座談会


ゲストブックに記帳してください

真宗「げんり」主義 - 04/05/15 06:57:49
ホームページアドレス:http://koukyouji.hp.infoseek.co.jp

コメント:
 このサイトは、休会でしょうか。  かなりいい議論がされていたようですが、さびしいです。  真宗は、いま、最初のボタンがかけ違えられているように思います。  親鸞さまは「苦悩者が救われる」が一番最初のボタンのあなに入れられたいたようですが、いまは「悪人が救われる」が一番にされているようです。悪人救済は『信巻』の最後に説明されますから、教行信証では真ん中あたりのボタンでしょう。  悪人救済が最初なら、「機の深信(私は悪人でしたと深く信じる)」が先になければいけなくなります。「深信」ですから、信心が深くなって初めて「私はあくにんでした」と気づくようになっているのが親鸞さまの教えのはずです。    最初は、苦から救われるから、お念仏を称えなさいと勧められているように読めます。お念仏が信じられたら、「即得往生」が信じられ、アミダ仏と同じ「仏性」となって、苦悩者を救う心(法の深信)が生まれますが、肉体は煩悩ばっかりですから、深信の邪魔をして、悪人だったと気づくような教えが親鸞さまの直参教学であったように思うのです。  いかがでしょうか。議論してみませんか。

- 04/02/01 21:39:29
ホームページアドレス:http://2.csx .jp/users/koukyouji/
電子メールアドレス:irii2@mxi.netwave.or.jp

コメント:
京介さまへ(02/08.22の質問へ答えます)  天台宗系の浄土真宗遣迎派について知っている情報をお探しのようで、私が知っているのは浄土真宗招遣派二尊寺ですが、この宗派ではないでしょうか。  京都の上賀茂の鷹ヶ峰の光悦寺の東500メートルにあります。この寺は親鸞さまが関東から京都に帰ってから開かれた寺ということです。  本尊は釈迦・弥陀二尊で、二河白道の壁画が本堂いっぱいに描かれています。本堂前の庭園は二河白道を表現されており、室町時代の庭で、たしか国の名園では京都で第一号に指定された庭だったと記憶しています。  詳しくは、拙著・『親鸞の霊性』(国書刊行)をお読みくださいませ。 には昔、五カ寺の末寺もあったようですが、いまは二カ寺だそうです。

- 04/02/01 21:18:44
ホームページアドレス:http://2.csx .jp/users/koukyouji/
電子メールアドレス:irii2@mxi.netwave.or.jp

コメント:


真宗「げんり」主義 - 04/01/29 07:27:35
ホームページアドレス:http://2.csx.jp/users/koukyouji/
電子メールアドレス:irii2@mxi.netwave.or.jp

コメント:
真宗「げんり」主義 ホームページのアドレスが間違っていました。

真宗「げんり」主義 - 04/01/29 07:23:39
ホームページアドレス:http://2.csx.jp/users/koukyouji/
電子メールアドレス:irii2@mxi.netwave.or.jp

コメント:
真宗「げんり」主義  (インターネットもパソコンにも不慣れなため、未熟な操作はご勘弁くださいませ。) おだんごさんへ   真宗の公式があるといえば、親鸞さまの書かれた『教行信証』だと思うのです。「教」えの公式、「行」「信」「証(さとり)」の公式だと思います。

おだんご - 04/01/19 09:18:26

コメント:
浄土真宗(真宗)の公式の見解があれば教えてください。それが一派としての公式見解でもよいのです。 ご僧侶によっては、あるともないとも言えるとおっしゃるのですが。 一個人としてではなく、宗派としての公式の見解と言うものはあるのでしょうか。 1、浄土は実在するものでしょうか。それとも、生きる私たちの心に存在するものなのでしょうか。 2、阿弥陀如来は実在の仏なのでしょうか。それとも、生きる私達の心に存在するものなのでしょうか。

部外者 - 03/11/17 22:13:58

コメント:
 はじめまして。  最近、仏教にも関心を持った者です。といっても、真宗の門徒ではなく、形だけにしろ日蓮宗の門徒ですが、母方が浄土宗なので、そちらから。  お東騒動について、毎日の記者が書いた「祖師に背いた教団」を読んで一応の知識は得ました。宗門から出て行った大谷家の人々には点が辛いのに、訓覇信雄師は偉大な人物のように書いているな、と思ったら、彼の評伝を同じ出版社から出していた。東本願寺派など出て行った人々の声も聞いてみるべきだな、と思いました。  天皇陛下の従兄弟達が東本願寺派の法主だ、本願寺門跡だ、大谷派の門首だと名乗りあっている、というのは部外者からは一種異様な光景だが。  それと本願寺派の僧侶が出した「戦時教学と浄土真宗」という本で、訓覇師がすごい女性蔑視の言葉を引用していた。石田ひかりの夫のNHKのディレクターは彼の孫らしいけれど、こんな僧侶が生きていたら結婚できないな、と思った。女は奥にいるべきだ、とかいう。

庵摩羅識 - 03/10/23 19:08:55

コメント:
 はじめまして。仏教の勉強して12、3年やけど、こうすればこうなる(と期待する)生き方自体が間違いやったと気づいた。何かしらの見返りを期待すんやね。ウチら知らず知らずのうちに。勉強すれば尊敬されたいと思う。そんなの全部捨て去ってはじめて勉強が始まると思うんやね。たとえば学生がいいとこに就職するためにがんばるんやけど、その自分ががんばったいうことを手柄に考えちゃあきまへん。今こうしてがんばってるこの瞬間に最高の価値を見出すいうかね。人それぞれに習得した段階いうのはあるんやけど、すでに今学んでるこの時点でさとりの世界が開かれてるんちゃう?もちろん現実にはただのただや。でもはるか彼方やけどさとりの世界がある。それをこっちまで持ってきて味わうんちゃうの?そこに救いを持ってこな、それこそ永遠に救われんのよ。また地獄行きと極楽行きも同じ話やね。最近わかってきたんやけどね。色々遠慮なく批判してくれや。

朝日勇吉 - 03/10/15 20:49:34

コメント:


仏壇屋 - 03/09/13 23:19:16

コメント:
「縁無き衆生は度し難し」という言葉が有りますが、どんなに説法しても、「御縁」に出会わない内は「悟り」は得られません。出会いが必ず有ります。 唯、「御縁」を縁と理解できなければ、苦しみが何時までも、理解できるまで繰り返えされます。 自我という孤独の殻から抜け出すまで、繰り返されるのです。

仏壇屋 - 03/09/13 23:10:21

コメント:
私の信心は、お釈迦様の言葉だから、親鸞聖人の言葉だから信じる訳では有りません。 「御縁」という導きがあって、その言葉が真実であると教えられたのです。 生きることのすばらしさ、人の情けの有難さから教え導かれるのが「御縁」の力です。

仏壇屋 - 03/09/13 17:01:27

コメント:
親鸞会のHPにしつこいほど強調されている、「死ぬ事」への恐怖は、自分一人の孤独と合併させると異様に増幅されます。孤独な人間ほど騙されやすいのは良く理解できます。本来の社会的な生き物である人間は死を恐れません。「死」は社会への貢献であり、恩返しだからです。「死んだら仏になる」とは、人間社会の中で仏にさせて頂くのであります。自分自分と悟りを追い求める輩に「悟り」は無いのであります。

仏壇屋 - 03/09/13 15:20:53

コメント:
悟りを得るといいますが、誰もいない山奥でどんな修行しても悟りは得られません。他人との関係があって初めて悟りとなるのです。お釈迦様も修行の山を下りてスジャータの差し出すミルクを一口飲んだ時に初めて修行が本物だと気づかされたと言います。他人が自分を責めていると感じている時に苦痛以外に何も有りません。同じ他人の行動を、自分に対する叱咤激励されていると感じたら、他人は全て自分の教師です。と、これが悟りです。その時初めて自分の問題だと気づくのであって、一人で勝手に悟れるものでは有りません。悟りとは他人を鏡にして感ずる物なのです。

仏壇屋 - 03/09/13 12:27:34

コメント:
現場監督さん!親鸞会の方に言いたいのは、親鸞会の方はそうやって貴方と同じように、結局信心を自分の問題だと言われるのですよ。信じるのも自分、救われるのも自分、自分だけなのです。 自他一体になって人は生きてるのですよ。そこに問題が隠れてる気がするのです。貴方は生きているのを自分一人だけで実感できますか?もし他人がいなければ自分すら解らないのではありませんか。 人間とは社会的な生き物なんですよ。絶えず他人との狭間で生きてるんです。大勢の人のしがらみの中で生きてるんですよ。 それにも関わらず、自分の事しか考えないからおかしくなる。自分だけで生きていると思うから、解らなくなる。孤独になるのです。 自分に自信が持てなくなるのも、そのことを忘れてるからです。

