孔子からのメッセージ(2)



 1.人間の興亡盛衰

 人間が地上で一つの世を生きて他界すれば、地上生活はまばたきする間に過ぎ去った歳月として流れてしまう。私たち人間が、地上で生活するとき、自分がどれほど窮屈に生きたか、幸福に生きたか、その姿は様々であろう。しかし、どこの誰がどのように生きようが、その一世代は過ぎ去った生に過ぎない。

 一人の人間がこの世に生まれるときから、興り、亡び、栄え、衰えるのは、彼自身とは関係ないようだが、決してそうではない。そして天地万物の調和と人間とは、切っても切れない密接にして高貴な関係だったのである。したがって、孔子も地上で一つの世を生きた瞬間、瞬間、身の回りのすべての存在に少なからず世話になって生きてきたようである。

 人間は母親のお腹の中からたった独りで生まれる。それなのに、なぜ人間は生まれた瞬間から人の力に依存して生きなければならないのか、なぜ独りで生きていけないのか、そして人間という存在がどこからどのように来たか、事細かに考える必要がある。今日、大部分の人間はこうした自分の本来の姿を考えもしないまま、何の考えもなく、やみくもに生きているのである。地上にはこのように力なく生きている人間が少なくないであろう。

 この世の人々は、孔子をいわゆる「聖人」と呼んでいる。孔子は地上生活で人生について、様々な次元で思案してみた。とりわけ人間の倫理道徳に関わる問題に心血を注いで考えてみた。けれども人間というのは、実に無力で限られた存在であることを悟った。孔子の考えでは到底、手の届かない様々な次元の限界が多く存在した。人間としてそれ以上、考えられない領域があることを悟り、それを実地に体恤してみようと努力した。何より見えない神の存在についてそうであった。

 このメッセージを伝える孔子は、数千年前に地上で肉身をまとって生きた人である。ところが、肉身を持った者が生きられないこの無形世界で、孔子は、あれほどまで渇望してきた「神」に出会った。その後、孔子は神からとてつもない新しい真理を発見し、体験するようになった。そのとき、孔子は地上で聖人という称号を受けたことがあまりにも申し訳なく感じられ、孔子という自らの正体をことごとく否定したい心境だった。

 神は人間の興亡盛衰の主人であられる。孔子は神から、何を教え、何を学び、何を守らなければならないか、新たに悟るようになった。孔子は、地上の生活で数多くの規範を守りながら、規範という垣根の中でぐるぐる回りながら生きた。言うなれば、そうした垣根に縛られて生きていたのである。そうした生活の中でも、孔子にはそれ以上解決できない限界があることを明確に感じた。

 しかし、この無形世界で孔子が出会った神は、すべての規範の垣根から自由を与えてくださった。地上の生活で、あれほどまで孔子自身を縛った規範も、この霊界の神の傍らでは重要ではなく、そうした垣根も必要ではなかった。いかなる限界状況も感じることなく、誰の干渉も受けなかった。あたかも磁石のN極とS極の作用のように、そのまま一定の法度に従い、自由で平和な生活を営むことができた。事実、孔子は地上で生活するとき、数多くの規範の中に閉じ込められて生き、そして、聖人という名前で、人間たちを鉄格子の窓のない監獄のような囲いに閉じ込めておいたと考える。

 人間の興亡盛衰は神と深く関わっているわけである。神の根本の属性を知り、神が共にある者には、厳格な規範も恐ろしい垣根も必要ないと考える。神は、興り、亡び、栄え、衰える方法を一度も孔子にお教えにならなかった。にもかかわらず、神の傍らにさえ行けば、興り、亡び、栄え、衰える方法として、自然にその法度に従い生活するようになる。このような真理は、肉身を持った地上の人間たちに説明するのがとても難しく、説明したとしてもそれを正しく理解できないであろう。しかし、孔子はこのような真理の内容を地上の人間に伝えるしかない。聖人という称号を受けた孔子であるが、無形世界で発見した新しい大真理の前に絶対順応するしかない。

 神とは誰か? このように途方もない大真理を抱いた神の前に、人間の姿は無力で脆弱なばかりである。しかし、神を知らなければならない。神を研究しなければならない。神は天地万物の主人であり、創造主であり、とりわけ人間の前には父母様であることを知り、研究しなければならない。人間が自らの父母様である神を知らずに、どうして大真理を悟ったと言えるだろうか! 神は人間の父母様であるという事実をはっきり知らなければならない。人間が自らの創造主であり、父母様である神に仕えるのは、あまりにも自明の理ではなかろうか。

 それゆえ人間は、自身の父母たる神にかしずく瞬間から心の自由を得ることができる。そして固陋で窮屈な規範の枠から解放されうるのである。私たち人間にとって最も急がれ、切実で、最終的なものがあるならば、それは神が何者であるかをはっきり究明することであろう。

                                                  −2001.2.3.−

 2.神と人間

 私、孔子が、地上で肉身をまとって生きていたとき、生半可に、いい加減に扱ったものは何一つなかった。すべてのことを順理に従い、組織的に治めて徹頭徹尾、計画を立てて生活した。そのような生活を営むことは容易ではなかった。何よりも事物の道理を悟り、自らを整え、治めて、点検することを怠らなかった。そして、計画したことは必ず成就しながら生活したため、他人に遅れを取ることもなかった。そして、人間として備えるべき人格と徳望を啓発するために、常に私自身を厳格に治めることに重点を置いた。それで世の人々は、孔子を聖人の班列に入れているのかもしれない。

 しかし、孔子はここで、神の前に恥ずかしく、申し訳ない気持ちを禁じえない。孔子が自ら地上の生活を顧みるとき、虚しいことこの上ない。孔子が地上で生活するとき、神をよく知って父母様として仕え、無形世界に来たとすれば、神の前に堂々たる子女の姿として現れることができたであろう。また、父子の関係に少しのぎこちなさも感じなかったであろう。

