釈迦からのメッセージ(1)



  真の御父母様へ

  文鮮明先生に、お捧げします。

 貴き先生から賜った恩恵に心より感謝を申し上げられる機会をいただきまして、この上なき喜びです。

 私は釈迦でございます。

 地上で師の道理を果たせなかったにもかかわらず、私はこのように大きな恩恵を何の条件もなしに受けました。現在私はとても申し訳ない限りです。しかも一人の女性と縁を結んでくださり、この恩恵に何をもって報いることができましょうか? 今後私は、文鮮明先生が願われる真の愛の家庭理想を実現することを誓います。しかし、私はこの瞬間、とてもおそれ多く存じます。何の条件も理由もなく大いなる愛と恩恵を受けたという事実がおそれ多いのです。

 私は李相軒先生より、祝福の価値に関して、少なからぬ説明を聞きましたが、李先生のみ言の内容すべてを、いまだに100パーセント理解することができません。しかし神様の立場から見れば、釈迦の地上での生涯は、罪人としての姿でしかないということを認めるしかありません。今後私は李先生からその教えを正しく伝授していただくことに、全身全霊を傾けます。

 また、崔元福(チェーウォンボク)女史は、釈迦という名に突然接して、少なからぬ心的な打撃を受けたのではないかと存じます。釈迦の修行も全面的に誤ったものではありませんが、文鮮明先生の教えがより一層次元の高いものであるとするならば、その教えに従うことが法度ではないかと存じます。

 文鮮明先生! 釈迦は、万民に恵んでくださる真の愛に関して懸命に勉強し、その修行に全身全霊を捧げて励みたいと存じます。

 ありがとうございます。

                                                                                        釈迦  拝

                                                                                −1998.8.13.-

                            出典:「李相軒先生が霊界から送ったメッセージ(3) 人生の果てにゆく道」(成和出版社)より


 真の御父母様、この間玉体無きょうであられることと存じます。真に申し訳ありません。栄進様がこちらに来られたことを私たちは皆歓迎しましたが、父と子の別離は何ものによっても慰労できないということを悟りました。心より許しを乞うものでございます。興進様と栄進様に関してお伝えしたい内容がたくさんあるのですが、朴鍾九先生が興進様と栄進様を補佐しておられるので、私は一つの事実だけお伝えいたします。

 お父様! 真の御父母様!

 私は地上生活で誰よりも多くの人生の苦海を経てきたと思っておりました。その過程で私が悟る内容があったがゆえに、今日の小さな仏教の真理が生まれたのではないかと考えます。しかし、興進様と栄進様は地上で御父母様の血統にお生まれになり、常に栄光の立場で人間の苦難の峠を体験する間もなく、短い生涯を終えてこちらへ来られました。それにもかかわらず、お二人はすべてにおいて慈愛に満ち、凛々しく処理なさいます。真に興進様と栄進様は、さながらすべてにおいて解脱なさった真如です。栄進様は多くを語られません。また栄進様は、興進兄様の難しい事情をすぐに理解されます。こちらでの様々な事情を見て胸が詰まり涙が出るときには、静かに目を閉じて天を仰ぎ、超然と堪えておられます。このお二人の姿の前に、至らぬ釈迦はどうして良いのかわかりません。

 お父様、真の御父母様! 私に何の条件があって祝福してくださったのでしょうか。私はいくら考えてみても祝福を受ける資格はみじんもあるようには思えません。人生の生と死のはざまであえぐ仏教徒たちを、どうすれば正しく立てることができましょうか。それは本当に困難です。原理の内容を聞いて変化してゆくキリスト教徒の姿を、イエス様が報告なさいましたが、地上にいるときから仏教徒たちの生きる姿はキリスト教徒たちの生きる姿とは異なるので、仏教徒たちに原理教育をしても、彼らはキリスト教徒ほどには感動を受けません。このような原因は、私が彼らに人生というものを誤って教えたためだと考え、深く悔いています。

 お父様! 崔元福女史をあまりお叱りにならないで下さい。崔女史があの程度にまで気持ちを変えるまで、少なからぬ努力がありました。そして崔女史の生涯を誰よりもお父様がよくご存じであられます。私はかまいません。釈迦はひたすら恐縮なばかりです。

 こちらでの仏教界の変化は実に微々たるものです。私たちはグループ別に原理を指導しています。いろいろな次元でセミナーを催し、講義もしています。グループ別に伝道もして、日曜日には敬礼式もしながら絶えず努力しています。そうしても仏教徒の変化はキリスト教徒たちの変化のように活発ではありません。仏教徒たちは固陋な考えと思考で一生涯生きてきたがゆえに、その効果がよく現れないようです。