仏壇屋 - 03/09/13 12:12:08

コメント:
仏教徒になると、お釈迦さまの言葉を信じる弟子になって、阿弥陀さまの作られた極楽浄土への道を歩むのです。

仏壇屋 - 03/09/13 12:08:00

コメント:
お釈迦様は古代ヒンズー教やゾロアスタ教の宗教改革を行って、「仏教」の創始者で実在の人。阿弥陀さまはお釈迦様の説かれた「例え話」に出てくる、命の不思議を象徴する「もの」で人間の姿をしていますが人間ではありません。仏教に神様は出てきませんので神様でもありません。いわゆる「仏様」にも実在の仏様とそうでない「もの」と二通り有るということです。 なーんも仏教を知らない人のために、書いておきましょう。

- 03/09/03 13:58:26

コメント:
私は宗教には興味を持っておりますが、無神論者に近い人間です。最近ふと気づき疑問に思っていることがあります、浄土真宗の法名には釈○○と、お釈迦さまの弟子として釈の一字を戴きますが、阿弥陀様を信じ南無阿弥陀仏と唱え、阿弥陀様に帰依してますよと唱えているのに、お釈迦さまの一字を戴いて、阿弥陀様の極楽浄土へ行くのは少し変では?

- 03/08/15 22:14:25
ホームページアドレス:http://www.eonet.ne.jp/~yo777/janusoTop.html

コメント:
はじめまして。 親鸞会同窓会ページ「ジャヌソ」というHPを最近開設致しました。元親鸞会会員の”よ”と申します。 趣旨は、親鸞会とは何なのか、考えると共に、元会員さん達と仲良くやっていけたらいいなぁ、と思っています。 こちらのHPの”座談会”では、管理人さん、decultさん、silenceさん、葦さん達が深い議論をされていて、親鸞会教義を考える上で、非常に参考になりました。 今まで、又、今後親鸞会に関わって行く人達にも広く見て頂きたいと思い、「ジャヌソ」の関係資料のコーナーに、一部掲載させて頂きました。 事後報告で申し訳ありませんが、お許し下さる様、お願い致します。 問題ありましたならば、お知らせ頂ければ、削除等、対応致します。 今後とも宜しくお願い致します。

うちは - 03/08/02 15:08:58

コメント:
初めまして。うちはです。質問があるんですが…。 ,海両土真宗を始めた方は誰ですか? △匹鵑紛気┐あるのですか? 始めた方の生い立ちや、行ったことを簡単にお教え下さい。 分かる方、お答えいただけたら嬉しく思います。

- 03/07/03 14:45:26

コメント:


風姿花伝 - 03/06/23 17:33:07

コメント:
初めまして。 風姿花伝と申します。 戦国時代の本願寺に関して質問があります。 もともと信長の野望をするようになって関心を持った 不届きものではありますが、その点については何卒ご容赦を。 勉強不足なもので、皆様の御知恵を拝借できればと思います。 まず、下間仲孝についてです。 『国史大辞典』によると下間頼照の子となっているんですが、 『真宗史料集成第七巻伝記・系図』(同朋舎、S50)に収録されている 「下間系図」によると仲孝の親は述頼となっています。 この述頼が頼照ということなんでしょうが、 この点に関して情報をお持ちの方がいらっしゃいましたら、 お願いいたしたいと思います。 下間頼次、頼旦についてです。 (両者とも信長の野望に登場。 おそらく信用して良いと思います) 前述の系図では、頼次は確認できましたが、 頼旦に関してはできませんでした。 頼旦に別名があるのではないかと思いますので、 ご教授願えれば幸いです。 是非ともよろしくお願いいたします。

現場監督 - 03/06/12 19:23:09
電子メールアドレス:fjmtkou@yahoo.co.jp

コメント:
仏壇屋の跡取りさんの問いの答えになれば幸いです。     そもそも、いったい仏教とは何なんでしょうか?  仏教とは「仏になる教え」です。では「仏になる」とは?  死ぬことですか? 違います。「悟りを得ること」です。 つまり仏教とは、「悟りを得ること」を目的としています。すべての仏教者は「悟りを得る」のを目標にしています。  悟りを得れば四苦八苦すべての苦しみから離れることができます。  ただ、勘違いしてはいけません。苦しみがなくなるのと、苦しみの原因自体がなくなるのとはちがいます。 つまり、お釈迦さまでも、親鸞聖人でも、不老不死にはなりません。老い、病にかかり、死んだのです。  超人でもありません。奇跡も起こしません。私たちと全く同じ人間です。釈迦も親鸞も同じく悩んだんです。生きること、死ぬこと、自我、性欲、    かの達磨大師は、洞窟に一人、9年間坐りつづけ、悟りを得られたといいます。私に出来ますか?あなたに出来ますか?  親鸞聖人も比叡山にいる間、修行しても修行しても内面から湧きつづける欲望・自我に悩まされました。そして釈尊の説かれた御経「無量寿経」に出会いました。 そこにはこう書かれていました。「たった一言、南無阿弥陀仏ととなえれば、必ず浄土に往生させる」と、好む、好まざるとに関わらず、必ずすべての者をです。「浄土に往生」とは、浄土にて悟りを得た仏として生まれ変わることです。煩悩・欲望を持ったままです。         これが浄土真宗の根本です。    私とて、浄土があるのか無いのか分かりません。分かる人がいればお会いしたい。ただ、分からないのだから、悟りを得た釈尊が説き、親鸞聖人がおっしゃったことを信じるしか他に仕様が無いでしょう。          現在の教団・本山には数々の矛盾点があります。もし親鸞聖人が見たらどう思われるでしょう?  多くの僧侶の方も教義の理想と現実に悩んでいます。  親鸞会に入られた方は、本当に自分に正直な方なのでしょう。私も宗教と言うものは、妥協せず理想を追うべきだと思います。心の中の問題ですから。

現場監督 - 03/06/12 17:39:22
電子メールアドレス:fjmtkou@

コメント:


現場監督 - 03/06/12 17:37:54
電子メールアドレス:fjmtkou@yahoo.co.jp

コメント:
初めて書き込みします。よろしくお願いします。  ケロリンさんへ、私なりにあなたの問いに答えたいとおもいます。  親鸞聖人は「唯一度、たった一言の念仏で往生できる」言っています。ですから往生するのに御布施の多い少ないは全く関係ありません。そう言われたお坊さんは勘違いしています。また浄土真宗では、往生するのに僧侶・在家は全く関係ありません。親鸞聖人こそ御自分のことを「愚禿 親鸞」(おろかな はげ 親鸞)・「釈 親鸞」(釈迦族 親鸞 つまり仏教徒のこと)とは言っていますが僧侶とは言われていません。  また仏教で言う「善」・「悪」とは一般に言う 良い・悪いではなく修行をする、しないを善である・悪であるといいます。 

- 03/06/05 18:05:50
電子メールアドレス:ngyaki@yahoo.co.jp

コメント:
初めて書き込みさせていただきます。お寺から寄付金のお願いというものが届きました。今の時代ご飯を食べるのに精一杯です。分割でもいいと書面には記載されていますが、払えません。少し聞いた話ですが、東別院に過去帳を持って行けば命日とか盆はお経をあげていただけるというのは本当ですか?