 しかし、肉身をまとって生活するとき、周りに見える物質世界と現実が神よりもっと大きく見えたため、孔子は見えない神に父母様として仕えられなかったようである。厳冬雪寒に吹雪が吹き荒れ、身を切るような寒さが私たち人間を不意に襲うとき、その寒さは肉身にとって苦痛を与えるので、私たち人間は肉身の寒さから逃れるために、可能なかぎり急いで、肉身の救済手段を探すほかないであろう。しかし、そのときに私たち人間は、肉身が寒さに凍えて倒れても、霊魂を治めることを優先して考えなければならない。

 大部分の人間は、自らの霊魂を見つめることをおろそかにして生きていく。人間の肉身は、凍えて生理的作用が中断すれば、物質に還元されてしまう。しかし、肉身を取り巻いている霊魂は、永遠なる世界で永遠に生活するという事実を、私たちは悟らなければならない。それゆえ、吹雪に震える私たちの肉身よりは、私たちの霊魂を急いで救済し、治療するのが当然のことであろう。今まで私たち人間は、自らの霊魂の生活については一様に軽んじて生きてきたようである。

 なぜ、世の人々は孔子を聖人と呼んだのだろうか? ある日、神が孔子に次のように質問なさったことがある。「孔子は地上で肉身をまとって生きたとき、『神に父母様』として仕えて生きたか?」と質問され、「神が孔子ならば、聖人という呼称は辞退したであろう」とおっしゃられた。孔子は神の前に本当に恥ずかしかった。

 孔子がいくら人間に正しく教育して生きたとしても、宇宙の根本的な原理を教えることができなかった。孔子は宇宙の原因者である神については、実に暖昧模糊に紹介してしまった。神について教え、神と人間のはっきりした関係を明らかにした後、神は人間の父母ゆえに、人間は神に仕え侍って生きなければならないという原理を正しく教えなければならなかった。にもかかわらず、それを知らないまま、人間と人間の規範にだけ重きを置いていたのである。ある家庭で長男が弟や妹たちに、様々な生活の方式と礼節をきちんと教え、彼らを将来、立派な人格と徳性を備えた人物に成長させたとしても、彼らの父母をないがしろにし、彼らに父母に仕える礼節を教えなかったと仮定してみなさい。この場合、長男はその父母から孝行息子としての称号を受けるのは難しいであろう。彼は長男ではなく、偽りの父母の働きをした立場に立つようになるので、このことは、彼が父母の前に大変大きな親不孝をしたことでなくして何であろうか。地上の皆さんは、この点についてどのように考えるだろうか?

 神と人間は何か? 「神は神であり、人間は人間である」という考え方と生活様式は、神の前に大きな親不孝をすることであり、神の心をこの上なく悲しませることでなくして何であろうか。神は天地万物の主人であり、人間の創造主であり、人間の父母であられる。

 それでは人間とは何か? 「私」という存在は何か? 「私」という個体は、神の前に子女の位置としてつくられた存在である。神と人間の関係は「父子の関係」である。父子の関係は、切っても切れない宿命的で天倫的に密接した関係を持っているのである。地上生活においても、皆さんの父母が美男美女でも不細工でも、金持ちでも貧乏人でも、学識が豊かでも乏しくても、自らの父母として仕えるのが普遍化された生活の様相ではないか。父母に仕えるのが、どんなに煩わしくて大変でも、それは必ずなすべきことであり、子女はその父母を父母の立場に立てなければならないのである。それが子女たるべき道理であろう。これは古今東西を問わず、地上の人間の普遍的な生活様式に違いない。

 肉身の父母に侍る生活もそうなのに、まして天地万物の創造主であり、主人であられる神に父母として仕えるのは、これ以上、論じる余地がないであろう! 孔子は地上で生活したとき、人々に、「君為臣綱」、「父為子綱」、また「父子育親」や「君臣有義」などを教えたが、神と人間の父子の関係をはっきりと解明できなかった。人類が神に父母様として仕えることが、どうして難しく大変だと言えるだろうか!これはいかなる規範より優先すべき最も重要な規範であり、徳目である。人間は決して神に仕えることを疎かにしてはならない。

 今や私たちは、私たちの永遠なる父母様、神を見いだした。私たちは生活の中で神に仕えて生きなければならない。冬が来れば暖かい所で、夏が来れば涼しい所で、春が来れば青々とした新芽の上で、そして秋が来れば五穀の熟した野原の上で、私たちは皆、豊かで幸福に、私たちの父母様であられる神に、精誠を尽くして仕えるのだという堅い覚悟ができていなければならない。そのような姿勢で生きていく人が、成約時代の真の主人公であろう。皆さんがこのように地上で誠の限りを尽くし、神に仕えて生きていけば、永遠なる無形世界で神にまみえるとき、神は皆さんに、「愛する我が子よ、ついに来たか?」と喜んで迎えてくださるであろう。

 神は人類の父母様であり、人類は神の子女という事実は、いくら強調しても強調し過ぎることはないであろう。私孔子は、地上生活において神の前に取り返しのつかない親不孝をしたことを率直に自白しながら、赦しを乞う心でこのメッセージを地上に送っている。

                                                  −2001.2.4.−

 3.孔子よりましな地上人

 人間は、この世に生まれるとき、その時期をうまく選んで生まれなければならない。これを知るということは、人生の大きな幸運と考える。私の父母は、私孔子を生むために多くの精誠を尽くしたという。

 しかし、孔子の父母がそのように精誠の限りを尽くしたものの、孔子は家門の恩恵も、国家的な恩恵も受け難い環境に生まれた。孔子の父親は、孔子を産んで完全に成長する前に世を去ったかと思えば、母親は、家勢が傾いて、あまりにも貧しく厳しい生活をしたという。ここで私孔子が、家門について語り、当時の魯の国の時代的状況について語るのは、地上の人間が心に留める必要があるからである。

 孔子が地上で生活した当時の家庭的背景と時代的環境は、一方では今日の孔子に導いた良い契機になったと考えることもできる。言い換えれば、当時の時代的環境によって、孔子は神と私たち人間の関係をより近く、そして深く感じるようになったと考えることもできる。早く父親が亡くなったことで、孔子は成長の過程でどんな困難にぶつかってもへこたれず、人間の基本的、根本的な生活を徹底して固守するようになったのである。そうして、卑屈にならず不義に対応しうる習慣を身につけ、天理に合った規範を確立し、それに従った生活をするため、少なからず修養したのである。

