事が出来る。
――――――――――――
(夏目漱石『草枕』)
要は「人情の電気がむやみに双方で起らない」ための「距離」が必要なのではないかと。ネット掲示板は本来、そういう「距離」を取るのに都合のよい空間でもあるはずです。参加や応答を誰に強制されるでもなし、出入自在、「利害に気を奪われないから、全力を挙げて彼らの動作を芸術の方面から観察する事が出来る」わけです。
ですから、時代がかった「破門」などという処置は、ましてや「風狂」の精神から遠いように思えるのですけど。
あの〜帽子屋さん 投稿者:一草@風狂堂 投稿日: 9月29日(月)19時57分34秒
「争い」ではありませんよ。争い(見解意見の相違)でしたらトコトン争って解決を計るとか無視するとかできますが。放置無視しない(出来ない)ことにかんしては別に後述しますが、ご不審でしたら、ともかく読直してくださいな。会話になってないからアホらしいでしょうけど。
>説明が分かりにくいということでもありますね。
>つくづく、思います。解釈その他、いかに、、(以下略)
>要するに、
>捌きの恣意でしかないんですよね。
>どんなものもかたちに、なってしまうという、、
>笑えます。
>なんでもありません。
>捌きの恣意変わりと思い、藁っておりました。
>いいえ、なにひとつ分かってはおりません。
>といってしまっては嘘になりますね。ぼんやりながら分かり、とっても楽しませていただきました。けれど、言葉に対する考え方の違いはいまだにあります。私の場合、虚に立ちます。
>「笑い」は、おかしさに発します。
>おかしくて、笑えました。なにが笑いの対象になったのか、ご自分でお考えになるのも、
>一考ではありませんか?
>では。
>違います。「言葉」を介した人間の恣意です。
>私はそういう言葉(人間)が嫌いです。
>わんこ・にゃんこが好きな由縁でもあります。
>それでは。
以上がこの間のgajiさん発言なんですが、なんだか不条理演劇の台詞みたい・・・
そもそも捌きは恣意であること、言葉は虚であり恣意の表明であること、虚である言葉だからこそ形のないもの(恣意・想念)を形あるもののように表現可能なこと、などをボクは繰返し書いているのですから、対立点は基本的に何もない(はずな)のですが。。。???
しいて上げると「私はそういう言葉(人間)が嫌いです。わんこ・にゃんこが好きな由縁でもあります。」って所ですかね。「言葉(人間嫌い」の方が言葉遊びやBBSに参加してるのが変なのはまあ置いとくとしても、それそここで言ってもなんの説明にもならんし、、つうか言葉への懐疑(=信頼回復への挑戦、とも言えますわな)の表明でもないし。。。
「捌きの恣意変わりと思い」って論理的変化をしないから恣意なんですが??ってのはまあしょうがないとしても、でもそれが「藁っておりました。」の理由じゃますます解らない。
何方か解るかたがいらっしゃったら解説してほしかですよ〜。
で結局残るのは「笑えます」という説明キョピの投石(笑)の事実だけなんで、なにが笑えたの?の質問だったんだけどお応えいただけないから「逃げるおつもりでしょうか?」
すると
>ご明察のとおりです。
>「非常フーガ」(第7番)
>逃げます。
>ひとことで
>申し上げれば、
>詭弁を弄する言葉を藁う、です。
>選択は遁走。あしからず。
>では
脱力。。以上のどこに争点があるんでせう?ボクはわからんサッパーリわからん。おせえて。。
ドミニョンでもそうだったし他の幾人かの方とも同じだったんだけど、投石(揶揄中傷に類する発言)があるから質問返すと遁走遁走また遁走。フガフガフ〜ガ、オナラプッププッププ〜ってね(笑)
や、まあBBSはた〜だ馬鹿言ってはしゃいでるだけしかでけんのじゃあ、ってならまあしょうがないっつうかなんつうかだけど、少なくとも「連句の座」はそれだけでは成立たないのです。BBSもそうだと思うけど。