 しかし、私釈迦は率直に申し上げます。釈迦が生前にこのような原理と教理を知っていたとするならば、私の人生行路はあれほど辛いものとはならなかったことでしょう。李相軒先生もその生涯においてお父様に出会って偉大な思想を悟り、地上で内科医をやめて思想家として活動し、こちらに来ても人類の真の父母を証しする、生きた証人になることができました。そして李相軒先生はマリアの話、イエス様の話、そして歴史の方向などを説明しながら子孫たちを訪ねていって救済することもできるようになりました。今日の李相軒先生があるのは、原理と思想、そしてお父様に出会ったからだと私は考えています。

 お父様、釈迦も懸命に努力しています。仏教徒たちを説得する良い方法があれば仰せ付け下さい。私が再び地上人として生まれることさえできるならば、足の裏が磨り減るほど地の果てまでも歩き回って統一原理を伝えます。そして人類のための贖罪の道をひたすらに行きます。今、私は何をどうすればよいものか、もどかしいばかりです。霊界中で火がついたかのように原理講義に努めているのに、私は仏教圏復帰のためにいくら努力してもまだその実績が現れていません。それでも私は興進様と栄進様、お二方によく侍り、指示も受けながらこの身が磨り減るほど努力いたします。

 真の御父母様、ぜひとも玉体を大切になさり、新千年、新年における傘寿(八十歳の誕生日)を心よりお祝い申し上げます。人類の王たる真の御父母様、大いなる宝座で永遠に栄光を享受なさいますことを。

                                       釈迦 拝(1999年12月30日)

                 出典:「李相軒先生が霊界から送ったメッセージ(4) 天上天下の救世主 真の父母」(成和出版社)より


 謹んでごあいさつ申し上げます。

 今回の十月十四日の霊界解放式を契機として、宗教間の境界線を撤廃して下さったことを深く感謝申し上げ、また覚悟と決意を致しております。

 私は、カピラ国の王子として生まれ、本来の名前はシッダッタでした。私は、幼いときから瞑想と思索を好んでいましたが、人生に対して、この上ない懐疑を持っておりました。

 それで、心の中に常に出家修道の志を持つようになり、私のこのような志を知っていた父は、私を捕まえておくための手段として、十九歳のときに、同じシャカ族のコリー城主の姫であるヤソーダラーを妻として結ばせ、二十九歳のときにラーフラという息子をもうけました。

 しかし、私は出家の志を持ち、いつかは宮中生活の華麗さと、父母、妻子の恩恵を整理しようと思っていたのですが、そのときが二十九歳の陰暦二月八日でした。

 私が出家を断行したのは、病気もなく、老いもなく、死もなく、心配、煩悩がなく、汚れなく、最も平穏で幸福な生活を得るためでした。自ら出家を決意し、頭を刈り、服を取り替え、修行者としての苦行の道を行きました。

 当時の有名な修行者であったバカバという苦行主義者に出会い、彼に従って修行しましたが、苦行の矛盾点と、それによっては解脱できないということを悟り、独り森に入って行き、六年間猛烈な苦行を行いました。

 しかし、苦行が生死を抜け出して涅槃(ねはん)に至る道とはならないということを悟り、ネーランジャラー川に行って体を清め、牛飼いの娘、スジャーターから乳がゆを供養されました。若干の気力を回復した後、ウルベーラーという村の近所にある菩提樹の下に座って決心し、”悟りを開けなければ、決してこの場から離れない”と修道を続けました。

 昼夜、修道を続けて四十八日目の早朝、天に明けの明星が昇るのを見ました。そのとき、無我の境地に入っていって被造世界が創造される過程を見るようになり、神様が深いご慈悲で自然万物をつくられ、慈しみ大切にされていることを知りました。

 そのとき、私は、万物の主管主や自然の神秘などを知って、悟りの道を歩むようになりました。しかし、ただそのまま無条件に行ったのではありません。その過程において私は、万物に対する貴さと慈悲を感じるようになり、とりわけ慈悲に対して強く感じました。