 しかし、孔子は人間の根本的な生の方向をはっきり知らなかったため、小さな規範の中に人間を閉じ込め、その中から抜けられないようにしたのである。今、数多くの人間共同体があり、様々な形の宗教団体が整然として存在するが、その中をのぞき見ると、大部分「あることをしてはならない。あることをしなければならない。」という戒律でぎっしり詰まっている。こうした戒律が、人間の生活をかちかちに縛ってしまったようだ。こうした大部分の戒律は、神、あるいは他の神々の存在を設定し、人間生活のために設けられたものである。しかし、こうした限られた戒律の中で人間が生き残るために、もがく過程で、人間の本性がさらに蹂躙されたようである。

 無限で永遠なる神の世界には、そのように恐ろしくて厳格な戒律が必要ではない。神は恐ろしい垣根や囲いのような戒律で人間を縛っておかなかった。それは、神が何よりも愛の存在であるからである。言い換えれば、人間は、規範的な存在である前に愛の存在だからである。人間は神の子女であるから、神の懐の中で共に楽しく暮らしさえすれば、そのまま自由で、嬉しく、楽しく幸福になるのである。人間は、このように心の自由天地を感じながら生活するようになっていた。

 にもかかわらず、人間は地上生活で様々な形態の戒律や規範に縛られ生きていく。それが今、こちらではどれほど虚しく感じられるか…。孔子には、聖人という呼称があまりにも重く感じられる。ただそのまま神の子女という呼称が、どれほど美しく高貴で崇高な名であろうか!

 いくら良い環境に巡り会えたとしても、何をするのか? 肉身のための豊かさは、地上で生活するときだけ重要なことであり、永遠なる無形世界、神がおられるここでは、それがむしろ害となり、荷物となりうるのである。ここでの「良い環境」とは、物質的な繁栄と豊かさを享受する状況を意味するのではなく、神が私たち人類の父母様であることを悟らせうる時代的状況を意味するのである。

 孔子は今から約2500年前、地上に「少しの間」とどまって、ここに来た人である。地上で70年余り生きたが、孔子が少しの間と表現するのを、皆さんはよく理解できないであろう。しかし、永遠なる世界から見れば、その期間というのは少しの間、経由したのと違いない。地上で少しの間とどまって、この最終目的地に到達したのである。このように地上生活は、しばし通り過ぎる期間である。

 孔子は、地上生活で神に父母として仕えることができず、この無形世界に来た。今や皆さんは、地上にとどまりながら、神に皆さんの父母様として仕え、神の教えを受けながら生活できるようになった。これは天官史的な意味を持つ、途方もない幸運なのである。皆さんが地上生活で神に父母様として仕え、生きて行けば、それがほかでもない「聖人」になるのである。大部分の地上の人間たちは、この事実を知らずにいる。実に惜しく、気の毒であらざるをえない。

 今や地上の皆さん、とりわけ儒教徒は、孔子の聖人という呼称を羨んで生きる必要がないのである。地上のいかなる人間も、孔子より幸福に生きることのできる時代的な環境が到来しているからである。

 数多くの地上人たちよ、皆さんは肉身を持った者として、地上の恵まれた時代を迎えられるという事実に感謝しなさい! 儒教の経書の中で、神に皆さんの父母様として仕えて生きよという教えは、いくら探しても見つからないであろう。

 皆さんの真の御父母様とともに永生できる真に美しい世界であるこの無形世界が、皆さんを待っている。限られた空間である地上生活とは到底比較することのできない、美しくも幸福な世界が皆さんを待っている。このように美しく恍惚として華麗なる世界は、皆さんの宮殿であり、生活の巣である。皆さんは一人残らず、ここに来て、皆さんの父母様であられる神に仕えて生きることを切に願うものである。

 事実、私たち人間の父母様として神に仕えて生きるのは、戒律ではなく、拘束的な規範でも、囲いでもない。地上生活で父母と子女が一緒に暮らさなければならないように、神と人類も一つの家庭で一緒に話し、寝て、食事しながら生きなければならない。今日、人類がそのようにするならば、美しい園で神の瞳の色だけ眺めても、永遠に幸福に生きていけるであろう。

 今日の地上の人間は、孔子よりはるかに良い環境の中で、時代的な恩恵を享受して、幸福かつ自由に生きていける。このように貴重で充ち足りた地上生活に感謝しながら、皆さんは永遠なる父母様として神に仕えることに最善を尽くすよう、孔子は切に願うものである。

                                                  −2001.2.7.−

 4.本郷人と堕落人

 神が人間を創造されるとき、今日、私たち人間が生きているこのような現実的な姿としては創造されなかった。今、私たち人間は、生きていく方向も目的も、そして復帰されるべき基準も知らずに生きている。そして、私たちはどこから来て、なぜ生きるのかも知らないので、おおむね肉身の安息と豊かさだけを熱心に追求し、一生涯を生きるのみである。

 この「堕落人」とは何か? 人間は罪を犯さずに一生懸命に生きていくのに、なぜ堕落という術語が出てきたのか? 大部分の人間は、これを知らずに生きている。一般的に「堕落」とは、平凡な生活をする人間が、酒を飲んで放蕩して、自分勝手に生きていくことを意味する。そういう先入観を持っている人が少なくないはずである。しかし、ここで言う堕落は、それとは別の意味を持つ。簡単に言えば、人間は神が構想された本然の人間の姿として完成する前に、人間の成長過程で愛の原理的軌道から離脱した。これが人間の堕落である。

 これにより私たち人類は、堕落の子孫となり、原罪を持って生まれるようになったのである。いくら善良で、正しく、義に徹して生きた聖人君子だとしても、彼らの血統の中には一様に原罪が流れている。私たち人類は、誰もが例外なく、堕落の血筋と原罪を持って今日まで生きてきたのである。それゆえ、この原罪の清算、すなわち血統転換の問題が、人類の厳然たる現実的課題として残るようになった。これは、現代の儒教徒には、あまりにも荒唐無稽な話に聞こえるかもしれないが、はっきりとした歴史的事実である。儒教徒は、これを深く研究しなければならない。孔子も、この無形世界で、初めでこのような事実を悟った。