う〜ん。 投稿者:帽子屋 投稿日: 9月29日(月)01時42分22秒
建築屋様。
争いごとなら、ぜひ問答野暮用:http://bbs9.otd.co.jp/987087/bbs_plainでやってください。みなさまがお待ちしておりますです。ここは、一期一会の精神でやりませう。
亀その1,2 投稿者:まーさん@はらぺこ中 投稿日: 9月28日(日)23時59分47秒
まいど!まーさんでおます。
みなさん、こんばんは。
一草宗匠、丁寧な解説ありがとうございます。かなりの亀レスです、お許しを。
言葉の持つあいまいさに昔悩んだってことは、以前にもお話しました。
で、誤解曲解を恐れずに、それでも自分に出来るだけの精一杯の言葉で表現し伝えたい
(伝わって欲しい)という願いを込めて、エイヤっと差し出すものだと考えるようになりました。
差し出した以上は、後は相手の勝手です。イヤなら差し出さなきゃいいのですから。
ただ、ここでちょっと悩んでしまうのですが、
『「何をどんな風に」想い入れてるのか』を述べることの大切さは承知しているつもりなのですが
それを直截な言葉であらわすのには少し抵抗があるのですね。なんというか「気恥ずかしい」感じがしてしまうのです。
んで、オブラートに包んでしまうわけですね。
そうすると、スリガラスの向こうの人影のように男だか女だか大人か子どもかわからん
(それはそれでおもしろいとおもっています)状態になってしまう。
うーん、困ったちゃん。どないしよ。
例えば「戦争反対。あらそいは嫌いだぞ。これ以上殺すな。私は殺さないぞ。」という気持ちを表すときに、昔流行った「シュプレヒコール!戦争ぉ反たーい!おー!」なんてのは声にすることができません。
なんとか運動の中でのスローガンの唱和なんてのもだめです。「さぶいぼ」出ます(鳥肌が立つの意)。
で、つい、「月や星がにじんで見えた」になってしまったり「うふふ」と笑って(泣いて)しまうのです。
「十七文字や十四文字前後で言葉を選んで表現すること」の面白みもまたここにあるのかなと愚考しています。
ここまでは数日前に書いていたものです。続きは別稿にします。「思いついたこと」を、そのままキーボード上を指が動き書き表すことが出来る人は(つまり慣れている人は)「どの言葉を選ぶのか」ってことになれておられるのだとおもいます(私にはできないことですが)。
思いついたことをどのように言葉に表すか、使う言葉をあれこれと推敲する事は自分の考えをも推敲する事ですね。
で、自分ひとりでの推敲には限りがありますので(いわゆるボキャ貧ってやつです)、BBS上でいろんなご意見を頂くとありがたく思うのです(私の場合はその為に投稿すると言ってもいいです)。
で、唐突に句についての想いをば少し。
『有明の 月の残滓に 虹立ちぬ』についてなのですが、「有明の月」というのも「有明の海に見える月」ってのも
あるでしょう?「虹立ちぬ」はレインボーとしての虹もありますが「虹の掛け橋が掛かったようだ」とも読めますよね。
こちら(私)とあちら(あなた)をつなぐ一筋の掛け橋がかかったような(いつかかけることが出来たら良いなぁというような)気持ちですね。そんな気持ちをあらわすとしたら「虹立ちぬ」がいいかなぁと思っていました。
『友逝きし土の匂いや蝉時雨』については、前稿で述べたように「友逝きし」というのが私には言えませんで、
『懐かしき写真の笑顔蝉時雨』なんてのを思い浮かべてしまいます。でもこれでは亡くなったことは伝わりにくい。
うーん、困った(こればっかり^^)。
こういうのをあれこれととっかえひっかえしていますと、あっという間に時間がたってしまいお決まりの亀に
なるって訳です。ほんと、難しいから面白いのですね。
こんにちは。 投稿者:知らず姫 投稿日: 9月28日(日)14時11分13秒
一草宗匠、おひさしぶりです。地震対策なんかでご多忙かもしれないと思ったりしてましたが、少し仕事は落ち着かれたのでしょうか?