ケロリン - 03/05/13 15:56:29

コメント:
吉川英治氏著『親鸞』を読んで浄土真宗の教えに興味を持つようになった新参者です。何も知らないのでお恥ずかしいのですが、親鸞聖人の教えではただ一心に阿弥陀如来におすがりしてお念仏申せ、善を成そうとすることはかえって迷いを生じることなのでよいことをしようと思わないほうがよい、と、言われているように思ったのですが、あるお坊様にお聞きすると、「ただお念仏しているだけでは救われない、三宝に帰依して仏や僧の手足となってわが身を捨てて生きることをしないとお浄土には行けない。お布施、お手引き、お済度をしなさい。」と言われました。ただお念仏あるのみと言うのは出家した僧侶がそうするべきなので一般人は頑張って働きをしないといけないのだそうですが、やっぱりそうなんですか?教義についていろいろサイトを開いて読んでみましたがはっきりわかりませんでした。

有家 浩 - 03/05/12 13:00:17
ホームページアドレス:http://www3.ocn.ne.jp/~hiroshi/
電子メールアドレス:uke@chive.ocn.ne.jp

コメント:
初めて参加します。どうぞ宜しくお願いします。 数日来より、「漱石と仏教」を読み、浄土真宗に対する おもいを一層深いものとしました。

有家 浩 - 03/05/12 12:59:15
ホームページアドレス:http://www3.ocn.ne.jp/~hiroshi/
電子メールアドレス:uke@ocn.ne.jp

コメント:
初めて参加します。どうぞ宜しくお願いします。 数日来より、「漱石と仏教」を読み、浄土真宗に対する おもいを一層深いものとしました。

佛檀屋の跡取 - 03/04/06 16:22:12
ホームページアドレス:http://ogaki-tv.ne.jp
電子メールアドレス:okudabut@ogaki-tv.ne.jp

コメント:
18代続いた私の町のお寺さんの跡取息子さんが親鸞会に入ったばっかりに一家全員お寺を捨てて町を出て行かれます。 私の祖父が丹精して仕上げた須弥檀荘厳の有るお寺です。真宗のこと本当に心配です。 何派でも結構です。ここの文章を見ても他のサイトを見ても心に感じ入るものが何もありません。 理屈はどうでも構いませんがどなたか私の問いに答えられる方はいますか? 阿弥陀様の救済を体験なさった方はいらっしゃいませんか? 貴方が悩み苦しんでいるとき、何処からかふと聞こえる音楽に心を癒された記憶のある方はいらっしゃいませんか? 偶然の出会いで救われた記憶の有る方はいらっしゃらないのでしょうか? 今日も私は春祭りの準備で倉庫から道具を出してまいりました。一人じゃできないかなと考えていると、絶妙のタイミングで援軍が到着しました。私にとって毎日がそれこそ絶妙の偶然で満たされている事ばかりです。 お寺の頭首の事を私たちの町では「御縁さま」と呼んでいます。私の毎日の生活に満たされている「絶妙の偶然」のことを私は「御縁」であると考えています。 交通事故に会う事を不幸と思う人はいても、毎日無理な仕事をして無茶な運転をして、事故に会わない事を喜ぶ人がいないのでは無いですか? 病気だと嘆く人がいるけど、病気にかかっても発症しない人がいるのです。エボラ出血熱という最悪の伝染病と呼ばれる病気ですら発症率は50%なのです。 つまり、2人に一人は助かっているのです。 肺炎菌は誰にでもいつも鼻の粘膜に存在しておっても発病する人はいない。癌も大きさの違いは有っても誰の体の中にも持っている物なのです。 それでも発病しないことを喜ばないのはどうしてなのでしょう? 恐怖することしか教えない教義に意味は無いと考えます。「今」を喜ばずして救いは無いと考えます。 親鸞聖人の言葉を頭で考えて手繰るより、実感し体験する事のほうが大切だとは思われませんか? 痛みを感じなければ理解できない人のために、この世界のあらゆる出来事(出会い)が仕組まれている解っても、貴方は痛い体験を選びたいですか? 地獄に落ちる恐怖を感じたときだけが地獄であると理解できないのでしょうか? 私には理解できないことばかりです。

未来 - 03/02/03 11:31:22
電子メールアドレス:eco_mirai_fukumi@yahoo.co.jp

コメント:
素直に東本願寺派と西本願寺派の違いをしりたいです。

舞蹴 - 02/12/12 23:39:46

コメント:
はじめまして、面白そうなので覗いてみました。 何か質問等出来ましたら宜しくお願いします。

松本剛 - 02/12/06 11:28:33

コメント:
破邪顕正

小林佐知子 - 02/11/14 23:21:34
ホームページアドレス:http://www4.ocn.ne.jp/~mukzke98
電子メールアドレス:fukytoch@fancy.ocn.ne.jp

コメント:
世界最大の未利用資源の火山灰を活用した新素材技術や、真の仏身登場による新思想を元にして、外交問題、種々の法制度の整備、行政改革、立法府改革、司法改革、憲法改正、民法改正、産業構造改革、景気対策、内需拡大、国土開発、省資源・省エネ対策、放射性・産業廃棄物処理、コンクリート劣化対策、砂漠の緑化、自然と調和した環境造り、創造立国、創造教育、健全な家庭と生活、真の男女共同参画社会の在り方、夫婦別姓問題、少子化対策、霊魂と神仏の正しい概念、真の宗教と信仰の在り方等を提示し、文明史の大転換を図り、日本のみならず、全世界の窮状を救済して行こうとするものである。  併せて、真の仏身顛化の歴史的大偉業の達成を御紹介し、国家危急存亡に際して、国内外の邪悪で猜疑な想念の一掃、廃絶、淘汰を目指して、数千年来の歴史を総決算し、新たなる光輝ある仏土を厳浄し衆生を理益せんとするものである。詳細は某HPを参照下さい。 http://www4.ocn.ne.jp/~mukzke98

miku - 02/11/05 22:03:57
電子メールアドレス:tsukioka@kcb-met.ne.jp

コメント:
ただいま、家系図作成中です。 墓碑に不退位も文字がつけられています。 意味をご存知の方、おしえてください。

miku - 02/11/05 22:00:09

コメント:


ピース - 02/09/02 16:32:12

コメント:
はじめまして。ピースっす。 最近、真宗に興味を持ち始めたのでいろいろな本や、ネットで勉強しています。そこで一つの疑問ができましたのでどなたか答えてください。  どうして真宗のお坊さんの書いた本には「真宗こそ佛教だ」とか「他力こそ佛教」みたいに書くのでしょうか?真宗こそが一番優れているのでしょうか?  どうも僕には納得がいきません。確かに親鸞上人の書物を読む限り、あの人は阿弥陀さんに救われた人だと感じとれます。しかし、世の{真宗}お坊さんはどうでしょう?「真宗こそno1」といいながらたぶん従来の浄土教レベルのことしか理解できてないように思えてなりません。だったら浄土教は浄土真宗は方便だと言ってしまえばいいのに「真実だ」といってます。どうも納得がいきません。どうでしょう?

京介 - 02/04/08 22:23:55

コメント:
質問があります。天台系の教団に浄土真宗遺迎院派というのがありました。この教団について、どなたか詳しく教えていただきたいと思います。

てんじん菩薩 - 02/02/19 22:40:52

コメント:
 あまり御両親に、迷惑をかけるでないぞ。そんなもの「仏教者」でもなければ、「人間」でもない。  犬畜生より、劣る行為ですよ。 朝晩きちんと「お勤め」している、岡山の親鸞会員の 「てんじん菩薩」より

てんじん菩薩 - 02/02/19 22:32:04

コメント:
 岡山に住んでいる。「てんじん菩薩」ともうします。親鸞会会員でございます。  私が、思うに「両親と、同居している人なら、月5万円く゛らいは、家計にいれるべきです。会社の「うっちゃん」も毎月両親にてわたしているそうです。りっぱりっぱ。外に出ているひとも、最低1万は家に入れるべきです」皆さんは、どう考えますか。  朝晩おっとめしている「てんじん菩薩」より

まひる - 02/02/02 20:04:36

コメント:
質問があります!  長崎県に西本願寺派、または大谷派以外のお寺があれば教えて下さい。  行ってみたいと思います。

橘はるひ - 02/01/14 16:51:18
電子メールアドレス:shingun@jade.dti.ne.jp

コメント:
初めまして!平和神軍の橘はるひ伍長です。 素敵なH.P.ですね。 私達も宗教や日蓮大聖人様の仏法を学んでいます。 総督 中杉 弘博士から本物の仏法を学びましょう。 平和神軍のH.P. http://www.jade.dti.ne.jp/~shingun/ 正理会H.P.(中杉 弘博士の日蓮大聖人様御書講義) http://www5.justnet.ne.jp/~shourikai/ 是非お越し下さい!掲示板でお会いしましょう。

杉平 圭一 - 01/11/09 07:39:40
電子メールアドレス:keipy@c5.ezweb.ne.jp

コメント:
初めまして。お教え頂きたいのですがよろしくお願いいた します。この度母の七回忌をするのですが、お位牌があり ません。父は、浄土真宗には位牌はなく、過去帳がそれに 代わる…と申します。それで良いのでしょうか。 どうぞお教え下さい。 杉平 圭一