 それでは、どうすれば堕落の血統を神の血統に転換し、原罪を清算することができるのか? これが不可能ならば、人類の救いも全くもって不可能である。そして、私たち人間は、永遠に神と共に楽しく暮らすことができず、神と父子の関係も定まらず、したがって、人間と神の悲しみと苦痛の歴史が継続するであろう。

 それで、長い歳月をかけて、神はこうした問題を解決するために、各時代に摂理的な中心人物を立て、罪悪人間を救う摂理を導いてこられたのである。そのような待ちに待った歴史が、6千年の人類歴史であった。各時代に中心人物を遣わし、血統転換を準備したが、人間たちはその事実を知らなかったのである。神は、そのような一日、人類の血統を転換しうる一日を待ち焦がれ、今日まで復帰摂理を導かれながら、数多くの涙と、肉を切り、骨を削る痛みに耐えてこられたのである。

 今日まで流れきた長い歴史の中で、神は一瞬にして片付けてしまいたい罪悪人間を数えきれないほど眺めて待たれ、血統的な聖別の基盤を探してこられたのである。そのような血統的な基台の上に、中心人物を立て、そのお方を通じて人類を原罪のない血統に転換させるために導いてこられたのが神の復帰摂理歴史だったのである。

 皆さんは、聖書を通してイエス様の降臨の際、イエス様を迎えるために数多くの血統を転換した事実(これは儒教徒にはなじみが薄いだろうが)を伺うことができるのである。神は人類歴史の背後で、数多くの迂余曲折を経ながら、メシヤを迎えるための摂理を導いてこられた。

 そうした摂理的な勝利の基台の上で、旧約時代に人類がイエス様を迎えることができたのである。このように、罪悪人間を救うための神の摂理的な総結実体として、イエス様が旧約時代に降臨なされたが、イエス様は哀れなことに十字架に亡くなられてしまった。これで、人類はイエス様の十字架の代願により、部分的な救い(霊的救い)しか受けられなかったので、人類の救いのための新しい摂理的中心人物を待つほかなかった。

 それで、イエス様以降、人類は再臨のメシヤを願うようになったのである。人類が願ってきたメシヤは、ほかならぬ文鮮明先生であられる。そのお方は、神が長い歳月をかけて、血統を分別し、聖別して準備した後、私たち人間の救世主として遣わされた方である。それゆえ、私たち人間が原罪を清算し、血統を転換するためには、神が遣わされたメシヤを通さなければならない。そうしてこそ、初めて本然の人間の姿に回復することができるのである。

 そして、人間は生まれるときから受け継いだ原罪を清算しなくては、本然の人間の立場に立つことができない。人類がこうした原罪を清算するには、メシヤたる文鮮明先生を通して重生、すなわち生まれ変わらなければならない。

 重生の条件は、メシヤ(救世主)を主礼として迎え、再び祝福(結婚)を受けることである。それが原罪を清算する最終的な方法である。人類にはこうした原罪清算という歴史的な課題が残っていたのである。このような過程をたどるとき、初めて人類は神の前に直接進み出ることができ、本然の人間の姿として完成することができるのである。

 地上の人間には、これが大変おかしな誰弁に聞こえるであろう。しかし、神と共に生きるこの無形世界の四大聖人と聖賢たちも、この真理の前に絶対従順、絶対服従の道を歩んでいる。これは、決して言危弁ではなく、真理の申の真理であるため、皆さんは深く考えてみなければならないのである。これをないがしろにし、無視したまま地上の生涯を終えて、この無形世界に来て後悔することが決してないように願う。

 新しい真理は、伝統的な視覚で判断すれば詭弁に聞こえる場合がしばしばあるではないか。そうであっても真理は永遠であるから、地上の人間たちはこれを肝に銘じて、地上生活を通してメシヤを迎える姿勢を確立するよう、孔子は切に願うものである。

                                                  −2001.2.7.−

 5.驚くべき大真理

 孔子が生まれた時代と今の時代は、様々な次元で確然と区別されるほど変化した。国ごとに大統領がいて、国王がいて、首相がいて、民をうまく導いて生きているが、彼らの大部分は外的に民をうまく治めて和合するための体制上の指導者に過ぎず、人間の内面世界まで導く精神的な指導者ではないのである。孔子が生まれた時代と環境も同様であった。国運の流れによって、大部分の民はもっぱら衣食住の生活、すなわち肉身が生きていくための生活を追求するほかなかった。

 しかし、人間は生まれながらにして、外的な生理現象に依存したり、衣食住だけ追求したりして生きるように創造されなかったため、我知らず常に内的、精神的、潜在意識を呼び覚ます真の指導者を渇望しながら生きてきたのである。孔子が生まれた時代も、貧困と戦わなければならない苦痛の時代であった。それで当時、大部分の人たちは肉身の空腹と貧困を解決するための生活が主流をなした。人間において、こうした外的な問題が解決すれば、平和で幸福に生きられるかのように思えるが、そうではなかった。人間の内面世界に潜在する無限なる原動力が表出されないまま、うねっていることを孔子は悟った。

 人間は、それが人間生活の前面に現実化されることを願っていたが、そうできずに生きた。孔子は、空腹を克服することよりも、内面世界の原動力を現実化することが、甲斐のある、価値ある生活であり、それが真理の生であると考えた。人間において、豊かな衣食住の生活よりは、道徳的、倫理的な生活がより重要で切実であると考えた。こうした道徳的、倫理的な生活は、造物主が人間に与えられた人間本然の崇高な生活であり、それが他の動物の生活と区別されるものであろう。

 人間がこれを感じられず、生理的な欲求によって生きるなら、動物と何ら変わるところがない。それゆえ、私たち人間は、人間にこのように高貴で崇高な本性を賦与された造物主に、常に感謝して生きるべきである。人間世界で倫理と道徳の生活が軽視されれば、四つ足の獣や家畜、その他の動物と何ら変わる所がないであろう。人間が規範的な生活を営みながら、衣食住の問題を克服するならば、徳のある人の姿として完成するであろう。外的な国運の流れによって、衣食住を追求する生活よりは、人間の内面世界の原動力を追求する生活が、人間本然の姿であり、そうした人たちの瞳の輝きからは、強烈な生動感を発見することができるであろう。

