座談会(過去ログ2)
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decult - 99/01/21 05:40:50
タイトル: 訂正

コメント:
99/01/20 07:08:48の私のコメント内に「ただ念仏さえ称えておれば死んだらお助けだと教えている」、十劫安心という異安心とありますが、称名正因の異安心のほうが妥当ですね。まあ親鸞会は既成の真宗教団の教えを会員たちにはこれまでにも「称名正因」以外に「十劫安心」「無帰命安心」、最近では「土蔵秘事」と教えていますので、あまり対した違いではないかも知れませんけど。



decult - 99/01/21 05:21:41
タイトル: 世界文化遺産が・・・

コメント:

会長がなぜ「本願寺は死んだら御助けという教えだ」と言うのには「こんなことが知りたい」の中だったと思いますけど、若いときに本願寺の講義所(どういうのか忘れた)に行って教えを聞いたらそこの布教使達は正しく教えを伝えてなかった・・・とか書いてたからです

そのとき彼は一体どれだけの時間をかけてどれだけの布教使を訪ねて、そういう結論を出してしまったんでしょうか。思い込みの激しさゆえの早とちりだと思います。
これだけ一生懸命全国を訪ね歩いたんだ」と主張するのであれば、「これだけとはどれだけか!」と自問してほしかったところですね。
その当時のことを記した文献やその当時に出された書物を調べれば、当時の本願寺の教えが「ただ念仏さえ称えておれば死んだらお助けだ」というものであったかどうかがわかります。さてさて、親鸞会の主張の信憑性のほどはいかがなものでしょう。

だから、会長は本願寺に火をつけて「本願寺のここが間違ってる」という遺書を残して自らも焼身自殺も考えたことがあったようです。

「愛山護法」の心から出た衝動かも知れませんが、ややもすれば狂信的に受け取られかねませんね。周囲の同朋が興奮気味の彼を取り押さえたので事無きに終わったそうですが、今から思えば世界文化遺産「本願寺」焼失の危機でした。風の大変強く吹く日だったようで、本願寺という木造建築物に火を放てば周囲の民家も類焼していたであろう大惨事になっていたことでしょう。本願寺内の人たちはもとより、周囲に居住する多くの人も焼死していたかも知れません。彼自身の生命も含めた人の生命の尊厳よりも自らの信じた法の尊厳を護りたかったのでしょうか。若気の至りとはいえ、あまりに過激です。こういう話を聞かされる時、教団名を隠して勧誘していることなどは全く取るに足らないかわいいものに思えてきますが、そういう気になってしまうことが恐いですね。
彼も今では「本願寺に火をつけて」などとは恐らくは考えてはいないでしょうから、懐かしい思い出話の一つとして、語ったのでありましょう。

その昔、本派第4代の能化(人を教化指導する学職)だった人に法霖(ほうりん)という人がおりました。一説(俗説)に寄れば、彼は教えを護るために門主に毒杯をすすめ自身も自害を遂げたとか。件の会長は法霖の辞世の句を気に入っているくらいですから、この俗説についても知っていたことでしょう。尊敬する法霖と自分をダブらせての言動かも知れません。




SILENCE - 99/01/20 22:48:27
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タイトル: 何でそういうのか?

コメント:
こんばんわ。
会長がなぜ「本願寺は死んだら御助けという教えだ」と言うのには「こんなことが知りたい」の中だったと思いますけど、若いときに本願寺の講義所(どういうのか忘れた)に行って教えを聞いたらそこの布教使達は正しく教えを伝えてなかった・・・とか書いてたからです
だから、会長は本願寺に火をつけて「本願寺のここが間違ってる」という遺書を残して自らも焼身自殺も考えたことがあったようです。



Kashmir - 99/01/20 21:59:10
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タイトル: 死んだらお助け

コメント:
decultさんのおっしゃる通り、お寺で説かれている事といえば「念仏唱えたら死んだらお助け」だと親鸞会で聞いていたので、私もつい最近までそういう風に思っておりました。おそらく現在親鸞会にいる人達のほとんどそう思っている事と思います。まだ本当の本願寺での教えというのを良く理解できていないのですが、葦さんのお話を読ませていただいたり、他のご縁で教えていただいたりしてみるとかなりの隔たりがあることに唖然としてしまいました。「本願寺に善の勧めはない」という主張にしてもそうです。会長はお寺の生まれで、噂によると以前は本願寺派での僧籍もあったと聞きますがそのような人がなぜそんな主張をされるのでしょうか?