二文 - 01/10/30 12:31:44
電子メールアドレス:2-mon@mail.goo.ne.jp

コメント:
はじめまして、元会員の二文(にもん)と申します。 親鸞会を辞めてから苦しんでいます。 以前から親鸞会関連のサイトをROMしてきていましたが、 先日2chにて高森氏の獲信体験談が載っている 『化城を突破して』の話題を見ました。 是非読みたいと思ったんですが、どなたかお持ちの方が いらっしゃいましたら、譲って頂けませんか。 現物が不可能ならコピーでも結構です。 ご連絡お待ちしています。 メール:2-mon@mail.goo.ne.jp

うちゃぎ - 01/10/23 06:23:29

コメント:
 いろいろなHPを見てまわり、こちらに来てやっと東本願寺と西本願寺の違いがわかりました。ありがとうございました。 合掌 南無阿弥陀仏

無門 - 01/09/12 11:14:44

コメント:
はじめまして無門といいます。 小乗、大乗は一貫した仏の教えだと信じております。

誠実院 - 01/07/12 01:16:40
電子メールアドレス:calvet@ha.bekkoame.ne.jp

コメント:
はじめてここにたずねてみました。 今、わからない事があり、ちょっと困ってここに書いてみました。うちは佛光寺派です。 結論から言いますと、仏壇にある戒名の書いてある‘掛け軸’?の戒名の下には「不退位」というのが書いてあります。 これの意味ををお寺さんにお聞きしたら、通常で言う「様」と同じような意味であるとのことでしたが、 うちのお墓の脇においてある戒名碑には「不退」としかなく「位」がぬけています。 「不退」は、‘位’が抜けた間違いなのでしょうか? どう質問していいのかわからないので、こんな質問のしかたしかできませんが、 どうかお教えください。 実は、我が家では、祖父の代からのお墓があるのですが、 先日、父が亡くなり、自分がお墓の戒名碑に父の戒名を刻む依頼をしなければいけなくなりました。 だれに聞いても「不退」と「不退位」の違いを 説明してくれず、どうしていいのか困っています。 どなたか、真実をお教えください。

柴田祐作 - 01/03/18 05:06:33
ホームページアドレス:http://www.mega-net.org
電子メールアドレス:shibatay@gol.com

コメント:
皆さん、柴田祐作と申します。 先祖代々お東の門徒ですが、お東からは離れました。 これからどうしようか考えています。 よろしくお願いします。

瀧 義範 - 01/02/14 22:44:40
ホームページアドレス:http://www.geocities.co.jp/Bookend-Shikibu/8416/
電子メールアドレス:yositaki@mxv.mesh.ne.jp

コメント:
またまた瀧です。 このたびホームページを作成しましたので、ぜひ遊びに来て下さい.

瀧 義範 - 01/02/14 22:41:46
ホームページアドレス:http://www.geocities.co.jp/Bookend-Shikibu/8416/
電子メールアドレス:yositaki@mxv.mesh>

コメント:


瀧 義範 - 00/10/10 23:24:44
電子メールアドレス:yositaki@mxv.mesh.ne.jp

コメント:
はじめまして。真宗大谷派の僧侶です。 東別院会館で真宗セミナーを開講して九年になりました。 年齢は三十九歳。若いのでびっくりされることもしばしばです。 私も含め、真宗の教えを本当にわかっている僧侶がいないことが一番の問題点であると思います. 他力ということひとつとっても、わかっていない僧侶が多いし、自力の反対語ではありません。 他力の中では自力をつくすことが許されているのです。 天命に安んじて人事をつくす(清沢満之)

管理人Kashmir - 00/09/18 21:35:22

コメント:
ものぐさ管理人のKashmirです。先日またまたパソコンが故障してしまいました(私の使い方が悪いのかもしれません)。そのためメールを頂いているのかもしれませんが、返事がかけなくなっています。お返事の他、リンクなど更新せねばならない点も多いのですが、、暫しご理解のほどご容赦下さい。

- 00/09/08 22:03:41

コメント:
久しぶりに覗いて見ました。

辻村さんと言う方からコメントが入っていて、お母さんが亡くなられた悲しみを通して、お母さんが亡くなられてからの問題について、

【1】母は、今、どこにいるのでしょうか?
【2】人は死んだらどこに行くんでしょうか?
【3】 母は、また、人に生まれ変わるんでしょうか?
【4】なんで、母は、こんなに、病気に苦しまなければならないのでしょうか?
【5】 もし、来世というものがあるなら、母に同じ苦しみをくりかえさせたくないのです。 私に何かできることはあるのでしょうか?

と、言う血の滲むような思いをもってのご記入です。
仏教は、宗派に立っての教えは夫々の開祖(宗祖)の説く教義を拠り所として法を頂いて行く立場を取ります。
しかし、もう一段掘り下げて『仏教そのもの』の立場に立つ時は、飽くまでも釈尊(お釈迦様)のお説きくださる『仏教』(通仏教)を根底としての理解・解釈に立つべきと考えます。
今、辻村様がお尋ねの諸問題は実は人間にとって根本的な問題で有りながら、実は釈尊にその様な問いを発しても釈尊はその問いにはお答えになられなかった、と承っています。
何故なら、それは答え様の無い問いだからなのです。
例えば、辻村様のお母様は何処におられるのか、との問いに答えられる者は残念ながらいない、と言うのが答えなのでしょう。
そんなものは答えになっていないと言ってみても、例えば、何らかの具体的な『場所』を上げて「そこにお母様がおられますよ、」と言ってみてもそれは単なる根拠の無い『言葉』で有って、何らのより所が無い言葉から一歩も出得ていないと言わざるを得ないでしょう。
同様に、お母さんは、また人間に生まれて来るのだろうかとの問いも、人は死んだらどうなるのか、との問いも、お母さんは何故こんな苦しみにあわねばならなかったのか、との問いも、みんな問いは有っても答えの得られない問いなのでしょう。
だからこそ、その様な問いについては、その問いを発せねばならない苦しみについては十分にご理解されながらも、釈尊は、その様な問いにはお答えにならなかったのではないでしょうか。
では、それらの事は全く無意味な問いなのかと言えば、断じてそうでは有りません。
それらの問題を通して、自己の命を見つめ、亡くなって行かれた方の死を通して、自己の死を問う中から命の真実を開いて下さる法に恵まれるご縁とさせて頂くことが出来るのでは無いでしょうか。

先立って行かれた方を『命の師』と仰いで、先立って行かれた方の『死』を通して自己の『生』を見つめ、その中から『生死出づべき道』を問わせて頂く機縁が恵まれるならば、先立って行かれたお母さんの『死』は決して空しいものでは無かったとの受け止めが開かれるのでは無いでしょうか。

言葉足らずとは思いますが、ご記入を読ませて頂いて、私なりに書き込みさせて頂きました。

宮城靖 - 00/08/29 09:06:15
電子メールアドレス:evah2po3.nsknet.or.jp

コメント:
本日、今日このホ−ムペ−ジに出会わせて頂いた事に感謝、感謝.....南無阿弥陀仏。

宮城靖 - 00/08/29 09:01:09

コメント:


辻村 - 00/07/13 03:24:59
電子メールアドレス:fukuei@mc.neweb.ne.jp

コメント:
7月3日、母が亡くなりました。62歳でした。 もう、30年近く、病気に苦しみ、やっと、楽になったのだと、思うようにしています。 お尋ねしたくて、投稿しました。 母は、今、どこにいるのでしょうか? 人は死んだらどこに行くんでしょうか? 母は、また、人に生まれ変わるんでしょうか? なんで、母は、こんなに、病気に苦しまなければならないのでしょうか? もし、来世というものがあるなら、母に同じ苦しみをくりかえさせたくないのです。 私に何かできることはあるのでしょうか?