 こうした前提のもとに、孔子は見えない神の力に依存して、神を探し始め、それが動機となって儒教という新しい教えを人間に教示したのである。人間は神がいかなる存在であるか知らないが、生まれながらにして神を求めようとする本性を持っているのである。本然の人間は、神と共に生活しながら、神の指導を受けるようになっていた。ところが、孔子は神の姿をはっきり見いだせないまま、いくつかの次元の規範だけを人間に教えてきたのである。そうした規範が、どのような存在の力によって啓示されたものか、孔子は知らなかった。

 ここに来て真に高貴なる真理の前に、孔子は粛然となるほかなった。ある日、神の光彩がきらびやかに照らしてきた。周りにいる人たちはすべて、その光彩の中で、誰も教えないのに、静かに起きて、とても謙遜で明るく澄んだ表情で、神に敬拝を捧げていた。このようなことが幾度か続いた。そのたびに、彼らの姿態がいかに美しく崇高であるか、その姿を言葉で表現することができなかった。

 ところが、孔子は地上で生活するとき、このような法度を一般人に逐一教えてあげたのである。しかし、こちらでは誰も彼らにそうした法度を教えることもなく、彼らのうち誰も儒教の教えを受けた人はいなかった。それにもかかわらず、彼らは」様に美しい姿をしていた。むしろ地上で孔子が教えた姿より、はるかに美しく、高潔で、品位ある姿態を表わした。それが可能だということなのか!孔子は彼らの挙動と生活の態度を見て、あまりにも羨ましかった。

 孔子は人間に内在する人間本性の原因者を解明できないまま、もっぱら人間生活の規範だけを教えてきたため、神の前に騎慢な姿を自らさらしたのである。ここで神の姿にまみえてみると、孔子が教えた人間の規範などなんでもなかった。ただ神の大真理の前に一つになって生きていきさえすれば、人間のすべての姿態は本然の姿へと戻ることができるのである。私たち人間の本性の中に潜在してる崇高な性稟は、神が人間を創造なさるとき、人間に与えてくださったものである。

 しかし、神と人間の愛の関係が断絶することにより、それが人間生活の前面に現実化できなかったのである。神と共に生きるようになれば、厳格で恐ろしい規範の垣根に拘束されなくても、平和で幸福に生きることができるため、皆さんは地上の規範の奴隷にならないよう願うものである。

                                                  −2001.2.12.−

 6.生死禍福

 人が生きていく上で、生死禍福は誰もが体験するものである。ところが「生」と「死」と「禍」と「福」の根源が問題なのである。ある人は禍に遭っても、とても前向きにうまく越えていくかと思えば、ある人は常に大変幸せであるにもかかわらず、常に悩みと心配の中から抜け出せなかったりする。

 ならば、私たち人間は、地上で生きていく間、生死禍福から解放されえないのか?人間は創造の当初から福を受けることもでき、禍を被ることもでき、生まれたからには死ぬこともあるのである。これが人間の地上生活である。こうした岐路に立っている人間の生をたどってみよう。

 人間が生きる目的は何か?大部分の人々は生まれたがゆえに、結果として肉身の欲望に従って生きていくのだと考えるであろう。肉身を失えば霊魂が、どこで、どのように生活するかを考えて生きる人は、それほど多くないはずである。

 ここで孔子は、地上で生きていたときのことを考えてみる。孔子は、貧困と疾病の苦痛は、肉身を持ったがゆえに、やむを得ず受けなければならないと考えたが、地上生活を終えた後、どこで何をどのようにするかについては、考えることさえできなかった。孔子は、肉身が老衰して地上生活を終え、無形世界に来たとき、私が生きているのか、死んでいるのか、そしてなぜ孔子の見だしなみがこうも変わったのかなど到底、知るすべがなかった。

 こちらの他の人たちは、一様に熱心に活動して生きているが、孔子は身の周りが整理されておらず、とてもうろたえた。そうかと言って、あちこち尋ねてみるわけにもいかなかった。それは事実、孔子のもの静かな体面を取り繕うためだった。孔子は、数日、数週間、道をずっと歩いて行き、おかしなものを発見した。地上生活では、めったに経験できないほど華麗できらびやかな身なりをした人が、孔子の前に現れて「こちらへ行きなさい。あちらへ行きなさい」と命令するのである。

 ところで、彼らはあたかも水車がくるくる回るかのように、とても容易にどこにも妨げなく、平坦な大道に孔子を導いていた。不思議なことに、行けと言うところに行くたびに、瞬時に自動的に扉が順番にサッサッと開き、いくつかの関門を容易に通過することができた。孔子はその後、ある高台に立っていた。ここの数多くの人々は、周りの状況に少しも関心を払わず、自分たちの仕事に忠実に取り組んでいた。

 ここで孔子は、ならず者のように、あちこち見て回っていたが、足にぐにゃぐにゃしたものが引っ掛かるので、たじろいで立ち止まった。それは大きな綿の塊のようなもので、「これは何か?」と触ってみようとした瞬間、その綿の塊が空にさっと上がっていってしまった。それがあまりに珍しく、ずっとそれについて行くと、実に奇妙なことが起こった。その綿の塊のような物体が、はらりと膨らんだかと思うと、辺りがまるで霧に包まれたかのように変わってしまった。孔子は、生まれてこのかた、一度も経験したことのない奇妙な現象の前に、気を確かに持つことができず、呆然としているほかなかった。

 孔子は、すべての威信と体面を無視して、道行く人々を捕まえて聞き始めた。ここはどこで、ここはどこの国か、そして私は、70を過ぎて死んだものと記憶しているのに、なぜここに来ているのかと聞いて回った。周りにいる人々に何度も聞いてみたが、誰も答えてくれなかった。私は、いらいらして、気になって耐えられなかった。時間が経もうろうつにつれ、精神が次第に朦朧としてきて混迷状態になった。なぜこのように不思議なことばかりなのか、知りたくて狂いそうだった。