decult - 99/01/20 07:08:48

コメント:

浄土真宗親鸞会では、「三重廃立(さんじゅうはいりゅう)」ということを教えています。

1.内外廃立(ないげはいりゅう) 仏教以外の宗教(外道)を捨てて、仏教(内道)のみを信じよ
2.聖浄廃立(しょうじょうはいりゅう) 聖道仏教(聖道門)を捨てて、浄土仏教(浄土門)に入れ
3.真仮廃立(しんけはいりゅう) 浄土他流(浄土宗、時宗など)を捨てて、真宗に入れ

親鸞会にいたときには気にしなかったのですが、これは他の真宗教団では教義的にはあまり聞かれない言葉のようです。
この三重の廃立は教行証文類に顕われています。すなわち、真、仮、偽の三つです。

1.偽(ぎ) 偽と言うは即ち六十二見、九十五種の邪道是れなり
2.仮(け) 仮と言うは即ち是れ聖道の諸機、浄土の定散の機なり
3.真(しん) 真の言は偽に対し、仮に対するなり

親鸞会ではこの三重廃立に更に廃立を重ねます。その四つ目の廃立とは、

四、**廃立 他の真宗教団を捨てて、浄土真宗親鸞会に入れ

です(誰か「**廃立」の「**」の部分に適当な言葉を入れてみてください)。会の教学テキストには「他の真宗教団を捨てて、親鸞会に入れ」なんてことは記されておりませんが、親鸞会の機関紙や書籍をお読みになれば、これも「廃立」として確立されていることは明白でしょう。なぜ他の真宗教団を捨てなければならないかというと、親鸞会によれば、親鸞会だけが唯一、親鸞聖人の教えを正しく説いている教団であるから、だそうです。これを示すものとして、一つ挙げておきましょう。

高森顕徹著『こんなことが知りたいA』「(20)三重廃立の教えとは、どんなことか」より

今日、浄土真宗という看板を掲げてはいても、東西本願寺などは現在絶対の幸福に救いとって下される弥陀の本願を教え切らず、ただ念仏さえ称えておれば死んだらお助けだと教えていますから、親鸞聖人の真仮廃立の教えからは、やはり捨て切らねばならぬ邪宗教ということになります。

三重廃立を説明したあとで上記のように書かれてあることからもわかりますように、親鸞会では「四重廃立」を教えていると言ってもいいでしょう。この教判論が親鸞会独自の教えの一つになっているように思います。しかし、教学上は「三重廃立」を教えていますので、親鸞会では、東西本願寺をはじめとする既成の真宗教団を浄土真宗ではなく浄土他流と見なしています。よって親鸞会の教える三重廃立とは厳密には次のようになります。

1.内外廃立(ないげはいりゅう) 仏教以外の宗教(外道)を捨てて、仏教(内道)のみを信じよ
2.聖浄廃立(しょうじょうはいりゅう) 聖道仏教(聖道門)を捨てて、浄土仏教(浄土門)に入れ
3.真仮廃立(しんけはいりゅう) 浄土他流(親鸞会以外の真宗教団、浄土宗、時宗など)を捨てて、親鸞会に入れ

親鸞会では東西本願寺などは「ただ念仏さえ称えておれば死んだらお助けだと教えてい」る、十劫安心という異安心、つまり親鸞聖人の教えられた信心とは異なる信心を教える教団だと決め付けております。そこで、たとえば西本願寺発行の書籍を何冊か取り寄せて読んでみたのですが、そういう記述は見当たりませんでした。真宗末寺といっても数多いので中には親鸞会の主張するように異安心を説くお寺がないとは言い切れませんが、取りあえず東西本願寺の教えは末寺を統括する現在の本山に求めるべきでしょう。

たとえば、本派では門徒教化のための書として『浄土真宗必携』がありますが、親鸞会の教えていることが正しければ、この本の中にも「ただ念仏さえ称えておれば死んだらお助け」と説かれているはずですが、どこにそのような説示があるのでしょうか?親鸞会のどなたでも構いませんからご存知のかたがおられましたら、お教え願います。