上野靖夫 - 00/06/18 19:41:07
ホームページアドレス:http://www.hello.co.jp/~ueyasuo
電子メールアドレス:afafy407@oct.zaq.ne.jp

コメント:
コメントではなく、質問 なのですが、そして、其の答えは、既に このホーム ページ の 中に記録 されているのでしょうけれども。いはゆる。FAQ と いう事になるとは思いますが。1。絶体他力について。2。悪人正機について。この2つ に ついて はつきり と 確信おもって 知りたいのですが。さあ。 このことお 、はきりと 把握 することは 大変 難し 事なんでしょうねえ。救うツい世気い泙察△・蠅いい燭靴泙后

上野靖夫 - 00/06/18 19:28:26

コメント:


- 00/02/01 16:50:47

コメント:
記入後、読み返してみたら、ちょっと読みにくい個所も有りますが、概ね、私の言いたい事はお読み頂けると思いますので、このままにさせて頂きます。
次は何時記入出来るか約束は出来ませんが、時間が有れば書かせていただきますので、ご意見が有りましたらご記入ください。

- 00/02/01 16:37:49

コメント:
久し振りに覗いて見ましたら、私宛のご記入が有りましたのでご返事させて頂きます。
99/09/29 00:10:29にご記入になられました「無記名さん」(以下「無名さん」と呼びます)のご意見について、
「無名さん」は、
コメント:
葦さんの言っているところにはどうも納得しがたいことが多くあります。(中略)
(1)私には親鸞聖人の御教えは唯一絶対のものと思われますので、正しい解釈は必ず1つに絞られなければならないと思います。
全人類が救われるたった一本の道を示された御教えですから、宗派によって違ってもいいというのは間違えではないのでしょうか。
とのご意見について。
お述べの『私には親鸞聖人の御教えは唯一絶対のものと思われます。』とのお言葉は、『私には』との枠組みを設けて、全く同意致します。
また『私にとっては』との枠組みの中において『全人類が救われるたった一本の道を示された御教えです。』とのお考えにも同意いたします。
しかしながら、それは飽くまでも親鸞聖人がお開き下さった浄土真宗のお流れ(御一流)を汲むものに限ってとの『枠組み』を設けて、その『枠組み』の中での限定においてのみ言える事との『自己規制』がなされている事が大切でしょう。
宗祖は、申すまでも無く法然上人の門弟として、法然上人の導きによって初めて他力回向の弥陀法に心開かれたと受け止める事にはご異存無いと存じます。
然るに現実には法然上人を開祖とする『浄土宗』と、私達の『浄土真宗』とでは、『他力』の受け止めの相違によって『宗派』が異なっています。
私の憶念の思いとしては『浄土宗の他力の解釈は、法然上人の本来のご趣旨に相違している。 我が宗祖こそが『よき人』法然上人のお心を正しく継承された方で有る。』との思いは有ります。
  然し、同様に『浄土宗』の方々も、現在継承されている『浄土宗の教義』を法然上人の正しい継承と自負されているに相違無いでしょう。
問題は、『浄土宗の方がどう思う。』事ではなく、『この私がどうお聞かせ頂けているか。』と言う事ではないのでしょうか。
それゆえ、同じ『浄土真宗』を標榜する『宗』においても『派』が異なることは『同じ開祖の言葉の受け止めの相違』が有るから『派』が分かれているので有って、当然『内面の思い』としては『異なることを嘆く』(悲しく思う)思いは有りますが、だからと言って必ずしも無名さんがお述べの様に『宗派によって違ってもいいというのは間違い。』と言うような事は言えないのでは無いでしょうか。
『主体的認識』と『客観的認識』との区別も出来ないと言う事は『精神の発達の未熟さ』と言わざるを得ないと思いますが如何でしょうか。
             (2)無名さんがお述べの、
『これは仏法を聞かなければ無間地獄には落ちなかったということになり大変な法謗罪をつくることになるのではないのでしょうか。
自分だけの問題ならば、釈尊は決して仏法を広めようとはしなかったでしょうし、これほどまでに広まることもなかったでしょう。
また、”95種世をけがす 唯仏一道きよくます 菩提に出到してのみぞ 火宅の利益は自然なる”(高僧和讃)や、
”その他には何れの法を信ずというとも後生の助かるということゆめゆめあるべからず”(御文章五帖)、”
なんといっても、聖人のあの一向専念無量寿仏の徹底こそが、全世界の人に仏法を伝えねばならない根拠では何のでしょうか。
  とのご意見について、
では、『救いは浄土往生のみなのでしょうか?』(それ以外には、全く救いは説かれていないのでしょうか)とのお尋ねを致したく存じます。
キリスト教徒にはキリスト教の救いが有り、イスラム教徒にはイスラム教の救いが有り、仏教徒には仏教の救いが有り、それぞれの教えにはそれぞれの救いが説かれていると言う、『極く当然の事実』が無名さんには理解出来ない様ですね。
勿論、だからと言って『浄土真宗のおみのりで救われる人は居ても居なくても良い。』等と言うような事を申し上げる積もりは毛頭御座いません。
『一人でも多くの方が親鸞聖人のお勧め下さる他力回向の弥陀法のお救いに心開かれる事を願う。』思いは言うまでも無い事です。
だからといって無名さんが述べられますような、『仏法を聞かなければ無間地獄には落ちなかったということになり大変な法謗罪をつくることになるのではないのでしょうか。』と言うような事には談じてならないと存じます。
先に述べる様に、夫々の宗教に依る救いにお会いになられる事でしょうし、例えなんの宗教もお信じにならない方で有っても、その方がそれで納得しておられれば如何ともしようの無い事ではないでしょうか。
蓮如上人も『無宿善の機』(法を受け入れる心の欠如している人)の法に遭い難い事をお嘆きになってはおられますが、それをどうせよとはお述べにはなっておられません。
彼らが縁有って弥陀法に心開かれることをこそ願っておられる事は言うまでも無い事ですが、だからと言って彼らにどの様に対処せよとは、お述べになっておられません。
毟れ、その様なものに近づく事は、場合によっては真実の法を損なう可能性も有りうるので、寧ろ避ける事をお勧めになっておられると頂けるのでは無いでしょうか。
勿論、御本意は『真実の弥陀法に心開いてくれよ。』とのお心でしょうから、その様な者も、心翻して法を求める場合は喜んでおみのりをお説きになられたと考えられますが如何でしょうか。
また、無名さんは『自分だけの問題ならば、釈尊は決して仏法を広めようとはしなかったでしょう。』
とお述べですが、それは『宗祖のお心に添う仏法の聞き方』とは言えないと思います。
宗祖の法に向かわれる根底の姿勢は、何処までも『親鸞いちにんがためなりけり。』即ち、先ず『自分の問題』としての受け止めからの出発でなければならない筈です。
では宗祖は『自分一人だけ救かればそれで良い。』とお考えなのかと尋ねれば、断じてその様なお心では無い事は言うまでも無い事です。
『世のなか安穏なれ。仏法ひろまれ。』とのお心は、一人でも多くの人が他力回向の弥陀法に心開かれる事を願われてのお言葉で有る事は言うまでも有りません。
然し乍ら、そのお心は無名さんがお述べの様な、
『 釈尊は決して仏法を広めようとはしなかったでしょうし、これほどまでに広まることもなかったでしょう。』 と、言う事とはちょっと意味が違う様に思います。
釈尊は確かに『初転法輪』のお話に伝えられます様に『伝道』(法を伝える事)について考え抜かれた中から仏法を広める事を決断されたのでしょうが、それは『仏法を広めたい』と言う事より『一人一人の人に救いを伝えたい』との願いからの行動では無かったでしょうか。
それゆえ、結果として同じ帰趨で有っても、その『御意図』は無名さんがお延べのこととは少し異なると言えるでしょう。
                    次に無名さんは、                 (3)『信心決定しても煩悩は一切無くなりませんよ”三毒の煩悩はしばしば起これども真実の信心はかれらにもさえられず、顛倒の妄念は常に絶えざれども、更に未来の悪報をばまねかず。”(存覚上人)疑煩悩などは決して信心決定しても無くなりません。 』
とお述べですが、無名さんは『性得の機』と『受法の機』についての『切り際』をお聞きになっておられますか。
浄土真宗のお救いは飽くまでも『煩悩具足の凡夫、地獄一定の衆生』をこそ『救いの正機』として、この私をこそ救わずにおかないと御回向されるおみのりとお聞かせ頂くみ教えで有れば、無名さんがお述べの如く、『煩悩が無くならない事は如何とも為し難い事』なのでしょう。
然し乍ら、その様な『煩悩が無くならない者』をこそ、寧ろ『正機』とお示し下さって、その様なものをこそ救いの目当てとするとのお心をお聞かせ頂くにつけて、『煩悩は悲しきことなれども、その煩悩具足の身をこそ正機とお呼び下さる阿弥陀如来のお救いに思いを馳せる時、煩悩が全く妨げとなる事無く、煩悩具足の身がお救いの大いなる拠り所となる。』とお聞かせ頂いて見ると、煩悩具足の身が、そのまま大いなる喜びの身とお知らせ頂けるのではないでしょうか。
次に、 (4)『この信心を獲得せずば、極楽には往生せずして無間地獄に堕在すべきものなり。”(御文章2帖)とあります。』
とのご文について、
宗祖の本願の御解釋についても、『抑止の解釈』についてのお心が頂けます。
『この信心を獲得せずは。』とのお心にも、
…困たいと思いつつ頂けない者、も有れば、
∧法を根本から否定して誹謗するもの、も有ると言えるでしょう。
宗祖の『抑止』のお心を通して蓮師のお言葉を頂くとき、『断じて無間地獄に堕ちてくれるなよ。』との願いの思いを持ってお書き下さったお言葉で有る事は言うまでも無い事ですが、そこにおいて、
…困たいと思いつつ頂けない者、には『速やかに真実信心に心開いて報土往生を遂げる身となれ。』とのおさとしと頂けるでしょう。
言うまでも無く、この様な身(真実真実を求めつつ、自力心の執着にはからわれて他力の法に心開かれない者)の者は『化土(辺地)往生の身』として、真実信心に心開かれる事をお勧め下さっている事は言うまでも無いことです。
一方、
∧法を根本から否定して誹謗するもの、は正しく蓮師がお述べの如く『無間地獄に堕在すべきもの』と言わざるを得ないでしょう。
然し乍ら、その様なものに向かっても『弥陀法に心開かれて、報土往生を遂げる身になってくれよ。』とのお心で有る事は、宗祖の『抑止』のお心を頂くとき、蓮師のお心もそれ以外には有り得ないと伺えると存じます。
上記、無名さんのお尋ねに私なりの思いを述べさせていただきました。 
                   