 何日か経つ間に、様々な側面から孔子自らをじっくり考えてみた。「もしかして、ここは死んで再び暮らすという所ではないか?」と考えてみた。いろいろ考えているうち、華麗な身なりの人物が現れた。彼の身なりを見ると、多少裕福で不自由なく過ごしている人に見えた。孔子は、彼に向かって、ここは地上か、それとも死んだ者が来る所か聞いてみた。ところが、その人の返答がおもしろかった。「あなたは生きていますか、死んでいますか?」と聞くので、「よく分からない」と答えた。彼が自分について来いと言うので、ついて行くと、そこは実に神秘的な所であった。

 様々な人々が食堂にぎっしり座っており、主人はいなかった。食堂の中のいくつかの食卓には、様々な美味しい食べ物が豪華に盛ってあった。どこか一つの席に座ろうと考えると、椅子が突然、孔子の前に現れた。そしてサジを考えると、サジがずっと現れた。何でも考えれば、それが直ちに現れたのである。そこは、あたかも妖術映画館のように感じられた。孔子は、こちらの様々な現象があまりにも異常で、耐えることができなかった。孔子は、こうした環境に適応するのに本当に何日もかかった。

 今日「生死禍福」という主題にしたのは、人間は地上に生きるとき、誰でも例外なしに様々な困難を経験することもあり、時には禍を、時には福を経験しながら生きるようになっているからである。私たちが、はっきり知るべきことは、人問は大部分の場合、平安な立場では、自らの人格と修養と徳を積むことができないという点である。人間は、自らが困難に直面したとき、自らを振り返るのであり、その困難を克服するとき、真なる人格と徳を積むことができるのである。

 そして自分では絶え難い禍に遭うとき、原因の分からない福が訪れるとき、自分自身の本来の姿を発見するよう努力しなさい。そうした中で人間は完成されるのである。禍に遭ったとき、卑屈に対応しないで、福が訪れたときにそれを謙遜に受け、一人で享受しないように。これが地上生活の実になるであろう。人間が、そうした実を持って、入って来る所がまさに無形世界なのである。孔子が無形世界に入って来ても、孔子自身を発見できないのは、地上生活で無形世界の生活のために準備せずに生きたためであり、無形世界についての知識が十分でなかったためである。

 人間は自らの固有の来世を持っている。それゆえ、生死禍福の根源地は無形世界であり、地上生活をするとき、生死禍福をうまく治めて、しっかり受け入れなさい。そうして、永遠なる居所に入るとき、すべての関門を容易に通過するよう願う。

 孔子は、卑屈な人生を送ることのないよう、とても努力したが、来世について深く関心を持つことができず、来世のために十分に準備することができず、来世の生活を経験することができずに生きた。地上の皆さんは、皆さんの来世が明らかにあることを肝に銘じて、永遠なるこの無形世界で、孔子のようにさまようことがないことを願う。

                                                 −2001.2.13.−

 7.天国という所

 この世の人々が言う天国という所は、一体どんな所か? 天国は誰が創った所なのか?誰も行ったことがないにもかかわらず、なぜすべての人々はそこを願って生きるのか?

 孔子が地上で生活するとき、豊かに暮らせば天国に行くということを聞いたことはなかったが、「天国のような所があるはず」という予感が、孔子の胸の中で常にこだましていた。孔子の生活において、誤った行き方をすれば心が平安ではなかった。また、誤った道を行ってはならないという、心の声と指示が常に聞こえてきた。孔子は神に仕えた経験もなく、神に対して崇め奉る一抹の意識もなかった。ところが心の声、心の指示が孔子を自分勝手に生きるのを許さなかった。

 これはどういう意味か?人間は生まれながらにして、神から普遍的真理を悟ることのできる理性を与えられた。それが大切なのである。人間は神を信じようが、全然信じまいが、神からこのような理性を公平に与えられたのである。それが自分のもらったタラントである。これはどれほどありがたいことか!人間を創造された造物主、すなわち創造主が、貧富の髪も、学閥の違いも、人種の差別もせず、私たちすべてに何の偏見もなく、一様に分け与えられたのが人間の本性である。人間の理性は、利已的な性向を帯びる傾向にあるが、人間の本性は全的に利他的な性向を帯びる。人間は本性によって生きるように創造されたのである。

 ところが、人間は自身の生活環境によって、創造主が与えられた高貴で崇高なるその本性を曇らせることが少なくない。しかし、人間の内面の根底に敷かれた本性は、常にその場で変わらずにいる。あたかも純金が、火の中で赤々と燃えても、取り出してみればその原色が変わらないように、創造主が与えられた人間の本然の色合いは、変わりえないのである。なぜそうなのか?人間本性の基地は、まさに天国であるからである。人間は本性の声、本性の指示、本性の方向に従って、地上で生きた後、本性の終着地、すなわち本郷なる天国に来るようになっているのである。

 大部分の地上の人間は、肉身の奴隷となって生きているが、そういう生活の中でも、内面から聞こえてくる本性の声とこだまとのゆえに、すなわち、肉身の足かせによってどうにもならず、じだんだを踏みながらも、罪を犯さないで、生かそうとするこだまの怒号のゆえに、もう少し善良で義に徹して生きてみようと努力するのである。もし私たち人間にこうした心の揺らぎさえ無ければ、地上生活は今よりはるかに邪悪で恐ろしい地獄の天地になったであろう。しかし、現実の人間にいまだ希望があり、願いがあるのは、神が与えられた本性が人間の心の中に厳然として存在するからである。

 宗教とは何か?それは肉身の安逸より、来世の霊魂の慰安を準備するものであり、自身の徳性を練って、ついには天国の基地に安着するものである。私たち人間は、生まれながらにして、誤った血統を受けて神から遠い所にいた。しかし、神は私たち人間とは離れられない、辛抱強く、粘り強い情を抱いておられる。それが本性の声であり、本性の指示なのである。それゆえ、神は「あなたは私から離れてもむやみに生きるな。罪を犯さず生きなければならない」と言われたのである。神が私たちに下さった神の根本属性と創造の本性は不変である。現実の人間において、神の創造の本性が変わり、神の属性まで消えてしまうならば、私たち人間は決して永遠なる天国基地に到達できないであろう。