いつまでも自是他非を通していないで、共に仏の大慈悲心を学びましょう。




Kashmir - 99/01/19 19:39:09
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タイトル: 追加、変更

コメント:
〜リンクに関して〜
以前少し掲載したHONGANJI OTANIWEBというのは大谷派を離脱された
人のHPでした。東本願寺派になるのかな?三吉さん、ご指摘ありがとうございます。
そういうわけでその他の団体の所に移動しました、申し訳ありませんでした。

追加項目としては、decultさんのお勧めで「浄土真宗やっとかめ通信」を
載せました。私も『本物の宗教って何?』のところは読ませてもらいましたが、
目からうろこが落ちた思いでした。



Kashmir - 99/01/18 16:29:34
ホームページアドレス:http://www.geocities.co.jp/Milkyway-Orion/1499
電子メールアドレス:ms_kashmir@geocities.co.jp
タイトル: 更新

コメント:
リンク集のところにNONCECEさんのHPを追加しました。あと宗派別リンクなども。



Kashmir - 99/01/18 16:26:26
電子メールアドレス:ms_kashmir@geocities.co.jp
タイトル: それは大変でしたね。

コメント:
パソコンがおかしくなるのは私も何度か体験しています。大変なんですよね、なかなか。これからもいろいろとご教示下さい。それと、もう少ししたら掲示板を他に移行する予定で。多分そっちのほうが使い良いと思うので。



- 99/01/18 15:37:33
タイトル: インターネットが故障して・・・

コメント:
お久しぶりです。
インターネットが故障して、約10日間アクセス出来ず、現在些か座談会の流れから遠ざかっていますので、少しゆっくり読ませていただいて、書き込みさせて頂きます。



三吉 - 99/01/18 00:15:06

コメント:
>唯除五逆誹謗正法本当は誰もを解放するという教えなんだけれども、何してもみんな救うよとだけ言えば、悪いことしてもいいんだと、殊更進んで造悪される方も出てくる。そこで、その誤解を除くための抑止として、唯除五逆誹謗正法という倫理を方便として説いた。まあ、それでも本願ぼこりとか造悪無碍とかの異安心は歴史的には生まれたそうですが・・(^^;



SILENCE - 99/01/17 22:28:06
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タイトル: 唯除五逆誹謗正法

コメント:
こんばんわ
Kashmirさんの質問ですが、親鸞会ではこう教わりました。

「唯除五逆誹謗正法」というところで、自分は絶対助からない身だという事がハッキリと知らされるが、同時に阿弥陀仏の本願によって救われる

だった様な記憶があります。私がよくわからないと言ったところ、「だから、不可生、不可説、不可思議なんだ」と言われました。



Kashmir - 99/01/17 14:43:25
ホームページアドレス:http://www.geocities.co.jp/Milkyway-Orion/1499
電子メールアドレス:ms_kashmir@geocities.co.jp
タイトル: 唯除五逆誹謗正法

コメント:
本願の中の「唯除五逆誹謗正法」について親鸞会では、「抑止門」としての説明も話としては聞いた事はありましたが、実際は「どんな悪人でも救うと言う意味」と説かれていたと思います。でもその説明は私には何の事やら良く分かりませんでした。

実際のところ、十方衆生が救われるということと、この「唯除五逆誹謗正法」とはどう考えていけば良いのでしょう。ご教示下さい。



NONSECT - 99/01/12 11:01:27
ホームページアドレス:http://http://village.infoweb.ne.jp/~nonsect
電子メールアドレス:nonsect@red.interq.or.jp
タイトル: 掲示板運用開始

コメント:
 遅れておりました掲示板の運用を本日より開始致しました。皆様宜しくお願い致します。         
 Kashmirさん、私のワガママでここを仮の宿としてお借りしていましたが、本日限りで解除致します。ありがとうございました。



decult - 99/01/11 08:09:25
タイトル: 弥陀成仏と教化

コメント:

広大会の掲示板で葦さんから以下のようなお言葉を頂きました。

(葦) 「往生正覚一体」という言い方は、西では一般には使われませんが、蓮如上人がお文の上で繰り返し申されます事は「浄土真宗は二益で有る。」こと、「正覚(成仏)は彼土(浄土)にて得る益で有る。」との受け止めですが、この<味わいによって教化の姿勢が違ってくるのでしょう。>との意味が少し分かりにくいので、出来れば<一行返事>ではなく、独立した書き込みで、もう少し趣旨を明瞭にしていただければ有り難いです。宜しくお願いいたします。 99/01/08 14:24:04