--記入者の希望により削除--

--記入者の希望により削除--

渡海難 - 99/10/10 19:57:07
ホームページアドレス:http://www3.justnet.ne.jp/~katasi-park/
電子メールアドレス:katasi-park@ma3.justnet.ne.jp

コメント:
宣伝させてください。  浄土通信インターネットは、「浄土真宗と悟り」という雑文を掲示しました。これは浄土通信の掲示板に寄せられた質問に応えたものです。  ご質問にお応えする頁の「ウンコさんへ」という箇所にあります。  もしよかったらお読みください。  ご意見、ご批判、ご質問などがありましたら、私の掲示板にお寄せいただけると幸いです。

- 99/09/29 00:10:29

コメント:
葦さんの言っているところにはどうも納得しがたいことが多くあります。 >飛行機様がお聞きになっておられます教えが私の聞いています教え(本願寺の教え)と異なる場合が有 るとしましても、それは「宗派が異なる事に依る教学理解の相違」とご理解頂きたく存じます。 それゆえ教えに相違が有ると考えられる場合も、どちらが正しいでしょうか等と「正誤・優劣」等は論ずる考えは全く無い                            私には親鸞聖人の御教えは唯一絶対のものと思われますので、正しい解釈は必ず1つに絞られなければならないと思います。全人類が救われるたった一本の道を示された御教えですから、宗派によって違ってもいいというのは間違えではないのでしょうか。                      >「浄土真宗と言う枠組み」に限って申し上げるならば、お述べの如く「法を求めなければ、極楽には 往生できずに地獄に落ちる。」との理解(受止め)で全く差し支え無いと思います。 但し、これを例えば「地球上の全ての人々」と言うような意味で理解しようとするならば、大きな誤りに陥る恐れがが有ると言わなければならないでしょう。                                 これは仏法を聞かなければ無間地獄には落ちなかったということになり大変な法謗罪をつくることになるのではないのでしょうか。自分だけの問題ならば、釈尊は決して仏法を広めようとはしなかったでしょうし、これほどまでに広まることもなかったでしょう。また、”95種世をけがす 唯仏一道きよくます 菩提に出到してのみぞ 火宅の利益は自然なる”(高僧和讃)や、”その他には何れの法を信ずというとも後生の助かるということゆめゆめあるべからず”(御文章五帖)、”なんといっても、聖人のあの一向専念無量寿仏の徹底こそが、全世界の人に仏法を伝えねばならない根拠では何のでしょうか。                                             >「真実信心」を求めつつ、「煩悩心・懐疑心・執着心」等々の思いに心執われて真実信心に心開かれない 者が至る「浄土」を、正意の浄土(報土)に対比して「辺地(化土)の浄土」と説かれるのです。                                     信心決定しても煩悩は一切無くなりませんよ”三毒の煩悩はしばしば起これども真実の信心はかれらにもさえられず、顛倒の妄念は常に絶えざれども、更に未来の悪報をばまねかず。”(存覚上人)疑煩悩などは決して信心決定しても無くなりません。                                            >宗祖は仏の正意(弥陀回向の信)を求めつつ、その心が頂けない者が至る国を「化土(辺地)の往生」と説かれます。、「化土」は飽くまでも「浄土」で有って、断じて「地獄」では無い                                             ”この信心を獲得せずば、極楽には往生せずして無間地獄に堕在すべきものなり。”(御文章2帖)とあります。                                                     特に気になったのは以上ですがどうでしょうか?

飛行機さまへ・・再度のお尋ねへのご返事。 - 99/09/23 22:28:12

コメント:


(管理人様、またもやHITMLを忘れてしまいました。一つ手前の書きこみを削除下さい。)

飛行機様、再度のお尋ねについて私の領解(りょうげ)致しています事を述べさせて頂きます。
この度の飛行機様のお尋ねは、

(1)いったい何をもって十劫安心とするのでしょうか。
(2)法を求めなければ、やはり極楽には往生できずに地獄に落ちるものと受け止めてよろしいのですか。
(3)化土往生遂げる人というのはどういった人なのでしょうか。

上記、3点と存じますので、夫々に付いてお答え致します。
尚、「教学」と言いますのは、「夫々の宗派の教学」に拠って立てられますので、当然宗派が異なるとその宗
派では「正意」(正しい解釈・受止め)で有ると説かれる教えが、他の宗派に取っては「異義」(誤った解釈・受
止め)と説かれる場合も有りますし、その逆も有り得ると言う事をご理解下さい。
その様な意味に於いて、私の述べます意見は「浄土真宗本願寺派」(西本願寺)のおみのり(教学)としてお聞
かせ頂いたおみのりと限定してご理解頂きたく存じます。
また、飛行機様がお聞きになっておられます教えが私の聞いています教え(本願寺の教え)と異なる場合が有
るとしましても、それは「宗派が異なる事に依る教学理解の相違」とご理解頂きたく存じます。
それゆえ教えに相違が有ると考えられる場合も、どちらが正しいでしょうか等と「正誤・優劣」等は論ずる考
えは全く無い事を先ず申し上げておきます。
何故なら、私は本願寺の説く教えをお聞かせ頂いていますし、そのおみのりを拠り所とさせて頂いていますの
で「私に於いては」と言う限定に於いて、飽くまでも本願寺で説くおみのりを拠り所(正しいとの受止め)と
しています旨を申し述べさせて頂きます。

前置きが少し長く成りましたが、個々のお尋ねに付いて私の領解(教学の理解)を述べさせて頂きます。

(1)いったい何をもって十劫安心とするのでしょうか。

と言う事については、前回の記事にも少し書かせて頂きましたが、まず最初に明瞭にしておかなければならな
い事は、「本願寺の正意安心に於いては「十劫安心」と言う教学の受止めは「異義」として斥けられるべき受止
めで有る」と言う事を申し上げて上げておきます。
では、何故「十劫安心」としての教学の理解は本願寺の正意安心に背理するのかと言う事に付いて述べます。

先ず、私達が救われて行く拠り所は、「仏説無量寿経」上巻にお述べになられます四十八願、特に「第十八願」
の所説(「至心」「信楽」「欲生我国」の三心を「信楽」一心に納めて、これを弥陀回向の信心(信楽と同意)と
してこの私に受領させて、その信心の受領一つに拠ってこの私を、往生成仏を遂げさせると言う願い・これを
特に「本願」と頂く)の「信心」と、その弥陀回向の「信心」が完成されて有る旨をお述べになられます「仏説
無量寿経」下巻所説の「本願成就」(上に述べる「信心一つでの救い」が十劫のご修行に拠って成就(完成)され
た事に拠って「願」が願いを実現する「力」の具備に拠って単なる願いに止まらず、正しくその願いを叶える
力を具備された事)を明らかにお述べになられます。
この「経典所説」に拠って「仏願」は「仏行の力」(救いとる力)を阿弥陀様お一人のお力(私の力は一切差し挟
まない)即ち「弥陀他力のお救い」として完成されたお救いとして領解させて頂くのが浄土真宗のお救いの理
解と頂けるでしょう。