 結局、修行を通して人間の生老病死、苦痛の煩悩から抜け出し、根本的本然の解脱の境地に至ることができるということを知るようになりました。

 それは単純な苦行ではなく、神様の創造秩序と法度(はっと)を理解し、神様が願われる慈悲の本質を深く感じ、これを具体化する道であるということを知りました。

 特に、神様が自然万物と衆生を慈悲で抱いていかれるのを見るとき、このような慈悲、すなわち愛の教えが、どれほど重要であるのかということを感じるようになりました。

 ところが、真のご父母様の愛を掘り下げていくと、真のご父母様の真の愛は、慈悲とはあまりにも異なり、根源的で、膨大で、大きく深い愛であるということを感じました。その創造本然の真の愛を、アダムとエバが堕落することによって失ってしまったので、この真の愛を取り戻されるために、真のご父母様があまりにも多くの苦難の道を歩まれたということを知ったとき、私は真のご父母様に対する深い尊敬心を持つようになりました。

 ところが、統一家の食口(シック)たちは、真のご父母様が苦労される路程と、サタンが讒訴(ざんそ)できないように血と汗と涙で苦労されたことを誰よりもよく知り、子女という心情でそれを本当に骨と肉に染み込むように感じなければならないと思うのですが、真のご父母様に関して深く理解している部分があまりにも少ないのが残念です。

 真のご父母様と生活を共にする苦行体恤(たいじゅつ)の道が、どれほど貴重であるのかということを感じなければならないと思いました。 真のご父母様に感謝を申し上げるのは、真の愛に関する教えだけでなく、その真の愛を具体的に成され、また、復帰されるために苦難の道を行かれたその生涯、涙を流して責任を持たれ、人類を代身して、父母として行くべき道を行かれたという点です。 私は、去る一九九六年十二月二十日から、清平(チョンピョン)で韓国と日本の牧会者と四十日修練会を受けたとき、先に『原理』を分析したのではなく、真のご父母様自体に関して知ろうと努力しました。 その過程において、真のご父母様の中には深い真の愛があるということを知るようになり、アダムとエバが堕落して失ってしまった、その愛を取り戻すために血と汗と涙を流され、そのようにして取り戻されたのが真の愛であったということを悟りました。

 それで、苦難の果てに捜し立てられた真の愛と、その真の愛に関する『原理』と、私が教えた慈悲との一致点を捜そうと努力しています。

 私は、家族を捨てて世俗から離れた後、本当にとても多くの苦労をしました。そして、その苦行を通して悟り、体恤した教えを深く体系づけました。それで、今まで生きていた仏教人に対して、私が教えた慈悲に対しても、状況に合わせてさまざまに、そして多様に教えました。

 今、霊界に来て真のご父母様と出会うようになり、神様の真の愛の完成の道を知ったので、それぞれの仏教人たちを立てて、彼らを真のご父母様の真の愛に連結させようと思います。

 そして、具体的に私自身が歩んだ得度(仏門に入って僧となること)の過程とその悟りが、『原理』のみ言を通してより具体化され、真のご父母様に出会うことによって、祝福を受けるようになったという内容を教えてあげながら教育しております。

 ですから、仏教人たちに、私がメシヤであられる真のご父母様を尊敬し、従うようになったということと、なぜ祝福を受けたのかということを証ししております。

 そして、彼らが持っている教理と思想の基台の上で、メシヤ論や再臨論を接ぎ木して、今まで仏教を信じてきた彼らを伝道しようと計画しております。

 さらに今回、十月十四日に真のご父母様を中心として霊界の宗教圏が一つになることができるように、霊界解放に関する行事をされるという真のご父母様の大いなるみ旨を知り、私はとても感動し、希望に満ちております。

 それは、この行事が、今まで現れたすべての宗教の理念を一つに結び、これまで私たちが持っていた理想と思想を、神様の創造目的に合わせていくことができる良い機会として、人類歴史上だれも考えることができない大役事であるからです。

 したがって、私の仏教界は、今回の行事を契機として、これまでもっていた私たちだけの”宗教利己主義”を完全に打破して、宗教圏大連合を推進し、悪魔の残党を完全に退け、神様がこれほど成し遂げようとされ、願われた自由と解放、そして、永遠な平和と統一の世界をつくっていくことにおいて先頭に立ちます。

 そして、私は、地蔵菩薩を訓練部長として立て、すべての仏教信者を教育し、地上と霊界を行き来して、地上の仏教信者たちまで収拾し、真のご父母様の前に導いて差し上げようと思います。

 真のご父母様、いつまでも玉体を大切にされ、ご長寿下さいますように。

                                                                     出典「光言社:ファミリー2000年12月号」 P.57〜60より


 仏教徒と他の宗教人及び地上人に願うこと

 地上の信仰人、とりわけ仏教徒に釈迦の最後の言葉を伝えようと思う。イエス様もおっしゃったが、私たち四大聖人は各宗教の代表者として、人類の平和と救いに心血を注いで努力している。そのことは、地上ではよく理解できないであろう。この霊界にて、私たち四大聖人と聖賢たちは、常に一緒にいてセミナーを開くが、意見の対立や衝突は全くない。私たちが一か所でセミナーをするまで、幾度かの原理教育と修練会を経た。