まず「往生正覚一体」という言葉ですが、安心論題にも見られないくらいなので、おっしゃるようにあまり使われない言葉かも知れません。

本派勧学 梯 實圓師『浄土真宗の教え』より

若不生者不取正覚とは、十方の衆生を安心せしめ、念仏せしめて必ず浄土に生れしめる、もし往生せしめることが出来ないようであれば仏になるまいと、衆生の往生に自らの正覚をかけた営みであることを顕わしている。 このことを古来、往生正覚一体とか、生仏不二の誓願と呼んでいる。

私に向かって「もしお前を救うことができなかったら仏にはならない」「仏になる限りはお前を救ってみせる」との御誓願です。そして、阿弥陀様という仏になられてすでに十劫を経ておられます。となれば、「往生正覚一体」に問題が生じます。どういう問題かと言いますと、御誓願どおりだと、すでに仏になられたのだから、十方衆生は十劫の昔にすでに往生を遂げていなければならないはずなのに、現実はそうなっていない、これはどう理解すればいいものか、という問題です。

ということで、葦さんが、

経典に説かれる「十方衆生の救済」と言う事について、「十方の衆生が救われ無ければ覚りを開かない。」とのお言葉と、今日、現に仏教が伝えられていない地域や人々が存在しながら仏が覚りを開かれた(本願成就)との矛盾はどのように受け止めるのかとの事について。

と言われていることと同じことですね。

このことは、しばしば薬の譬で説明されます。衆生が救われるための「南無阿弥陀仏」という薬は完成したが、その妙薬を衆生が飲んでいないから救われないのだという説明のしかたですね。御本願が薬の効能書なら、さしずめ成仏は南無阿弥陀仏という薬の効能の証明ということになりますか。
そうすると、次に阿弥陀仏はこの薬をどのように衆生に飲ませようとされているのか、ですが、私はここのところの味わいで法を説くものの教化姿勢に違いが出てくるのではないかと思うのです。すなわち、ウソをついてでも殴ってでも強硬に患者の口をこじあけて飲ませようとされていると味わうか、患者の安否を気遣いながら患者が薬を無理なく飲めるようにいつも見守って、薬を飲むまではもちろんのこと飲み終わってからも柔軟に働きかけてくださっていると味わうか、です。ウソをついてでも無理矢理でも病を治せばそれでいいじゃないか、それも方便だとおっしゃるかたもおられましょうが、私にすればそれは衆生抜きの一人よがり、仏様の単なるエゴではないか、自是他非を押し通したに過ぎず、仏様が衆生に名号の押し売りをされている相ではないかと思われるのですね。しかし、そういう仏様に救っていただいた人も少なくなく、そういう人は教えの押し売りさえできればウソをつくのもいい、地獄の話で脅すのもいい、手段も選ばないという発想につながるのではないでしょうか。このように考えると、御本願を聞く中にも教義の押し売りが発生するのも仕方がないように思います。
果たして私は強引に名号を飲まされるのでしょうか。仏様の前でウソをついてでも、仏様を心の中で殴ってでも、逃げ回って、強硬に立ち振る舞っていたのは、私のほうではなかったでしょうか。しかも、弥陀の成仏がすでに十劫を経ているということは、南無阿弥陀仏から逃げ回ることすでに十劫経たまえり、です。そこに阿弥陀様の善巧方便の妙を見ます。

往生正覚一体の味わいについてはまだ書き足らないので、気が向いたら書き込みます。




SILENCE - 99/01/10 21:56:10
ホームページアドレス:http://hyper4.amuser-net.ne.jp/~auto/b6/usr/motos/brd1/bbs.cgi
電子メールアドレス:silence5@mail.goo.ne.jp
タイトル: 近きは遠き道理?