この「阿弥陀如来のお救いが成就された時期」を「十劫の昔」と経典に御説きになられます。
実は確かにこの時に、この「私」の助かっていくすべ(方法)は完成されているのですが、問題はその「完成」
を以って「私が救われた事」と受け止めるのか(十劫安心)、そのお救いのお心を正しく領解させて頂いて、
他力の法の中に活かされる命と心開かれた領解(信心開発)を以って「私のお救い」と受領するのかとの相違
でしょう。

本願寺に於いては、確かに「全ての人々」が助かっていくすべ(方法)については「十劫の昔に成就されてい
るお救い」と説きますが、この「私自身の救い」は飽くまでも、その十劫の昔に成就されたお救いのお心を
「今」正しくこの身の上に受容・領解させて頂く事(仏願の生起本末を聞いて疑心の無い心)を通して初めて
この私の「救いの完成」(信心開発・往生治定)と頂く教えと説かれています。
それゆえ、十劫の昔に阿弥陀如来がお覚りを開かれたとお知らせ頂いた事を以って、私の救いと説く「十劫安
心」との理解は本願寺の教学に於いては「異義」として斥けられる受止めで有る、と言う事です。

(2)法を求めなければ、やはり極楽には往生できずに地獄に落ちるものと受け止めてよろしいのですか。

ここでお述べの「法」とは宗祖・親鸞聖人がお述べになられます他力回向のお救いを拠り所とする「法」の意味
と理解させて頂いて良かろうと存じます。
そこで、「浄土真宗と言う枠組み」に限って申し上げるならば、お述べの如く「法を求めなければ、極楽には
往生できずに地獄に落ちる。」との理解(受止め)で全く差し支え無いと思います。

但し、これを例えば「地球上の全ての人々」と言うような意味で理解しようとするならば、大きな誤りに陥る
恐れがが有ると言わなければならないでしょう。

「自分に取っては」との受け止めは、飽くまでも「自分に取って」との枠組みの中に限定されるべきで有って、
その思いを「全ての人」に延長しようとする事は、「傲慢」とも「無知」とも言えるでしょうし、延いてはあ
らゆる「争い」のもといともなる恐れの有る考え方と言わざるを得ないでしょう。

勿論、「願い」としては一人でも多くの方が親鸞聖人のお勧め下さる他力回向のお救いに心開かれますことを
願います事は言うまでも無い事です。
然し乍ら、だからと言って浄土真宗に心開かれない無い方に向かって、いかなる形で有っても「強制」や「虚
偽」(嘘)を伴う様な方法で教えを伝える様な事が行われるとするならば、それこそ全く「宗祖のお心」延いて
は「仏意」に背く事と思います。

世界の「紛争」の多くが「宗教に起因」する場合が多いという実状を考える時、その根本的な理由は一体何だろ
うかと言う事に思いを馳せますと、「自是他非」「独善」「不寛容」等々の理由が考えられますが、そこに「こ
の宗教以外は駄目」と言う頑迷さが世界平和迄をも危うくしている事実を考える時、「宗教の正しい受止めと
は?」との問題には、十分な配慮がなされねばならないでしょう。

3)化土往生遂げる人というのはどういった人なのでしょうか。

とのお尋ねについては一つ前の書き込みに書きました「浄土で迷うとはどういう事ですか?」とのお尋ねにお
答えした中に一応の私の理解を書かせて頂いた積もりなのですが、もう少し補足させて頂きます。

浄土真宗の教えに於いて、この私をお救い下さる為にお働き下さる阿弥陀如来を「報身仏」(ほうじんぶつ)
と説かれます。
また、その阿弥陀如来の報身仏の浄土を「報土」(ほうど)と説かれます。
阿弥陀如来のおみのりを正しく領解させて頂いた身は、命終って直ちに「往生」を遂げさせて頂くと説きます
が、その「往生」とは「往」は「往く(いく)」との意味で有り、「報土の浄土に往く」との意味として頂けます。
また「生」は「生まれる」との意味で「仏(阿弥陀仏)に生まれる」との意味として頂けます。

即ち浄土真宗のお救いとは「阿弥陀如来のおみのりを正しく受領させて頂いて(信心開発・往生治定)」「法
に活かされる命を生き抜いて(仏恩報謝)」、やがて、「娑婆の縁尽き、力無くして命終る時、彼の土に至る
(往生・成仏)」と頂くおみのりと領解できます。
それゆえ、宗祖のお勧めは、飽くまでも上記の様な「他力のお救いに心開かれて(信心開発)」「浄土(報土)
往生を遂げてくれよ」との願い以外には無いのです。

然るに、その「仏意」を受領するべく「求法」を続けながらも、仏の正意に心開けず自己を拠り所とする心が
廃らない思い、言い換えると「仏に任せきる思い」(他力回向の受領)が頂けない者は、残念ながら「仏の正意
の浄土(報土)」には往生出来ない旨を御説きになられます。(誡疑讃の心)
そして、宗祖は仏の正意(弥陀回向の信)を求めつつ、その心が頂けない者が至る国を「化土(辺地)の往生」
と説かれます。

即ち、「真実信心」を求めつつ、「煩悩心・懐疑心・執着心」等々の思いに心執われて真実信心に心開かれない
者が至る「浄土」を、正意の浄土(報土)に対比して「辺地(化土)の浄土」と説かれるのです。

但し、「化土」は飽くまでも「浄土」で有って、断じて「地獄」では無い事。
「化土往生」のお勧め、等と言う様な事については宗祖は一切述べておられない事。
宗祖のお勧めは飽くまでも「報土往生」で有って、「化土往生」は「遂げてくれるな。」との願いで有って、
その為の条件と言う様な事は一切述べられておられない事。
(どうすれば「化土往生ができますか」等と言うような教え、勧めは一切無いと言う事)

以上の事から、浄土真宗の教えは、飽くまでも「仏の正意の浄土」たる「報土往生」のお勧めで有る事を明らか
にされる事を通して、断じて「化土往生を遂げてくれるな」との願い(誡疑讃の心)以外には無い事を述べさ
せて頂きます。



飛行機さまへ・再度のご返事。 - 99/09/23 22:23:04

*記入者の希望により削除*

飛行機 - 99/09/23 05:21:19

コメント:
 葦さんお答えありがとうございます。私はまだ教学力がありませんのでよくわからない言葉が多く、いくつか理解できませんでした。  体、相、用、という言葉も今まで知らなかったので勘違いかもしれませんが、「十劫正覚の始めより・・・」というお言葉が十劫安心でないのならば、いったい何をもって十劫安心とするのでしょうか。また、御文章を読み進めていきますと、”「それ弥陀如来は、すでに十劫正覚の始めより、我らが往生を定めたまえる事を、今に忘れず疑はざるが、即ち信心なり」とばかり心得て、弥陀に帰して信心決定せしめたる分なく場、報土往生すべからず。さればそばさまなる悪き心得なり。”(御文章3帖目8通)というふうに報土往生すべからず、とか悪き心得といわれているのでこれは異安心ではないのでしょうか。  また、法を求めなければ、やはり極楽には往生できずに地獄に落ちるものと受け止めてよろしいのですか。それと、化土往生遂げる人というのはどういった人なのでしょうか

- 99/09/20 07:47:18

コメント:


たびたびの訂正記事、お恥ずかしい限りです。
昨日記入しました《葦 - 99/09/19 17:11:49》の記事を読み返して見ますと、些か書き違え(誤りでは
無く、不注意による書き違えです)が有りましたので訂正させて頂きます。

《浄土真宗の御救いを、その内容から「体・相・用(たい・そう・ゆう)」と説かれます。》
に付いて「体・相・用」の説明に書き違えが有りましたので訂正させて頂きます。
――――――――――――――――――――――――――(誤載記事)
その「体」(救い手)が「相」(救いの働き)としてこの私に働かれて、この私が御救いに御出合いさせ
て頂いた私の「気付き」を「信」と頂くのですが、それを「今」「忘れぬが、即ち信心のすがたなり」
と御述べになられます御言葉が「平生業成」と蓮如上人が御述べになられるお心では無いでしょうか。
――――――――――――――――――――――――――
上記の記事を以下の様に訂正させて頂きます。
――――――――――――――――――――――――――(訂正記事)
その「体」(救い手)が「用」(救いの働き)としてこの私に働かれて、この私が御救いに御出合いさせ
て頂いた私の「気付き」を「相」(恵まれた信)と頂くのですが、それを「今」「忘れぬが、即ち信心
のすがたなり」と御述べになられます御言葉を「平生業成」と蓮如上人が御述べになられるお心では無
いでしょうか。
――――――――――――――――――――――――――