↓の文を拝読しました。父も短歌の会で捌き(?)みたいなことをやっているのですが、「いろんな女の人から(小学生〜80歳くらい)ファンレターがきて、おもてになりますこと!」とからかったりしてました。そんなに甘いものじゃなさそうですね。ちょっと反省。
ところで、その感想なのですが、「言葉に対する誠実さ」と「言葉を受取ろうとする他者にたいする誠意」は同じものなのでしょうか?「言葉に対する徹底的な拘り」や「あくまでもおのれの言葉の感性に忠実であろうとする欲求」は非常に利己的なものであり、「言葉を受取ろうとする他者に対する誠意」とは対立要因になりうるのではないかと思ったりします。妥協のない言葉と言葉の真剣勝負の世界となれば、激しい感情的軋轢が生じるでしょうから。ですから、「捌き」をする人を必要とするのではないでしょうか?風狂を「言葉への感性を磨く場」と考えるか、「句を通じての交流の場」と考えるかによって、「言葉」と「言葉を受取ろうとする他者」のどちらにより誠実でなければならないか、変わってくるように思います。
なんといいましょうか。 投稿者:工藤猛 投稿日: 9月28日(日)11時11分11秒
人間の恣意から個人個人の思惟が生まれなくて
各個人は「おのれ」をいきいきと発揮できない。
おのれを束縛するものに「思惟を凍結」させてある種の思いのままに
爆死するのがテロリストだと思う。
さて、テロリストを束ねるものがいるとしたならば彼には爆死しないで
何者かになろうとする強固なおのれの「思惟」がある。状況を受容しつつ
考え抜き状況を出し抜こうとする。
思いは環境(砂漠、大草原、山に住む、川や海辺に住まう)や時代層や
生んでくれた両親やまぐあいの状況(和姦、強姦、熱烈恋愛和合、義務による性交)
も影響されて多用だ。現代では乳幼児や初等教育に習熟した社会でルンペンや
数代にわたるホームレスでないかぎり何らかの公教育やなんらかの公教育以外の
教育やしつけを個人や家庭や世間から受けるようになっている。
逆に言えば「受容」しなければならない「感覚」や「観念」やある種の原則から
湧き出るわきまえていなければ個人に不都合を及ぼしかねない「例外」原則に
満ちすぎたのかもしれない。
言葉の定着はその個人個人にとって感覚的にも思惟的にも難題だ。
自己が生きるに際して「しばりすぎ」と感じたら相互に危険信号を
発しているんだろう。まー、人それぞれだからなんでもありで、かつ
なにがしかの「場での秩序」は軋轢があって当たり前だ。
馴れ合いより100万倍健全な状況だと思うよ。
じゃれあっても群れあっても一時だ。「矛盾」複合体はかってに、
突発的に自然から世の中から世界中から一生懸命生きている個人に
めがけて無慈悲にも殺到する「理不尽」な現代社会だから。
紀元前にエジプトのパピルスに「今頃の若い者は・・・」と記した
親父の嘆きがほほえましい。ほぼ人類3000年前から親の願いとぐちは
同じよ。基本は同じ。生きとしいけるものが生物であれ人間であれミジンコまで
穏やかに生息できる世の中でありたいものだ。
言葉。100万通りの解釈が可能だ。
思い。人類の数だけにゃンこやネズミ、ゴキブリの数だけ何百億通りもあるわなさ。
思いはたぶん永遠に個人にとって「言葉」や「概念」や「思想」をもってしても
しっくりと個人個人に定着しない流動するエネルギーに満ちたカオスのままだろう。
宇宙論で恒常的な変化しない定常空間は存在しないと言う考え方が好きだ。
エネルギーが総体で徐々に減少し死に至る状況かあふれんばかりのありあまる
エネルギーを制御できず自爆(発狂)して、あらゆるものをご破算にして
再出発するイメージは新鮮だった。死滅もしないし発狂もしない。
綱引きでまーまーの以前に比べたらすごしやすい生活を先進国はしている。
光には影がある。影の国にはなりたくないな。民族のエゴだ。
皆様へ/第七募集継続です・その3 投稿者:一草@風狂堂 投稿日: 9月28日(日)09時48分00秒
座は風狂を試みようとする人々から成るものです。言葉によって成立する作品内部の世界とは別のものです。
また言葉を発する者が、もし自ら発する言葉に誠実でなかったとしたら、そこに何が写されているのかいないのか、まるで判別が付かなくなります。つまり言葉の使用そのものが無意味になるでしょう。これは厄介です。そうかどうかの判別は簡単にはつきませんし。
音声や文字としてしか他者には見えない言葉は、至る所に転がっており、ただコピペ(マネ)するだけで、あたかもそのコピペした者自身が発した言葉のようにも見えてますからね。
という次第で、風狂の座においての連衆の最低限の条件として、言葉に対する誠実さ、ということはとりもなおさず、言葉を受取ろうとする他者にたいする誠意、を持とうとする意欲を持っている者、と限定いたします。