コメント:
こんばんわ。
「近くの人を教化すべきだ」という意見が出ましたが、これについてかつて私がいた親鸞会におけるその辺りの態度をちょっと明らかにしたいと思います。(GSさんが書き込まないので)
以前、decultさんのHPで、「なぜ人のお子さんに布教するより先に自分の親御さんに布教しないのですか?」という意見がGSさんに対して出されていました。親御さんといえば最も「近い」人のはずです。それなのに、自分から積極的に教えを伝えようとする会員はあまり見かけません。
親鸞会では、特に新入生に対して「親にはやたらと話すな」という通達がなされています。この理由は、親に話してしまったばかりにその会員が親に活動を反対されるのを防ぐためです。
その代わりに親を専任講師の講演会に連れていったり(そういう公開講座はあまり過激な話はされない)、会長の法話に連れていったりといった会員はたまに見かけます。学生大会の時に、親を顕正した会員が出て来たりする事もあります。



- 99/01/10 16:31:55

コメント:
下の書き込み〈あし〉は〈葦〉の間違いです。(変換忘れです)



あし - 99/01/10 16:29:52
タイトル: 真宗は「今が臨終」

コメント:

有る御法話の席で、同行さんが「臨終引き寄せたら、おみのりを聞かねばという事がひしひしと感じられます。」と言われたのに対し、布教使さんは「引き寄せんでも、今が臨終じゃ。」とお話されたそうです。
過去ログ1の中に「臨終」についての書き込みが有りましたので一言・・・



- 99/01/10 15:47:37
タイトル: 十方衆生が救われるとは、私が救われる事。

コメント:

早速こちらの座談会に移して下さって有り難うございます。

経典に説かれる「十方衆生の救済」と言う事について、「十方の衆生が救われ無ければ覚りを開かない。」とのお言葉と、今日、現に仏教が伝えられていない地域や人々が存在しながら仏が覚りを開かれた(本願成就)との矛盾はどのように受け止めるのかとの事について。
阿彌陀仏は「光寿無量の覚体」と説かれますが「光は空間的無限・寿は時間的無限」を表され、その時間的・空間的無限の中に包摂するものを救い取る(必ず覚りを開かせ仏にする)と誓われ、その誓いが『成就された』と述べられる時、その仏(阿弥陀如来)の法を聞くものは、そのお誓いの通り、空間的・時間的無限の中に包摂するものは全て仏の救いの手の中にあると受け止めさせて頂くべきと思います。

そこで、その時間的・空間的無限の交点とは『今・此所(ここ)』という事で有るという事です。
即ち、『今・此所』とは『この瞬間の、この私以外には有り得ない。』との受止めで有ると頂いています。
そういう意味で、『必ず全てを救う。』とは『必ず私が救われる。』以外には無い、との受止めで有ると領解致しております。

しかも、それは過ぎ去った「過去」でもなければ、未知の「未来」でも無く『今』で有る事を重視しなければならないと思います。



Kashmir - 99/01/09 16:30:41
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タイトル: 生意気な意見かもしれませんが・・・

コメント:

広大会での話題についてのことですが、
こういう話は『十派一絡』のほうがふさわしいと思いますので、そこの座談会のほうへ座を移して語り合いませんか。 (decultさん) 99/01/09 03:24:07
との事なのでこちらで少し書かせてもらいます。

<『今日、北米・中米・南米と言う広大な地域には英語・スペイン語・ポルトガル語と言う三つの言語と、旧・新のキリスト教以外には、宗教も言語も無い。』
〜乃至〜
と言う事実を私達、仏教徒はどのように見・考え・受け止めていくべきなのか、という事です。>

(葦さん)01/07 16:29

 私は以前、十方衆生が救われる教えといいながらなぜそれが十方にないのだろうか、
と思ったことがありました。ですが最近はそれはそれで受け入れるべき事ではないのかと
思い出しています。
というのも仏教に出会えるかどうかは場所の問題というよりは宿善の問題ではないのか、
と思うからです。確かにその地に仏教が伝わっているかどうかはその地の人達がご縁を結べるか
どうかに大きく関わっているのでしょうがこの日本にいても儀式習俗以外では
縁のないものも大勢いますし、外国人の真宗門徒もそれなりに(数の程は存じておりませんが)
おられる事と思います。

 以前テレビで「仏の救いは平等である。平等というのはこういう事をしたから救うとか救わない
というのでなく近くにいるものから救っていく」
という様な事を耳にしました。この「近く」というのは必ずしも地理的なものではなく宿善とか
ご縁あるものとか、そういう意味でなのかなあ、と思った記憶があるのですが、そういう事ならば
世界中におみのりを伝える事も大事なのでしょうが、教団拡大に躍起になるあまり「近く」のものが
疎かになる事の無いよう、まずは「近く」の人々の教化を第一に考えてできる事をできるだけ
成していくべきでは、と思うのですがいかがなものでしょう。