- 99/09/19 17:37:49

コメント:

一つ下の書き込み「仮土往生」は「化土往生」の間違いです。
訂正させて頂きます。


- 99/09/19 17:11:49

コメント:


(HTMLの書式設定を忘れましたので、再記入致します。改行も忘れていました。下の書き込み二つを
削除下さい。)
(久しぶりに記事を書くとすっかり全く忘れてしまって、恥ずかしい限りです。)

飛行機様、始めまして。
葦と申します。
記事に私の名前が出ていましたので久しぶりに書き込みさせて頂きます。
御述べの、

――――――――――――――――――――――――――
葦さんの言う信心決定と御文章の「十劫正覚の初めより、我等が往生を、弥陀如来の定めましました
まへることを忘れぬが、即ち信心のすがたなり」という十劫安心とはどこがどう違うのでしょうか。
信心決定が”気付く”という体験ならば、全人類はすでに救われていて、死んだ人は皆極楽に往生し
て仏の悟りを得るという事なのでしょうか?それに迷いの世界から抜け出した極楽浄土で迷うとはい
ったいどう言う意味なのでしょうか。
――――――――――――――――――――――――――

について、私の思いを述べさせて頂きます。

浄土真宗の御救いを、その内容から「体・相・用(たい・そう・ゆう)」と説かれます。
ご引用の「十劫正覚の初めより、我等が往生を、弥陀如来の定めましましたまへること」とお述べに
なられます中の「十劫正覚の初め」に早や既に成就されて有る御救いの物柄(救い手)が「体」即ち
「六字の名号」と頂けます。
そして、その「体」が「我等が往生を、弥陀如来の定めましましたまへること」として、「御救いの働
き」としてこの私の上に働かれる「働き」を「用」と説かれます。
その「体」(救い手)が「相」(救いの働き)としてこの私に働かれて、この私が御救いに御出合いさせて
頂いた私の「気付き」を「信」と頂くのですが、それを「今」「忘れぬが、即ち信心のすがたなり」と
御述べになられます御言葉が「平生業成」と蓮如上人が御述べになられるお心では無いでしょうか。

この様に頂いてみますと、今ここに述べらて有ります「十劫正覚の初めより、我等が往生を、弥陀
如来の定めましましたまへることを忘れぬが、即ち信心のすがたなり」とのお言葉は、言う所の
「十劫安心」と説かれる、浄土真宗としては「異義の受止め」として斥けられる受止めの心では無い
事がご理解頂けるのでは無いでしょうか。

次に、
「信心決定が”気付く”という体験ならば、全人類はすでに救われていて、死んだ人は皆極楽に往生
して仏の悟りを得るという事なのでしょうか?」

とのお言葉ですが、「法を求める」と言う事は、「法を求める機縁に恵まれる」と言う事を抜きにし
ては有り得ない事では無いでしょうか。
「信決定」とは、「弥陀法への乗託」とのお心と頂く時、はじめは「私の方から求める御救い」で有っ
たものが、実は「仏の方からの回向」(阿弥陀如来お一人の働きに働かれて、私の往生の大問題が
解決される)の御救いで有ったとの心の転回(回信)と受け止めさせて頂く時、この回信も私の働き
では無く、仏に働かれて「転ぜられた(回信させられた)信」と頂けて見ると「他力回向の信」の
お心が頂けるのでは無いでしょうか。

そこで、その「法を求める」心の要求がどうして起こるのか?と言う事に思いを巡らせる時、実は
その「心の要求」の条件(縁)になり得るチャンスは本当は無数に有るのでしょうが、現実には
中々、法を求めようと思う心は起こり難いと言うのが実状でしょう。
その様な私でも「嫌でも応でも法を求めざるを得ない機会」が生涯には数度(人に依ってまちまち
でしょうが、そんなに度々は無いのではないでしょうか)は有る様な気がします。
例えば肉親の死に遇うとか、自分自身が命に関わるような問題に直面するとか、何等かの理由に依っ
て「死」の問題を深く考える立場に置かれるとかなのでしょう。
問題は、その折角恵まれた機会に「法が恵まれるか否か」と言う事も大きな問題でしょう。

ただ、言える事は「内なる求め」の無い者を「外からの力」に依って「無理強い」に「死の恐怖」
を持たせようとするような事は矢張り「本当の求め」には繋がりにくいのでは無かろうかと思います。

上記の様な経緯に於いて「法を求める心」が起された時、この「出来事」(縁)は飽くまでも「私
自身」(本人)の出来事なのでしょうが、それを一段高い位置から見つめる視野が持てる時、その
出来事をも「ご縁」(恵まれたチャンス)との受止めがなされるのでは無いでしょうか。

その様な諸要因を考慮する時、残念ながらお述べの様な「”気付く”という体験ならば、全人類は
すでに救われていて、死んだ人は皆極楽に往生して仏の悟りを得るという事」と言う様な事には
ならないのでしょう。

最後に、
「迷いの世界から抜け出した極楽浄土で迷うとはいったいどう言う意味なのでしょうか。」
との事に付いて、ここで述べる「極楽浄土」は、宗祖がお勧めになられる「真実の報土」の往生の
意味では無く、宗祖が「正像末和讃」の「誡疑讃」に繰り返し繰り返しお述べになられます「仮土
(辺地)往生のお誡め」と理解できるのでは無いでしょうか。

「誡疑讃」(具体的に引用すれば良いのですが、キーボードを叩くのがそんなに得意では有りません
ので、申しわけ有りませんが真宗聖典をお開き下さい。)のお心を頂きますと、宗祖が、この私に
向かって「仮土(辺地)往生を遂げる様な事は有ってはならない。」「報土往生を遂げさせたい。」
と思し召すお心が有り難く頂けます。
宗祖は「浄土往生を求めつつも、他力回向の法に心が開けず、自力の働き(「どうすれば」救かる
のか、「どうなれば」救かるのかとの思い・はからいの心)を当て頼りにする心が斥けられない者」
は「仮土(辺地)往生を遂げる。」と厳しく戒められて、飽くまでも「真実の信心に心開かれて報土
往生を遂げる。」事をお進め下さるお心とお領解頂けると思います。

その様な意味を「迷いの世界から抜け出した極楽浄土で迷う。」との意味として述べさせて頂いた
とご理解頂ければと思います。




*記入者の希望により削除*

飛行機 - 99/09/17 03:36:29

コメント:
初めてのものですがよろしくお願いします。過去ログを見ていてどうしても判らないところがあるのですが、葦さんの言う信心決定と御文章の「十劫正覚の初めより、我等が往生を、弥陀如来の定めましましたまへることを忘れぬが、即ち信心のすがたなり」という十劫安心とはどこがどう違うのでしょうか。信心決定が”気付く”という体験ならば、全人類はすでに救われていて、死んだ人は皆極楽に往生して仏の悟りを得るという事なのでしょうか?それに迷いの世界から抜け出した極楽浄土で迷うとはいったいどう言う意味なのでしょうか。今の話題とは少し違う話になるのかもしれませんがぜひ教えてください。

渡海難 - 99/09/15 21:04:28
ホームページアドレス:http://www3.justnet.ne.jp/~katasi-park/
電子メールアドレス:katasi-park@ma3.justnet.ne.jp

コメント:
 〔宣伝〕  浄土通信という小さなホームページを持っています。親鸞会という会を巡って議論しています。 「白道燃ゆ」という親鸞会の会長が書いた書はキリスト教の書である(ご質問にお応えする頁<コーセツサンへ>)。  親鸞会の会長さんの思想は親鸞を弾圧した思想である(特別企画<親鸞会を問う>)。  などの議論が俎上に上がっています。  掲示板「言いたい放題」で一人でも多くの方の活発な議論を期待します。

Kashmir(管理人) - 99/09/07 18:42:04
電子メールアドレス:ms_kashmir@geocities.co.jp

コメント:
長らく閉鎖しておりましたがようやく「座談会」再開です。 諸事情により元のGEOCITIESのBBSに戻りましたが今後ともご利用ください。

私のホームページへ | Milkyway-Orionのページへ | メイン | 今すぐ登録