その意欲を持ち合せてらっしゃらない方が居ると、座が混乱いたします。これは実際に面と向っての座においての経験的判断でもありあます。
捌きと連衆とは常に会話をしながらでなければ、実のある進行(対話の継続深化)ができません。
以上のことは、もとより私(が捌く連句)の座に限定しての話です。また私は神(絶対存在)ではありませんので、承伏できない方がいらっしゃって当り前でしょう。
座に参集くださるか否かは皆様の恣意判断(自由)によるしかない話で、それはbbsとまったく同じことですね。で同様に、捌きはその中においての絶対権限を保持します。
その条件無しでやるのは今の所、経験的に不可能だからだ、としか言えません。非常に限定された(互いに良く理解しあった)連衆で構成された座においては、相当に絶対権限を行使することなく捌くことも可能だという経験もまたありますが、しかしやはりゼロにはなりません。
と言ったような訳で、結論に飛びますが、gajiさんを風狂の座から破門にしましたが、勿論、あくまで風狂内のこと。それ以外の例えばその風狂を外から見ての論評なども含め、土竜の砂場において彼女がどう行動しようとなんら関係しません。
それは席亭である土竜さんの専権事項です。皆様の誤解無きようお申しそえておきます。
それから、一座するに当って、言葉の使用に長けているいるかどうかとか句の巧拙など一切関係しません。ただ言葉(他者)への誠意のあるなしだけです。
と、まあなんか堅い話が長引いてしまいましたが、ようするに、普通に言葉遊びをして頂ければよいので、何方様もお気軽にご参加ください。
また日本語限定でもありません(但し翻訳も付けてくださいね。捌きが解りませんので)
前句に刺激されて出てきた言葉をリズムに乗せてみて、自分流に簡潔に研ぎ上げる作業を楽しんでみてください。
以下、今までのところを再掲いたします。 風狂堂店主敬白
発句 異国歌祖母の想いを打ち返す 工藤
脇 あまたある忌の一つとて原爆忌 一草
三 むなもと紅く線香花火 地質屋
四 獣坂迷いまぐあい夢朧 工藤
五 季忘れてや生きるおかしみ 一草 (季;とき)
六 爽やかな風が頬をかすめた そよか
第七;募集
ここで面(連)変りとします。短句が二句続いたので、ここは長句(575)。発句気分で。
や、かな、などの切字使用も可とします。
皆様へ/第七募集継続です・その2 投稿者:一草@風狂堂 投稿日: 9月28日(日)09時46分40秒
gajiさんの例で言えば、彼女はもしかしたら彼女なりに、言葉に対する懐疑を徹底してみようと試みているのかもしれない、と私は考えてみました。それは最近のことではありません。
今年の三月に田中荘からここ土竜の砂場へと風狂の場を移した頃からです。
そうした関心から、彼女との両吟連句を試みたりしております。また連句についてのあれこれを解説してみたりしております。勿論それらは、ただ単に彼女の為にした訳ではありません。
ここの読者に向けてだし、私自身の考えの整理の為でもあります。それは今こうして書いていることも全く同様の考えからです。
で彼女が、私の期待とは関係のない所で言葉遊びをしていたからと言って、それを憤っている訳ではありません。彼女はよい機会を提供してくれたのですからね。というより、ホンキートンクな振舞いしかしない彼女の言葉はどういう具合に発せられるのだろうか?ということでの研究サンプルに、私が勝手に彼女を選んだ、と言ってもよいからです。
こと風狂に関することではそういう事でした。
また風狂以外のテーマでの議論相手としてはもう以前に、ドミニョンでのやり取り以来、彼女を見限っていたのですが、今回は議論ではなく、句に対する問い合せ、つまり、どちらが正しいか?ではなく互いにどのように考えどのように言葉を発しているのか?の会話においても、結局彼女とは会話が成立しないことを確認したのでした。
どこかに互いに信頼するものがなければ、言葉を交すことはできません。信頼は、勿論予め確固としてあるものではないですね。互いに疑心暗鬼暗中模索の状態のはずです。
そうした中から会話が立上がる為には、互いに、相手と言葉に対する誠実さや誠意を持つ努力だけは不可欠だと私は考えます。たとえ互いに違う成立ちの言葉を使っていたとしても、互いが誠実に言葉を使っていさえすれば、必ずや翻訳可能になるし通じ合える(共有しえる言葉を発見できる)はずだと考えます。
私は外国語を殆ど解しませんが、しかし同様に、同じ日本語を話す人々との会話においても、言葉の通じなさには、厄介さ、困難さを感じます。そしてたとえわずかでも、どうしたらそれを越えることができるだろうか、と考え試みてみたいと思っています。