 それでは、天国とはいったい何か?どんな所か?天国とは文字どおり天の国である。ここは神が、私たち人間に下さった根本的な属性と本性をそのまま発現し、神の指示と方向とみ言に従い、生きていく所である。人間が、本性の声に従って生きれば、常に幸福と平和を感じるはずである。神の本性、それはひたすら為に生きようとする精神であるため、どこであれ常に平和と幸福が宿るようになるのである。

 人間は、誰しも天国を所有しうる本性を持っている。それゆえ、神の本性のとおり生きていく人は、誰でも天国を所有することができるのであり、自らの欲望から抜け出せない人は、天国から遠くにとどまるようになっているのである。人間は自身の利已的な欲望から、自らを解放しなければならず、神の本性により利已的な欲望を主管しなければならない。人間は本来、神が与えられた本性をよく育み整えて、本郷の地、天国で神と共に生きるようになっていた。

 それゆえ、地上の皆さんは本性に従った生活を営んだ後、この神の園で永遠なる平和と幸福を享受し、神と共に楽しく暮らすよう願う。そして、そうした神のみ旨、創造主のみ旨を忘れる地上人が一人もいないように切に願うものである。これが孔子の切実な願いである。

                                                  −2001.2.14.−

 8.救いとは

 救いとは、簡単に言えば「救ってあげること」である。私たちがある困難に瀕したとき、しばしば救ってくれ、助けてくれと言うであろう。救いとは、宗教人、非宗教人を問わず、誰にでも必要なものである。なぜ救いという名詞が出てきたのか?孔子は地上で生活するとき、信仰を持たなかった。そうかと言って救いの観が無かったわけでもない。

 人間は宗教人でも非宗教人でも、常に不足した状態、何か満たされない状態、不完全な状態、すなわち未完成の存在であることを常に感じて生きていく。人間には不完全な状態から、より完全になることを願う心が、常に存在している。自身の生活の中で何かが自分の思いどおりいかなかったとき、限られた未熟な自身の姿から抜け出そうとする心があるのである。人間は自身の完全な価値が何か知らないが、それを常に追求して期待し、願いながら生きている。そうした欲望が、私たち人間の心の中に常に潜在しているのである。

 それでは、困難にあるとき、自分を助けてほしいという一般的な意味の救いを離れて、根本的な側面から考えてみよう。人間において、何かがこれ以上満たせないほど詰まっているので、自分には何も必要ないと満足する人は、ほとんどいないであろう。何かがいくらぎっしり詰まっていても、私たち人間はもっと願い、熱望する心を常に抱いて生きていくのである。ただ、外的にそうでないように振る舞い、生きているだけである。

 しかし、人間は危機に直面すれば、常に自らの限られた姿のほかに、他のある存在に依存して崇め奉ろうとする本性があることを知る。なぜ、人間は自分独りで生きられず、他の存在に依存しようとする本性を持っているのか?人間ならば誰でも、このような本性を基本的に所有しているようである。

 神が人間を創造されるとき「なぜ、人間の姿(心)をこのように創造されたのか?」という疑問も皆さんの間で生じるはずである。ここで私たちは考えてみることがある。入院患者は、入院している間、医師の手が必要である。しかし、その病気が完治して退院した後には、医師の助けなしに、健康に生きていける。

 それではなぜ、私たち人間に救いという用語が必要なのか?これが問題の要因である。人間はある助けが必要なように創造されたのである。現実的な人間の属性を分析してみると、そこには救いの要素が潜在している。それが絶対者を求める精神である。このように絶対者を追求する本性を、すべての人間が一様に持っているにもかかわらず、なぜ私たちはそのように生きられず、そのようにできないのか?それは人間先祖が創造された後、その成長過程で神が許諾されない非原理圏に堕落したからである。これにより、その子孫は人間先祖の原罪を清算する前に、創造主、神の前に直接進み出られない罪人になってしまった。人間先祖の原罪は、血統と関わっているので、これを解決するためのすべての条件を、人間自ら立てることができない。神が定められた特定の人物が現れて、人間の先祖の原罪を清算しなければならない。神はいくつかの世代を通して、人間の血統を分別して特定の人物を選択なさる。その特定の人物の選定は、神の固有の権限である。

 そして、神によって特別に選ばれた人物は、人間の先祖の堕落した状態を本然の状態に再び戻すための様々な蕩減条件を立てなければならない。その後、その方は神の前に原罪のなかった人間の先祖アダムの立場で、すべての人類に神の血統を伝授するための様々な条件を立てる。そうして、その方は人類を罪悪から救い、神の国を建設し、神を天官の王として即位させ、人類の永遠なる父母として私たちが神に仕えて生きていけるようになさる。

 したがって、世界人類は神を迎えた中で、神の主礼による結婚式(祝福式)を挙げるとき、初めて永遠なる神の血統を伝授することができるのである。言い換えれば、人間の先祖の堕落により汚れた偽りの血統が、神の血統に転換されるとき、人類が救われるのである。これがまさに祝福を通した人類の救いである。それでは、このように人類を救える、神が定められた特定の人物とは誰か?その方がまさに文鮮明先生であり、人間のメシヤ、救世主、再臨主なのである。

                                                  −2001.2.16.−

 9.メシヤと救世主

 メシヤと救世主という用語は、現代人には聞きなれた言葉である。人間は地上生活をしながら、常に完成の姿に向けて前進している。しかし、人間が発展するためには、自分より優れた指導者がいなく下は、前進も発展もすることはできないであろう。そして、人間の真なる発展は、人間の外的姿の発展よりは、内的姿の発展を意味する。そして、内的発展の基準は、神が願う人間完成の基準がその前提となっている。すなわち、神の人間創造理想の完成を意味するのである。

 周知の通り、人間は生まれながらにして原罪を持っていた。そして、神の願う人間の基準は、罪なき本来の姿として進んで行くためのものである。ここで私たちは、私たち自らの現実的な姿を正確に把握しなければならない。私孔子は罪を犯さないで、常に善良で義に徹して生きるよう努力した。孔子の父母は、一生をかけて精誠を尽くして、人のために献身と奉仕の生活を送ってきた。孔子はそういう父母の子女として生まれたが、なぜ原罪を持っているのか?これは人間の悔しい事情ではあるが、人間に共通した現実である。これはある一人の個人の罪ではなく、人間先祖の血統の罪である。簡単に言えば、人類の先祖アダムとエバの血統的な罪なので、その後孫は無念にも原罪を持った存在となってしまったのである。

