
遅咲きデビュー、新谷博
新谷は、日本生命から1991年度ドラフト2位で、西武ライオンズに入団した。最初西武は、徳本内野手を指名したのだが重複し、くじの末広島に交渉権。そのため「はずれ2位」で新谷を指名したのであった。新谷は27歳でプロ入りし、プロ1年目には28歳を迎えたため、正直時間はなかった。そんな中での1年目、新谷は28試合に登板し、4勝8敗2セーブと負けが先行したものの防御率は3.31と安定しており、即戦力としての期待に答えることができた。
2年目は24試合に登板して8勝1敗と大活躍。1年目に恵まれなかった勝ち運に恵まれた格好となった。しかし、新谷の真骨頂は3〜5年目である。年齢的には30歳を迎え、ベテランと呼ばれる年齢になりつつあった新谷は、この94〜96年に3年連続二ケタ勝利をマーク。特に94年は、抑えも兼任し10勝8敗9セーブという好成績。防御率も2.91と安定し、見事最優秀防御率のタイトルを獲得したのであった。ただ、うがった見方をすれば、この年の新谷の投球回数は130回。当時の規定投球回数ギリギリである。なので、防御率のタイトルを取らせようとして抑えも・・・という見方もできなくはない。
97年以降、新谷は若手の台頭もあり登板機会がだんだんと減少。97年は17試合(2勝2敗)、98年は復調の兆しを見せたが(23試合、5勝8敗)、99年はわずか2試合の登板しかできず、翌年日本ハムに移籍した。新天地に、全てをかけたのだ。
新天地での1年目、新谷は先発をいうよりは個人的には中継ぎの印象が強かった。28試合に登板して3勝3敗。しかし防御率は4.97と安定感に欠け、首脳陣の信頼を得るまでにはいかなかったように思う。その証拠に(?)翌年は17試合に登板しかできず、オフに引退したのであった。ちなみに02年は、日ハムのコーチに就任した。
新谷博の1軍通算成績
238試合登板。54勝47敗14セーブ、918.1/3回、
セットアッパー、島崎毅
島崎は、NTT北海道から1991年度ドラフト4位で、日本ハムファイターズに入団した。勿論球団は即戦力として期待したのだが、92〜94年までは今ひとつ成績は残せなかった。ルーキーの年である92年に、14試合に登板したものの、防御率は7.13と散々で、それから94年までは全くといって良いほど1軍の試合に登板することはなかった。
しかし島崎はここから本領を発揮する。95年、51試合に登板して9勝7敗3セーブ。防御率2.00と、抜群の安定感を発揮。今までパッとしなかった島崎がこの年から、押しも押されもせぬセットアッパーへと成長したのだ。これで首脳陣が全幅の信頼を寄せるようになり、よく年も54試合に登板して5勝4敗14セーブ、防御率2.31と大活躍。パ・リーグの初代ホールド王に輝いたのであった。
97年も、防御率は3.98と悪くなったものの49試合に登板して6勝7敗11セーブ。98年は登板機会が半減し23試合の当番にとどまったものの、防御率は3.05とまずまずだったのだが、島崎は翌年中日に移籍する。ここからは、今までの登板過多がたたり島崎は全く表舞台に出てこなくなってしまう。移籍一年目の99年こそ5試合に登板したものの、このあとは全く登板せず、01年は心機一転広島に移籍したものの、結局登板機会はなく、オフに引退したのであった。02年は新谷と同じく日ハムのコーチに就任している。
島崎毅の1軍通算成績
197試合登板。20勝19敗28セーブ、265.2/3回、エリート、大久保秀昭
大久保は日本石油から1996年度ドラフト6位で、近鉄バファローズ(現大阪近鉄バファローズ)に入団した。大久保は社会人時代は都市対抗野球で優勝し、オリンピックにも出場と、まさにエリートコースを歩んでいた。そのため、27歳という遅いプロ入りで、ドラフト6位指名にもかかわらず、契約金、年俸ともにドラフト1位クラスだった。
期待された1年目は1軍出場はかなわなかった。2年目も28試合にしか出場できず、即戦力の期待を大きく裏切った。99年には主に代打で56試合に出場し、18安打を放ち打率も.306と活躍したのだが、際立った活躍はこれくらいで、そのあとは目立たずに01年オフに引退した。
球団は、その後(引退後)のことも考えて入団させたのだと思う。その証拠に、今(02年)は近鉄のフロントとして頑張っている。もしかしたら、そちらの方が大久保にとっては「適材適所」かもしれない・・・。
大久保秀昭の1軍通算成績
83試合、95打数22安打、2二塁打、1三塁打、2本塁打、11打点。打率.232。