そうした表現(芸術を含む)意欲はこと言葉に限ったことではありませんが、ただここは言葉の世界ですので、さし当たり言葉に限定してのことを書いています。
風狂(俳諧)での会話は「句」を軸にして行います。その「句」の中にあっては、虚実妄想嘘戯言、なんでもありです。虚構の世界のよい所です。根拠もなにも必要としませんし、そこでの言葉が、実世界にどういう影響をもたらすかも問われません。
その免責条件を成立させる為のシステム(限定世界)を、風狂(俳諧)と私は呼んでおります。
しかし、勘違いしないで頂きたいのは、それはあくまでも風狂(俳諧)という言葉だけで構築される世界内に限定されたことだと言うことです。つまり、作者とか連衆とか捌きとかという言葉を発する者達の世界とも違う、作品そのものの内部に於いて、です。
小説の中の世界、と同義です。そうすることによって、得体のしれない闇もあるかもしれない人の内面を言葉に移してみることができるかもしれないからです。
皆様へ/第七募集継続です・その1 投稿者:一草@風狂堂 投稿日: 9月28日(日)09時43分49秒
gajiさんの句は採れなくなってしまいました。仕切直しです。
経緯をご存知でない方、もしくは私の決定に得心されない方もいらっしゃるでしょう。
ご質問ご批判ください。出来る限りお応えいたします。勿論gaji さんも構いません。
ここはオープンの議論の場ですから、議論、つまり問い問われ答え答えられ、に意味を見いだす方ならば、どのようなご意見だろうと排除される謂れはありません。
と言っても勿論、私はここの管理者ではありませんで、皆様と同じ客人の一人です。
風狂の座は、席亭(霜月土竜さん)の了解を頂いて、私が開設(というか要するに勝手にそう主張しそう行動しているだけですがね)した「連句の座」です。
ですから今回のように、私が破門したからと言って、このbbsに投稿できなくなるとかと言うことは一切ありません。
「破門」とはただ単に、私が捌く連句においては、連衆の一人とはみなさない、つまり、どのような出句(書込み)があっても連句においてその作者(投稿者)を採用しない、と言うことです。
但し、周辺に出没する「言葉」で面白いものがあれば、何時でも何処でも誰のものでも、写し取って連句の中に取込む、ということをしたりもします。かつてベルナールさんの投稿文からも幾つか頂いた実績(?)があります。以後も同様です。
で、通常はその引用元の投稿者を作者として記録に残すのですが、しかし破門者のものは、仮に引用することがあったとしても、その作者とはみとめない、ということです。
因みに連句においては、著作権という近代的権利も認めません。「本歌取り」を盗作とは言わない道理です。
連句の基本は「座」にあります。通常は一同に会することで座と言いますが、ここでは単に投句するだけで、一座したものとし、連衆と見なします。
「一座すること」はどういうことかと言いますと、仮にそれが一回限り(一期一会)であっても、連衆にはある一つの理念(若しくは目的)が共有されているはずである、という前提にあることを意味します。
「連座する」とは共に責任を分ち合う、ということですね。一揆にしろ謀反にしろ犯罪にしろ。
ここbbsが言葉の世界であるのと全く同じ意味において、風狂の座も、言葉の世界です。
そういう意味で虚の空間に築かれるミクロコスモスです。
そこに衆参する動機はただ一つ、言葉に対する熱意、だろうと私は信じます。もしかしたらフェチと言ってもよいかもしれませんがしかし、けっして盲信はしない、という点は少し違うだろうと思います。
破門いたします 投稿者:一草@風狂堂 投稿日: 9月28日(日)06時45分12秒
gaji さん
>詭弁を弄する言葉を藁う、です。
やっと、セミのションベンというか最後っぺの「言葉」をめっけてきましたね。ご苦労さまです。
無意味に揶揄中傷の言葉を並べ、無意味に「詩のような」言葉を並べ、無意味に言訳し、無意味にコピペで他人を不快にさせ、無意味に嫉妬し、無意味にはしゃぎ回り、無意味に同情してみせ、無意味に同情を引いてみせる。
2年くらいの経験ですが、bbsにおいて貴方ほど無意味に言葉を弄ぶ人は居ませんでしたね。最悪です。
その荒情を蔑み「無意味の人」の称号を贈ります。蔑まれてとても嬉しいでしょう。存分に喜んでくださいね。
まあ、もう今更ですが「有明の・・」にきちんと何かお答いただけたら付けてみよう、風狂においてあなたと一座することを続けてみよう、と思っていたのですが、なにもかも、貴方にとっては「無意味」なようです。
従って結論は表題の通り、風狂の座から破門といたします。
ひとことで、 投稿者:gaji 投稿日: 9月28日(日)05時15分45秒
申し上げれば、
詭弁を弄する言葉を藁う、です。
選択は遁走。あしからず。
では