 この部分は、統一教会の『原理講論』の堕落論「罪の根」に詳しくはっきりと説明されているので、参考にするよう願う。人類の直系先祖たるアダムとエバが犯した罪は、当然ながらその後孫がその罪を血統的に蕩減しなければならない。それなら、誤った血統を正すためには、人間には突破口が必要であろう。数千年の歴史が流れて、人類は罪悪の種を清算できないまま、罪悪の血統だけを引き続き繁殖したのである。そうした人間が、今日も地上に並ぶように生きているのである。

 では、神はこのような人間の現実を見ておられるだけだったか?長い歳月の間、神は何をなさっておられたのか?ここで私たちは、神の心情を推し量ってみるべきである。一世代が過ぎ去り、また一世代が到来するたびに、神は新しい中心人物を立て、その中心人物を通して神の創造理想世界の夢を展開しようと、復帰摂理を導いてこられた。このような摂理的導きの過程で、新約時代に至り、中心人物としてイエス様が顕現なさった。しかし、当時のユダヤの民がイエス様を不信し続けたことで、イエス様は十字るのか?これは人間の悔しい事情ではあるが、人間に共通した現実である。これはある一人の個人の罪ではなく、人間先祖の血統の罪である。簡単に言えば、人類の先祖アダムとエバの血統的な罪なので、その後孫は無念にも原罪を持った存在となってしまったのである。

 この部分は、統一教会の『原理講論』の堕落論「罪の根」に詳しくはっきりと説明されているので、参考にするよう願う。人類の直系先祖たるアダムとエバが犯した罪は、当然ながらその後孫がその罪を血統的に蕩減しなければならない。それなら、誤った血統を正すためには、人間には突破口が必要であろう。数千年の歴史が流れて、人類は罪悪の種を清算できないまま、罪悪の血統だけを引き続き繁殖したのである。そうした人間が、今日も地上に並ぶように生きているのである。

 では、神はこのような人間の現実を見ておられるだけだったか?長い歳月の間、神は何をなさっておられたのか?ここで私たちは、神の心情を推し量ってみるべきである。一世代が過ぎ去り、また一世代が到来するたびに、神は新しい中心人物を立て、その中心人物を通して神の創造理想世界の夢を展開しようと、復帰摂理を導いてこられた。このような摂理的導きの過程で、新約時代に至り、中心人物としてイエス様が顕現なさった。しかし、当時のユダヤの民がイエス様を不信し続けたことで、イエス様は十字架の道を選択するほかなかった。その他の大部分の復帰摂理の人物たちも、各時代に神の願う基準でみ旨を成せないまま、今日まで歳月が流れてきたのである。

 神はご自身の子女たちが、凄絶な死の道に至るたびに、長い溜め息と悲しみの歳月に耐え、克服してこられた。神は、人類がご自身の愛する子女であるが、ご自身の子女と呼ぶこともできない現実に当面された。人類歴史を通じて、ずっと罪悪の種が日々繁殖してきたのである。それが今日の現実的な罪悪歴史である。

 人間に対する神の創造本然の理想は、いくら長い歳月が流れたとしても変わりえないので、新しい中心人物を立て、新しい摂理を導いてこられたのである。そして、罪悪歴吏は必ず終息すべきなのである。それゆえ、人類に神と救世主・メシヤの存在が絶対に必要なのである。神と人間は、このような関係があるために、人類の頭の中では無意識のうちに救世主とメシヤを求めるようになるのである。

 今や救世主とメシヤは、人類の普遍的な存在となった。神が遣わしたメシヤが、この地に来て罪悪歴史を終結し、人類を罪悪の血統から原罪のない姿に生まれ変わらせなければならないのである。

 それでは、この時代のメシヤ、救世主たるその方とは誰か?その方こそ文鮮明先生である。この霊界、地上の人間が見られない無形世界で、イエス様、お釈迦様、マホメット様、ソクラテス様たちと共に毎日セミナーを開き、文鮮明先生が明かされた『原理講論』を綿密に詳しく精読し、時には多読、音読、速読などをしている。

 私たちは皆、統一原理を通じて途方もない天の秘密を勉強して感嘆しながら、こうした真理を明かしてくださった神と文鮮明先生にもっぱら感謝している。地上の人間は、ただ静かに座っていては、原罪を清算し、救世主に出会うことはできない。

 儒教徒の皆さん!統一原理を精読してみなさい。そして、文鮮明先生が明かされたその他の様々な次元のみ言、そして関連書籍も多いので、それらを常に研究してみなさい。宗教人であれ、非宗教人であれ、すべての者が統一原理を研究すべきであろう。とりわけ統一原理には、儒者が容易に受け入れられない、なじみの薄い部分があるはずである。

 儒教徒の皆さんが、そうした部分を発見すれば、それについて、家にこもって研究してみなさい。文鮮明先生とは誰か? そのようにしないで、流れ去る短い歳月を待っていたら、人生の最後の道で、どうしようもない悲しみと後悔が皆さんを取り巻くであろう。どうすることもできない。これが原理の道であり、真理の道である。固陋な信仰の殻の中から目覚めることができなければ、誰も皆さんに責任を持ってくれることができない。皆さんの虚しい考えをすべて捨て、神お一人を考えてみなさい。

 神は、数多くの宗教と宗派をお作りにはならなかった。人類は一様に皆、同一の血統であり、神の子女たちである。黒人も白人も黄色人種も、神の一つの血族であり、キリスト教、カトリック、儒教、回教、その他の宗教も神の一つの宗教である。

 したがって、人類は一つの血族と一つの宗教として、神に人類の父母として仕え、一つの垣根の中で生きなければならない。それが神の真のみ旨である。それゆえ、地上に来られたメシヤ、救世主たる文鮮明先生は、人種と宗派を超越して、汎世界的な次元で神に主礼者として仕える中で、祝福式、つまり結婚式を進めていくのである。地上の皆さんは、美しい祝福の隊列の野次馬にならず、その主人公になって、原罪なき子女の位相を確立し、神の理想郷にゴールインするよう切に願うものである。

                                                  −2001.2.20.−