 私たちが各宗教の責任者であることを考慮すれば、このような場が一朝一夕になせるであろうか? 祈祷して精誠を尽くしながら、幾度か統一原理を分析し検討した後、こうしたセミナーが設けられたのである。私たちはセミナーを通して、一つの家族のように互いに議論するため、宗派的な偏見による葛藤は生じない。そして、こうしたセミナーが進行するたびに神は、美しい花火ときらびやかな光で私たちを包んでくださった。そして、私たちの和気あいあいたる姿を見られて、喜びながら、悠々とその場を後にされる。

 仏教徒よ! イエス様が新約時代にメシヤの使命を背負って来られたという事実を自ら証された。釈迦もそうするほかない。聖書によると、旧約時代と新約時代が過ぎた後、成約時代が到来した。神は一つの時代が過ぎるたびに、新しい人物を中心に摂理を引っ張ってこられた。

 このように、釈迦も当時、神の前に方向は違っても、人類を善行の道に導くため、力を尽くしたのは事実である。ただ、その時代には結婚しないで時を待ち、修行するのが自我完成の近道であっただけである。これは神の前に直接進み出る道でないとしても、相当に価値があったと考える。キリスト教歴史の旧約時代という用語が、仏教徒にはなじみが薄いだろうが、その時代には人類の救いの恩恵がその段階にまで及ぶしかなかったのである。当時の状況から見ると、釈迦の生涯と教えも相当な影響力があったのである。

 仏教徒よ! 今までの皆さんの生が間違っていたというわけではない。当時の釈迦も、イエス様のように人類を善導することに最善を尽くしたのである。ただ、摂理が進みながら、人類を救うメシヤが時代的に変わっただけである。今までの仏教徒の修行の結実を、新しい時代の摂理に接ぎ木してみなさい。統一原理を研究してみなさい。そうすれば、仏教徒たちにも同じ脈が流れる新しい真理が、少なからず発見できるであろう。あまりに固陋たる考えのみに浸らず、新しい真理を受け入れ、私たち仏教徒の真理を新時代の真理に接ぎ木させなさい。そうすれば、素晴らしい自我完成の道がもろもろの仏教徒に展開されると確信する。

 今、この時代には文鮮明先生が皆さんの釈迦仏であり、彌勒仏である。誠心誠意、仏を供養してみなさい。成約時代の新しい彌勒仏とその真理について、排斥の先頭に立つのではなく、真なる仏教徒の人格を示す時であると考える。

 謙遜、冷静にして、人の咎を見ずに、磨きあげてきた様々な仏教徒の慈悲の美徳を表すようにしなさい。真の真理とは何か? 時代によって生きていく人間の方向は、いくらでも変化しうるものである。自然界を眺めてみなさい。神が創造された被造物は、環境によって種類はただあるとしても、大きさと色合いは季節ごとにいくらでも変わるではないか! 人間の本心の声を誰か妨げうるのか? 人間本性の声に従った人間の生活の姿、それ自体は神の前に様々な次元で喜びの対象になりうるのである。

 それゆえ、固陋として一か所にのみ依存しないで、思考の領域を拡げてみなさい。イエス様と釈迦が、兄弟のように過ごすと言えば、皆さん、仏教徒は釈迦を信じないだろう。しかし、それは事実なので、信じるべきでないか?

 神は私たちが一つになって働くことを願われる。イエス様は釈迦をどのように呼ばれると思うか? 常に謙遜で静かな微笑を浮かべて「お釈迦様」と呼ばれる。話が始まると、とても明るい表情を浮かべながら、「そうです」、「そうでしょう」、「そうしましょう」と言われながら、慈愛に満ちた語調で話される。

 仏教徒よ! キリスト教徒よ! 天上で私たちが皆一つになり、平和の世界を成したので、地上でも和合すべきではないか? 新時代の新真理で一つになろう。人類の平和運動に渾身の力を尽くされる文鮮明先生は、成約時代のメシヤであり、彌勒仏であられる。これは四大聖人たちのセミナーにおける一様の結論である。仏教とキリスト教が互いに一つになり、神を解放しよう!

                                                  −2001.4.6.−

       出典:「李相軒先生が霊界から送ったメッセージ(8・9) 四大聖人たちの霊界セミナー」(成和出版社)より