最近はちょっと大それた事を書き過ぎているような気もするのですが「如是我感」
ということでご勘弁下さい。




- 99/01/04 10:46:44
タイトル: 御免なさい

コメント:
一つ前の書き込み、「カシミールさん」と書くべきところを「カシミール」と書き込んでしまいました。
御免なさい。



- 99/01/04 10:44:01
タイトル: おっしゃる通りだと思います。

コメント:

カシミールお帰りなさい。

『除夜の鐘』を浄土真宗のお寺で撞くと言う意味に付いて、詳しく本願寺で聞いた訳では有りませんので、きっとそれなりの説明が有るのでしょうが、社会通念の上から『除夜の鐘を撞く』と言う行為は『煩悩を消滅する』意味で行われている以上、『煩悩は断じて消滅し得ない(煩悩具足)』と教えられている宗派においては『煩悩を消滅する』行為で有る『除夜の鐘を撞く』と言う行為を真宗の寺で行う事はやはり大いに問題が有ると思いました。
『習俗』と言う便利な『隠れ蓑』に隠れて、本来『浄土真宗の教えの上から正当化出来ない行事・行為』を正当化(実は内心に忸怩たるものが有るのでしょうが)して来た行為への猛省が必要に思います。



Kashmir - 99/01/04 00:51:52
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タイトル: 除夜の鐘

コメント:

大谷派か本願寺派かはっきりとは知らないのですが、私の実家の近くに浄土真宗の末寺があります。
そこでは毎年「除夜の鐘」を突かせてくれて、子供の頃はよく大晦日の夜にそのお寺に参っておりました。
それで今年、というか昨年の大晦日の夜、その鐘の音を耳にしてふと思ったのですが、あれは真宗としては問題ないのでしょうか?それとももはや習俗と化してるんでしょうか。
 「除夜の鐘」には108つの煩悩を減らす意味があると聞いた記憶があるので、念珠を擦り合わせる
のが良くないのなら除夜の鐘もまずいんじゃないのかな、とふと疑問に思った大晦日の夜でした。




Kashmir - 99/01/04 00:49:29
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タイトル: RE:罪悪人重<SILENCEさん

コメント:

過去ログのほうにまとめてしまいましたが、「『人間は罪悪人重』と本願寺でも説かれるか?」というSILENCEさんの質問に関して少しばかり私の思うところを。(私は本願寺の人間ではないんですけども・・・)

「罪悪深重」というのは大経のみならず宗祖聖人や蓮如上人他、の御著書にもそれを表す内容が多々記されていますから親鸞会・本願寺問わず他の十派でも、若しくはその他真宗の流れを汲む団体であればどこでもそう説かれているのではないでしょうか。主にどういう言葉で表すかというのは宗派によって差異はあるのかもしれませんけど。

 そもそも罪悪深重の我々を救わんがための本願でありますからその我々が極重悪人と説かれていないというのは本願名号のいわれが説かれていない、というい事になるんじゃないかと思います。
本願名号を無視して浄土真宗を名乗るというのは、カレーのないただのライスをカレーライスとして客に出すようなものじゃないですか。その点から言えば「罪悪人重」を説いていない時点で浄土真宗ではないといえると思います。




Kashmir - 99/01/03 22:46:56
タイトル: テステステス

コメント:
直ったかな?




Kashmir - 99/01/03 22:43:19
タイトル: あっれれ、なんじゃこりゃ

コメント:
なんかへんですね、、テステステス。



Kashmir - 99/01/03 22:42:13
ホームページアドレス:http://www.geocities.co.jp/Milkyway-Orion/1499
電子メールアドレス:ms_kashmir@geocities.co.jp
タイトル: 謹賀新年

コメント:
新年のご挨拶が遅れてしまいましたが、ようやくパソコンのある本拠地に戻ってきました。昨年はネット上でいろいろお世話になりましたが今年もお世話になるつもりです(^^;。拙家頁「十派一絡」も早く更新していかなければいかんのですが相変わらず滞ってます・・。とりあえずといっては何ですがリンクの「友の会」を「ハトの会」としておきました。何はともあれ本年もよろしゅうお願い致します。


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